惑星サドゥの空は、いつも薄い青紫色をしている。
大気の成分が地球とは違うからだ、と調査員養成所の教師は言っていた。けれどナポは、その説明よりもずっと前から、サドゥの空が好きだった。
その空の下に、ロポがいたからだ。
「いいか、ナポ。調査員に必要なのは、観察、記録、報告。この三つだ」
訓練棟の広い窓際で、ロポはふわりと浮きながら言った。
ロポの身体は、半透明の傘のような形をしていた。長く柔らかな触手が何本も下に伸び、淡い光を帯びてゆっくり揺れている。サドゥの民としては標準的な姿だが、その漂い方には不思議な品があった。
無駄に跳ねない。無駄に回らない。無駄に光らない。
ロポは、いつでも模範だった。
「現地の生命体と接触する場合は、干渉を最小限にとどめる。情に流されるな。任務を忘れるな。帰還予定日は厳守だ」
「うん」
「うん、ではない。復唱」
「観察、記録、報告。干渉は最小限。情に流されない。任務を忘れない。帰還予定日は厳守」
「よろしい」
ロポの声は厳しかった。
けれどナポは、その厳しさが好きだった。
訓練生たちはロポを恐れていた。課題の提出が一拍でも遅れれば、ロポは触手の先をぴんと伸ばして注意した。観察記録に主観が混じれば、最初から書き直しを命じた。浮遊姿勢が崩れているだけでも、規律の乱れだと言った。
それでもナポにとって、ロポは誰よりも輝いていた。
正しくて、強くて、ぶれない。
ナポはいつも思っていた。いつかロポのようになりたい、と。
そんなロポが、未開惑星調査員として選ばれたのは、ナポがまだ正式な調査員になっていない頃だった。
行き先は、銀河辺境にある水の惑星。
識別名、チキュウ。
「ロポ、本当に行くの?」
出発ゲートの前で、ナポは思わずそう聞いた。
巨大な宇宙船の外殻が、発着場の光を受けて銀色に光っている。周囲には補助員や研究者が行き交い、端末の音が忙しく鳴っていた。
ロポはいつものように、まっすぐナポを見た。
「任務だ」
「でも、チキュウって危険なんでしょ。現地生命体は硬い骨を持ってて、群れで行動して、熱したものを食べて、あと、えっと……大きな音を出す」
「情報が雑だ」
「だって、まだ勉強中だもん」
「だから私は行く。正確な情報を持ち帰るために」
ロポは淡く光った。
サドゥの民は、感情の揺れに合わせて身体の光を変える。だからナポには、ロポが今どんな気持ちでいるのか、言葉にされる前から少しだけわかった。
それは誇りの色だった。
「ナポ。お前もいずれ調査員を目指すなら、覚えておけ。未知を恐れるな。だが、未知を侮るな」
「……うん」
「帰還予定日は、サドゥ標準時で八十七周期後。遅延が発生した場合も、必ず連絡を入れる」
「絶対?」
「絶対だ」
ロポは厳格な声で言った。
「私は、規律を破らない」
その言葉は、ナポにとって約束だった。
ロポの乗った宇宙船が、青紫の空へ浮かんでいく。
ナポは発着場の端で、船が小さな光の点になるまで見上げていた。
八十七周期。
ナポはその数字を、何度も心の中で数えた。
ロポは必ず帰ってくる。
地球という未知の惑星を調査し、正確な記録を持ち帰り、少し厳しい声で「報告書の書き方を教えてやる」と言ってくれる。
そう信じていた。
けれど、八十七周期が過ぎても、ロポは帰ってこなかった。
連絡もなかった。
最初は、通信障害だと言われた。地球周辺は電波環境が複雑で、調査船の信号が乱れることもある、と。
次に、任務延長の可能性があると言われた。現地文明の発展段階が予想より複雑で、追加調査が必要になったのかもしれない、と。
その次には、担当部署が変わった。ロポに関する問い合わせは、正式な手続きを通してくれ、と言われた。
ナポは何度も手続きをした。
けれど返ってくるのは、同じような言葉ばかりだった。
調査中。
確認中。
上層部判断待ち。
ナポは待った。
待って、待って、待ちきれなくなった。
「ロポが連絡しないなんて、ありえない」
訓練棟の隅で、ナポは自分の触手を握りしめた。
ロポは規律を破らない。
帰還予定日は厳守だと言った。遅れるなら連絡すると言った。絶対だと言った。
ならば、ロポの身に何かが起きたのだ。
地球人に捕まったのかもしれない。解剖されているのかもしれない。熱した食べ物にされているのかもしれない。大きな音で囲まれているのかもしれない。
ナポの想像は、地球に関する中途半端な知識のせいで、どんどんひどい方向へ膨らんでいった。
「助けに行かなきゃ」
正式な許可は下りない。
なら、独断で行くしかない。
ナポは渡航準備を始めた。
地球語を学んだ。発音は難しかったが、必死に覚えた。
「こんにちは」
「ありがとうございます」
「怪しい者ではありません」
「税金は払います」
「すみません、通してください」
何に使うのかわからない言葉も混じっていたが、地球に詳しい資料端末がそう表示したので、ナポは真面目に暗記した。
擬態の練習もした。
地球人は、骨格を持つ左右対称の生命体らしい。上に頭部、左右に腕、下に脚。皮膚は不透明。目は二つ。口は一つ。触手はない。
ナポは何度も失敗しながら、二十歳くらいの地球人女性の姿を作った。
肩までの黒髪。丸い目。細い腕と脚。地球人に不審がられない程度の服装。
鏡に映った自分を見て、ナポは思った。
動きにくい。
でも、ロポを助けるためなら我慢できる。
そしてある夜、ナポは小型船に乗り込んだ。
「待ってて、ロポ。すぐ連れ戻すから」
宇宙船はサドゥの空を抜けた。
星々の間を進み、銀河の端へ、青い水の惑星へ向かって。
ナポは操縦席で何度も地球語の単語を復唱しながら、ロポのことを考え続けた。
厳しくて、正しくて、ナポの憧れだったロポ。
きっと今も、どこかで耐えている。
助けを待っている。
そう思っていた。
地球の大気圏に突入した瞬間、宇宙船が悲鳴のような警告音を上げた。
「えっ」
操縦席の表示が赤く点滅する。
高度制御異常。
推進機関出力低下。
外殻温度上昇。
着陸予定地点、大幅ズレ。
「えっ、えっ、えっ」
ナポは必死に操作盤へ手を伸ばした。
地球への降下に備えて変えたばかりの身体は、まだうまく馴染んでいなかった。触手なら一度にいくつもの操作盤へ触れられるのに、今の手は左右に一本ずつしかない。
しかも、先端は五本に分かれている。
資料では「器用な部位」とされていたが、少なくとも今のナポには、混乱を増やすだけの構造物だった。
「安定、安定して。お願い。まだロポを見つけてない」
船体が大きく揺れた。
窓の外で、雲が裂ける。青い空。白い雲。灰色の建物。細い道。光る看板。
ナポは目を見開いた。
地球だ。
ロポが来た場所。
その感慨に浸る間もなく、小型船は町外れの河川敷に突っ込んだ。
大きな爆発はしなかった。
ただ、情けない音を立てて草地を滑り、最後に土手の斜面へ斜めに刺さった。
船内に沈黙が落ちる。
ナポは操縦席にしがみついたまま、しばらく動けなかった。
「……到着、成功」
無理やりそう言った直後、操作盤から煙が上がった。
「成功じゃない」
外に出て確認すると、船の後部は見事にへこんでいた。推進装置は沈黙し、通信機は点滅すらしない。自動修復装置も、途中で力尽きたように低い音を鳴らして止まっていた。
ただ、船体を覆う簡易隠蔽膜だけは、かろうじて作動していた。遠目には、ただの草むらか、せいぜい不自然な大きさのブルーシートに見えるはずだ。
「……帰れない」
ロポを連れ戻すどころか、自分も帰れなくなった。
ナポは擬態した顔を両手で押さえた。
泣いている場合ではない。調査員は冷静でなければならない。まだ正式な調査員ではないけれど、ロポならきっとそう言う。
まずはロポを探す。
そのためには現地生命体、つまり地球人との接触が必要になる。
危険だ。
とても危険だ。
ナポは周囲を見回した。
土手の上に、人影があった。
地球人の男性だった。黒い鞄を肩にかけ、片手に買い物袋を持っている。年齢は、おそらく成体。こちらを見て固まっていた。
ナポも固まった。
沈黙。
風が吹いた。
男性が、おそるおそる口を開いた。
「あの……大丈夫ですか?」
地球語だ。
ナポは瞬時に学習した単語を並べようとした。
こんにちは。ありがとうございます。怪しい者ではありません。税金は払います。
どれだ。
どれが正解だ。
ナポは迷った末、一番安全そうな言葉を選んだ。
「怪しい者ではありません」
「いや、そこでそれ言うと逆に怪しいですけど」
男性は困ったように笑った。
ナポは内心で焦った。失敗した。地球人の警戒心を刺激したかもしれない。
しかし男性は、土手を降りて近づいてきた。
「転んだんですか? 怪我とかは?」
「怪我はありません。私は正常です」
「正常……」
男性はナポの後ろにある、不自然に盛り上がった草むらを見た。
ナポはすばやく身体で隠そうとした。人間の身体は横幅が足りず、まったく隠れなかった。
「それ、何ですか?」
「これは……ええと……」
ナポは地球語の辞書を頭の中でめくった。
「草です」
「草」
「少し、壊れました」
「草が?」
男性は不思議そうに瞬きした。
ナポは咳払いをした。
地球人に正体を悟られてはいけない。擬態を維持する。目的を忘れない。ロポを探す。
「あの、私は……ロポ、ああいえ、人を探してまして」
言った瞬間、男性の表情が変わった。
「ロポ?」
ナポの心臓に相当する器官が跳ねた。
知っているのか。
やはりロポは地球人に捕まっているのか。
ナポは慎重に聞いた。
「その名前に、心当たりが?」
「もしかして、ロポちゃん?」
ちゃん。
ナポは固まった。
ロポちゃん。
聞き間違いだろうか。
ロポは調査員だ。模範的存在だ。規律の化身だ。訓練生を震え上がらせる厳格な先輩だ。
ちゃん、ではない。
「……ロポちゃん?」
「え、違う? クラゲみたいな、ふよふよした子ですよね。商店街にいる」
クラゲみたいな。
ふよふよした子。
商店街にいる。
ナポの中で、言葉がうまく組み合わさらなかった。
「ロポが……商店街に?」
「たぶん、そのロポちゃんだと思いますよ。俺、昼によく見るし」
「昼に?」
「定食屋あすかって店があって。よくご飯もらいに来るんですよ」
「ご飯を……もらいに?」
ナポはますます混乱した。
ロポは地球を調査しに来たのだ。
現地生命体から食べ物をもらいに来たのではない。
男性は買い物袋を持ち直し、にこっと笑った。
「あ、俺、神保っていいます。神保和平。ちょうど商店街に寄るところなんで、案内しますよ」
「いえ、私はまだあなたを信用したわけでは」
「大丈夫大丈夫。ロポちゃんの知り合いなら、みんな喜びますって」
「みんな?」
「商店街のみんな」
「ロポは、そんなに広範囲に知られているのですか?」
「そりゃもう。有名ですよ」
有名。
ロポが。
地球で。
ナポはふらついた。
神保はそんなナポを見て、心配そうに首をかしげた。
「本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫です。私は正常です」
「さっきも聞いたな、それ」
神保は笑いながら歩き出した。
ナポは迷った。
ついていくべきか。
地球人は危険だ。だが、この神保という男性は、今のところ攻撃してこない。大きな音も出さない。熱した食べ物にもしようとしてこない。
そして何より、ロポを知っている。
ナポは小型船の隠れている草むらを一度振り返った。修理は後回しだ。どうせ今は動かない。
擬態を整え、背筋を伸ばす。
調査員は冷静に。
ロポならそうする。
ナポは神保の後を追った。
土手を越え、住宅街を抜けると、少しずつ人の声が増えていった。
細い道の両側に、店が並んでいる。八百屋、肉屋、花屋、古い菓子店、小さな本屋。看板が突き出し、軒先には商品が並び、あちこちから匂いが流れてくる。
焼いた魚の匂い。
揚げ物の匂い。
甘い菓子の匂い。
ナポは思わず足を止めた。
「ここが商店街ですか」
「そうです。いいでしょ」
神保は少し得意げだった。
「俺、会社帰りによく寄るんですよ。買い物が趣味で。昼もだいたい定食屋あすかで食べてます」
「あなたの生態情報は理解しました」
「生態情報って言い方、初めてされたな」
歩いていると、店先の人々が神保に声をかけた。
「ジンボくん、今日は早いね」
「神保さん、コロッケ揚げたてだよ」
「お、また余計なもん買って帰る気だな」
神保は慣れた様子で返事をしている。
ナポは周囲の視線を警戒した。擬態は崩れていないはずだ。頭部も一つ、腕も二本、脚も二本。触手は見えていない。大丈夫。
すると、八百屋の女性がナポを見て言った。
「あら、神保くん、彼女?」
「違います!」
神保が即答した。
ナポは少し遅れて理解し、真面目に訂正した。
「違います。私は神保さんの繁殖相手ではありません」
商店街が一瞬静かになった。
神保が顔を赤くした。
「言い方!」
「不正確でしたか?」
「不正確じゃないけど正確すぎるというか!」
八百屋の女性が大笑いした。
「あはは、面白い子だねえ」
ナポは困惑した。
笑われている。
しかし敵意は感じない。攻撃でもないらしい。
地球人は難しい。
さらに歩くと、古びた赤い暖簾の店が見えてきた。
看板には、地球語でこう書かれていた。
定食屋あすか。
「ここです」
神保が暖簾をくぐる。
ナポも慎重に続いた。
店内は、外よりも温かかった。
木のテーブル。カウンター席。壁に貼られた手書きの献立。出汁の匂い。油の匂い。誰かが食器を置く音。
カウンターの向こうに、中年の女性がいた。短くまとめた髪に、きびきびした目つき。手にはおたまを持っている。
「いらっしゃい。あら神保くん、今日は夜も食べてくの?」
「いや、今日は人探しの案内で。明日香さん、ロポちゃん来てます?」
女性――荒川明日香は、店の奥をちらりと見た。
「来てるよ。まったく、働かざる者食うべからずって言ってんのにねえ」
ナポは息を呑んだ。
いる。
ロポが。
店の奥から、のんびりした声が聞こえた。
「アポぉ、おかわり、まだあるー?」
ナポの身体が硬直した。
その声を、忘れるはずがなかった。
ロポだ。
けれど、記憶の中のロポとはまるで違う声だった。
厳しさがない。
張りつめた響きがない。
ふにゃりと柔らかく、少し甘えている。
明日香が呆れたように言った。
「あるけどね、ロポちゃん。あんた、さっき三杯食べたでしょ」
「今日はいっぱい浮いたから、おなかすいた」
「浮くだけで腹が減るのかい」
「減るー」
ナポは、ゆっくりと店の奥を見た。
座敷の端。
丸い座布団の上に、ロポがいた。
クラゲのような半透明の身体。淡く光る傘。ゆらゆら揺れる触手。
擬態はしていない。
本来の姿のままだ。
ロポは小さな茶碗を触手で抱え、幸せそうに白いご飯を食べていた。口がどこにあるのか地球人にはわからないはずなのに、商店街の人々は誰も気にしていない。
むしろ、近くにいた老人が笑顔で言った。
「ロポちゃん、漬物も食べるかい」
「食べるー」
「はいよ」
「ありがとー」
ロポはふわりと光った。
感謝の色。
ナポは立ち尽くした。
違う。
こんなのはロポではない。
ロポは、もっと背筋が伸びていた。いや、クラゲに背筋はないが、精神的に伸びていた。任務を忘れるなと言っていた。情に流されるなと言っていた。帰還予定日は厳守だと言っていた。
それなのに。
目の前のロポは、地球の定食屋で、ご飯のおかわりをねだっている。
しかも、ロポちゃんと呼ばれている。
神保が座敷に向かって声をかけた。
「ロポちゃん」
ロポがふよんと振り向いた。
「あ、ジポ」
「神保です」
「ジポ、今日も来たんだ」
「神保です。あと、今日はお客さん連れてきた」
ロポの淡い身体が、ナポの方を向いた。
ゆらゆらと揺れていた触手が、ぴたりと止まる。
ナポも動けなかった。
しばらく、二人は見つめ合った。
姿は違う。
けれど、そこにいるのは間違いなくロポだった。
先に声を出したのは、ロポだった。
「……ナポ?」
その声だけは、昔と同じだった。
ナポの胸の奥に、積み上げてきた不安と怒りと安堵が、一気に押し寄せた。
生きていた。
無事だった。
でも、何をしているのだ。
ナポは一歩踏み出した。
「ロポ」
声が震えた。
「迎えに来た」
ロポは茶碗を抱えたまま、ぱちぱちと瞬いたように光った。
「迎え?」
「そう。帰るよ。サドゥに」
店内の空気が、少し変わった。
神保が「え」と小さく声を出す。
明日香もおたまを持ったまま、ナポを見た。
ロポはしばらく黙っていた。
そして、困ったように身体をふにゃりと揺らした。
「今?」
「今じゃなくても、船を直したらすぐ」
「うーん」
「うーんじゃない。ロポ、帰還予定日はとっくに過ぎてる。連絡もなかった。みんな心配してる。私も心配した」
ロポは茶碗をそっと置いた。
かつてのロポなら、ここで即座に謝罪し、状況報告に入ったはずだった。任務の進捗、通信障害の理由、帰還不能になった経緯。すべてを正確に、簡潔に。
だがロポは、少しだけ触手を揺らして言った。
「ごめんね、ナポ」
柔らかい声だった。
その柔らかさが、ナポには怖かった。
「でも、ロポ、もう少しここにいたい」
「……は?」
「ここ、あったかいから」
ナポは言葉を失った。
あったかい。
それが、帰らなかった理由なのか。
規律を守り、任務を重んじ、誰よりも正しかったロポが。
地球の商店街で。
定食屋の座敷に座り。
ご飯を三杯食べて。
あったかいから、帰りたくないと言っている。
ナポの中で、何かが音を立てて崩れた。
「ロポ」
「うん」
「何してるの?」
「ごはん食べてる」
「見ればわかる!」
ナポの叫びに、店内の客たちが驚いてこちらを見た。
ロポは少しだけ縮こまった。
神保が慌てて間に入ろうとする。
「えっと、事情はわからないですけど、とりあえず落ち着いて」
「私は落ち着いています」
「落ち着いてる人はそんな顔しません」
「この顔は……」
ナポはそこまで言って、はっと口をつぐんだ。
この顔は地球人の擬態です。
そう続けかけた自分に気づき、内心で全身の触手を抱えた。危ない。非常に危ない。地球人の前で言っていい情報ではない。
神保が不思議そうに首をかしげる。
「この顔は?」
「……通常の顔です」
「通常の顔」
「はい。正常です」
「また正常って言った」
ロポが「あー」と小さく光った。
その光り方は、ナポにはわかった。ごまかすの、下手だね、という色だった。
数秒の沈黙のあと、座敷の奥から老人がのんきに言った。
「なんだい、ロポちゃんの知り合いかい?」
ロポがふわりと浮き上がった。
「うん。ナポ。ロポと同じ星の子」
「ロポ!」
ナポは思わず叫んだ。
言うな。
そう言いたかったが、もう遅い。
神保が目を丸くした。
「同じ星?」
明日香も、おたまを持ったまま眉を上げる。
「へえ。じゃあ、ロポちゃんの仲間ってことかい」
ロポは何でもないことのように、ゆらゆら揺れた。
「仲間。ナポはまじめな子」
「余計な説明を足さないで」
ナポは低い声で言った。
ロポは少しだけ縮こまる。
「ごめん」
だが店内の客たちは、驚いたというより、妙に納得したような顔をしていた。
「そうかいそうかい。ロポちゃんにも故郷があるもんねえ」
「遠いところから来たんだねえ」
「じゃあ、あんたもご飯食べるかい」
ナポは言葉を失った。
反応がおかしい。
同じ星、と言われたのだ。つまり、地球の者ではないと明かされたに等しい。それなのに、地球人たちは武器を構えない。叫ばない。捕獲用の網も出さない。
ただ、少し珍しい客が増えた、くらいの顔をしている。
ナポは、恐る恐る明日香を見た。
明日香はため息をつき、カウンターの向こうから言った。
「あんた、名前は?」
「……
「ナナホシミツキ? 日本人みたいな名前だね」
「気にしないでください」
「わかったよ、ミツキちゃん」
「はい」
「お腹すいてるんだろ。話は食べてからにしな。働かざる者食うべからず、とは言うけどね」
明日香は、ロポをちらりと見た。
「今日は特別だ」
ロポが嬉しそうに光った。
「アポ、やさしー」
「あんたは後で皿運びくらいしな」
「えー」
ナポは混乱したまま、出された定食の前に座らされた。
白いご飯。味噌汁。焼き魚。小鉢。漬物。
地球の食べ物。
未知の物質。
危険かもしれない。
けれど、湯気は温かく、匂いは不思議と悪くなかった。
向かいでは、ロポが相変わらずふわふわ浮いている。
その姿は、ナポの知っているロポと同じで、まったく違っていた。
ナポは箸を握った。
使い方は資料で見た。二本の棒で食べ物を挟む、地球人の高度な技術だ。
手が震える。
ロポがこちらを見て、のんびりと言った。
「ナポ、箸、逆」
「知ってる!」
知らなかった。
神保が隣で笑いをこらえている。
明日香が呆れながらも、水を置いてくれる。
ロポは楽しそうに揺れている。
ナポは思った。
地球は危険な惑星だ。
間違いない。
なぜなら、あのロポをこんなふうにしてしまったのだから。
絶対に、油断してはいけない。
そう決意しながら、ナポは焼き魚をひと口食べた。
次の瞬間、目を見開く。
「……おいしい」
ロポが、満足そうに光った。
「でしょ」
ナポは箸を握りしめた。
危険だ。
この惑星は、本当に危険だ。