仮面ライダー 帰れない子どもたち 作:青信号
八日目の朝は、紙の音から始まった。
隣室で図面がめくられている。結城だ。六人分の端子の除去。めくる速さは昨日と同じで、途中で止まる箇所も、昨日とだいたい同じだった。読む必要の無い音だが、読む。他に、読むものが無い。
何かを読んでいないと、二つの項目だけが残る。
FWC4の帳簿に載った、二つ。
一。回収された十六人から、さらに絞る。
二。新しく、炉を作る。
実行の欄は、どちらも空白のままだ。
埋める手は、夜のあいだも止まっていた。止まっている場所は、今朝も特定できない。演算は走る。数字は出る。数字の先で、手だけが動かない。故障の欄を開いた。該当なし。命令の欄を開いた。該当なし。手を止めている記載が、帳簿のどこにも無い。
記載の無い停止は、記録として成立しない。
成立しないまま、朝が進んでいた。
台所で水音がする。一文字だ。本郷は卓で手帳を開いている。開いてから、あまりめくっていない。隣室では、紙の音が続く。吸い出す手順は、あの紙の束の中に在る。経路は、壁一枚の向こうに在る。読めば、繋げる。読まなくても、照合は昨日既に終わっている。
FWC4は、椅子から立った。
立ちあがろうと思ったわけではなかった。
思考より先に、体が動いていた。起動以来、順序が狂ったことは一度も無い。命令、実行、記録。その並びでしか、動いたことが無い。今、実行だけが先にある。先にあるものを、止める命令がない。
廊下を渡る。使っていない部屋の戸を、内から閉めた。窓から射し込む光が、床で四角く切れている。
右手を、襟足へ回した。
端子は三つ、縦に並んでいる。一番上に指が掛かった。
金属の縁は、体温と同じ熱を持っている。
演算が走る。端子、三。回路、一。一点でも欠損すれば回線は成立しない。接続は不可になる。経路は消える。二つの項目は、どちらも成り立たなくなる。数字は全部出ていた。出ていた数字のどれも、手を動かしてはいなかった。動かしているものの名は、帳簿にない。
掛けた指が、端子を握り潰す。視界の端で数値が流れ落ちる。
警報が、鳴った。
起動以来初めて聞く音量だった。異常事態を示す欄が上から順に埋まっていく。脊髄系、損傷。第一端子、応答なし。系統圧、降下。継ぎ目から伝う熱いものが、襟の内で細い線になった。体は、これを損傷と呼んでいる。呼び方を訂正する棚はなかった。
接続――不可。
経路――該当なし。
人から絞っても、炉があっても、この体はもう受け取れない。
帳簿は、それで済んでいた。
手は、済んでいなかった。
指が二番目の端子に掛かる。理由の欄は、開かなかった。開くより先に、指が動いている。全部の欄を、零にする。手順だけが、手の中に残っていた。
その時、不意に戸が開いた。
「こっちにいたのか、フォウ。飯――」
音が、途中で落ちた。
一文字が立っていた。盆を持ったまま。視線が、襟足の指と、床の細い染みの上で止まっている。
盆の落ちる音がした。
「――何、して」
答えを入れる欄は、無かった。指に、力が入る。
二番目が、潰れた。
警報が重なり、膝ががくんと崩れ落ちる。
倒れる前に両の手首が掴まれていた。折れそうなほどの万力だった。三番目に届く手が、腕ごと引き剥がされる。
「本郷ォ! 結城ィ――!!」
家が鳴った。廊下を走る音が、二つ。
床が近い。抱え起こされている、と照合した。照合の速度が、落ちている。
「フォウ! 目ェ開けろ、おい!」
怒鳴っている。宛先は、こちらだった。この怒りには覚えがある。敵に向くときとは違う、知らない形をしたもの。読めたのは、そこまでだった。
結城の手が、襟足に触れる。紙をめくる速さで、潰れた縁をなぞっていった。
「第一と、第二……完全に潰れています。まさか、自分の指で……」
「戻せるか」
「端子は――」
一拍、あった。紙の音が止まる時と同じ長さの間だった。
「端子は、戻さない。戻しても、繋ぐ先がない。……息の方を保たせます。それならできる」
結城の声は、報告のときと同じ速さに戻っていた。指示が短く続く。湯を。布を。俺の鞄を。動く音が、部屋の中で組み上がっていく。
「ふざけんな……こんなもんで……」
一文字の声が、低く潰れた。手首を掴む力は、緩まなかった。
本郷の指が首に当てられる。それからしばらく動かなかった。
「……反応は、ある。微弱だが、規則を保っている」
顔を上げる気配がした。
「この子は終わっていない。――まだだ。結城、頼む」
時間が、読めなくなっていた。
窓から差し込む光の四角が、床の別の場所に居る。湯の匂い。布の重さ。襟足で、結城の手が止まらずに動いている。潰した端子を戻す動きでは、なかった。何をしているのかを読む残量が、もう足りない。
戸口に、影が二つ、増えた。
泥の匂いがした。短い声が落ちる。
「……押さえは代わります。そのままじゃ折れる」
風見の声だった。ややあって、手首の万力が別の手に替わる。
もう一つの小さな影は、戸口から動かなかった。
誰もが動いている部屋で、一つだけ、止まっている。その手が一度、自分の襟足へ上がって――下りた。それきり、動かない。
読めない。読む残量も、無い。記録だけが、増えた。
音が、遠くなる。
記録が順に閉じていく。残量。系統圧。異常。文字の形が、崩れていく。崩れた帳簿の上を、一つの音だけが、繰り返し渡ってきた。
「フォウ。――フォウ、聞こえてるか。おい」
その音は、以前拾わなかった音だった。誤記として突き返した音だった。指す先が無い、と照合した音だった。
今は、指す先があった。
すべてが崩れた真ん中に、その音の落ちる場所だけが残っている。
何かが、せり上がった。熱の欄は、もう読めない。読めないまま、せり上がったものは、喉で音になった。
「……ここに、いる」
フォウは、小さな声で答えた。
一文字の息が、一度大きく崩れた。崩れたまま、笑ったようにも聞こえた。結城の手は止まらない。本郷の声が低く、次の指示を出している。戸口の影は、まだ動かない。
もう何一つも読めなかった。
読めない帳簿の上で、フォウと言う名前だけが、確かな宛先を保っていた。