羽川翼に憧れた話 作:かがみ
鏡というのは、よく考えると、ずいぶん不誠実な道具だと思う。
いや、逆だ。鏡ほど誠実な道具はない、と言うべきなのかもしれない。世の中に嘘をつく人間は掃いて捨てるほどいるが、嘘をつく鏡というのは聞いたことがない。鏡は、そこに立った者を、ありのままに映す。太った者は太ったまま、痩せた者は痩せたまま、寝癖のついた高校生は寝癖のついたまま。世辞も追従もなく、ただそこにあるものを、そこにあるままに返してくる。
だから僕らは、鏡を信じる。
朝、顔を洗って、鏡を覗いて、「今日の僕はこういう顔をしているのか」と納得して、学校へ行く。鏡が映したものを、疑いもせずに自分だと思い込んで。
だが——ここに、一つ、致命的な嘘がある。
鏡は、左右を反転させる。
右手を挙げれば、鏡の中の自分は左手を挙げる。分けたはずの前髪は、逆側に流れている。世界一正直なはずの鏡は、それでいて、映したものを必ず裏返しにして返してくる。つまり、鏡の中にいるのは、厳密には、僕ではない。僕によく似た、左右の逆の、そっくりさんだ。
誰も、本当の自分の顔を、直接には見られない。
一生をかけて、僕らが見続けるのは、裏返しの自分ばかりだ。
——という話を、僕、阿良々木暦が、なぜこんなにも真剣に考える羽目になったのか。それを話すには、あの春の、まだ肌寒い時期のことを、順を追って思い返さなければならない。
あれは、忍野メメというアロハシャツの怪異専門家がこの街を去って、ずいぶん経った頃の話だ。僕はもう高校三年生になっていて、影の中には金髪の吸血鬼を飼っていて、恋人がいて、後輩がいて、命の恩人がいた。厄介事にはひととおり片がついて、平穏という言葉の輪郭くらいは、なんとなく手で触れられるようになっていた——そう、思い込んでいた頃だ。
平穏というのは、たぶん、鏡に似ている。
そこに映っているあいだは、本物みたいに見える。けれど、少し角度を変えれば、あるいは背後から別の光が差せば、それが薄っぺらな像でしかなかったことに、否応なく気づかされる。
満ちた月が、次の日には欠けはじめるように。
満点を取った答案が、次のテストでは減点されるように。
完璧なんてものは——たとえそれが本物であったとしても——そこがてっぺんであるという、ただその一点において、あとは崩れていくしかない、宿命の別名にすぎないのだ。
各務満という女の子は、その宿命に、真正面から殴りかかろうとしていた。
鏡を相手に。
それはたぶん、この世でいちばん、勝ち目のない喧嘩だった。
--001 かがみ、みつる
平穏という言葉が、僕はあまり好きじゃない。
嘘くさいからだ。……いや、嘘くさいというのは少し違うか。平穏そのものが嘘なわけじゃない。ただ、平穏を「平穏だ」と口に出したその瞬間に、なんだかそれが嘘になってしまう気がする、というだけの話だ。「今日はいい天気だな」と言った途端に空が曇りはじめる。あの理不尽な因果に、どこか似ている。
だからその朝の食卓があんまりにも平穏だったことを、僕はあまり深くは考えないようにしていた。
「お兄ちゃん、遅い! 卵焼き、最後の一個もーらい!」
僕が一階に降りたときには、食卓の卵焼きはすでに風前の灯だった。それを箸で堂々と強奪しようとしているのは、僕の下の妹の阿良々木月火だ。その隣で「こら月火、それはお兄ちゃんの分でしょ、正義に反する」ともっともらしいことを言いながら、自分はちゃっかりウインナーを二本口に運んでいるのが、上の妹の阿良々木火憐。中学生にして僕より背が高い、自称・正義の味方である。
我が家の朝はいつもこうだ。栂の木二中の名物姉妹、通称ファイヤーシスターズが、僕という長男の尊厳を日々着実に削り取っていく。
「兄ちゃん、朝から辛気くさい顔してんな」火憐が僕を見て言った。「悩みごとか? 正義の妹が聞いてやろうか」
「お前に相談したら、悩みが物理的に殴られて解決しそうだから遠慮しとく」
「失礼な。私だってたまには言葉で解決するっての」
「たまには、なのかよ」
こういうなんでもない応酬が、我が家の平穏の基本単位だった。
平穏。……ほら、また、その言葉を使ってしまった。
登校して教室に着けば、そこにも僕の平穏の一部が待っている。
「おはよう、阿良々木くん。……ふぁ、っとあくびが移りそうな顔してるわね。ゆうべ、またいかがわしいことでも考えて寝そびれたの?」
「朝から人聞きの悪いことを言うな。……おはよう、戦場ヶ原」
戦場ヶ原ひたぎ。僕の恋人だ。相変わらず、口を開けば毒か皮肉のどちらかしか出てこない。だが、その毒にいちいち傷つかなくなった程度には、僕らの付き合いも長くなっていた。彼女の毒が、実のところ不器用な照れ隠しであることを、僕はもう知っている。知っているからといって痛くないわけでは、必ずしもないのだが。
そしてホームルームが始まる直前。
「阿良々木くん、宿題の範囲、ちゃんと控えてる?」
僕の席にそう言いながらやってきたのは、羽川翼だった。学級委員長。全教科満点の学年首席。……という記号をいくら並べたところで、この女の子の輪郭を説明したことにはたぶんならない。
「羽川、お前、ほんと何でも把握してるな」
「何でもは把握してないわよ」羽川はくすりと笑った。「控えてることだけ」
いつもの返しだった。
——こうして書き並べてみると、僕の日常はずいぶんと恵まれている。妹がいて、恋人がいて、命の恩人みたいな友人がいて。厄介事にはひととおり片がついて、影の中の居候も最近はおおむね行儀よくしている。平穏。平穏だ。何度でも言ってやる。平穏だ。
だからその日の放課後、僕が掃除当番をサボろうとしたのも、ごく平穏な日常の一部だった。……はずだった。
掃除用具入れから漂ってくる雑巾の匂いに、僕の良心はあっさりと敗北した。人間の良心なんてものは、雑巾一枚に負ける程度のものらしい。少なくとも僕の良心は。かくして僕は、当番から逃げるように、意味もなく校舎をうろつきはじめた。三年生の教室は最上階にあるのに、なぜか一階に近い一年生のフロアまで。サボるためにわざわざ下りてきたわけだ。この労力を掃除に使えば、教室はとっくにぴかぴかだっただろう。労力の使いどころを完全に間違えている。
そんなことを考えながら一年生の廊下を歩いていて——僕は、その子を見つけた。
--002
女子トイレの手前。
誤解のないように、くどいようだが先に言っておく。僕は、女子トイレの前に立って女子生徒を待ち伏せするような趣味の持ち主では断じてない。妹たちにそんな趣味を疑われたら、僕は三日は寝込む。ただ、廊下の突き当たりにある姿見の前に一人の女子生徒が立っていて、それがどうにも様子がおかしかった、というだけの話だ。
彼女は鏡の前で。
一歩、下がった。
そして、一歩、近づいた。
下がって近づく。下がって近づく。
まるで、鏡に映る自分の映り方にどうしても納得がいかないみたいに。ダンスのステップにしては単調すぎるし、身だしなみのチェックにしては執拗すぎる。彼女は同じ動作を、もう何十回も繰り返しているように見えた。その横顔には、鏡を覗く者にありがちな自惚れも羞恥もなく、ただ張り詰めた、敵意に近いものが貼りついていた。
自分の姿見に敵意を向ける人間。
僕は、こういう「なんとなく嫌な感じ」にめっぽう弱くなってしまっていた。忍野が去ってからの後遺症、とでも言えばいいのか。目の前で誰かが声にならない何かと戦っていたら、放っておけない。放っておけるほど僕は器用な人間じゃない。忍野ならこういうとき、にやにや笑って「他人が勝手に助かるのを、見てるだけさ」なんて言うんだろうが、あいにく僕は忍野じゃない。
「……鏡、そんなに気になるか?」
声をかけると、彼女はびくりと肩を跳ねさせた。
跳ね上がった、と言ったほうが近い。まるで背中に氷でも当てられたみたいに全身を強張らせて、それからぎこちなく——本当に、油の切れた機械みたいにぎこちなく——首だけをこちらに回した。
直江津高校の制服。スカーフの色からして一年生。
几帳面に切り揃えられた前髪の下に、真面目そうな目があった。真面目そう、というより真面目「すぎる」目だ。この子はきっと、宿題を忘れたことも遅刻をしたことも廊下を走ったこともないんだろうな、となんとなく分かる。そういう種類の、緊張感のある顔立ちだった。
そして彼女が僕にかけた第一声は、およそ初対面の相手にかける言葉ではなかった。
「先輩は」
彼女は掠れた声で言った。
「先輩は、鏡に映った自分と、本物の自分。……どっちが本物だと思いますか」
開口一番がそれか。
僕は内心で頭を抱えた。どうやら僕は、サボるついでにずいぶん面倒くさそうな案件に足を突っ込んでしまったらしい。掃除当番のほうがよっぽど平和だったかもしれない。
だが、もう遅い。
声をかけてしまった以上、「悪い、人違いだった」と踵を返すには、彼女の目はあまりにも切実すぎた。
--003
「哲学の問答なら、僕は落第だぞ」
僕はなるべく軽い調子で言った。張り詰めた相手には、まずこちらの緊張を解いてやるのが定石だ。これは戦場ヶ原で——僕の恋人で、かつて似たような「張り詰め方」をしていた女の子で——さんざん学んだことだった。
「鏡に映った自分と、本物の自分、どっちが本物か。うーん。少なくとも、税務署に呼び出されるのは本物のほうだろうな。鏡のほうに納税義務はない」
「…………」
「笑うところだぞ、今の」
「……すみません。おもしろくなくて」
「正直だな、おい」
傷ついた僕をよそに、彼女はまた鏡のほうへ視線を戻した。吸い寄せられるように。嫌いなくせに目が離せない。嫌いなものほど目が離せないというのは、まあ分からなくもない感覚ではある。人は平気なものからは、案外あっさり目を逸らせるものだ。
「名前を聞いてもいいか」僕は言った。「僕は阿良々木。阿良々木暦。三年だ」
「……各務、満です」彼女は少し迷ってから答えた。「各務満と書いて、かがみ、みつる」
ご丁寧に、彼女は指で宙に字を書いてくれた。各々の各に、務める。各務。几帳面な子だ。名乗るときにまで、相手の誤読の余地を潰そうとする。
各務。
かがみ。
その音を、僕は口の中で転がした。
「鏡みたいな名前だな」
言ってから、しまった、と思った。この手のことは、本人がいちばん言われ慣れていて、いちばん言われたくないやつだ。案の定、各務満はうっすらと嫌そうな顔をした。
「よく言われます」彼女は言った。「鏡みたいだ、って。……鏡なんて大っ嫌いなのに」
嫌いなのに、鏡の前に立ってたのか。
そのツッコミはさすがに呑み込んだ。呑み込んだが、たぶん顔には出ていた。僕は昔から顔に出やすい。忍野には「アララギくんはポーカーが弱そうだねえ」とよく笑われたものだ。
各務満。十六歳。女子。高校一年生。
几帳面に切り揃えた前髪。一分の隙もなく着こなした制服。名乗るときに字面まで確認させる生真面目さ。そして、鏡が嫌いだと言いながら鏡の前から動けずにいる、その矛盾。
こうして記号を並べてみても、この子の輪郭はちっとも掴めた気がしない。人間というのは、記号を積み重ねたくらいで理解できるほど単純にはできていない。それは、僕がこの一年で嫌というほど学んだことの一つだった。羽川翼という、この世でいちばん「記号で説明できない」女の子のそばにいれば、否応なく学ばされる。
僕は少し、質問を変えてみることにした。
「なあ各務。……お前、どうしてそんなに完璧でいなきゃいけないんだ?」
我ながら、ずいぶん踏み込んだ質問だった。初対面の後輩にいきなりする問いじゃない。生活指導の教師でも、もう少し手順を踏む。だが各務満は、怒りも戸惑いも見せなかった。むしろ、その問いをずっと誰かにしてほしかった、とでもいうように、ぽつりと答えた。
「……羽川翼先輩みたいに、なりたいんです」
僕の心臓が、小さく跳ねた。
羽川翼。
この街でいちばん僕がよく知っている名前を、まさかこの初対面の後輩の口から聞かされるとは思っていなかった。
「知ってますか、羽川先輩」各務満は、初めてほんの少しだけ目を輝かせた。それまでの張り詰めた表情が、その瞬間だけ憧れの色にほどけた。「うちの高校の、伝説の委員長です。全教科、全問満点。どんな質問にもすぐに答えられて、誰にでも優しくて、いつも正しくて。……完璧な人なんです。私、中学のとき羽川先輩の噂を聞いて、それでこの高校を選んだんです。あの人みたいになりたくて」
あの人みたいに、なりたくて。
僕は、何も言えなかった。
各務満が思い描いている「完璧な羽川翼」が、本物の羽川翼とどれほどずれているか。僕は知っていた。あの、いつも笑っている委員長が、その笑顔の裏にどれほどの「正しくない自分」を押し殺して生きているか。そしてそれが限界を超えたとき、彼女の中の「もう一人」がどんなふうに牙を剥くのかを。僕は知りすぎるほど知っていた。
だが、それを今この子に言うわけにはいかなかった。
「だから『鏡みたいだ』って言われるの、私、嫌なんです」各務満は俯いた。「だって鏡って、本物を映すだけのものでしょう。自分では何も生み出せない。ただ、そこにあるものをなぞるだけ。……私、まさにそれなんです。羽川先輩っていう本物の完璧を、必死で真似してるだけの鏡。どれだけ真似しても本物にはなれない。オリジナルには絶対になれない。……ただの複製品なんです」
オリジナルにはなれない、複製品。
その言葉に、僕はぞくりとした。
だがそのとき、きぃん、こぉん、と間の抜けた予鈴が廊下に鳴り響いた。
その音に、各務満は我に返ったように、はっと顔を上げた。そして、自分が見ず知らずの先輩にこんな話をしてしまったことを、今さらのように恥じるみたいに、頬を赤らめた。
「……すみません。変な話して。忘れてください」
彼女はぺこりと頭を下げると、逃げるように廊下を駆けていった。
残されて、僕はなんとなく、彼女が睨んでいたあの姿見に目をやった。
——そのときだ。
鏡の中の廊下に、まだ各務満が立っていた。
駆けていったはずの各務満が。鏡の中ではまだこちらを——いや、鏡越しに僕のことを、じっと見ていた。無表情で。まるで、その場に置き去りにされた影みたいに。
「……は?」
僕が思わず振り返る。廊下に各務満の姿はもうない。とっくに角を曲がって消えている。
もう一度、鏡を見る。
鏡の中の廊下も、もう無人だった。
誰もいない。
……見間違い、だろうか。放課後の傾いた西日が、鏡に変な反射でも作ったんだろうか。そうに違いない。そうに決まっている。
僕はそう自分に言い聞かせた。
言い聞かせたが、背中に張りついたその冷たいものは、なかなか消えてはくれなかった。
--004
その夜、僕はなんとなく寝つけなかった。
各務満のことが頭から離れなかった。鏡が嫌いだと言いながら鏡の前から動けなかった、あの子。自分を「複製品」だと呼んだ、あの子。そして、駆けていったあとも鏡の中に立っていた(ように見えた)、あの子。
あれはただの、思い詰めた後輩のちょっと変わった悩み事なんだろうか。それとも。
「……気になるのかや、わが主」
影の底から、そんな声がした。
僕の影から、するりと小さな人影が抜け出してくる。八歳ほどの金髪の少女。忍野忍。かつて「怪異の王」とすら呼ばれた、伝説の吸血鬼の成れの果てだ。今は僕の影に棲んで、僕と命を分け合っている。
「別に。……ただ、ちょっと変な子に会っただけだよ」
「ふん。隠すでない」忍は僕の枕元に腰かけて、退屈そうに足をぶらつかせた。「おぬし、昼間、妙な匂いを連れて帰ってきおったぞ」
「匂い?」
「鏡の匂いじゃ」
忍はぽつりと言った。
「厳密には、鏡そのものに匂いなんぞない。……わしが言うておるのは、鏡の『奥』の匂いじゃ。合わせ鏡の、あの無限に続く回廊のいちばん奥から漂うてくる、冷たい、埃っぽい匂い。……おぬし、その匂いをうっすらと身にまとうて帰ってきおった」
合わせ鏡の、奥の匂い。
僕はぞくりとした。昼間、鏡の中に立っていた各務満の姿が、また脳裏をよぎった。
「忍。それって——」
「さてな」忍は、はぐらかすように肩をすくめた。「わしはまだ、何も見ておらぬ。匂いだけであれこれ言うのは、六百年生きた吸血鬼の沽券に関わる。……じゃが、一つだけ言うておこう、わが主」
忍は僕の影に沈みかけながら囁いた。
「鏡というのはな。……こちらが覗くとき、向こうもこちらを覗いておるものじゃ。あまり深くは覗き込まぬことじゃ。覗き込まれる前に、な」
その思わせぶりな言葉を最後に、忍は僕の影に戻っていった。
僕はしばらく、天井を見つめていた。
枕元のスマホが震えた。戦場ヶ原からのおやすみのメッセージだった。『いかがわしいことを考えずに、さっさと寝なさい』——相変わらずの、毒つきの優しさ。僕は少しだけ笑って、『考えてないっての』と返した。
だが、その夜、僕がなかなか寝つけなかったのは、いかがわしいことを考えていたからでは断じてなかった。
——明日、もう一度あの子に会いに行こう。
そう決めたのはたぶん、この時点でもう、僕は放っておけなくなっていたんだと思う。
例によって、例のごとく。
--005
だが、僕が「会いに行く」より先に。
各務満のほうが、僕を見つけた。
翌々日の放課後。僕がまた性懲りもなく掃除当番をサボって渡り廊下をぶらついていると、各務満が思い詰めた顔でそこに立っていたのだ。まるで、二日前からずっとそこで僕を待っていたみたいに。
「先輩」彼女は言った。「この前の続きを……聞いてもらえませんか。先輩なら信じてくれる気がして。……いえ。先輩にしか言えない気がして」
放課後の、誰もいない空き教室というのは、告白か、あるいは厄介事の相談か、そのどちらかの舞台と相場が決まっている。残念ながら——というべきか、幸いにも、というべきか——今回も後者だった。
僕と各務満は、一年三組の空き教室で机を挟んで向かい合っていた。窓の外はもう夕暮れで、西日が、誰もいない机の列を長い影とともにオレンジ色に染めていた。
「先月の実力テストで」
各務は俯いたまま、ぽつりと切り出した。
「私、一問だけ間違えたんです」
それだけ?
と僕は言いかけて、危ういところで言葉を呑み込んだ。呑み込んで正解だった。顔を上げた各務満の表情が、あまりにも切実だったからだ。一問間違えた、というより、殺人を告白する直前みたいな顔をしていた。
「入学してから、ずっと満点でした」彼女は続けた。「全教科、全問。当たり前だと思ってました。だってちゃんと勉強して、ちゃんと見直せば、間違えるはずがないんですから。間違えるのはどこかで手を抜いたからで、手を抜いた私はちゃんとした私じゃなくて、だから」
言葉が少しずつ速くなっていく。
几帳面な前髪の下で、彼女の瞳が焦点を失っていくのが分かった。まるで、自分の言葉の勢いに自分自身が呑まれていくみたいに。
「だから、間違えた私なんて私じゃない。あんなの私の答案じゃない。本物の私はちゃんと満点を取れる私で、それを確かめたかったんです。証明したかった。鏡は嘘をつかないから。合わせ鏡なら本当の私を、何枚でも何十枚でも映してくれるはずだから」
合わせ鏡。
その単語に、僕の背筋がひやりとした。前の夜、忍が言った「鏡の奥の匂い」が、いやでも脳裏によみがえる。
合わせ鏡。二枚の鏡を向かい合わせに置くやつだ。子供の頃、風呂場の鏡と手鏡でやったことがある。鏡の中に鏡が映って、その中にまた鏡が映って、どこまでも自分の後頭部が無限に続いていく——あれをしばらく眺めていると、なんとも言えない薄ら寒い気持ちになったのを覚えている。無限という概念に、子供心に直接触れてしまったような感覚。
あれにはたしか、良くない言い伝えがあったはずだ。
真夜中に合わせ鏡を覗いてはいけない、というような。
「各務。その合わせ鏡で、お前、何を見た」
僕が問うと、各務満はゆっくりと顔を上げた。
そして、僕のすぐ後ろを指さした。
「……先輩の、後ろ」
「え?」
「先輩の後ろの、その窓ガラスに」
僕は振り返った。
空き教室の窓ガラスに西日が反射して、ちょうど鏡のように教室の中を映していた。そこには、机に向かって座る各務満の姿と——そのすぐ背後に立つ、もう一人の各務満の姿が映っていた。
同じ顔。
同じ制服。
同じ、一分の狂いもない前髪。
ただ一つ決定的に違っていたのは、ガラスの中のもう一人が、へらへらと実にだらしなく笑っていたことだった。
振り返って、机の各務を見る。彼女は笑っていない。恐怖に顔を強張らせている。
もう一度、ガラスを見る。ガラスの中の各務は笑っている。楽しくてたまらない、といった風に。
現実の彼女と、鏡の中の彼女の表情が、一致していない。
——ああ。
これは。
これはたぶん、僕のよく知っている種類の、「信じたくないもの」だ。
そして、二日前にあの姿見の中に立っていた各務満も、見間違いなんかじゃなかったんだと、僕は遅ればせながら悟った。
--006
『やっと、気づいた?』
ガラスの中の各務満が——正確には、各務満に「そっくりな何か」が、口を動かした。
声は、ガラスの向こうから、水の中で聞くようにくぐもって届いた。現実の各務は、その声にびくりと震えたが、口は動かしていない。喋っているのは明らかに、ガラスの中のほうだった。
『ねえ、そこの先輩。あんた、面白いね。私が見えてるんだ』
「……お前は」僕は努めて冷静に問うた。怪異と対峙するときの鉄則は、まず動じないことだ。動じたら飲まれる。「お前は、なんだ。各務満じゃないよな」
『各務満だよ』
ガラスの中の「それ」は、にたりと笑った。
『各務満の、いらないほうの半分。捨てられたほう。減点されたほう。……この子がさ、「こんなの私じゃない」って言うたびに、私、こっち側に押し出されてきたの。要らない、要らないって言われ続けて、気づいたら、鏡の中に独立した私が一人できあがってた』
要らない自分。
捨てられた自分。
減点された、自分。
各務満が鏡の前で繰り返していた、あの動作を思い出す。下がって近づく。下がって近づく。あれはきっと、「完璧な自分」を映そうとして、けれど何度やっても「減点された自分」しか映らなくて、それでも諦めきれずに繰り返していたんだろう。
そして、その拒絶のひとつひとつが。
「こんなの私じゃない」という否定のひとつひとつが。
鏡の向こうの「それ」を、少しずつ濃く、確かなものにしていった。
『でね、先輩』
ガラスの中の各務が身を乗り出した。ガラスの表面に、内側から手のひらを押し当てるようにして。
『もう、いいと思わない? この子は、完璧じゃない自分のことが嫌いで嫌いでたまらないんだって。引き受けたくないんだって。だったらさ、私が各務満をやるよ』
ぞっとするほど優しい声で、それは言った。
『完璧じゃなくて、時々間違えて、時々サボって、でもへらへら笑ってる、そういう「各務満」を私がやってあげる。この子は鏡の中で、ずっと完璧なまま眠ってればいい』
その言葉と同時だった。
僕の目の前で、机に座っていた「本物の」各務満の輪郭が。
すうっと、薄くなった。
夕日に透けるカーテンみたいに。あるいは、二枚の鏡のあいだで無限に反射するうちに、少しずつ光を失っていく遠い像みたいに。
「おい——各務!」
僕はとっさに彼女の肩を掴もうとした。
掴もうとして、僕の手は彼女の肩をすり抜けた。
まるで、そこに映った鏡の像を掴もうとしたみたいに。
僕の影の中で、ぞわり、と何かが身じろぎした気配がした。ずっと黙って様子を窺っていた僕の相棒——六百年生きた金髪の元・怪異が、ようやくこの事態を「見過ごせないもの」と判断した、その気配だった。
『——面妖な鏡じゃのう、わが主』
影の底から、幼い、けれど古い声が囁いた。
『じゃから、言うたであろう。深くは覗き込むな、とな。……厄介じゃぞ。あれは、割れば済むという類の鏡ではない。割れば、本物のほうが砕けるやもしれぬ』
薄れゆく各務満は、消えかけた声で、僕に向かって何か言おうとしていた。
口の動きだけで、辛うじて読み取れたその言葉は。
『——たすけて』ではなく。
『——ごめんなさい』だった。
こんなときにまで、この子は。
消えていく瞬間にまで、誰かに謝ろうとしていた。
僕は奥歯を噛んだ。
サボった掃除当番のことなんて、もう頭の隅にもなかった。
あの平穏な朝の食卓が。妹たちの騒がしさが。戦場ヶ原の毒が。羽川のいつもの返しが。……ついさっきまで僕を包んでいたあの「平穏」が、もうずっと遠くに感じられた。
——ほら、言わんこっちゃない。
平穏なんて、口に出した途端に嘘になる。