『陥陣営戦記 ~恋こそ至高!龍牙、乱世を穿つ~』 作:パスカルDX
第二十二話「兗州奪取――軍師、主を王へ」
曹操軍が徐州へ出撃してから、濮陽の空気は変わった。
大軍の大半が去ったことで城下は以前より静かになり、城壁の上を巡回する兵の数も明らかに減っている。
もちろん無防備というわけではない。
濮陽は兗州でも重要な拠点だ。
守備兵は残されているし、各地には曹操に従う役人や豪族も存在する。
だが――。
曹操という巨大な存在が徐州へ向かった今。
兗州の中心には、確かな空白が生まれていた。
そして、その空白を誰よりも早く見抜いた男がいた。
張邈である。
---
深夜。
張邈の屋敷。
昼間ならば役人や使用人が行き交う広間も、今は静まり返っている。
机の上には大きな地図が広げられていた。
濮陽。
陳留。
東郡。
済陰。
兗州各地の城と街道、兵の配置までが細かく記されている。
張邈は腕を組み、その地図をじっと見つめていた。
「……機会というものは。」
ぽつりと呟く。
「待っているだけでは、二度と訪れぬこともある。」
その正面に座っているのは音々音だった。
普段の少し騒がしい姿とは違う。
今夜の彼女は軍師としての顔をしていた。
鋭い眼差しで地図を見つめ、張邈の言葉を一つも聞き逃すまいとしている。
「曹操軍主力は徐州。」
音々音が地図を指差す。
「濮陽を含めた兗州各地の兵力は大きく減少しているのです。」
「ええ。」
「さらに。」
張邈は別の場所を指した。
「曹操殿の急速な勢力拡大に不満を持つ者も少なくありません。」
音々音の眉がわずかに動いた。
「豪族ですか?」
「豪族だけではありません。」
張邈は静かに答える。
「役人、地方の将、そして民。」
「曹操殿の才覚を認めながらも、その歩みの速さについていけぬ者はおります。」
「……。」
音々音は黙って地図を見つめた。
張邈が何を言おうとしているのか。
もう分かっていた。
「陳宮殿。」
張邈が顔を上げる。
「今ならば。」
その目に、強い決意が宿っていた。
「兗州を呂布殿のものにできます。」
部屋の空気が止まった。
音々音は答えない。
張邈も急かさない。
ただ、蝋燭の炎だけが小さく揺れている。
やがて。
「……本気なのですね?」
音々音が尋ねた。
「本気です。」
即答だった。
「私は以前、呂布殿を兗州の主にしたいと申し上げました。」
「はい。」
「しかし、その時はまだ願望に過ぎなかった。」
張邈は地図へ目を落とした。
「今は違います。」
「曹操軍は徐州へ出た。」
「兗州は手薄。」
「そして私には、この地で築いてきた人脈がある。」
ゆっくり拳を握る。
「動くなら今です。」
音々音は目を閉じた。
――恋様を天下人に。
それは濮陽へ来る以前から胸の奥にあった願いだった。
恋は強い。
天下無双と呼ばれるほどに。
だが音々音が惹かれたのは、それだけではない。
戦場を離れればぼんやりとしていて。
食べ物を見ると目を輝かせ。
誰かが困っていれば、ごく自然に助ける。
身分など気にしない。
自分を大きく見せようともしない。
だから龍牙は絶対的な忠誠を捧げている。
霞もまた恋の隣を選んだ。
自分もそうだった。
(恋様なら……。)
音々音は目を開いた。
(恋様なら、この乱世を……。)
だが。
「一つ問題があるのです。」
「何でしょう。」
「恋様本人です。」
張邈は沈黙した。
二人は顔を見合わせる。
そして同時に深いため息を吐いた。
「……そこですな。」
「そこなのです。」
天下を語る二人にとって最大の難敵。
曹操ではない。
徐州の陶謙でもない。
他の諸侯でもない。
――呂布本人であった。
「恋様は領土に興味がないのです。」
「存じております。」
「権力にも興味がありません。」
「それも。」
「天下を取ってくださいと言ったら?」
張邈は少し考えた。
「……『なんで?』と。」
「絶対言うのです!」
音々音は頭を抱えた。
そこまで完璧な人材なのに、本人に野心がない。
むしろ今日の夕食の献立のほうが関心が高い可能性すらある。
張邈が苦笑する。
「しかし。」
「だからこそではありませんか?」
音々音が顔を上げる。
「欲望によって民を治めるのではない。」
「守るために治める。」
「そのような主だからこそ、私は呂布殿を選びたい。」
音々音の瞳が揺れた。
やがて――。
「……分かったのです。」
ゆっくり立ち上がる。
「張邈殿。」
「はい。」
「やるのです。」
張邈の目が鋭くなる。
「兗州を。」
音々音は地図の濮陽へ指を置いた。
「恋様のものにするのです!」
軍師・陳宮。
ついに決断した。
---
翌朝。
「……おかわり。」
「はい、恋様!」
一方その頃。
天下の行く末を左右する重大な決断を知らない当人は、宿で朝飯を食べていた。
恋の前には山盛りの飯。
龍牙が嬉々として椀へ追加する。
「どうぞ!」
「ありがとう。」
「いえ! 恋様のためならば!」
霞が呆れた顔で飯を食べている。
「朝から元気やなぁ。」
「当然です。」
龍牙は堂々と胸を張った。
「恋様が朝食を美味しく召し上がっておられる。」
「これ以上に喜ばしい朝がありますか?」
「世の中にはいっぱいあると思うで。」
「ありません。」
「断言すな!」
恋は二人のやり取りを見ながら、もぐもぐ。
「龍牙。」
「はい!」
「これ、おいしい。」
「――!」
龍牙が固まった。
箸が手から落ちる。
霞が目を丸くする。
「どないした!?」
「恋様が……。」
龍牙は震える拳を握る。
「私が選んだ朝食を、おいしいと……!」
「いや宿の女将が作った飯や!」
「恋様の可愛さが至高ォォォ!!」
「朝っぱらから叫ぶなぁ!」
宿中へ龍牙の声が響いた。
下の階から宿の主人の声が飛んでくる。
「高順さん! 朝は静かにしてください!」
「申し訳ありません!」
龍牙は即座に頭を下げた。
恋が小さく笑う。
「ふふ。」
龍牙は再び胸を押さえる。
「……至高。」
「もう黙っとき!」
そんな中。
「……。」
音々音だけは妙に静かだった。
霞が気付く。
「音々音?」
「な、何なのです?」
「今日なんか変やで。」
「そ、そんなことはないのです!」
明らかに怪しい。
龍牙も音々音を見る。
「何かございましたか?」
「ないのです!」
「本当に?」
恋まで覗き込んできた。
「音々音。」
「悩み?」
「――っ!」
恋の純粋な瞳。
音々音は視線を逸らした。
(言えないのです!)
(まさか恋様本人に『あなたを兗州の主にする計画を昨日決めました』なんて!)
「だ、大丈夫なのです!」
「そう?」
「はい!」
恋は安心したように頷く。
「なら、よかった。」
「……。」
音々音の胸が痛んだ。
(恋様……。)
(申し訳ありません。)
(ですが!)
拳を握る。
(これは恋様のため!)
(そして天下万民のためなのです!)
その背後で霞が首を傾げていた。
「絶対なんか隠しとるやろ。」
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張邈の動きは速かった。
その日の午後には、濮陽周辺の有力者へ使者が飛んだ。
ただし、内容は単純な反乱への誘いではない。
――兗州の今後について話したい。
張邈は慎重だった。
曹操軍が徐州へ出ているからといって、無闇に兵を挙げれば反発を招く。
重要なのは、兗州の人間たち自身に選ばせること。
そして。
「呂布殿の名を?」
側近が尋ねる。
「出せ。」
張邈は答えた。
「天下無双の武名は、すでに河北からこの地まで届いている。」
「公孫瓚軍との戦い、黒山賊との戦い。」
「その名を知らぬ武人は少ない。」
側近が頷く。
「ですが……呂布殿は領主としての実績がありません。」
「だから私が支える。」
張邈は迷わなかった。
「軍事には高順と張遼。」
「政と軍略には陳宮。」
「そして頂点に呂布殿。」
「これほどの陣営を放っておく手はない。」
側近は思わず息を呑んだ。
確かに。
天下無双・呂布。
陥陣営・高順。
猛将・張遼。
軍師・陳宮。
その四人が一つの勢力として兗州に根を張れば。
「……曹操殿と並ぶ勢力に。」
「なる。」
張邈は静かに答えた。
「いや。」
「育て方次第では、それ以上にもなろう。」
---
その夜。
音々音は霞を呼び出した。
「話ってなんや?」
城壁の上。
霞は飛龍偃月刀を壁へ立て掛け、音々音を見る。
音々音は少し緊張していた。
「霞殿。」
「うん。」
「もし……。」
「もし?」
「恋様が一国の主になられるとしたら、どう思います?」
霞は瞬きをした。
「……は?」
「ですから!」
音々音は少し声を強める。
「恋様が領地を持って、兵を持って、一国を治めるのです!」
霞は腕を組んだ。
しばらく考える。
「似合わんな。」
「なっ!?」
「いや、だって恋やで?」
霞は苦笑した。
「政務の途中で腹減った言うて飯食いに行きそうやん。」
「それは……。」
否定できない。
「会議中に寝そうやし。」
「うぐっ。」
「難しい書類見たら龍牙に渡しそうやし。」
「ぐぬぬ……。」
「ほんで龍牙も『恋様がお望みなら!』とか言うて全部引き受けて倒れる。」
あまりにも容易に想像できた。
音々音は頭を抱える。
「ですが!」
「分かっとる。」
霞の声が変わった。
音々音が顔を上げる。
霞は濮陽の町を見下ろしていた。
「恋なら。」
静かな声だった。
「民を見捨てたりはせえへん。」
「……!」
「偉そうにすることもない。」
「自分だけ贅沢するような奴でもない。」
霞は笑う。
「案外、ええ主になるかもしれんな。」
音々音の顔が明るくなる。
「霞殿!」
「ただし。」
霞が指を立てる。
「本人が嫌がったら終わりや。」
「……。」
「恋が望まんことを、うちは無理やりやらせたくない。」
音々音は静かに頷いた。
「分かっているのです。」
「ならええ。」
霞は飛龍偃月刀を担ぐ。
「で?」
「こんな話するっちゅうことは。」
ニヤリ。
「もう何か企んどるんやろ?」
音々音の身体が固まった。
「な、なんのことなのです?」
「目ぇ泳いどるで。」
「泳いでないのです!」
「ほな龍牙に聞いてみよか。」
「それだけは駄目なのです!」
音々音が即答した。
霞は目を丸くする。
「なんでや?」
「龍牙殿に知られたら……。」
二人の脳裏に同じ光景が浮かんだ。
――恋様が兗州の主!
――つまり恋様が王!
――恋様の国!
――恋様の可愛さが天下に広まる!
――チェストォォォォォーーーッ!!
「……。」
「……。」
霞は真顔になった。
「まだ黙っとこ。」
「賢明なのです。」
---
だが。
二人は忘れていた。
壁の向こう側に、本人がいたことを。
「……。」
龍牙は龍眼斬を持ったまま固まっていた。
夜の鍛錬から戻る途中。
たまたま聞いてしまった。
恋様。
兗州。
主。
王。
龍牙の瞳がゆっくり見開かれる。
「恋様が……。」
拳が震える。
「兗州の主……?」
そして。
満面の笑み。
「素晴らしい。」
霞と音々音が同時に振り返る。
「「げっ!!」」
龍牙は龍眼斬を高く掲げた。
「恋様こそ王に相応しい!」
「待て待て待て!」
「龍牙殿、声が大きいのです!」
「天下無双の武!」
「聞け!」
「慈悲深き御心!」
「落ち着くのです!」
「そして何より!」
二人は嫌な予感しかしなかった。
龍牙は夜空へ向かって叫ぶ。
「恋様の可愛さが至高ォォォォォーーーッ!!」
「やっぱりそれかぁぁぁ!!」
濮陽の夜に、三人の声が響き渡った。
遠くの宿。
布団に入っていた恋が目を開ける。
「……龍牙?」
少し考え。
「元気そう。」
そのまま再び眠った。
---
翌朝。
張邈のもとへ、最初の返答が届いた。
一通。
二通。
三通。
濮陽周辺の有力者たち。
すべてが賛同したわけではない。
曹操へ忠誠を誓う者もいる。
態度を保留する者もいる。
だが。
「……予想以上ですな。」
張邈は届いた書状を見つめた。
呂布を新たな兗州の主として迎える。
その提案へ賛同する者が、確かに存在している。
そしてその数は、徐々に増えていた。
張邈は窓を開ける。
濮陽の町が見える。
この町から。
この土地から。
新しい勢力が生まれる。
「陳宮殿。」
傍らの音々音を見る。
「もう後戻りはできません。」
音々音も頷いた。
「望むところなのです。」
「恋様を。」
強く拳を握る。
「兗州の主に。」
「そして、いつの日か――」
天下へ。
その言葉だけは胸の中へしまった。
まだ早い。
今はまず、この地。
兗州を手に入れる。
張邈と陳宮。
二人の決断によって、歴史は大きく軌道を変え始めた。
徐州へ向かった曹操がそれを知るのは、もう少し後のこと。
そして何より。
「恋様!」
「?」
「本日の朝食です!」
「ありがとう。」
「いっぱい食べてください!」
「うん。」
「恋様の可愛さが至高!」
「……えへ。」
兗州の新たな主に担ぎ上げられようとしている本人だけが。
まだ何も知らなかった。
乱世を終わらせるため。
民を守るため。
そして、天下無双の少女を新たな王とするため。
濮陽で――。
呂布軍誕生への狼煙が、静かに上がった。
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