東方喪帰録 ~ A Place to Return 作:桜時雨弐式
長い…夢を見ていたような気がする。
苦しいような…悲しいような夢。
何のために戦ってきたのか、何のために…生き残りたかったのか。
「どうしても行ってしまうの?」
足が地に付いていないような意識の中、聞き慣れた懐かしい女性の声がする…。
『あぁ…そうか…』
私は彼女の為に…戦っていたんだ。
どうして忘れていたのだろう。
そう認識すると共にあの時の記憶が鮮明に蘇る。
喧騒に包まれる駅の改札口の前、別れを惜しむ人達の中に私達もいた。
「うん…君やみんなを守るために誰かは戦わないといけないんだ。だから…行くよ」
「まだ私達結婚式すら上げてないのに…」
結婚してすぐ戦争が始まってしまったから、当然結婚式も新婚旅行に行く暇もなかった。
彼女に対して申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「ごめん…戦争があるってわかってたら結婚なんてしなかった…」
「そんなこと言わないで、あたしは…後悔してない」
涙を手で拭いながら嗚咽混じりに彼女は答える。
「そうよね…あなたは優しいもの…こうなるって前からわかってた」
「…」
不器用な私は何も言葉を返すことは出来ず、無言で抱きしめることしかできなかった。
「多分、生きて帰ってくることは難しいと思う。だから…もし帰れなかったら、私のことは忘れて幸せになってほしい」
彼女の幸せを願って、決別の言葉を投げる。
話したいことは尽きないが、もう電車が出る時間だ。
名残惜しい気持ちを抱えつつ彼女を離し、後ろ髪が引かれるような感覚に抗いながら電車の乗り口へ向かう。
「待ってるから!」
後ろから力強い彼女の声が聞こえる。
それを聞いて無反応ではいられなかった。
振り返り、彼女をしっかり見る。
「あたしはあなたの事を死んでも忘れない!生きて帰ってきて!ずっと待ってるから!」
彼女は涙ぐんだ目でしっかりと私を見た。
強い覚悟と信念を持った彼女の表情に私は姿勢を正し、敬礼する。
「ありがとう。必ず、生きて帰る努力をする…」
これが、数日…数十時間しか過ごせなかった最愛の妻との別れ。
そうだ、私には約束がある。
必ず生きて彼女の下に帰らなければならない。
どんなに苦しい状況になっても。
どんなに絶望的な状況になろうとも。
彼女は笑顔になって頷いて手を振る。
それを最後に、だんだんと記憶の中の映像が霞んでいき、真っ暗になっていった―――。
気が付けば意識が身体に戻ってきていた。
まるで風邪でも引いているかのような感覚だった。
重い瞼をゆっくり開ける。
視界に映ったのは木製の天井。
薄く開けた目だけを動かして周囲を見る。
どうやら和室の部屋の様だった。
「あら、やっとお目覚めかしら」
だれかの声が響く。
自然と視線が声の主へ向いた。
ちゃぶ台の横に座りながらお茶を飲む女性と目が合う。
『たしか…あの時の…』
ぼんやりとした頭で微かな記憶の片隅にある彼女を思い出す。
『遭難して…謎の少女に襲われて、逃げた先にあった神社にいた…』
少しづつ記憶が蘇ってくる。
彼女が駆け寄ってきたところまで思い出したところで、意識が急に覚醒した。
「ここは! いっつ…」
置かれた状況を理解しようと体を起こそうとしたが、その動作は体中に走る痛みと頭痛で中断される。
思わず手を頭に当てた。
「まだ安静にしてた方が良いわよ。ひどく衰弱してて、怪我もしてたから」
彼女に制されて再び横になる。
身体を見ると包帯を巻かれたりして、手当されていた。
目の前にいる少女に処置してもらえたのだろうか?
「…ここはどこですか?」
「ここ? ここは博麗神社よ」
この部屋の家主であろう彼女は少し怠そうに答える。
やはりあの時見たのは神社で間違いなく、彼女はここの巫女のようだ。
しかし、博麗神社というのは聞いたことが無い。
戦闘の中で何度も地図を目にする機会はあったが、この名前を耳にするのは初めてだ。
「あなたの名前は?」
軽く放心状態の自分に向かって、静寂を破るように聞いてくる。
「小鳥遊伊吹…」
「そう。私は博麗霊夢よ。よろしく」
霊夢と名乗る少女は湯呑みを置くと、こちらに向き直した。
容姿は…20歳前後といったところだろう。
「助けていただいてありがとうございます」
「どういたしまして…まあ、これも仕事のようなものだもの。気にする必要はないわ」
特に気にする素振りは見せない。
恩着せがましくするつもりはないらしい。…そんな感じだ。
ふと、開かれている障子から外を見た。
外からは蝉の鳴き声や鳥の囀りが聞こえてくる。
とても戦争があるとは思えないほど穏やかな光景だった。
だが、そんなはずはない。確実に戦争は続いている。
仲間たちは今も戦っているはずだ。
そう思うと、小隊のみんなのところへ帰らないといけないという使命感や焦りが込み上げてくるのを抑えられなかった。
「申し訳ないんだけど、博麗神社というのは聞いたことがありません…。早く部隊のところへ帰らないといけないから、近くの大きな街だけでも教えてほしいんですが…」
「まあ気持ちは分かるけど落ち着きなさい」
「あなたも分かっているでしょう?今の祖国の惨状を…。急いで部隊に復帰しないと!」
「はぁ…一から説明してあげるからちょっと待ちなさいな」
より一層怠そうに、やる気の無さそうに溜息をついた。
私にはなぜそこまで彼女が冷静なのか不思議でならない。
戦時下にも関わらず、この殺伐としない雰囲気も謎だらけだ。
森の中で目覚めてから不可解なことが多すぎる。
「まずはね、ここはあなたの知っている世界じゃないの」
「知っている世界…?」
「そう、ここは幻想郷…。あなたが元々いた世界じゃない」
絶句する。彼女の言っていることが全く理解できない。
元々いた世界じゃない?幻想郷?
別の世界ということか?
そんなことあり得るはずがない。
別世界などおとぎ話や創作の中だけの話のはずだ。
「訳が分からない…そんなことを信じろと…?」
「だから、あなたの言う。部隊だとか祖国だとかいうのはこの世界にはないの」
「そんなはずはない! そんな非科学的なこと! っう!」
「はぁ…だから安静にしてなさいって言ってるでしょ」
激昂して思わず身体を持ちあげてしまい、痛みが走る。
それを見かねて、彼女は手で再び寝転がるように促した。
科学を学び、オカルトの類を単なるエンタメとしか見てこなかった私にとって、彼女の説明は到底受け入れられるものではなかった。
少女はそのまま枕元に腰を下ろし、話を続ける。
「あなた、いつからこの世界にいるのよ。思い当たる節とかないの? 話してみなさい」
「思い当たる節…」
そう言われて頭を過るのは、目覚めたあの森の事だ。
あれからの事が鮮明に蘇る。
「砲弾の至近弾を浴びて…気付けば森の中にいた」
「砲弾…?」
「えっと…遠くから飛んできて爆発する武器みたいな物…かな」
「ふーん…そう」
現代の軍事についてはよくわかっていないらしい。
好きでなければ知ることもあまりないだろうし、ミリタリーに詳しくないのはごく普通なのかもしれない。
かみ砕いて説明してみたものの、理解はしていないみたいだが特に追及してくることもしないようであった。
「それで、どれぐらい森にいたの?」
「多分5日か6日ぐらいは…」
「ちょっと待って、そんなに森を彷徨ってよく無事だったわね! 妖怪とかに襲われなかったの!?」
「妖怪?」
また聞き慣れない言葉を彼女は口にする。
妖怪という存在も現世には存在しない。
昔作られた創作上の存在にすぎないはずだ。
「あんたの世界にはいないんだろうけど、こっちは違うのよ。それで心当たりはない?」
「心当たり…」
襲われたことなら一つだけ記憶にある。
夜に会ったあの子供の事だ。
今でも鮮明に思い出すことができる。
あの狂気に満ちた笑顔は尋常な物ではなかった。
「一つだけ…」
「どんなやつ?」
「確か、金髪で子供っぽい子…」
「…黒っぽい服着てて、頭にリボン付けてなかった?」
「そんな感じだったと思います…」
「ならルーミアかしら…あの子に襲われてよく生きてるわね」
ルーミア…彼女とは知り合いなのだろうか。
なら、霊夢さんには非常に悪いことをしたかもしれない。
極限状態で恐怖に包まれていたとはいえ、子供殺してしまったかもしれない事には変わりない。
取り返しのつかないことをしてしまったと冷や汗が頬を伝うのが分かる。
「申し訳ない! もしかしたらあの子を殺してしまったかもしれない。知り合いだったのならどうお詫びしたらよいか…」
「は? あの子を倒したの?」
「えっと…多分そうです…」
「低級妖怪とはいえ、普通の人間じゃ勝てないわよ! あなた何か能力でもあるの?」
「能力…? よく分かりませんが多分ない…と思います」
"能力"という言葉は知っているが、彼女の言う"能力"が何を指しているのかは分からなかった。
それよりも知人を殺されたので心底怒られると思っていたが、彼女はルーミアの安否より彼女を倒したことに驚いているようだった。
「あの…怒らないんですか?」
「え? あぁ、妖怪は身体が丈夫だから簡単には死なないわよ。しばらくしたらまた元気になってるんじゃない」
「でも銃で撃ったんですよ! 普通の子供なら死んでしまう!」
「だから普通の子供じゃないって言ってるでしょ。それより銃って何?」
そういえば、私の武器装具はどこに行ったのだろう?
あれだけは常に離さず持っていなければならないのに…。
「えっと、ここに来るときに持ってた長い槍のような物です。あれはどこにありますか!?」
「…多分あれね。ちょっと待ってなさい」
彼女は立ち上がると襖をあけて別の部屋に向かった。
しばらくして、戻ってきた彼女は例の物を持ってくる。
「これかしら?」
「!!」
ぶっきらぼうに差し出されたその銃を見た私は、無意識に奪い取るように彼女から受け取った。
見たところ外見上に問題はない。
彼女は少し驚いたように口を開く。
「よほど大事な物なのね」
「はい、長い間こいつと共に修羅を潜ってきた…。これは私の身を守る唯一の…武器で相棒なんです」
「ふーん…これでルーミアをね。まあいいわ」
銃を渡した彼女はまた元の位置に座って、話を続ける。
そこで、私は先ほど気になったことを尋ねてみた。
「それで…その能力ってなんですか?」
「あー…それは後で説明する。めんどくさいし」
「めんどくさいって…」
「長くなるのよ。で、他には? 襲われたのはルーミアだけ?」
「…彼女だけです」
「そう…」
少し怪訝そうな顔をしていた。
これまでの会話から、彼女にとっての森はよほど危険な場所らしい。
ルーミアに襲われたときは危険を感じたが、遭難を除けば危機的な状況はその一回のみだ。
武器を躊躇なく使い、かつ油断していなければ対処は出来そうなものだが…。
「ルーミアを倒せたのは百歩譲って実力だとしても、5日以上森にいて襲われたのが一回だけなんて…。あなた余程幸運なのね」
2年間戦場で生き残ってきたことを考えると幸運な方であるのは間違いないだろう。
道半ばで倒れてきた仲間を思えば、口が裂けても不運だとか不幸だとかは言えない。
「まあ…そうかもしれないですね」
力なくそう答える。
それはそうと、まだ素直には喜べない。
死ななかったことは幸運かもしれないが、生きるということはつらいことも増えるということだ。
この遭難も然り、戦場に身を置けば戦友の死も目の当たりにするし、常に死と隣り合わせである。
そしてこんな状況…果たして部隊に帰れるのかさえ分からない。
「霊夢さん…」
私の問いかけに彼女は無言で応じる。
目線が交差した。
「霊夢さんの言う。幻想郷だとか妖怪、能力が何なのか分かりませんし、まだ完全に信じることもできません」
彼女は黙って聞き続ける。
「もし、あなたの言うことがすべて真実で、ここが別世界だったとしても私は帰りたいんです…あの世界には私を待っている人がいるから」
「…"彼女"を頼れば帰ることはできるけど、まずは体力を回復することね」
「そんな悠長にしていられる時間は…!」
「あんたの居た世界がどんなものか分からないけど、ここに迷い込むからにはあまり良い状況じゃないのは分かるわ」
これまでの会話から、凡そこちらの境遇については察しているようだ。
焦る気持ちを宥めるように彼女は言う。
「それに…いずれ分かることだから言ってしまおうかしら」
気だるげな表情の中に、少し哀れみの声色が混じったことを感じ取る。
「はぁ」と一息ついて「覚悟して聞きなさい」と彼女は言った。
霊夢曰く、外の人間が幻想郷に入ることは基本出来ないそうだ。
例外は存在するが、可能性は限りなく低いらしい。
その中で、私の置かれた状況から可能性のあるものが一つあるという。
「あなたという存在がこの世界側へ寄った…といえばいいかしら」
「どういうことです…?」
「つまり、あなたの元居た世界には……もうあなたを知る存在はいないということよ。生死に関わらずね」
頭を殴られたような衝撃が広がる。
震えが止まらない。
信じられない、信じたくないという感情が止めどなく溢れてくる。
「嘘だ!」
「……」
「あなたは嘘をついている!」
彼女の裾を掴んで問いただす。
霊夢は驚いたように目を見開いているが、取り乱したりはせず至って冷静なようだった。
取り乱しているのは私だけ。
「それに、私の妻だって…死ぬはずはないんだ! ずっと待っていてくれると言ってくれた彼女が私を忘れるなんてありえない!」
あの時、忘れて幸せになって欲しいと言ったのに虫のいい話ではあると思う。
だが、心の中では妻への信頼と、これまで生きる糧にしてきた彼女の言葉があるだけに、受け入れがたい説明だった。
「あの時、最前線には部隊の仲間がいた! 後方にいた中隊本部のみんなだって生きているはずだ!」
砲弾で気絶する前の状況を思い出し、場違いな怒りを彼女に向ける。
部隊の仲間も妻も生きていると…そう信じたかった。
「信じられないでしょうけどね。でも、受け入れようと受け入れまいと、現実は変わらないわ」
彼女は袖を掴んだ私の手を振り払い、立ち上がる。
「今日は休みなさい」
そういって彼女は部屋を後にした。
この空間には私だけが残る。
混乱からか、怒りからか、くやしさからか、顔を歪ませて涙を流す。
振り払われた震える手を握りしめ、その腕で涙を拭いた。
「どうしてなんだよ…!」
そう言葉を漏らすしか、今の私にはできなかった――――。
夕方、空を黄金色に染め始めた頃。
廊下に一つの足音が響く。
部屋の目の前で止まると、襖を開けて霊夢が入ってきた。
手にはお膳が握られている。
「落ち着いたかしら」
「よく…分かりません」
先ほどまでの感情の昂りはない。
だが、気持ちの良い状態でもないし、泣きつかれてしまったという方が正しいかもしれない。
中途半端に時間が空いたことで心のざわつきは増したようにも思える。
「そう」
一言短く言葉を添えると、手に持っていたお膳を横に置かれる。
上には梅干しが乗ったお粥、匙が添えられていた。
作りたてなのだろう。
何日もまともな食事にありつけていなかったからか、湯気を立てながら輝くそれはとてもおいしそうに見えた。
「これは…?」
「食べなさい」
「し、しかし…そこまでしてもらうのは…」
正直、目の前に差し出されたお粥に飛び付きたい気持ちだったが、理性とプライドが許さなかった。
大きな恩が彼女にありながら、まだ完全には信用しきれていないということもあるのだろう。
「今更じゃない。恩を感じてるならいずれ、あなたなりの形で返してくれればいいわ」
「どうしてそこまでしてくれるんですか…?」
「言ったじゃない、これも仕事のようなものだからよ」
この傷の手当といい、食事の準備といい。
一見、そっけなく見えたり冷めたように見える彼女だが、実はかなり面倒見が良いのではないだろうか。
自分が気絶して昏睡している間も、文句は言いつつ看病してくれていたに違いない。
「…ではありがたく、いただきます」
匙とお粥が入ったお椀を手に取り、口に運ぶ。
「はぁ…」
一口食べると、あまりのおいしさに溜息が漏れる。
こんなにお粥がおいしいと思ったことは無いだろう。
梅干しの塩気が良い塩梅で身体に染み渡り、全身を震わせる。
五臓六腑に染み渡るとはまさにこのことで、空っぽだった身体に熱が戻っていくようでもあった。
食べ進めるごとにざわついた心が絆され、落ち着いていくのが分かる。
普段なら質素なものだが、温かい料理というのが如何に精神的に豊かにするのかというのを実感させられる。
「ごちそうさまでした…」
「ん、おそまつさま」
気付けばあっという間に食べてしまっていた。
彼女がいることも忘れてがっついてしまったが、みっともなく見えはしなかっただろうかと少し恥ずかしくなる。
久しぶりにありつけたまともな食事だったが、ふと自分は何日眠っていたのだろうかと気になって彼女に聞いてみた。
「霊夢さん、私は何日眠っていたんですか?」
「丸々3日ってところかしら」
「そんなに…」
彼女の言っていることが本当なら森で目覚めた時からほぼ10日近く経っていることになる。
10日もあればかなり戦線の状況は変化しているはずだ。
気付けば、どう部隊へ復帰するかと方法を考えていた。
「まだ、信用してもらえていないみたいね」
「そ、そういう訳では…」
「何となく表情でわかるわよ」
しまった、顔に出てしまっていたかと後悔する。
急いで弁明の言葉を口にした。
「霊夢さんを信用していないというか、この空間そのものが信じられないんです」
「空間?」
「霊夢さんには返しきれないほどの恩があります。でも、この目で見るまでは納得できない」
納得できないというより、納得したくないという方が正しい。
これまでの経験を踏まえると、彼女の言っていることは辻褄が合うのかもしれない。
しかし、これを認めてしまうと自分の中の何かが完全に壊れてしまいそうで…。
頭が、心が完全にこれを拒絶している。
「そう」
彼女は何かを察した様子だが、特に何かを口にすることはなかった。
食べ終わった食器を片付けるため、お膳を持って立ち上がる。
襖の前まで行くと。
「もう日が暮れるわ、今日は寝てしまいなさい」
「はい…」
「おやすみ」
「おやすみなさい…」
部屋を出ると襖を閉めて足音が遠ざかっていく。
食事を取ったせいか、今日は色々なことがあったせいか。
それほど時間も掛からずに眠気が襲ってきた。
とりあえず、この眠気に逆らう理由はない。
ゆっくりその眠気に意識を預け、視界が暗くなっていくのであった。
博麗神社で目覚めて翌日の朝、私は縁側にいた。
先日の様に夢を見ることはなく、深く眠りについていたようである。
休息を取れてさぞ気分が良いかと思いきや、実のところその逆であった。
昨日、霊夢から説明されたことが頭を何度も駆け巡り、心臓が締め付けられるようで落ち着かなかった。
人間というものは不意に時間を与えられ、不安が押し寄せると悪い方向に思考が寄りがちだ。
部隊へ戻る希望は捨てきれない。
だが、彼女の言ったことが本当なら、私はこれまで戦ってきた理由も、生きる理由も失ったことになる…。
この不安が私の精神を蝕んでいた。
考え込み、気分が沈むと無意識に鼓動が速くなり、呼吸も早くなる。
「…はぁ」
頭を抱え、このままではだめだと溜息と深呼吸を繰り返し、気持ちを落ち着かせる。
彼女が必要以上に関わろうとして来ないのは、今は非常にありがたかった。
自分が落ち着き考えをまとめる時間を与えてくれている…そのように感じたからだ。
気付けば太陽は高く昇り、真夏のような日差しが縁側を照り付けていた。
現実を突きつけるような、その憎い陽光を私はぼんやり見上げる。
「え?」
刹那、太陽を何か大きなものが横切った。
一瞬の出来事で飛び去って行った方角までは分からない。
鳥かと最初は考えたものの、鳥にしては形が歪で大きすぎる気がする。
眩しさに目を細め、手で太陽を隠していたが、指の隙間から確かにそれを見た。
その影はまるで人間のような…。
「よう、霊夢。遊びに来たぜ」
「遊びに、というよりは他の目的があるんじゃないの?」
「あはは。さすが霊夢、よくわかってるじゃないか」
何やら、神社の表…参道の方が騒がしい。
客人らしく、彼女の知り合いなのか、ぶっきらぼうながらも気さくに話している。
もし今来たのなら、先ほどの影を見たかもしれない。
それに、ここにきてから霊夢以外で見る人間は初めてだ。
現状を知る手掛かりかもしれない――そう思い、声のする方へ足を向けた。
縁側から賽銭箱のある方へ向かい、目にしたものは信じられないものだった。
「あ…」
霊夢…彼女と話しているその人物は箒にまたがって浮いているではないか。
一見、童話で出てきそうな魔女らしき恰好をしている。
絶句して開いた口が塞がらない。
こればかりは自分の目を疑うよりなかった。
「霊夢さっ…え、なんで…?」
「お、噂をすればだなー」
若干男勝りな口調の少女は箒を降りてこちらに向かってくる。
だが、私はお構いなしに霊夢へこの信じられない光景を問いただす。
「な、なんであの人は浮いて…るんですか」
「は? 霊夢、まだ説明してないのか?」
呆れたように魔女らしき少女は言う。
その後ろで霊夢は腕を組んで少し困ったような顔をしていた。
「こうなるからまだ会わせたくなかったのよ」
私はあまりの衝撃に体中が震えている。
力が抜けるのをかろうじて堪えているかのような感覚だ。
何とか立てているのは捕まっている柱のお陰だろう。
「一気に説明しても分からないでしょ、だから能力については話してなかったのに」
「あー、そうだったのか…それは悪いことしたぜ」
一転して、バツの悪そうな顔をした。
しかし、今は彼女の事はどうでもよかった。
また聞こえてきた『能力』という単語。
そちらの方が気になって仕方がない。
能力と浮いていたことに何か関係があるのか。
あったとして、目の前にいる非現実的な少女はどういった存在なのか。
ここに来てからというもの驚かされてばかりで頭が追いつけそうにない…。
「もうこの際、話しちまったらどうだ? 理解できるかはさておき」
「はぁ…そうね」
霊夢は小鹿の様に震える私の目の前まで来て説明を始める。
脈打つ心臓が大きくなるのを感じつつ、彼女の言葉を待った。
「能力って言うのはね―――」
彼女曰く、この幻想郷にいる一部の人間や妖怪などは何かしら能力を持っているのが多いらしい。
物理的なものだったり、意識や精神に作用するものだったり、五感に作用するものだったり…。
その能力は多種多様で似たようなものはあれど、一つとして同じものは無い。
それが幻想郷を特徴づけるものの一つとのことだった。
「ちなみに私は魔法を使える程度の能力だぜ。まあ、見た目で分かるかもしれないけどな」
と魔女の恰好をした少女は笑いながら言う。
そこで初めてしっかりと彼女を見た。
金髪で黄色の瞳を持ち、黒を基調としたウィッチハットと洋服を着ている。
改めて見ても確かに魔女の服らしかった。
ハロウィンなどの仮装として着られていてもおかしくは無いだろう。
「ちなみに、私は空を飛ぶ程度の能力よ」
「ちょっと待ってください。霊夢さんも普通の人間じゃなかったんですか?」
「普通の人間ってあんたね…」
信じられない物を見るような目で霊夢を見つめた。
傍から見れば、それは化け物を見るような目だったかもしれない。
これまでの事で信用しかけていた人が実は人間ではなかったかと思うと恐怖が込み上げてくる。
「見せてやったらどうだ? 言葉で説明するよりかは早いだろ」
いやだ、見せないでくれ…。
「はぁ…仕方ないわね」
頼むから…裏切らないで…。
「はい」
彼女はあたかも普通のことであるかのように宙に浮いた。
彼女たちにとって、これはいつもの事なのだろう。
さも当然かのように驚きもせず、感嘆したりもしない。
だが、私にとっては普通ではない。
私の知っている世界は何の機械もなく飛べる人間など存在していないのだから。
「ぁ…ぁ…」
目の前に突き付けられた光景が紛れもない真実だと嫌でも理解せざるを得なかった。
彼女の言っていたことが嘘偽りない事実であると…。
これまで経験してきたことが…目の前で今起こっていることが何よりの証拠だった。
ドサッ
プツリと緊張の糸が切れたかのように鈍い音を立てながらその場に座り込む。
「おい! 大丈夫か?」
魔女が心配そうに駆け寄ってくる。
本来なら何か言葉を返すべきなのだろうが、何も頭に浮かんでこない。
「こんなの…もう、認めるしかないじゃないか…」
そう言って、項垂れるように視線を落とした―――。