仮面ライダー 帰れない子どもたち 作:青信号
子どもに撃たれた遺体は、本郷たちが高架を降りるのと入れ違いに運ばれていった。
担架の上の輪郭に本郷は視線を向ける。痩せていて、背が高い。確かめるまでもなかった。布の下の背中に何が走っているか、首の後ろに何が空いているか、もう知っている。市警の人間が数を読み上げる声を背中で聞きながら、本郷は捕らえた子どもの腕を逃がさない程度に握っていた。細く、硬い腕だ。黒のハイネックと髪に隠れて見えないが、この子どもの首にも穴が空いているのだろうか。安物の上着の襟裏に縫い付けられた紋章が、ニューヨークの街から子どもを半歩はみ出させている。
捕らわれても観察されても、子どもは暴れなかった。
高架の上で一文字を押し返した出力が、嘘のように静かだ。引かれるまま歩き、抗わない。本郷はそれを諦めだとは思わなかった。諦めた人間の歩き方を、本郷は知っている。これは違う。抗わないことを、自分で選んでいる足取りだ。何のために選んでいるのかは、読めなかった。読めないということだけ、本郷は覚えておくことにした。
拠点にしている部屋は、街外れの古い建物の一室だった。家具は必要最低限。窓が一つ、暮れかけた街に面している。
本郷が子どもを椅子に座らせると、やはり抗うことなくただ背筋を伸ばして座った。膝に手を置き、まっすぐ前を見る。尋問を待つ姿勢だった。誰かに、こう座れと教えられた姿勢。
一文字が電話を片手に、こちらを向いた。
「ピザでいいか」
誰にともなく言って、一文字はもう番号を押していた。ラフな英語でピザと飲み物を注文している。その背中を本郷は軽く見やった。地下からずっと黙っていた男が、今になって日常の音を立てている。怒りを仕舞ったわけではない。仕舞う場所がないから手を動かしているのだ。
本郷は子どもの正面に、椅子を引いて座った。
「君の名前は?」
子供の目が、本郷を見る。値踏みするような、警戒の色。それから、はっきりと答えた。
「FWC4」
発音は崩れていなかった。記号を記号のまま、正確に。
本郷は、もう一度名を尋ねた。聞き間違いではないと分かっていて、それでも確かめずにいられなかった。
「君自身の名前を聞いている」
「FWC4」
子どもは同じ抑揚で繰り返した。一文字違わず、正確に。
「それが、私だ」
電話を切った一文字が、振り返っていた。
「……エフ、ダブリュー、なんだって?」
「FWC4」
「それは、名前じゃないだろ」
子ども——FWC4は一文字を見た。何を言われているのか分からない、という顔だった。気を悪くしたのでもない。とぼけたのでもない。名前という言葉と、自分を指す記号とが、この子どもの中で食い違っていない。FWC4と名乗る子どもにとって、一文字の言葉の方が異物だった。
「あのな」
一文字の声が、低くなった。硬く、絞り出すようだった。
「そういうのはな、名前じゃねえんだよ。誰かが、お前を区別するために付けた符丁だ。名前ってのは――」
そこで一文字は言葉を切った。続きを言っても無駄だと、悟ったからだ。
一文字が言っていることは正しい。FWC4は名前ではない。番号だ。誰かが、この子供を番号で呼ぶことに決めて、子供はそれを自分の名だと信じて育った。だから訂正にならない。「それは名前じゃない」と言われても、子供には、自分の名を否定されたとしか聞こえない。一文字の正しさは、ここでは届かない。
一文字は言葉を呑んで、窓の方へ歩いていく。暮れかけた街に向かって、片手を腰に当て、もう一方の手を、開いて、握った。誰かを殴りたい手だった。だが、殴る相手がここにいない。この部屋にいるのは、番号で呼ばれて平気な子どもと、その子どもを番号にした誰かの、顔も知れない影だけだ。一文字の拳は行き場を失って、ただ窓枠の手前で握られていた。
同じものを本郷も感じている。子どもを戦うために改造し、番号で管理する何者か。考えるだけで腹の奥から煮え立つような熱が沸き上がる。しかし、この子どもを作った者に腹を立てることと、この子どもが、「FWC4」を自分の名として生きていることは別の事実だ。後者は、変えられない。少なくとも、今ここでは。
沈黙の落ちた部屋に、ドアがノックされる音が響いた。ピザが思ったより早く来たようだ。
一文字が金を払い、箱と飲み物を受け取って戻ってくる。テーブルに置いて、一枚を開けた。安い店の、油の匂いが強いものだ。一文字は湯気の断つ一切れを紙の皿に取って、子供の前に置く。
「食えよ。……毒なんて入ってねえから」
一文字は普段子どもにそうするように話しかけようとして、失敗していた。さっきの怒りの名残が声に少し残っている。
子どもはまず皿を見た。それから一文字を見て、本郷を見る。
手を出さなかった。
罠を疑う目だ。なぜ自分に食料を与えるのか。計算が合わない、という顔。本郷たちが食事を与える理由が、この子どもの中の何処にもない。子どもは出された皿を警戒の対象としてだけ見ている。
だが、長くは保たなかった。
子供の喉が小さく動いた。匂いに身体が反応している。この子どもの身体は、本人の警戒とは別に補給を求めている。高架の上であれだけの出力を出した身体だ。空にならないわけがない。意志が「食べるな」と言い、身体が「食べろ」と言う。その二つが小さな身体の中で別々に動いていた。
少し経って、身体が勝った。
子どもようやく一切れを手に取った。警戒を解いたからではない。腹が命令したからだ。目は険しいまま、二人から逸らさず、それでも口に運ぶ。
噛んだ瞬間、子供の肩がびくりと跳ねた。
味に驚いていた。本郷はその反応を見て、奇妙なものが胸の底に落ちるのを感じた。子どもは咀嚼を止めていた。口の中のものをどう扱っていいか分からない、という風に。塩と油と香辛料、濃い味付け。この子どもの身体はたぶん、こういうものを知らない。栄養補給はしていても、食事をしたことがない。
それでも、子供の手はもう一度動いた。一口目に驚いて止まった口が、二口目を求めて開く。身体は素直だった。意志だけが最後まで二人を警戒している。
その険しい目のまま黙々と食べ、手と口を汚した。
本郷は自分の分には手をつけずに、静かにそれを見ていた。
***
子供が最後の一切れを食べ終えるのを、本郷は待った。
油で汚れた口の端とピザを掴んでいた指が、てらてらと光っていた。子供は手の汚れを持て余すように、けれどそれを服で拭くこともせず、ただ膝の上で軽く指を開いていた。どう処理していいか分からない、という風だった。
本郷は紙ナプキンを一枚取った。
子供の前にしゃがみ、その手を取る。子供の身体がはっきりと強張った。本郷の指が触れた瞬間、全身を硬くして本郷の出方を窺っていた。何をされるのかシミュレーションしている目だった。
本郷は、指を一本ずつ拭いた。
それだけだった。油を拭き取り、手の甲を返し、また拭く。乱暴にもせず、丁寧すぎもせず。子供の警戒が、本郷の手の動きに合わせて、少しずつ場所を変えていくのが分かった。痛くされるのかと身構え、痛くされず、では何をされるのかとまた身構える。優しくされることが、この子どもの辞書には載っていない。だから別の何かとして処理しようとして、できずにいる。
本郷は口の端も拭いてやった。子どもは顎を引きかけたが、結局引かなかった。引いていいのかどうかも、分からないようだった。
拭き終えて、ナプキンを置く。
本郷はしゃがんだまま、子どもと同じ高さに目を置いた。手を拭いたのと同じ近さで、本郷は問うた。
「ピザを食べるのは初めてか」
子どもは答えなかった。
だが、目だけが一瞬空いた箱の方へ動いた。否定ではなかった。
本郷はそれ以上聞かなかった。その代わり、子供の視線が何度も同じ方向へ戻っていることに気づいた。ドアだ。食べている間も、手を拭かれている間も、意識の一部がずっとそこに残っていた。
「さっきから、ずっと出口を見ているな」
子どもの目が、本郷を見る
「逃げるつもりか」
そう問うと、子供は小さく首を振った。
「違う。回収班が来る」
その響きに、本郷は思わず眉を動かした。
「回収班?」
部屋の空気がわずかに変わった。窓際にいた一文字が振り返る。
助けではなく、回収。人間に使う言葉ではない。
本郷は子供と同じ高さに目を置いたまま、一歩踏み込んだ。
「回収に来るのは、誰だ。君を作った組織の人間か?」
その瞬間、子どもの目の中で何かがすっと閉じた。
警戒しながらも本郷の手を追っていた目が、急に温度を失った。そうか、と本郷は思った。この子どもの中で、今、辻褄が合ったのだ。飯を食わせ、手を拭いたのは、組織について暴くためだった――そう繋がってしまった。本郷にそんな算段はない。だが、それをこの子に分からせる方法もまた、ない。
「お前たちには関係ない。任務の邪魔をするな」
子供は、それだけ言って口を噤んだ。
「組織のことを聞いているんだ」
本郷は退かなかった。
「君がいた場所だ。どこにある。誰がいる」
「お前たちには関係ない」
同じ言葉が、同じ抑揚で返る。本郷は、もう一段深いことを聞いた。首の後ろの三つの口のこと、増えていく遺体のこと。どれにも、子どもは同じ一文で答えた。質問が変わっても、答えは一つしかない。壊れた機械が同じ音を立てるのとは違う。これはそう答えるように作られた者が、作られた通りに答えている音だ。
本郷は、問うのをやめた。
これ以上は、出ない。脅してもすかしても、この子どもは同じ一文を返し続ける。そういう風に出来ている。手を拭いたことも、味に驚いたことも、この子どもの表面を一ミリも削っていない。
本郷は立ち上がった。
窓際から一文字がこちらを見ていた。問うまでもなく、聞いていた。一文字の顔には、もう怒りはなかった。怒りの代わりに、本郷とよく似た理解がそこにあった。この子ども一人を相手にしていても、何も出ない。出さないように作られている。
「俺たちだけじゃ、無理だな」
一文字が言った。
「ああ」
本郷は頷いた。
「他にも当たってみよう」
窓の外はもう暮れている。本郷は上着の内側に手を入れた。日本は、今ごろ朝だ。
ライダー同士には独自に連絡を取れる回線がある。取り出した通信機の周波数を合わせ、相手が出るのを待った。子どもは椅子の上から、その手元を見ていた。意味を読もうとする目だった。本郷は子どもに背を向けるでもなく、隠すでもなく、ただ普通に繋いだ。隠すほどのことを、まだ何も喋らないと決めていた。
雑音の向こうで、回線が繋がった。
「――本郷さんですか」
風見の声だった。日本は朝だ。声に寝起きの濁りはない。むしろこちらの連絡を待っていたような、張り詰めた静けさがあった。
「夜分に——いや、そちらは朝だな」
本郷は時間の挨拶を途中でやめた。急ぎの用件だ。
「今追っているものの話だ」
本郷はこれまでにあったことを手短に伝えた。同じ改造痕を持つ身元不明の遺体が増えていること。背骨の線と、首の後ろの三つの口。関係者と思われる人物を捕らえたら、子どもだったこと。その子どももまた、改造人間であること。
事実だけを順番に置いた。解釈は足さなかった。足さなくても、風見には伝わるはずだった。同じ作りをした者には、同じ作りの話が言葉以上の速さで届く。
電話の向こうから、静かな声が返ってくる。
「……首の、後ろに三つ」
風見が本郷の言葉をなぞった。確かめるように。
「背骨に、線」
「ああ」
「こちらでも」
風見の声の温度が、わずかに変わった。
「改造された子どもを、保護しています」
保護。本郷はその一語を頭の隅に置いた。こちらは捕らえ、向こうは保護している。同じものを指して、言葉が違う。風見が言葉を間違える男ではないことを本郷は知っている。だが、その差を考えるのは後でいい。今は、話の先がある。
「そっちの子どもは、何か喋ったか」
「ええ」
風見の答えは、迷いがなかった。
「よく、話します」
本郷の手が、無線機の上で止まった。
「よく?」
「こちらが聞けば、答えます」
風見の声は、淡々としていた。
「隠す気がないように見える。組織のことも、体のことも。むしろ――」
そこで、風見は少し言葉を選んだ。
「洗いざらいに。結城と二人で、聞いた話の裏を取っているところです」
本郷は、目の前の子供を見た。
腕を握り、椅子に座らせ、飯を食わせ、手を拭いて——それでも「お前たちには関係ない」「任務の邪魔をするな」としか出てこなかった子ども。何を聞いても、同じ抑揚で同じ言葉を返す、作られた沈黙。
それと同じ作りの子どもが、太平洋の向こうですべてを喋っている。聞けば答える。隠す気がない。
辻褄が合わなかった。
同じものを、誰かが同じ設計で作ったはずだ。背骨の線も、首の口も、人間離れの出力も、同じ。なのに、片方は石のように黙り、片方は問われるまま明け渡す。作りが同じで、振る舞いが逆。
(この差は、どこから来る)
「……そっちの子は、なぜ喋る」
短い沈黙があった。風見は、すぐには答えなかった。
「分かりません」
やがて風見はそう言った。ただ、と一拍置いて続ける。
「諦めているようにも見えます。投げやりとは違う。もっと、静かな」
本郷はそれ以上を聞かなかった。聞いても、風見もそれ以上は言葉にできないだろうと思った。電話の声から、風見がその子どもをどう見ているか――励ますのでも憐れむのでもなく、ただ同じ高さで隣にいる。その立ち方が伝わってきた。
結城が、と風見が話を続ける。
「こういう体の作りに見当がつくかもしれないと。そちらも調査中です」
結城。その名に本郷は短く頷いた。顔は見えなくとも同じ机に向かっている画が浮かんだ。本郷が遺体の痕から立てた仮定のその先を、あの男なら埋められるかもしれない。
「会わせた方がいい」
本郷は言った。
「そっちの子どもと、こっちの子どもを」
「ええ」
風見の答えは早かった。同じ結論に達していたらしい。
「段取りは、こちらで」
話を詰めて、回線を切る。
本郷は通信機を仕舞い、子どもを見た。子どもはまだ本郷の手元を――もう何もない手元を見ていた。何が決まったのか読もうとしている。
読めないだろう、と本郷は思った。太平洋の向こうに、お前とよく似た子どもがいる。お前が石のように黙って守っているものを、その子どもは、洗いざらい明け渡している。それを言う必要は、まだない。
窓の外は、すっかり暗くなっていた。