「仮交際」が始まって間もない頃。ソフィアの指導のもと、エレノアは二人で街へ連れ立っていた。
少し人混みの激しい大通り。すれ違う人とぶつからないよう、ソフィアが自然な所作でエレノアの手を握り直した、その時だった。
「エレノア様、離れないでくださいね」
ふと、ソフィアの横顔がエレノアの視界に入る。
繋がれた手。自分を見上げるクールな瞳。そして「離れないで」という甘い言葉の響き。
初恋の真っ最中である世界最強の乙女の脳内は、それだけで一瞬にして許容量を超え、照れとパニックで完全に吹き飛んでしまった。
(あ、ソフィアちゃん、可愛い……っ!!)
ぎゅっ、と無意識に手に強い力が入る。
「……っ」
エレノアの大きな手がソフィアの小さな手を包み、砕いた。エレノアの手が完全に閉じられ、ソフィアの手首が完全に潰された。
骨が砕ける音、血管が弾ける音。筋肉が千切れる音。それらが広場に響き、ソフィアの顔が一瞬だけ苦痛に激しく歪んだ。
しかし、彼女は声一つ漏らさず、ただ静かに奥歯を噛み締め、呼吸を止めて痛みに耐えた。
周りから悲鳴が上がる。ボタボタと流れ出る赤い血が石畳を染め上げる。
「――っ!? やだ、ソフィアちゃん!!?」
エレノアが手を開けば、直視を避けたくなるほどに原型を留めていないソフィアの手
。
「ごめんなさい! ごめんなさいごめんなさい!!」
エレノアは半乱心でその場に膝をつき、壊れ物を扱うようにソフィアの手を両手で包み込むと、即座に回復魔法を行使した。
視界が涙でぐしゃぐしゃに歪む。
突如として通りに広がった衝撃音と大英雄の叫びに、周囲には瞬く間に人だかりができた。一部始終を目撃していた人々が、状況の異様さに皆一様に恐れ慄き、遠巻きに息をのんでいる。
そんな周囲の視線も目に入らないまま、まばゆい光が二人を包み込んだ。無詠唱で行使された神級の回復魔法の前に、砕けた手骨も引きちぎれかけた神経も、時間が巻き戻ったように一瞬で元通りに修復されていく。
魔法が効き、完全に原型を取り戻した手を見てホッとしたのもつかの間、自身のしでかしたことの重大さに顔面が蒼白になる。触ってはいけない、そう思って手をソフィアから離し、その場で深く頭を下げる。
「ごめんなさい……ごめんなさい、ソフィアちゃん……私、やっぱりダメだ……こんな、こんな恐ろしい力……大好きな人を傷つけるなんて……ほんとうにごめんね……っ」
涙がとめどなく溢れ出る。涙で視界が歪む。自分が泣く資格がないと理解していても、止めることができなかった。
世界を救った最強の調停者が、自分の至らなさにただひたすら打ちひしがれている。
ソフィアは完治した右手の指を軽く開閉し、痛みが完全に消えたのを確認すると、静かにため息をついた。
「エレノア様」
「はい……っ、ぐすっ……はい……」
「気にしないでください。……とは言っても、あなたは気に病むのでしょう」
ソフィアは一切の責める色を見せず、ポケットから畳まれた清潔なハンカチを取り出すと、うずくまるエレノアに優しく声をかける。
「顔を上げてください」
責める気のない声が余計に辛い。責めて、詰ってほしかった。罪悪感と不甲斐なさが胸を満たす。ソフィアを視界に入れることができない。
「所詮私は、ただの怪物だったんだ……。人並みに幸せになりたいなんて、思っちゃダメだったんだ……っ」
嗚咽混じりに告白する。自分自身が怪物だということを忘れていた。たまたま人の形をしただけの、ただの化物なのだ。
エレノアが自身の掌をきつく握りしめる。ぐっと爪が皮膚に食い込み、真紅の血がじわじわと滴る。
「エレノア様」
「………」
ソフィアは静かにその場にしゃがみ込むと、ポンと頭に手を置いて撫でた。
「顔を上げてください。私に酷いことをしたと思っているなら、目を見て言ってください」
エレノアは恐る恐る顔を上げる。そして視線を彷徨わせるエレノアの顔を両手で包み込んで持ち上げ、真っ直ぐに目を合わせた。
「痛かったです」
「はい……」
「ですが、覚悟していたことです」
「……っ」
「これから先、このようなことがあるかもしれません。なので、これから学んでいきましょう。……怖がってもいいので、触れようとすることを諦めないでください。怪物にしかなれない、なんて悲しいことを言わないでください。幸せを望んだっていいんです。孤独が嫌なのでしょう? 私をあなたの孤独に寄り添わせてください」
「うわぁぁぁぁあん……ッ!! ごめんなさい、ごめんなさい!!」
胸の奥底を揺さぶられたエレノアは、先ほど以上に激しく号泣した。ソフィアは何も言わず、差し出したハンカチで溢れ出る涙をそばから丁寧に拭っていく。
一通り涙を拭うと、ソフィアはハンカチを引き、治ったばかりの自身の右手を、もう一度自らエレノアの手に重ねた。
「手、痛いでしょう?」
エレノアの掌は、自傷の強さに赤く染まっていた。
ソフィアは、その強く閉じられた手の力を解きほぐすように、優しく包み込んで撫でていく。エレノアの肩の硬直が解け、ゆっくりと筋肉が弛緩していった。
ソフィアはすっと立ち上がり、上から手を差し出す。
「立ちましょう。握ってください。今度は優しく」
「ソフィアちゃん……っ」
おそるおそる、羽毛に触れるような繊細な力加減で握り返すエレノア。
ソフィアはその手をキュッとほんの少しだけ強く握り返して引っ張り上げると、いつもの鉄面皮の中に、ごく微かな微笑みを浮かべたのだった。
「お騒がせしてしまい、申し訳ありません。行きましょう、エレノア様」
「うん……っ」
大通りに広がっていた野次馬の驚愕と恐れ混じりの視線を振り払うように、ソフィアはエレノアの手を引いて走り出した。すれ違う風が二人の髪を揺らし、やがて辿り着いたのは、街の喧騒から遠く離れた、木々に囲まれた静かな人気のない公園だった。
息を整えながら、ソフィアがくるりと振り返る。
「エレノア様。手を見せてください」
「え、あ……」
言われるがまま差し出された手を、ソフィアは迷わず取り上げた。
先ほど罪悪感から強く握りしめられたエレノアの掌には、深く爪が食い込んだ傷痕が残り、そこから朱い血がポタポタと滴っていた。
「……痛いでしょうに」
「こんなの、ソフィアちゃんに比べたら全然……」
「痛みを他人と比べる必要なんてないですよ」
ソフィアは冷ややかに、けれど決して突き放すわけではない口調でそう呟くと、エレノアの手を両手で優しく包み込んだ。
「『ヒール』」
その手から微かな温かい光が放たれた。しかし、エレノアの深く裂けた掌の傷はほんの少し血が止まった程度で、一度ではとても塞ぎ切れない。
「……やはり、私にはこれくらいが限界ですか。エレノア様はすごいですね」
無詠唱で世界を書き換えるような神級魔法を一瞬で扱うエレノアと、初歩的な生活魔法を小さな声で詠唱して、ようやく傷口を少し塞げる程度のソフィア。
その圧倒的な差に苦笑することもなく、ソフィアは静かに自らの至らなさを口にした。
エレノアは、自分を必死に治そうとしてくれる少女の真面目な横顔を見つめながら、キュッと胸が締め付けられるのを感じていた。
「ソフィアちゃん……」
「もう一回、行いますね。……少し、染みるかもしれませんよ」
拙くとも、自分のために一生懸命に魔法を紡いでくれる小さな手。
エレノアは静かに目を潤ませながら、その拙くも温かい光を、愛おしそうに享受する。
4回目の回復魔法を経て、エレノアの手は元通りになった。ソフィアは、まじまじと治っているか見ていると、頭上から声がかかる。
「ソフィアちゃん。もし、私のことが嫌になったら言ってね。もう会わないから」
少し震えている声にソフィアが顔を上げれば、エレノアが悲しそうに笑っていた。きっと、ここで突き放してしまったら、彼女はまたかつてのような放浪生活に戻り、果てしない時間をたった一人で孤独に過ごすのだろう。
手を離して、ソフィアが立ち上がる。
一歩二歩。エレノアの目に涙の膜が張る。
三歩目で、ソフィアが振り返った。
「エレノア様、立ってください」
「え」
「早く」
「はい!」
弾かれるようにエレノアが立ち上がる。
ソフィアはその場で静かに両腕を広げた。
「私を抱きしめてください」
「え」
「あなたは今日の失敗を払拭しないと、今後自分から私に触れることを避けるでしょう。なので、ここで今日の失敗を克服してください」
「でも……っ」
「早くしてください」
じっと、ソフィアのまっすぐな瞳がエレノアを見つめる。少しの揺らぎもなく、決して目を逸らさない。
「し、失礼します……っ」
おそるおそる、エレノアはソフィアに抱きついた。まるで世界で一番壊れやすい宝物に触れるように、恐る恐る、そっと。ソフィアもまた、エレノアの背中に自然と手を回す。
「もっと強くしてください」
「うん……!」
意を決して、ほんの少しだけ腕に力を込める。ソフィアはトントンと、幼子をあやすような優しいリズムで彼女の背中を叩いた。
「よくできました」
「あったかい……あったかいなぁ……っ」
「生きてますから」
かつては両親でさえ、規格外の力を持って生まれた自分に触れることを躊躇っていた。誰かにこうして深く抱き締められた記憶など、500年の生涯で一度としてない。
それなのに、目の前にいる華奢な人族の少女は、自分の全力の抱擁を当然のように受け入れてくれている。
世界を容易く滅ぼせるほどの力を持つ腕の中に身を預けながら、怖がる素振りも、体を震わせる素振りすら見せずに。
「ごめん、ごめんね……っ」
痛い思いをさせてごめんなさい。怖い思いをさせてごめんなさい。あなたの優しさに甘えてしまってごめんなさい。最強なんて言われているのに、こんなに頼りなくてごめんなさい。
言葉にならない溢れる思いが、胸の中でぐるぐると巡る。
ソフィアはそのすべてを分かっていると言わんばかりの、穏やかで静かな声でトントンと背中を叩き続けた。
「大丈夫、許しますよ。あなたのパートナーなんですから」
その言葉に溢れた涙が止めどなく零れ落ち、ソフィアの肩口をぐっしょりと濡らしていく。声を押し殺しながら、幼子のように泣き続けた。