商店街の異星人ちゃん   作:A&T

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第一話 商店街へようこそ

 惑星サドゥの空は、いつも薄い青紫色をしている。

 

 大気の成分が地球とは違うからだ、と調査員養成所の教師は言っていた。けれどナポは、その説明よりもずっと前から、サドゥの空が好きだった。

 

 その空の下に、ロポがいたからだ。

 

「いいか、ナポ。調査員に必要なのは、観察、記録、報告。この三つだ」

 

 訓練棟の広い窓際で、ロポはふわりと浮きながら言った。

 

 ロポの身体は、半透明の傘のような形をしていた。長く柔らかな触手が何本も下に伸び、淡い光を帯びてゆっくり揺れている。サドゥの民としては標準的な姿だが、その漂い方には不思議な品があった。

 

 無駄に跳ねない。無駄に回らない。無駄に光らない。

 

 ロポは、いつでも模範だった。

 

「現地の生命体と接触する場合は、干渉を最小限にとどめる。情に流されるな。任務を忘れるな。帰還予定日は厳守だ」

 

「うん」

 

「うん、ではない。復唱」

 

「観察、記録、報告。干渉は最小限。情に流されない。任務を忘れない。帰還予定日は厳守」

 

「よろしい」

 

 ロポの声は厳しかった。

 

 けれどナポは、その厳しさが好きだった。

 

 訓練生たちはロポを恐れていた。課題の提出が一拍でも遅れれば、ロポは触手の先をぴんと伸ばして注意した。観察記録に主観が混じれば、最初から書き直しを命じた。浮遊姿勢が崩れているだけでも、規律の乱れだと言った。

 

 それでもナポにとって、ロポは誰よりも輝いていた。

 

 正しくて、強くて、ぶれない。

 

 ナポはいつも思っていた。いつかロポのようになりたい、と。

 

 そんなロポが、未開惑星調査員として選ばれたのは、ナポがまだ正式な調査員になっていない頃だった。

 

 行き先は、銀河辺境にある水の惑星。

 

 識別名、チキュウ。

 

「ロポ、本当に行くの?」

 

 出発ゲートの前で、ナポは思わずそう聞いた。

 

 巨大な宇宙船の外殻が、発着場の光を受けて銀色に光っている。周囲には補助員や研究者が行き交い、端末の音が忙しく鳴っていた。

 

 ロポはいつものように、まっすぐナポを見た。

 

「任務だ」

 

「でも、チキュウって危険なんでしょ。現地生命体は硬い骨を持ってて、群れで行動して、熱したものを食べて、あと、えっと……大きな音を出す」

 

「情報が雑だ」

 

「だって、まだ勉強中だもん」

 

「だから私は行く。正確な情報を持ち帰るために」

 

 ロポは淡く光った。

 

 サドゥの民は、感情の揺れに合わせて身体の光を変える。だからナポには、ロポが今どんな気持ちでいるのか、言葉にされる前から少しだけわかった。

 

 それは誇りの色だった。

 

「ナポ。お前もいずれ調査員を目指すなら、覚えておけ。未知を恐れるな。だが、未知を侮るな」

 

「……うん」

 

「帰還予定日は、サドゥ標準時で八十七周期後。遅延が発生した場合も、必ず連絡を入れる」

 

「絶対?」

 

「絶対だ」

 

 ロポは厳格な声で言った。

 

「私は、規律を破らない」

 

 その言葉は、ナポにとって約束だった。

 

 ロポの乗った宇宙船が、青紫の空へ浮かんでいく。

 

 ナポは発着場の端で、船が小さな光の点になるまで見上げていた。

 

 八十七周期。

 

 ナポはその数字を、何度も心の中で数えた。

 

 ロポは必ず帰ってくる。

 

 地球という未知の惑星を調査し、正確な記録を持ち帰り、少し厳しい声で「報告書の書き方を教えてやる」と言ってくれる。

 

 そう信じていた。

 

 けれど、八十七周期が過ぎても、ロポは帰ってこなかった。

 

 連絡もなかった。

 

 最初は、通信障害だと言われた。地球周辺は電波環境が複雑で、調査船の信号が乱れることもある、と。

 

 次に、任務延長の可能性があると言われた。現地文明の発展段階が予想より複雑で、追加調査が必要になったのかもしれない、と。

 

 その次には、担当部署が変わった。ロポに関する問い合わせは、正式な手続きを通してくれ、と言われた。

 

 ナポは何度も手続きをした。

 

 けれど返ってくるのは、同じような言葉ばかりだった。

 

 調査中。

 

 確認中。

 

 上層部判断待ち。

 

 ナポは待った。

 

 待って、待って、待ちきれなくなった。

 

「ロポが連絡しないなんて、ありえない」

 

 訓練棟の隅で、ナポは自分の触手を握りしめた。

 

 ロポは規律を破らない。

 

 帰還予定日は厳守だと言った。遅れるなら連絡すると言った。絶対だと言った。

 

 ならば、ロポの身に何かが起きたのだ。

 

 地球人に捕まったのかもしれない。解剖されているのかもしれない。熱した食べ物にされているのかもしれない。大きな音で囲まれているのかもしれない。

 

 ナポの想像は、地球に関する中途半端な知識のせいで、どんどんひどい方向へ膨らんでいった。

 

「助けに行かなきゃ」

 

 正式な許可は下りない。

 

 なら、独断で行くしかない。

 

 ナポは渡航準備を始めた。

 

 地球語を学んだ。発音は難しかったが、必死に覚えた。

 

「こんにちは」

 

「ありがとうございます」

 

「怪しい者ではありません」

 

「税金は払います」

 

「すみません、通してください」

 

 何に使うのかわからない言葉も混じっていたが、地球に詳しい資料端末がそう表示したので、ナポは真面目に暗記した。

 

 擬態の練習もした。

 

 地球人は、骨格を持つ左右対称の生命体らしい。上に頭部、左右に腕、下に脚。皮膚は不透明。目は二つ。口は一つ。触手はない。

 

 ナポは何度も失敗しながら、二十歳くらいの地球人女性の姿を作った。

 

 肩までの黒髪。丸い目。細い腕と脚。地球人に不審がられない程度の服装。

 

 鏡に映った自分を見て、ナポは思った。

 

 動きにくい。

 

 でも、ロポを助けるためなら我慢できる。

 

 そしてある夜、ナポは小型船に乗り込んだ。

 

「待ってて、ロポ。すぐ連れ戻すから」

 

 宇宙船はサドゥの空を抜けた。

 

 星々の間を進み、銀河の端へ、青い水の惑星へ向かって。

 

 ナポは操縦席で何度も地球語の単語を復唱しながら、ロポのことを考え続けた。

 

 厳しくて、正しくて、ナポの憧れだったロポ。

 

 きっと今も、どこかで耐えている。

 

 助けを待っている。

 

 そう思っていた。

 

 地球の大気圏に突入した瞬間、宇宙船が悲鳴のような警告音を上げた。

 

「えっ」

 

 操縦席の表示が赤く点滅する。

 

 高度制御異常。

 

 推進機関出力低下。

 

 外殻温度上昇。

 

 着陸予定地点、大幅ズレ。

 

「えっ、えっ、えっ」

 

 ナポは必死に操作盤へ手を伸ばした。

 

 地球への降下に備えて変えたばかりの身体は、まだうまく馴染んでいなかった。触手なら一度にいくつもの操作盤へ触れられるのに、今の手は左右に一本ずつしかない。

 

 しかも、先端は五本に分かれている。

 

 資料では「器用な部位」とされていたが、少なくとも今のナポには、混乱を増やすだけの構造物だった。

 

「安定、安定して。お願い。まだロポを見つけてない」

 

 船体が大きく揺れた。

 

 窓の外で、雲が裂ける。青い空。白い雲。灰色の建物。細い道。光る看板。

 

 ナポは目を見開いた。

 

 地球だ。

 

 ロポが来た場所。

 

 その感慨に浸る間もなく、小型船は町外れの河川敷に突っ込んだ。

 

 大きな爆発はしなかった。

 

 ただ、情けない音を立てて草地を滑り、最後に土手の斜面へ斜めに刺さった。

 

 船内に沈黙が落ちる。

 

 ナポは操縦席にしがみついたまま、しばらく動けなかった。

 

「……到着、成功」

 

 無理やりそう言った直後、操作盤から煙が上がった。

 

「成功じゃない」

 

 外に出て確認すると、船の後部は見事にへこんでいた。推進装置は沈黙し、通信機は点滅すらしない。自動修復装置も、途中で力尽きたように低い音を鳴らして止まっていた。

 

 ただ、船体を覆う簡易隠蔽膜だけは、かろうじて作動していた。遠目には、ただの草むらか、せいぜい不自然な大きさのブルーシートに見えるはずだ。

 

「……帰れない」

 

 ロポを連れ戻すどころか、自分も帰れなくなった。

 

 ナポは擬態した顔を両手で押さえた。

 

 泣いている場合ではない。調査員は冷静でなければならない。まだ正式な調査員ではないけれど、ロポならきっとそう言う。

 

 まずはロポを探す。

 

 そのためには現地生命体、つまり地球人との接触が必要になる。

 

 危険だ。

 

 とても危険だ。

 

 ナポは周囲を見回した。

 

 土手の上に、人影があった。

 

 地球人の男性だった。黒い鞄を肩にかけ、片手に買い物袋を持っている。年齢は、おそらく成体。こちらを見て固まっていた。

 

 ナポも固まった。

 

 沈黙。

 

 風が吹いた。

 

 男性が、おそるおそる口を開いた。

 

「あの……大丈夫ですか?」

 

 地球語だ。

 

 ナポは瞬時に学習した単語を並べようとした。

 

 こんにちは。ありがとうございます。怪しい者ではありません。税金は払います。

 

 どれだ。

 

 どれが正解だ。

 

 ナポは迷った末、一番安全そうな言葉を選んだ。

 

「怪しい者ではありません」

 

「いや、そこでそれ言うと逆に怪しいですけど」

 

 男性は困ったように笑った。

 

 ナポは内心で焦った。失敗した。地球人の警戒心を刺激したかもしれない。

 

 しかし男性は、土手を降りて近づいてきた。

 

「転んだんですか? 怪我とかは?」

 

「怪我はありません。私は正常です」

 

「正常……」

 

 男性はナポの後ろにある、不自然に盛り上がった草むらを見た。

 

 ナポはすばやく身体で隠そうとした。人間の身体は横幅が足りず、まったく隠れなかった。

 

「それ、何ですか?」

 

「これは……ええと……」

 

 ナポは地球語の辞書を頭の中でめくった。

 

「草です」

 

「草」

 

「少し、壊れました」

 

「草が?」

 

 男性は不思議そうに瞬きした。

 

 ナポは咳払いをした。

 

 地球人に正体を悟られてはいけない。擬態を維持する。目的を忘れない。ロポを探す。

 

「あの、私は……ロポ、ああいえ、人を探してまして」

 

 言った瞬間、男性の表情が変わった。

 

「ロポ?」

 

 ナポの心臓に相当する器官が跳ねた。

 

 知っているのか。

 

 やはりロポは地球人に捕まっているのか。

 

 ナポは慎重に聞いた。

 

「その名前に、心当たりが?」

 

「もしかして、ロポちゃん?」

 

 ちゃん。

 

 ナポは固まった。

 

 ロポちゃん。

 

 聞き間違いだろうか。

 

 ロポは調査員だ。模範的存在だ。規律の化身だ。訓練生を震え上がらせる厳格な先輩だ。

 

 ちゃん、ではない。

 

「……ロポちゃん?」

 

「え、違う? クラゲみたいな、ふよふよした子ですよね。商店街にいる」

 

 クラゲみたいな。

 

 ふよふよした子。

 

 商店街にいる。

 

 ナポの中で、言葉がうまく組み合わさらなかった。

 

「ロポが……商店街に?」

 

「たぶん、そのロポちゃんだと思いますよ。俺、昼によく見るし」

 

「昼に?」

 

「定食屋あすかって店があって。よくご飯もらいに来るんですよ」

 

「ご飯を……もらいに?」

 

 ナポはますます混乱した。

 

 ロポは地球を調査しに来たのだ。

 

 現地生命体から食べ物をもらいに来たのではない。

 

 男性は買い物袋を持ち直し、にこっと笑った。

 

「あ、俺、神保っていいます。神保和平。ちょうど商店街に寄るところなんで、案内しますよ」

 

「いえ、私はまだあなたを信用したわけでは」

 

「大丈夫大丈夫。ロポちゃんの知り合いなら、みんな喜びますって」

 

「みんな?」

 

「商店街のみんな」

 

「ロポは、そんなに広範囲に知られているのですか?」

 

「そりゃもう。有名ですよ」

 

 有名。

 

 ロポが。

 

 地球で。

 

 ナポはふらついた。

 

 神保はそんなナポを見て、心配そうに首をかしげた。

 

「本当に大丈夫ですか?」

 

「大丈夫です。私は正常です」

 

「さっきも聞いたな、それ」

 

 神保は笑いながら歩き出した。

 

 ナポは迷った。

 

 ついていくべきか。

 

 地球人は危険だ。だが、この神保という男性は、今のところ攻撃してこない。大きな音も出さない。熱した食べ物にもしようとしてこない。

 

 そして何より、ロポを知っている。

 

 ナポは小型船の隠れている草むらを一度振り返った。修理は後回しだ。どうせ今は動かない。

 

 擬態を整え、背筋を伸ばす。

 

 調査員は冷静に。

 

 ロポならそうする。

 

 ナポは神保の後を追った。

 

 土手を越え、住宅街を抜けると、少しずつ人の声が増えていった。

 

 細い道の両側に、店が並んでいる。八百屋、肉屋、花屋、古い菓子店、小さな本屋。看板が突き出し、軒先には商品が並び、あちこちから匂いが流れてくる。

 

 焼いた魚の匂い。

 

 揚げ物の匂い。

 

 甘い菓子の匂い。

 

 ナポは思わず足を止めた。

 

「ここが商店街ですか」

 

「そうです。いいでしょ」

 

 神保は少し得意げだった。

 

「俺、会社帰りによく寄るんですよ。買い物が趣味で。昼もだいたい定食屋あすかで食べてます」

 

「あなたの生態情報は理解しました」

 

「生態情報って言い方、初めてされたな」

 

 歩いていると、店先の人々が神保に声をかけた。

 

「ジンボくん、今日は早いね」

 

「神保さん、コロッケ揚げたてだよ」

 

「お、また余計なもん買って帰る気だな」

 

 神保は慣れた様子で返事をしている。

 

 ナポは周囲の視線を警戒した。擬態は崩れていないはずだ。頭部も一つ、腕も二本、脚も二本。触手は見えていない。大丈夫。

 

 すると、八百屋の女性がナポを見て言った。

 

「あら、神保くん、彼女?」

 

「違います!」

 

 神保が即答した。

 

 ナポは少し遅れて理解し、真面目に訂正した。

 

「違います。私は神保さんの繁殖相手ではありません」

 

 商店街が一瞬静かになった。

 

 神保が顔を赤くした。

 

「言い方!」

 

「不正確でしたか?」

 

「不正確じゃないけど正確すぎるというか!」

 

 八百屋の女性が大笑いした。

 

「あはは、面白い子だねえ」

 

 ナポは困惑した。

 

 笑われている。

 

 しかし敵意は感じない。攻撃でもないらしい。

 

 地球人は難しい。

 

 さらに歩くと、古びた赤い暖簾の店が見えてきた。

 

 看板には、地球語でこう書かれていた。

 

 定食屋あすか。

 

「ここです」

 

 神保が暖簾をくぐる。

 

 ナポも慎重に続いた。

 

 店内は、外よりも温かかった。

 

 木のテーブル。カウンター席。壁に貼られた手書きの献立。出汁の匂い。油の匂い。誰かが食器を置く音。

 

 カウンターの向こうに、中年の女性がいた。短くまとめた髪に、きびきびした目つき。手にはおたまを持っている。

 

「いらっしゃい。あら神保くん、今日は夜も食べてくの?」

 

「いや、今日は人探しの案内で。明日香さん、ロポちゃん来てます?」

 

 女性――荒川明日香は、店の奥をちらりと見た。

 

「来てるよ。まったく、働かざる者食うべからずって言ってんのにねえ」

 

 ナポは息を呑んだ。

 

 いる。

 

 ロポが。

 

 店の奥から、のんびりした声が聞こえた。

 

「アポぉ、おかわり、まだあるー?」

 

 ナポの身体が硬直した。

 

 その声を、忘れるはずがなかった。

 

 ロポだ。

 

 けれど、記憶の中のロポとはまるで違う声だった。

 

 厳しさがない。

 

 張りつめた響きがない。

 

 ふにゃりと柔らかく、少し甘えている。

 

 明日香が呆れたように言った。

 

「あるけどね、ロポちゃん。あんた、さっき三杯食べたでしょ」

 

「今日はいっぱい浮いたから、おなかすいた」

 

「浮くだけで腹が減るのかい」

 

「減るー」

 

 ナポは、ゆっくりと店の奥を見た。

 

 座敷の端。

 

 丸い座布団の上に、ロポがいた。

 

 クラゲのような半透明の身体。淡く光る傘。ゆらゆら揺れる触手。

 

 擬態はしていない。

 

 本来の姿のままだ。

 

 ロポは小さな茶碗を触手で抱え、幸せそうに白いご飯を食べていた。口がどこにあるのか地球人にはわからないはずなのに、商店街の人々は誰も気にしていない。

 

 むしろ、近くにいた老人が笑顔で言った。

 

「ロポちゃん、漬物も食べるかい」

 

「食べるー」

 

「はいよ」

 

「ありがとー」

 

 ロポはふわりと光った。

 

 感謝の色。

 

 ナポは立ち尽くした。

 

 違う。

 

 こんなのはロポではない。

 

 ロポは、もっと背筋が伸びていた。いや、クラゲに背筋はないが、精神的に伸びていた。任務を忘れるなと言っていた。情に流されるなと言っていた。帰還予定日は厳守だと言っていた。

 

 それなのに。

 

 目の前のロポは、地球の定食屋で、ご飯のおかわりをねだっている。

 

 しかも、ロポちゃんと呼ばれている。

 

 神保が座敷に向かって声をかけた。

 

「ロポちゃん」

 

 ロポがふよんと振り向いた。

 

「あ、ジポ」

 

「神保です」

 

「ジポ、今日も来たんだ」

 

「神保です。あと、今日はお客さん連れてきた」

 

 ロポの淡い身体が、ナポの方を向いた。

 

 ゆらゆらと揺れていた触手が、ぴたりと止まる。

 

 ナポも動けなかった。

 

 しばらく、二人は見つめ合った。

 

 姿は違う。

 

 けれど、そこにいるのは間違いなくロポだった。

 

 先に声を出したのは、ロポだった。

 

「……ナポ?」

 

 その声だけは、昔と同じだった。

 

 ナポの胸の奥に、積み上げてきた不安と怒りと安堵が、一気に押し寄せた。

 

 生きていた。

 

 無事だった。

 

 でも、何をしているのだ。

 

 ナポは一歩踏み出した。

 

「ロポ」

 

 声が震えた。

 

「迎えに来た」

 

 ロポは茶碗を抱えたまま、ぱちぱちと瞬いたように光った。

 

「迎え?」

 

「そう。帰るよ。サドゥに」

 

 店内の空気が、少し変わった。

 

 神保が「え」と小さく声を出す。

 

 明日香もおたまを持ったまま、ナポを見た。

 

 ロポはしばらく黙っていた。

 

 そして、困ったように身体をふにゃりと揺らした。

 

「今?」

 

「今じゃなくても、船を直したらすぐ」

 

「うーん」

 

「うーんじゃない。ロポ、帰還予定日はとっくに過ぎてる。連絡もなかった。みんな心配してる。私も心配した」

 

 ロポは茶碗をそっと置いた。

 

 かつてのロポなら、ここで即座に謝罪し、状況報告に入ったはずだった。任務の進捗、通信障害の理由、帰還不能になった経緯。すべてを正確に、簡潔に。

 

 だがロポは、少しだけ触手を揺らして言った。

 

「ごめんね、ナポ」

 

 柔らかい声だった。

 

 その柔らかさが、ナポには怖かった。

 

「でも、ロポ、もう少しここにいたい」

 

「……は?」

 

「ここ、あったかいから」

 

 ナポは言葉を失った。

 

 あったかい。

 

 それが、帰らなかった理由なのか。

 

 規律を守り、任務を重んじ、誰よりも正しかったロポが。

 

 地球の商店街で。

 

 定食屋の座敷に座り。

 

 ご飯を三杯食べて。

 

 あったかいから、帰りたくないと言っている。

 

 ナポの中で、何かが音を立てて崩れた。

 

「ロポ」

 

「うん」

 

「何してるの?」

 

「ごはん食べてる」

 

「見ればわかる!」

 

 ナポの叫びに、店内の客たちが驚いてこちらを見た。

 

 ロポは少しだけ縮こまった。

 

 神保が慌てて間に入ろうとする。

 

「えっと、事情はわからないですけど、とりあえず落ち着いて」

 

「私は落ち着いています」

 

「落ち着いてる人はそんな顔しません」

 

「この顔は……」

 

 ナポはそこまで言って、はっと口をつぐんだ。

 

 この顔は地球人の擬態です。

 

 そう続けかけた自分に気づき、内心で全身の触手を抱えた。危ない。非常に危ない。地球人の前で言っていい情報ではない。

 

 神保が不思議そうに首をかしげる。

 

「この顔は?」

 

「……通常の顔です」

 

「通常の顔」

 

「はい。正常です」

 

「また正常って言った」

 

 ロポが「あー」と小さく光った。

 

 その光り方は、ナポにはわかった。ごまかすの、下手だね、という色だった。

 

 数秒の沈黙のあと、座敷の奥から老人がのんきに言った。

 

「なんだい、ロポちゃんの知り合いかい?」

 

 ロポがふわりと浮き上がった。

 

「うん。ナポ。ロポと同じ星の子」

 

「ロポ!」

 

 ナポは思わず叫んだ。

 

 言うな。

 

 そう言いたかったが、もう遅い。

 

 神保が目を丸くした。

 

「同じ星?」

 

 明日香も、おたまを持ったまま眉を上げる。

 

「へえ。じゃあ、ロポちゃんの仲間ってことかい」

 

 ロポは何でもないことのように、ゆらゆら揺れた。

 

「仲間。ナポはまじめな子」

 

「余計な説明を足さないで」

 

 ナポは低い声で言った。

 

 ロポは少しだけ縮こまる。

 

「ごめん」

 

 だが店内の客たちは、驚いたというより、妙に納得したような顔をしていた。

 

「そうかいそうかい。ロポちゃんにも故郷があるもんねえ」

 

「遠いところから来たんだねえ」

 

「じゃあ、あんたもご飯食べるかい」

 

 ナポは言葉を失った。

 

 反応がおかしい。

 

 同じ星、と言われたのだ。つまり、地球の者ではないと明かされたに等しい。それなのに、地球人たちは武器を構えない。叫ばない。捕獲用の網も出さない。

 

 ただ、少し珍しい客が増えた、くらいの顔をしている。

 

 ナポは、恐る恐る明日香を見た。

 

 明日香はため息をつき、カウンターの向こうから言った。

 

「あんた、名前は?」

 

「……七星海月(ななほしみつき)です」

 

「ナナホシミツキ? 日本人みたいな名前だね」

 

「気にしないでください」

 

「わかったよ、ミツキちゃん」

 

「はい」

 

「お腹すいてるんだろ。話は食べてからにしな。働かざる者食うべからず、とは言うけどね」

 

 明日香は、ロポをちらりと見た。

 

「今日は特別だ」

 

 ロポが嬉しそうに光った。

 

「アポ、やさしー」

 

「あんたは後で皿運びくらいしな」

 

「えー」

 

 ナポは混乱したまま、出された定食の前に座らされた。

 

 白いご飯。味噌汁。焼き魚。小鉢。漬物。

 

 地球の食べ物。

 

 未知の物質。

 

 危険かもしれない。

 

 けれど、湯気は温かく、匂いは不思議と悪くなかった。

 

 向かいでは、ロポが相変わらずふわふわ浮いている。

 

 その姿は、ナポの知っているロポと同じで、まったく違っていた。

 

 ナポは箸を握った。

 

 使い方は資料で見た。二本の棒で食べ物を挟む、地球人の高度な技術だ。

 

 手が震える。

 

 ロポがこちらを見て、のんびりと言った。

 

「ナポ、箸、逆」

 

「知ってる!」

 

 知らなかった。

 

 神保が隣で笑いをこらえている。

 

 明日香が呆れながらも、水を置いてくれる。

 

 ロポは楽しそうに揺れている。

 

 ナポは思った。

 

 地球は危険な惑星だ。

 

 間違いない。

 

 なぜなら、あのロポをこんなふうにしてしまったのだから。

 

 絶対に、油断してはいけない。

 

 そう決意しながら、ナポは焼き魚をひと口食べた。

 

 次の瞬間、目を見開く。

 

「……おいしい」

 

 ロポが、満足そうに光った。

 

「でしょ」

 

 ナポは箸を握りしめた。

 

 危険だ。

 

 この惑星は、本当に危険だ。

 

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