六月というのは、学者にとって存外ありがたい季節である。雨が降れば学生の出席率は落ち、出席率が落ちれば居眠りを叱る手間も減る。
おかげで私は、誰にも邪魔されず史料と向き合える。
もっとも、向き合っている史料が誰の興味も引かない代物であることは、自分が一番よく知っていた。専門は戦国史。
それも、教科書の隅に申し訳程度に載っている程度の、地味も地味な分野である。
学会でも「またあの人か」という顔をされる。かつてはコンパで専門を聞かれ、正直に答えたら女の子陣が露骨に興味を失った、という苦い記憶もある。
だが私はこの、誰も見向きもしない時代の隙間が存外好きだった。
日の当たらない史料ほど掘り甲斐がある。
それは負け惜しみでもあり、同時に紛れもない本音でもあった。
その日も研究室で、湿気に波打った古文書の写しを睨みながら、コンビニのおにぎりを頬張っていた。窓の外では梅雨らしい雨が、律儀に降ったり止んだりを繰り返している。
研究室の壁一面を埋める書棚は、私の給料の大半を吸い込んだ史料でぎっしりと埋まっており、そのうちの何割かはこの十年ろくに開かれていない。それでも捨てられないのが、この商売の性というものだ。
昼過ぎ、隣の研究室の准教授がドアを開けて顔を出した。
「先生、また学食のから揚げ定食に、研究室でコンビニのおにぎりですか?」
「もう、おにぎりばっかりで飽きてしまったよ。給料が湯水のようにあれば、倒れるまで寿司でも食べてみたいもんだ。」
「いくらお給料があっても、先生はそこをつくまで史料の購入につかってしまうでしょ」
彼はカラカラと笑いながら講義に向かっていった。
こういう他愛のないやり取りが、この職場での数少ない娯楽である。私は肩をすくめて、また古文書の写しに向き直った。
研究室のインスタントコーヒーは、もう三杯目だというのに一向に目が冴えない。梅雨の湿気は、頭の中まで湿らせてしまうものらしい。
スマートフォンが震えたのは、二個目のおにぎりに手を伸ばしかけた時だった。
画面には、学部のグループチャットの通知が、これまで見たこともない速度で積み上がっていく。
「――は?」
思わず声が出た。誰かが貼ったリンクを開くと、テレビ局のニュース速報がそのまま流れ込んできた。
『国道一号線、大規模な集団による通行止め――東京都内』
映像が切り替わる。
ヘリコプターからの空撮だろう、国道一号線を埋め尽くすようにして、隊列を組んだ人影が映っていた。
旗指物、具足、槍。テレビの向こうのアナウンサーが、困惑を隠しきれない声で「大規模な撮影イベントか、あるいは無許可の集会と見られ」などと言っている。
あまりの数に、まるで無数の虫が道路の上でうごめいているのかと見間違うほどだった。おびただしい数の武者たちが、寸分の乱れもなく車道を埋め尽くしている。
その一方で、少し離れた歩道や、沿道のビルの窓からは、何事もなかったかのように、スマートフォンを掲げて撮影する人々の姿がちらほらと映り込んでいた。傘を差したまま立ち止まる通行人、ベランダから身を乗り出す住人。あまりにも見慣れた、平凡な現代の反応と、あまりにも異質な、非現実的な行軍の光景。
ヘリの画角には、その二つが、同じフレームの中に何の違和感もなく同居していた。
私はおにぎりを机に置き、スマホに齧り付いた。
講義中であろう准教授からも早速メッセージが飛んできた。
『先生、ニュースみました? これ完全に先生の専門分野の事件じゃないですか? 俳優の衣装だか、武将名の解説だかなんだかの依頼とか来ませんかね、これ』
軽口のつもりだろう。
実際、私も笑って返信をしようとした。だが思うように返信の指が動かなかった。
「いや、これは……」
これはお芝居にしてはあまりにも・・・。旗印の意匠に見覚えがある、というのは正確ではない。
見覚えがありすぎて、月曜日の真昼間から笑いがこみ上げてくるくらいだった。
こんな精巧な意匠を、コスプレやイベントの小道具でどうやって用意したのか。
むしろそっちの技術の方が気になる、という不謹慎な感想が先に立った。画面越しでも分かる具足の擦れ具合、泥の跳ね方、履き潰された草鞋の形。どれも、量産品のレプリカが持ち得ない生々しさをまとっていた。
それも十や百の規模ではない、数百、、いや千人規模の集団が国道一号線を慶応から白金の方角に行軍している。
ヘリの空撮を見る限り、隊列は片側三車線をほぼ埋め尽くし、慶応大学の三田キャンパス脇あたりから白金台の交差点まで、途切れることなく続いていた。
目算で一キロ弱。先頭を騎馬の武者が固め、その後ろに具足姿の徒士がびっしりと連なり、さらに後方には、荷を積んだ荷車や、背に大きな荷を括りつけた人足の列まで見える。
これはもう番宣などの見世物の類ではない、本物の軍の行軍、という言葉がそのまま当てはまる編成だった。
戦国の頃、一万石の大名が動員できる兵はおよそ二百五十人と言われる。だとすれば、これはちょっとした国衆――独立した小領主クラスの総力に相当する規模の軍だ。
旗指物の意匠も、単なる目立ちたがりの飾りではない。武者が具足の背に差す小さな旗印のことで、遠目からでも敵味方や所属を判別できるよう、家ごとに定められた紋様を染め抜いてある。
喩えるなら、スポーツ選手のユニフォームにゼッケンと背番号を足したようなものだと思ってもらえればいい。あの規模の軍勢が、寸分違わず同じ紋様の旗指物で統一されているということは、それだけ強固な指揮系統のもとにある証でもあった。
学者というのは因果な商売で、目の前で世界がひっくり返りかけていても、まず「面白い」が来る。恐怖や不安は、たぶんそのあとにゆっくりやってくるのだろう。この時の私はまだ、それを吞気に信じていた。
SNSのタイムラインは既にお祭り騒ぎだった。
『これ絶対テレビ局の仕込みでしょw』
『大河ドラマの撮影にしては規模でかすぎん?』
『国道封鎖してまでやること?逆に見たい』
『何かのプロモーションだよね、たぶん』
『歴史オタクだけど旗印の作り込みガチすぎて草』
『これもし本物だったら日本史ひっくり返るんだけど』
『いや本物なわけないでしょ落ち着いて』
誰もが半分笑いながら、この珍事を日々の日常のひとつとして消費しにかかっていた。
物流会社のアカウントが「本路線、通行不能のため大幅な遅延が生じております」と律儀に詫びているのが、かえって現実味を欠いていて可笑しかった。
世界の終わりですら、宅配便の遅延というかたちで告知されるのかもしれない。
ニュースのテロップには、官房長官の名前が早くも流れていた。
「現在、関係省庁において情報収集を進めております」
という、こういう時にしか聞かない定型句。その紋切り型の落ち着き払った言葉と、画面の奥で蠢く旗指物の群れとの温度差が、私にはひどく滑稽に映った。
私はといえば、研究室の隅にしまい込んでいた資料の束を引っ張り出し、机の上に広げていた。学生時代から後生大事に取っておいた、当時の合戦装束や軍勢の編成に関する資料である。
誰に頼まれたわけでもないのに、映像を一時停止しては資料の図版と見比べ、うきうきと付け合わせを始めている自分に気づいて、少し笑ってしまった。こういう時だけ手際がいいのは、我ながらどうかと思う。
「これは、、、本当に芝居なのか。出し物にしては非常によくできている、、、」
声に出してみたが、口先だけがそう言っていて、腹の底では別のことを考えていた気がする。
少なくとも、おにぎりを食べ終えるまでは。
映像をコマ送りにしながら、私は自分の悪い癖に気づいていた。
旗指物の擦り切れ方、雨に濡れた具足の縅糸の色、行軍の隊列の組み方――そのひとつひとつに、勝手に採点をつけ始めてしまう。
この分野を長くやっていると、本物とレプリカの違いは、意外と些細なところに出る。
具足の重みに慣れた者の歩き方は、付け焼き刃では絶対に真似できない。
画面の中の彼らは、明らかに、その重みに慣れていた。
准教授にはとりあえず
「もしもメディアから依頼が来たら回してくれ、大食漢の腹の虫のためにも、仕事は選り好みしない主義でね」
とだけ返しておいた。
軽口で済ませられるうちは、済ませておきたかった。
配信サイトのランキングが目に入ったのは、資料と映像を見比べて三十分ほど経った頃だった。
急上昇一位、視聴者数が一分ごとに桁を変えていく生配信があった。サムネイルには見覚えのある顔――過去に何度も炎上し、そのたびに謝罪動画で再生数を稼いできたいわゆる迷惑系配信者だった。
タイトルには、こうあった。
『【緊急】謎の武士軍団に突撃する5分前』
私は思わず天を仰いだ。
「おいおい。これは、、、火遊びですまないかもしれないぞ」
これは学者としての勘でも何でもない、ただの常識人としての悲鳴だった。
だが世の中には、常識人の悲鳴が一番届かない生き物というのが確かに存在するらしい。
この配信者については、私も名前くらいは知っていた。線路への不法侵入、閉店後の飲食店への無断突入、災害現場での迷惑撮影。
炎上のたびに謝罪動画を出し、そのたびに再生数を稼ぎ、そのたびにまた同じようなことを繰り返す。
倫理観と再生数が反比例するタイプの人種だ、と誰かが評していたのを思い出す。
世間はそういう手合いを苦々しく思いながらも、結局は再生ボタンを押してしまう。私だってその例に漏れず、今まさに画面に釘付けになっている一人だった。
配信画面の中で、彼は嬉々としてカメラに向かって喋っていた。
片手に自撮り棒、もう片方の手を大きく振り回しながら、規制線の隙間をするすると抜けていく身のこなしだけは、妙に堂に入っていた。
周囲では機動隊員らしき人影が慌てて制止しようとしているが、人混みに紛れて振り切ってしまっている。
「いやー皆さん見てくださいこの数! 絶対バズるでしょこれ! ちょっと近づいてみますね、本物の武士かどうか確かめてやりますよ、マジもんの侍だったら国宝級ですよこれ!」
コメント欄が加速していく。
『やめとけ』
『危ないって』
という声もあったが、それ以上に
『行け行け』
『神回の予感』
『スパチャ投げるから最前列行って』
という無責任な歓声が画面を埋め尽くしていった。
人は、自分が代償を払わずに済む見世物には、驚くほど寛容になれる。
隊列との距離が、みるみる縮まっていく。
旗印が、画面いっぱいに映るほどに近づいた頃、行軍の先頭にいた武者姿の一人が、僅かに顔を上げてカメラの方を――いや、配信者の方を見た気がした。
私の背筋を、何かが撫でた。
画面越しに見る行軍の目には、恐怖も戸惑いもなかった。むしろ、道端を横切る羽虫でも見るような、静かな無関心があるだけだった。
その無関心の質が、これまで見てきたどんな役者の演技よりも、私には本物じみて見えた。
配信者本人だけが、その温度差にまるで気づいていない。
「うわ、近い近い、これもう至近距離ですよ皆さん! こんなん配信史上ないでしょ、伝説確定でしょ!!」
カメラが激しく揺れる。息を切らしながらも、彼の口は止まらない。
「ちょっと待って、この鎧と刀、マジで作り込みエグくないですか!? こんなの絶対オーダーメイドですよ、一体いくらかけてんすかこれ! いや、これもう国宝レベルのプロモーションでしょ、どこの案件ですか!!俺も宣伝するんで教えてくださいよ!!」
その声には、疑いの色など欠片もなかった。むしろ、感心と羨望が入り混じったような、無邪気な興奮だけがあった。
『鎧の作り込みガチですごすぎ』
『どこの制作会社よこれ』
『マジリアル。チキンスキンになるわー』
という便乗の波に呑まれていった。
私はスマートフォンを握る手に、無意識に力を込めていた。
配信者はポケットから何かを取り出した。
持ち手の黒い、いかにも玩具めいた形をした銃だった。
よく見れば、量販店でいくらでも手に入る、小さめの電動のエアガンだった。
彼はそれを手で軽く回してみせ、カメラに向かって得意げに笑った。
「せっかくの武士だから、銃相手にどういうリアクションするか見たいですよね! これで――」
彼は笑いながら、それを構えた。
狙いは、最も近くにいた足軽らしき一人の胴。
あまりに距離が近いため、彼がどれだけ鈍臭くともエアガンを外すことはないだろう。
コメント欄が、これまでで一番の速度で流れ始めた。
『おい待てw』
『それ流石にダメだろ』
『武士に切腹させられるぞ笑』
画面の向こうの人たちは本気で止めることはなかった。
むしろもっと過激なものが見たいという、彼の背中を遠回しに押すコメントで溢れかえっていた。
現場でも誰一人として、彼の腕を掴んで制止できる距離にはいなかった。
私は画面から目を離せないまま、椅子から半分腰を浮かせていた。
おにぎりの残りが、机の上で冷えていくのにも気づかないまま、口の中が張り付くように乾いていたことを覚えている。