俺の名は「榎本海賀」。
この世はどれだけ努力としようとも「最初から持っている奴」には勝てない理不尽さで出来ていると多くの者は言う。
リビングのローテーブルに並べられた2枚の賞状。
片方は、俺が寝る間も惜しんで絵の具まみれになりながらも描き上げた、地域安全ポスターコンクールの優秀賞。そしてもう片方は、姉貴が要領よく塾のテストで叩き出した、県内トップ進学校の特待生認定賞。親父とお袋の視線は最初から一つしか見ていなかった。
「流石、斗亜ねぇ! お父さんもお母さんもあなたのことが誇らしいわ!」
(昔からそうだった。俺がどれだけ時間をかけてキャンバスに向き合っても、家族の話題の中心にいたのは要領の良い姉貴だけ……。俺の絵なんて誰も見ちゃいない。結局、世間なんてそんなもんだ)
自室の隅で、一人ぽつんと乾きかけた絵の具セットを片付けていた。
俺は早くも自分が何のために生きているのかが分からなくなっていた。
孤独感に苛まれている俺の頭に温かい手のひらがぽんと置かれたのは、その日の夜だった。
「なーに暗い顔してジジ臭いこと考えてんのよ、海賀。あいつらの目なんて気にしなさんな」
「……姉貴。だってよ、俺の絵なんか__」
「あいつらは見る目がないの。私はあんたの絵、世界で一番好きだよ? ほら、この夕焼けのグラデーションとかさ天才じゃん。あんた、嘘つかないのが唯一の取り柄でしょ? 私も嘘は言わない。あんたの絵には人の心を動かす力がある。だから、描き続けなさい」
誰も見てくれなかった俺の絵を世界で一人だけ、本気で肯定してくれた姉貴「榎本斗亜」。俺はそんな彼女の言葉だけを胸に、筆を握り続けてきた。
____そして、季節は巡り。
桜の絨毯が敷き詰められた通学路を、俺は私立彩ヶ原高校の真新しい制服に身を包んで歩いていた。
俺の目には輝きが宿っていた。これで中学までの陰気な自分とはおさらばだ。高校からはもっと堂々と、自分の絵を磨いていこう。
そんな決意を胸に歩いていると、隣りを歩いていた姉貴がいつも通りのサバサバとした足取りのまま、さり気なく俺の心に爆弾を落とした。
「あ、そうだ海賀。あんたの華麗なる高校デビューに水を差すようでアレなんだけどさ」
「?」
「……私、付き合ってる彼氏と、今年の6月に結婚することになったから」
「ふーん……」
「……は? けっこ……ええええっ!?!? 姉貴、今何て言った!?」
突如として告げられた、姉貴の結婚話。
衝撃の告白に思わず俺は聞き返してしまった。
「ちょ、声がデカい。まあ、そういう訳だから。式は身内だけで小さくやるつもりだけど……あんたには、私の式場に飾る最高のウェディングボード、描いてほしいわけ。だから、美術部に入りなさい。最高の環境で最高の1枚を仕上げてよ。お姉ちゃん、期待してるからね?」
姉貴の声は間違いなく期待に満ち溢れていた。
真っ先に大学に向かう彼女の背中を見えなくなるまで見送った。
(それが俺の動機だった。嘘の嫌いな姉貴が、人生最大の晴れ舞台をこの俺に託してくれたんだ。2ヶ月というタイムリミットはある。だが、そこに断る理由などどこにもなかった)
放課後。俺は胸を高鳴らせながら、特別棟の3階にある美術部質の前に立っていた。
きっと中には、純粋に芸術を愛し、互いの感性を高め合う仲間達が待っているはずだ。
そう信じて、「失礼します!」と勢いよく引き戸を開けた。
__だが、そんな考えはすぐに塗り替えられた。
一歩足を踏み入れた瞬間、肌が感じ取ったのは切磋琢磨など生温い、吐き気を催すほどの歪んだ「カースト」制度だった。
「あっはははは! 藤尾くんの絵は相変わらず『お利口さん』だねぇ! こんなの主戸くんの崇高なセンスに比べたら、こんなのただの模写、ゴミ同然だよゴミ!」
「は……はい、そうですよね……僕の絵なんて、主戸先輩に比べたらまだまだですし……」
部屋の奥で、キャンバスを前に萎縮している気弱そうな男。名は藤尾涼。俺にとっては先輩にあたる人物だ。そして、そんな彼の絵を下品な笑い声をあげながら指さしている男。そいつの名は古志銀蔵。他人の努力を小馬鹿にする言動に、俺の虫唾が走りかける。
だが、その歪みの中心は部室の奥にいた。
主戸武生。息を呑むほど容姿端麗で非の打ち所がない男、そんな彼が怯える一人の女子生徒・姫乃亜紀の肩にしなやかに手を置き、耳元で優しくも有無を言わせぬ圧で囁いていた。
「いいんだよ姫乃さん。君のその繊細な感性は、もっと僕の近くで磨かれるべきだ。あそこにいる彼__藤尾くんといても、君の才能は腐るだけだからね……」
「……はい……」
姫乃は怯えながらも、主戸には逆らわずにそのまま俯く。
(呆気に取られた。一目で分かった。ここは芸術を育む場所なんかじゃない。歪んだ独裁者と、その腰巾着と怯える奴隷で成り立つ……胸がムカムカするような『魔境』だ)
そんな異常な空間の隅、ソファでカップ麺をすすりながら、スマホの画面から目を離そうともしない大人が一人。阿鼻叫喚の極みでしかない部室内の様子を完全スルーしていたのが、顧問である阿戸美雄だった。
「おっ、新入部員? 歓迎するよ〜。あ、この美術部のルールはね、『みんな仲良く、揉め事は自分たちで解決する』。それだけだから。その他細かいことは優秀な部長である主戸くんに聞いてね〜」
(この教師、完全に駄目だ。事なかれ主義の極み。しかもこんなんで仲良く出来る訳ねぇだろ……。もはやこの部活は、主戸という男が『ルール』っつーことか)
胸の中の義憤がふつふつと湧き上がっていくのを感じながら、俺が拳を握り始めたその時。
ドアのすぐ近く、窓際で一人、腕を組んで不機嫌そうにスケッチブックを睨みつけている、ガタイのいい男と目があった。名は出山修。彼は主戸達を一瞥した後、俺の制服をじっと見つめ、口を開く。
「おい、新入り。お前はここに何しに来た」
先にいるのにも関わらず、靴の色は俺と同じ青色だった。何があったかは俺の心に仕舞うことにした。
「……絵を描きに来たんだよ。描かなきゃいけない、大切な絵があるからな」
「なら、せいぜい周りに流されねぇことだな」
(姉貴のために、俺はここで6月までに絵を仕上げなくちゃならない。__正気かよ。どうやら俺は、とんでもない戦場に足を踏み入れちまったらしい。だが、嘘と曲がったことが大嫌いな俺の性分だ。上下関係で腐り果てた魔境で、ただ大人しく描いてられるかよ)
俺は一歩、強く美術室の床を踏みしめた。
これが後に全生徒を巻き込む「美術部戦争」の、幕開けとなった。
__イメージCAST__
榎本海賀-夏目響平
榎本斗亜-長谷川育美
出山修-畠中祐
主戸武生-平川大輔
古志銀蔵-奈良徹
藤尾涼-田丸篤志
姫乃亜紀-上田麗奈
阿戸美雄-佐藤せつじ