美術部に入部して3日、部室の空気は相変わらず最悪だったが、俺は窓際で黙々と、姉貴の結婚式に備えて特大キャンバスに向き合っていた。
そんな俺の背中に、ぶっきらぼうな声が伝う。
「……おい。熱心なこったが、そんだけデカいキャンバス、主戸の野郎の目が届かねぇ場所に隠しとけよ」
「隠す? 何で俺がそんなコソコソしなきゃいけないんだよ。俺は姉貴のために真っ当な絵を描いているだけだ」
「真っ当、か。あの『天才部長』の前で、自分より上手い絵を描く新入りがどれだけ邪魔なのか、お前はまだ分かってねぇんだよ。……まぁ、お前のその真っ直ぐな目、嫌いじゃねぇけどな」
(俺も既にマークされてるってことかよ)
出山の言葉には、どこか忠告めいた重みがあった。
だが、その懸念はすぐに現実となる。
部屋の奥からわざとらしい靴音が近づいて来た。
「へぇ〜! これが噂の『お姉ちゃんのためのウェディングボード』? あっはははは! 構図もセンスも何かもが古臭いねぇ! 昭和のポスターかよ」
「……何が言いたいんですか、古志先輩」
「主戸くんのデジタル抽象画を見習えっての。他人の心を揺さぶる『現代アート』ってのは、こういう泥臭いものじゃないんだよねぇ」
「見なよ、僕の絵を。これこそがまさに現代アートさ」
古志の野郎が自慢げに見せたのは現代アートと称する絵の具を乱雑に塗りたくった代物だった。
(現代アートって、そうやれば良いってモンじゃねぇだろ……。随分とおめでてぇ頭をしてやがる)
呆れる中、またしても鬱陶しい声が俺の耳に入り込む。
「いいじゃないか、古志。榎本くんは純粋なんだ。……ただ、榎本くん。美術部の資材やスペースは有限だ。君一人が特別扱いされるとは思わないでほしいな」
主戸の野郎は、「部員を思いやる優しい部長」の笑顔を浮かべている。だが、その目は一切笑っていなかった。
そいつの背後には藤尾先輩が消え入りそうな声でキャンバスに向かい、その隣で姫乃先輩が不安げに彼を見つめていた。
「……あの、主戸先輩。僕の今日のデッサン、どうでしょうか……?」
「うん、凡作だね。君は真の芸術が何たるかをまるで分かっていない。姫乃さん、君はこんな狭い世界に閉じこもっちゃいけない。僕の特等席へおいで。君の繊細な感性を僕が『正しく』導いてあげるから」
一瞥もせずにこき下ろしやがった。
「あ……藤尾くん。私……」
「……ッ、すみません……!」
藤尾先輩の体は震えていた。
自身の絵を酷評されつつも大切な人の前で、涙を流すなど出来るはずがなかったからだ。
(拳が震えた。嘘で塗り固められたカースト。主戸の野郎の言葉は、優しさのフリをした『恐喝』だ。藤尾先輩のプライドをじわじわと削り、姫乃先輩を引き剥がしていく。実に胸クソが悪い。これが放課後の日常だなんてよ)
__それから1週間、事件は最悪な形で起きた。
朝、教室に入った瞬間、突き刺さるような視線に気づいた。誰も彼もがスマホを握りしめ、俺を見てヒソヒソと笑っている。
「うわ、あいつが榎本? 最低だな……」
「出山くんの裏アカ晒したってマジ?」
「……何が起きてるんだ?」
部室に駆け込むと、そこには怒りの形相で呼吸を荒くした出山が立っていた。床には、俺が描いていた姉貴の結婚式の絵が、無惨に切り裂かれて転がっている。
「……お前、俺の裏アカウントの愚痴、クラスのグループラインに晒したらしいな。SNSのスクショが出回ってんだよ。……それだけじゃねぇ。お前のその絵……ネットのアートサイトからの『完全な盗作』だって、学校の裏サイトで大炎上している」
「なっ……! 嘘だ! 俺はそんなことしてない! この絵だって、俺がゼロから……!」
「言い訳は見苦しいぞ、榎本ぉ! 証拠の画像はバッチリ残ってんだよ! 出山に対するデマも、絵のパクリもなぁ! 芸術家気取りの犯罪者が!」
(嘘だ。全部嘘だ。古志が勝ち誇った顔でスマホを掲げている。……ハッと気づいた。古志は最近、画像生成AIの技術を自慢していた。まさか、SNSの会話画面も、俺の絵の『元ネタ』とされる画像も、全部あいつがAIで捏造したのか……!?)
だが、弁明する機会すら与えられなかった。部室の奥では、もう一つの悲劇が完結しようとしていた。
主戸のスマホから、スピーカー越しに「音声」が流れる。
『主戸なんて、親の七光りの無能ですよ。あいつの絵なんて、僕の足元にも及ばない……』
「な、何ですかこれ……! 僕、こんなこと言ってない! 嘘です、僕の声じゃない!」
真っ青になりながらも藤尾先輩は必死になって弁明する。
「そんなはずは……! 藤尾くんが主戸先輩の悪口を言うなんて……」
姫乃先輩も彼がそんなことをするはずがないと言うが……
「……悲しいよ、藤尾くん。君を信じていたのに。姫乃さん、聞いたかい? これが君の想っていた男の本性だ。表では僕に媚びて、裏では僕を泥棒呼ばわりする。……君をこんな卑劣な男の近くに置いてはおけない。僕が君を守る」
「う、うそ……藤尾くん……?」
主戸の野郎は怯える姫乃先輩の肩を強く抱き寄せ、そのまま部室の奥へと連れ去った。藤尾先輩は、魂が抜けたようにその場に崩れ落ちた。
(AIによる音声合成……! 主戸は藤尾先輩の過去の会話データから音声を生成し、姫乃先輩の前で再生したんだ。有無を言わせぬスピードで精神を追い詰め、略奪する。完璧な、悪魔の策略だ)
出山は俺に背を向け、部室を出て行った。
信じていた仲間との絆を裂かれ、姉貴のための絵を汚され、俺は普段の教室でも「盗作男」「裏切り者」として完全に孤立した。
放課後。誰もいない渡り廊下の陰で、俺は悔しさに唇を噛み締めていた。
「クソッ……! 嘘に負けてたまるかよ……っ!」
俺は校舎の壁に握った拳をぶつけた。
下手すれば手が真紅に染まるぐらいに強く……
「……あの、榎本くん、だよね?」
声をかけてきたのは、美術部の隅でいつも背景のモブのように大人しくしていた、他クラスの男子生徒だった。彼は周囲を警戒するようにキョロキョロと見回した後、声を潜める。
「これ……信じてもらえるか分からないんだけど。僕、一昨日、日の暮れた部室で見たんだ。古志先輩が、君のキャンバスをカッターで切り裂いて、スマホで写真を撮ってるところ……」
そいつは震えながら、スマホの画面を俺に見せた。
「……何だってッ!?」
「あと、主戸先輩と『これで榎本も出山も一発退場だな。藤尾の音声データも完璧だ』って笑いながら話してて……。僕、怖くて止められなかった。でも、君が泥棒扱いされてるのがどうしても許せなくて……。出山くんにも、これ見せて、話しかけてみるよ」
名も無き部員が震える手で差し出してきたスマホの画面。そこには、暗がりの部室で、ニヤニヤしながら俺の絵を切り刻む古志の姿が、不鮮明ながらもハッキリと動画で記録されていた。
(胸の奥で、冷え切っていた炎が、一気にかき回されるように燃え上がった。……やっぱり、あいつらだ)
「……ありがとな。お前がリスクを冒して教えてくれた真実、絶対に無駄にはしない」
俺はスマホの画面を凝視しながら、強く拳を握り込んだ。
嘘で世界を支配できると思うなよ、主戸、古志。
お前達の嘘の絵の具を俺の真っ直ぐな筆で、跡形もなく塗り潰してやる。
俺達の反撃の狼煙は今ここに上がり始めた。
__イメージCAST__
榎本海賀-夏目響平
出山修-畠中祐
主戸武生-平川大輔
古志銀蔵-奈良徹
藤尾涼-田丸篤志
姫乃亜紀-上田麗奈