羽川翼に憧れた話   作:かがみ

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第二章 何でもは知らない

 

--001

 

 結論から言うと、その日、僕は各務満を「置いて」帰ってきてしまった。

 

 これは、僕の人生における数ある失態の中でも、かなり上位に食い込む種類の失態だと思う。消えかけている女の子を目の前にして、僕にできたことは、彼女の肩をすり抜けた手を間抜けに宙で握りしめることだけだった。そして、輪郭を薄れさせた各務満は、「ごめんなさい」と口だけを動かして——ふっと、教室の空気に溶けるように消えた。

 

 消えた、といっても、死んだわけじゃない。たぶん。

 

 その「たぶん」を確かめたくて、僕は家に帰るなり、自分の部屋の床に向かって話しかけていた。

 

『たぶん、な』

 

 僕の影の中から、そんな声がした。

 

 傍から見れば、床に向かって独り言を呟く危ない高校生だが、あいにく僕の影には話し相手が住んでいる。

 

 僕の影から、するりと小さな人影が抜け出してきた。八歳ほどの金髪の少女。白い肌。傷ひとつない、人形のような造作。見た目は完全に幼女だが、その中身は六百年生きた——かつては「怪異の王」とすら呼ばれた——伝説の吸血鬼だ。忍野忍。それが今の彼女の名前だった。

 

「たぶん、ってのはどういう意味だよ、忍」

 

『ふん。言わんこっちゃない、という意味じゃ』

 

 忍は、僕のベッドに勝手によじ登りながら、呆れたように言った。

 

『わし、ゆうべ言うたであろう。深くは覗き込むな、覗き込まれる前にな、と。……おぬしときたら、翌々日にはのこのことその鏡の前まで出向いて、まんまと、怪異が立ち上がる瞬間に居合わせてしまいおった。学習能力というものが、おぬしには備わっておらぬのかや』

 

「うるさいな。……お前だって、匂いがどうとか思わせぶりなことしか言わなかっただろ」

 

『匂いだけで正体を断ずるほど、わしは軽率ではない、と言うたはずじゃ』忍は、つん、とそっぽを向いた。『じゃが、こうして怪異が姿を現した今なら、はっきりと言うてやれる。……あれは、合わせ鏡じゃ』

 

 合わせ鏡。

 

 各務満が自分から口にした、あの言葉。

 

『合わせ鏡に取り込まれた者はな、わが主。死んではおらぬ』忍は、退屈そうに、けれどどこか慎重に言葉を選びながら言った。『鏡の内側で生かされておる。……じゃが、それを「生きておる」と呼んでよいものか、わしにも分からぬ。鏡の中というのはな——時間の流れぬ場所じゃ。あの娘は今ごろ、無限に続く鏡の回廊のどこかで、完璧な自分のまま凍りついておるよ。歳もとらず、傷つきもせず、間違えもせず。……ただ、そこにしまい込まれておる』

 

「凍りついてる……」

 

 完璧なまま、凍りついている。

 

 それはある意味では、各務満がいちばん望んでいた状態なのかもしれなかった。永遠に満点のまま。永遠に欠けないまま。だがそれは、生きているとは呼べない。凍った完璧は、もう何にもなれないからだ。

 

『そして、その隙に』忍は、細い指を、僕の部屋の壁にかかった姿見のほうへ向けた。『表の世界では、あの娘の「もう半分」が、のうのうと各務満をやりはじめる、というわけじゃ』

 

 僕は、忍が指さした姿見を見た。

 

 僕の部屋の姿見。

 

 そこには僕の部屋が映っている。ベッドが映っている。机が映っている。カーテンが映っている。

 

 だが、そこに腰かけているはずの僕の姿は。

 

 ひどく、薄い。

 

 まるで、消しゴムで半分ほど消しかけた鉛筆画のように。僕の像だけが、周りの家具に比べて頼りなく透けている。

 

 そして、僕の隣に腰かけているはずの忍の姿は。

 

 鏡の中に、まったく映っていなかった。

 

「……なあ、忍」僕は乾いた声で言った。「これ、前よりひどくなってないか。僕の鏡の映り」

 

『そりゃ、そうじゃ』

 

 忍は、こともなげに言った。

 

『おぬしは、吸血鬼の眷属じゃからのう』

 

--002

 

 吸血鬼は、鏡に映らない。

 

 これは、怪談や映画の中だけの迷信じみた設定ではない。少なくとも、この街で吸血鬼絡みの地獄のような春休みを過ごした僕にとっては、動かしがたい実感を伴った現実だった。

 

 なぜ吸血鬼が鏡に映らないのか。俗説はいくつかある。鏡の裏に塗られた銀を吸血鬼が嫌うから。あるいは、鏡が「魂」を映す道具であり、魂を持たぬ——悪魔に魂を売った——吸血鬼には映すべきものがそもそもないから。理由は諸説あるが、結果は一つだ。鏡は吸血鬼を映さない。今、僕の隣でドーナツの匂いを嗅ぎつけ、机のほうへ這っていこうとしている、この金髪の幼女のように。

 

 鏡の中に、忍はいない。

 

 現実にはそこにいるのに。鏡の中の僕の部屋には、忍のぶんの空白だけがぽっかりと空いている。何度見ても慣れない光景だった。存在しているのに映らない。それは、映らないぶんだけこの世のものではない、という証だった。

 

 僕は、完全な吸血鬼じゃない。

 

 かつて一度、全身を吸血鬼にされかけて、そして人間に戻った。その「戻りかけ」の中途半端な存在だ。眷属、と忍は言う。だから僕は鏡に映る。映るが、ほんの少しだけ薄い。健康なときは、言われなければ気づかない程度に。だが、体の中の「吸血鬼」の側が強まると、僕の鏡像は目に見えて薄くなる。

 

 あの春休み、完全な吸血鬼だった頃の僕は、鏡にまったく映らなかった。歯を磨くのにも寝癖を直すのにも苦労したものだ。……そのことを今こうして思い出すと、なんとも嫌な符合だった。鏡に映らない僕が、鏡に囚われた女の子を助けようとしている。

 

 そして今、僕の鏡像はずいぶんと薄かった。

 

「合わせ鏡の怪異に当てられてるってことか、これ」

 

『当てられておる、というか——引き寄せ合うておる、と言うたほうが正しいかもしれぬな』

 

 忍はとうとう、僕の机の上の非常食のドーナツを勝手に頬張りはじめた。行儀が悪い。だが、この幼女に行儀を期待するのは、猫に箸の持ち方を期待するようなものだった。

 

『鏡に映らぬ者と、鏡に囚われた者。……おぬしとあの娘は、鏡というものを挟んで、ちょうど正反対の場所におる。片や、鏡に拒まれる者。片や、鏡に囚われた者。そして、正反対のものは、時に強く惹かれ合うものじゃ。磁石のN極とS極のようにな。じゃから、おぬしはあの娘の一件に否応なく引き寄せられる。あの姿見の中にあの娘が残って見えたのも、たぶんそのせいじゃ』

 

「それは、都合がいいのか悪いのか」

 

『さてな。どちらもじゃろ』

 

 忍は、ドーナツの粉を指でぱらぱらと払った。

 

『少なくとも、これだけは言える、わが主。……おぬしは、あの合わせ鏡の中に入っていける。鏡に映らぬ者は、鏡に拒まれもせぬからな。生きた人間なら鏡に跳ね返されるところを、おぬしはするりと通り抜けられる。数少ない資格持ち、というわけじゃ』

 

 鏡に映らない者は、鏡の中に入っていける。

 

『じゃが』忍は声を低くした。『それは同時に、おぬし自身があの鏡の中に「取り込まれる」危うさと隣り合わせ、ということでもある。鏡に拒まれぬということは、鏡がおぬしを身内のように扱うということでもあるからのう。……くれぐれも覗き込みすぎるな。向こうに招かれるぞ』

 

 その言葉を、僕はしばらく噛みしめた。

 

 まだ、何をどうすればいいのか、まるで見当もつかなかった。ただ一つ、確かなことがあった。この件は、僕一人の手には負えない。そして、忍の知識だけでもたぶん足りない。忍は怪異の「王」ではあっても、人の世の言い伝えや、その土地土地の民俗にまで精通しているわけじゃない。

 

 こういうとき、僕が頼るべき相手は、昔から決まっている。

 

 怪異のことなら、この街でいちばんたくさんのことを「知っている」人間。

 

--003

 

 だが、その相手に相談する前に。

 

 僕はいったん、日常に帰らなければならなかった。

 

 なぜなら翌朝は、ごく普通の平日だったからだ。怪異が一匹立ち上がったくらいで、学校が休みになるわけじゃない。世界は驚くほど無情に、いつもどおり回り続ける。

 

 朝の食卓では、火憐と月火がいつもどおり僕のおかずを狙っていた。教室では、戦場ヶ原がいつもどおり僕に毒を吐いた。「阿良々木くん、ゆうべ寝てないでしょう。目の下、隈になってるわよ。……まさか、他の女のことでも考えてたんじゃないでしょうね」——鋭い。鋭すぎる。この女の勘の良さは、時々本気で怖くなる。

 

「……後輩の相談に乗ってただけだよ」

 

 僕はなるべく平静を装って答えた。嘘はついていない。ついていないが、全部を話したわけでもなかった。戦場ヶ原を怪異絡みの厄介事にこれ以上巻き込みたくない、という思いが、僕の中にはいつもある。……もっとも、この件で僕が最終的にいちばん頼ることになるのが、他ならぬ戦場ヶ原だという未来を、このときの僕はまだ知らなかったのだが。

 

 そして、その日の放課後。

 

 僕は、屋上へ続く階段の踊り場に、一人の女子生徒を呼び出していた。

 

 各務満が憧れてやまない、その人を。

 

--004

 

「——合わせ鏡ね」

 

 事情をかいつまんで話すと、羽川翼は腕を組んで、あっさりとそう言った。まるで、明日の天気の話でもするように。

 

 羽川翼。十七歳。女子。高校三年生。学級委員長。全教科満点の学年首席。……という記号をいくら並べたところで、この女の子の輪郭を説明したことにはたぶんならない。以前より短くなった髪が、夕方の光に少しだけ透けていた。

 

「合わせ鏡。二枚の鏡を向かい合わせに置くでしょう。すると、鏡の中に鏡が映って、その中にまた鏡が映って……どこまでも無限に続いて見える。あれよね」

 

「ああ。子供の頃、風呂場でやったな」

 

「昔から、良くない言い伝えが多いのよ、あれには」羽川は、指を折りながら数えはじめた。「真夜中に、蝋燭の灯りで合わせ鏡を覗き込むと、十三枚目に自分じゃない何かが映る。ある地方では未来の自分の顔。ある地方では自分が死ぬときの顔。ある地方では鬼の顔。前世だとか悪魔だとか言うところもある。映るものは、土地によって色々」

 

「ずいぶん物騒だな」

 

「でしょう? でも、面白いのはね」羽川は少しだけ身を乗り出した。彼女が「知っていること」を語るときの、あの楽しそうな顔だ。「なぜ真夜中なのか。なぜ蝋燭なのか。なぜ十三枚目なのか。……これ、全部理由があるって言われてるの。真夜中は、この世とあの世の境目がいちばん薄くなる時刻。蝋燭は、揺らぐ灯りが鏡像を不安定にする。そして十三っていう数字は、昔から割り切れない不吉な数の象徴なの。……つまり合わせ鏡っていうのはね、阿良々木くん。ただの遊びじゃないの。『こっち側』と『向こう側』を繋げてしまう、扉になりうるものなの」

 

 扉。

 

 こっち側と向こう側を、繋ぐ。

 

「羽川。お前、ほんと何でも知ってるな」

 

 僕が半ば呆れて言うと、羽川はいつもの顔で、いつもの台詞を返してきた。

 

「何でもは知らないわよ」

 

 少しだけ、いたずらっぽく。

 

「知ってることだけ」

 

 何度聞いても。

 

 この台詞には、妙な安心感がある。羽川が「知ってることだけ」と言うとき、その「知ってること」の範囲が常人の何十倍も広いことを、僕は骨身に染みて知っているからだ。忍野メメがこの街を去ってから、怪異のことで僕が本当に頼れるのは、影の中の忍と——この目の前の委員長だけになっていた。

 

 もっとも。

 

 その羽川翼自身が「向こう側」に片足を突っ込みかけている人間だということも、僕は知っていた。彼女の中の、あの白い猫のことを思えば。……羽川もまた、自分という鏡を二つに割りかけている一人なのだ。

 

--005

 

「でね、阿良々木くん」羽川は少し声を落とした。「合わせ鏡の怪異が本当に厄介なのは、その十三枚目の『自分じゃない何か』が、鏡の外に出てこようとするってところなの」

 

「出てくる」

 

「うん。合わせ鏡って、自分が無限に増えるでしょう。増えた分だけ、いろんな『自分』がいる。今日の自分、昨日の自分、なりたい自分——それから」

 

 羽川は、まっすぐに僕を見た。

 

「本人が、いちばん見たくない自分」

 

 各務満。

 

 鏡が大嫌いだと言った、あの子。

 

 完璧じゃない自分を「こんなの私じゃない」と拒み続けた、あの子。

 

「各務さんは、自分を二つに分けちゃったのね」羽川は静かに言った。「満点を取れる『完璧な自分』と、一問間違えた『駄目な自分』に。そしてその二つを、合わせ鏡みたいに向かい合わせにしちゃった。だから、どっちが本物か、鏡の中で無限に反射して、分からなくなってる」

 

 羽川の分析は、いつもながら恐ろしいほど的確だった。

 

 完璧な自分と駄目な自分を、向かい合わせにする。それはたぶん、多かれ少なかれ誰もがやっていることだ。「本当の自分はこうなのに」「こんなのは本当の自分じゃない」——理想の自分と現実の自分を鏡のように突き合わせて、そのあいだで勝手に苦しむ。ただ各務満の場合は、その突き合わせが怪異を呼び込むほどに激しすぎた、というだけの話だ。

 

「羽川。そういう場合、どうすれば元に戻るんだ」

 

 僕が問うと、羽川は少しのあいだ黙った。

 

 それから、慎重に言葉を選ぶように言った。

 

「鏡を割ればいい……って、単純な話じゃないのよね。忍さんも、そう言ってたんでしょう?」

 

「ああ。割れば、本物のほうが砕けるかもしれない、って」

 

「そう。合わせ鏡の中の二人は、もうどっちが『本物』か区別がつかなくなってる。無限に反射して、混ざり合ってるの。だから、片方だけを割ろうとすると、本物のほうまで一緒に砕けちゃう」

 

「じゃあ、どうすりゃいいんだよ」

 

「割るんじゃなくて」

 

 羽川は言った。

 

「重ねるの」

 

 重ねる。

 

「二枚の鏡を向かい合わせにするから、無限に反射するの。だったら、向かい合わせをやめればいい。二つに分けた自分を——完璧な自分と駄目な自分を、もう一度一枚に重ねてしまえばいい。『どっちも私だ』って、各務さん自身が認めてしまえば」

 

 言うのは、簡単だ。

 

 だが、それがどれほど難しいことか、僕には痛いほど分かっていた。各務満は、たった一問間違えただけで自分が消えかけるほど追い詰められた子だ。そんな子に「間違えた自分も、お前だ」と認めさせるのは、たぶん鏡を素手で割るよりずっと難しい。

 

「……なあ、羽川」

 

 僕はふと、気になって聞いた。

 

「お前は、どうなんだ」

 

「え?」

 

「お前は、間違えた自分を、ちゃんと認められてるのか」

 

 我ながら、意地の悪い質問だったと思う。

 

 羽川翼は、この街でいちばん「正しすぎる」女の子だ。いつも笑っていて、いつも誰かを助けていて、自分のことはいつも後回しにする。そして、その溜め込んだものが限界を超えたとき、彼女の中の「もう一人」が白い猫の耳をつけて表に出てくることを、僕は知っている。

 

 各務満の話は、どこか他人事とは思えなかった。羽川もまた、自分を二つに割って、その片方を鏡の向こうに押し込めて生きている一人なのだから。

 

 羽川は、僕の質問に少しだけ目を見開いた。

 

 それから、いつもの優しすぎる笑みを浮かべて——けれど、その笑みの奥のほうをほんの少しだけ覗かせないようにして、言った。

 

「……さあ。どうかな」

 

 はぐらかされた。

 

 いつもの、羽川翼のやり方で。

 

「私のことより、今は各務さんよ」羽川は器用に話を戻した。「阿良々木くん。まず、その子をもう一度探しましょう。……鏡の中に囚われた『本物』のほうじゃなくて。表の世界を歩きはじめてる、『もう一人』のほうを」

 

「探して、どうする」

 

「観察するの。敵を知らなきゃ始まらないでしょう」羽川は言った。それから、少しだけ眉を寄せた。「……それにね。私、一つ気になってることがあるの」

 

「気になること?」

 

「合わせ鏡が『扉』だっていう話、したでしょう。こっち側と向こう側を繋ぐ扉。……扉があるなら、そこを通って出入りするのは、本人の『分身』だけとは限らないのよね。無限に反射する、その鏡と鏡の『隙間』に——本人とはまったく別の何かが紛れ込んでいることもある」

 

 本人とは、別の何か。

 

「だから、確かめておきたいの。各務さんのあの『もう一人』が、本当にただの『駄目な各務さん』なのか。それとも」

 

 羽川は、そこで言葉を切った。

 

 その先を、言わなかった。

 

 言わなかったことの意味を僕が思い知るのは、もう少しだけ先のことになる。

 

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