六月というのは、学者にとって存外ありがたい季節である
雨が降る。学生が来ない。誰にも邪魔されず史料が読める。完璧な循環だ。文科省は梅雨休暇を制度化すべきだと思う。
専門は戦国史。それも教科書の隅に三行だけ載っている、地味オブ地味な分野である。
どれくらい地味か。学会で発表すれば「またあの人か」という顔をされ、コンパで専門を明かせば女性陣の興味が音を立てて消滅し、親戚の集まりでは十年連続で「で、それって何の役に立つの?」と聞かれている。
何の役に立つのか。私が知りたい。
――この日までは、本気でそう思っていた。
その日も研究室で、湿気に波打った古文書の写しを睨みながら、コンビニのおにぎりを頬張っていた。一個目である。念のため言っておくが、买い置きはあと四個ある。
昼過ぎ、隣の研究室の准教授がドアから顔を出した。
「先生、また学食のから揚げ定食に、研究室でおにぎりですか?」
「から揚げ定食は主菜。おにぎりは間食。両立する」
「両立の使い方が独特なんですよ。で、何個目です?」
「一個目だ」
「机の脇の袋、膨らんでますけど」
「未来のおにぎりだ。まだ食べていないものは、カウントされない」
「その理屈で健康診断も乗り切るつもりですか」
「もう、おにぎりばっかりで飽きてしまったよ。給料が湯水のようにあれば、倒れるまで寿司でも食べてみたいもんだ」
「いくらあっても、先生は底をつくまで史料に使うでしょ。先月も何か競り落としてましたよね」
「高札の写本だ。あれは運命の出会いだった」
「運命と衝動買いの区別、ついてます?」
「――ついていたら、学者になっていない」
「名言っぽく言って誤魔化さないでください」
彼はカラカラと笑いながら講義へ消えていった。失敬な男である。全部当たっているのが、二重に失敬である。
スマートフォンが震えたのは、二個目の――いや、一個目の残り半分に取りかかった時だった。
学部のグループチャットが、見たこともない速度で通知を積み上げていく。普段は「プリンタが紙詰まりです」で三日もつチャットである。
「――は?」
リンクを開くと、ニュース速報が流れ込んできた。
『国道一号線、大規模な集団による通行止め――東京都内』
ヘリからの空撮。国道一号線を埋め尽くす、隊列を組んだ人影。
旗指物。具足。槍。
アナウンサーが「大規模な撮影イベントか、あるいは無許可の集会と見られ」と言っている。
撮影イベント。なるほど。私も専門家でなければ、そう思っただろう。
問題は、私が日本に五人といない専門家だったことである。人生で初めて、この専門が「役に立つ」瞬間が来てしまった。もっと穏やかな形で来てほしかった。
「鹿子絞り、隅立て四つ目……いや待て、幅が広い。十一割り四つ目紋だ」
誰もいない研究室で、紋様判定を絶叫する中年男。冷静に考えると、通報されるべきは私の方かもしれない。
講義中のはずの准教授からメッセージが来た。講義はどうした。
『先生、ニュース見ました? 完全に先生の専門分野じゃないですか!』
『見てる。講義は?』
『学生が全員スマホ見てるので実質休講です』
『実質、を禁止用語にするぞ』
『それより見立ては? 大河ですか? 映画ですか?』
『どちらでもない』
『じゃあ何です?』
指が止まった。
なんと打てばいい。「四百年前の軍勢に見える」か。学者生命が終わる文面である。
だが、困ったことに、そうとしか見えないのだ。
具足の擦れ具合。泥の跳ね方。履き潰された草鞋。旗印の染めの掠れまで、何もかもが「使い込まれて」いる。レプリカというのは、新品に汚しをかけて作る。あれは違う。あれは、汚れる生活を四百年分してきた道具の顔だ。
『衣装が本物すぎる。衣装部の仕事じゃない』
『どこの仕事なんです?』
『強いて言えば、永禄年間の職人の仕事』
『先生、月曜の昼から飲むのはさすがに』
『素面だ。素面でこれを言っている自分が一番怖い』
規模も冗談ではなかった。数百――いや千人規模。隊列は片側三車線を埋め、三田キャンパス脇から白金台の交差点まで途切れない。先頭に騎馬武者、続いて徒士の群れ、後方に荷車と人足。
一万石の大名の動員力が約二百五十人。目の前のこれは、その四倍。独立した小領主の総力が、月曜の東京で渋滞を起こしている。
卒論でこの一文を書いた学生がいたら、私は赤ペンで「もう少し現実的に」と書く。現実の方が、非現実的になってどうする。
『先生。既読無視こわい』
『旗指物が千人分、完全に統一されてる』
『ユニクロで揃えたとかじゃなく?』
『千人が同じユニフォームで、ゼッケンの縫製まで同じで、全員がその装備で歩き慣れてる。これは「軍」だ。仮装した群衆じゃない』
『……ちょっと待ってください、本気?』
『マジかもしれん。。。三分前からずっと冷や汗と引きつった笑いが止まらないぞ』
SNSは当然のお祭り騒ぎである。
『これ絶対テレビ局の仕込みでしょw』
『大河の撮影にしては規模でかすぎん?』
『国道封鎖してまでやること?逆に見たい』
『歴史オタクだけど旗印の作り込みガチすぎて草』
『これもし本物だったら日本史ひっくり返るんだけど』
『いや本物なわけないでしょ落ち着いて』
誰もが半分笑いながら、この珍事を消費しにかかっていた。
物流会社の公式アカウントが「本路線、通行不能のため大幅な遅延が生じております」と律儀に詫びている。戦国の軍勢も、この国のオペレーション上は「交通障害」である。世界の終わりが来ても、たぶん最初の公式発表は「お荷物のお届けに遅れが生じています」だ。
官房長官のテロップも流れた。
「現在、関係省庁において情報収集を進めております」
画面の奥で旗指物の群れが蠢く中、語彙だけは平常運転。この国の危機管理は、まず定型句から崩れない設計になっているらしい。ある意味、頼もしい。
当の私はといえば、研究室の隅から資料の束を引っ張り出して、机いっぱいに広げていた。合戦装束、軍勢編成、旗指物の図版。学生時代からの秘蔵コレクションである。
映像を一時停止しては図版と見比べ、一時停止しては見比べ。気づけば、うきうきと採点表まで作り始めていた。
世界がひっくり返りかけている日に限って、この手際。研究計画書もこの速度で書けたら、私は今頃教授どころか学長である。
採点項目、旗指物の擦り切れ方。満点。
縅糸の退色具合。満点。
隊列の組み方。満点。
そして最後の項目――歩き方。
具足の重みに慣れた者の歩き方だけは、付け焼き刃では絶対に真似できない。重心が違う。膝の使い方が違う。あれは「着ている」のではなく「着て生きてきた」人間の歩幅だ。
満点。
……満点なのだ。困ったことに、全項目。
答案にこう書くしかない。「本物」と。
准教授への返信は、こうしておいた。
『もしメディアから依頼が来たら回してくれ。大食漢の腹の虫のためにも、仕事は選り好みしない主義でね』
『この非常時に出演料の算段してるの、たぶん国内で先生だけです』
『専門家は需要のあるうちに稼ぐものだ』
『その専門、需要が生まれたの本日の正午ですけどね』
言い返せなかった。統計的に正しい。
軽口で済ませられるうちは、済ませておきたかった。
――済まなくなったのは、三十分後である。
配信サイトの急上昇一位に、それはいた。
視聴者数が一分ごとに桁を変える生配信。サムネイルは見覚えのある顔。過去に何度も炎上しては謝罪動画で再生数を稼いできた、あの迷惑系配信者である。
タイトルはこうだ。
『【緊急】謎の武士軍団に突撃する5分前』
私は天を仰いだ。
「おいおい。これは……火遊びですまないかもしれないぞ」
学者の勘ではない。常識人の悲鳴である。だが世の中には、常識人の悲鳴が一番届かない生き物が存在する。しかもその生き物に限って、規制線を抜ける行動力だけは一級品なのだ。神は才能の配分を、時々間違える。
「いやー皆さん見てくださいこの数! 絶対バズるでしょこれ! ちょっと近づいてみますね、本物の武士かどうか確かめてやりますよ、マジもんの侍だったら国宝級ですよこれ!」
コメント欄が沸く。
『やめとけ』
『危ないって』
という良識も一応流れたが、すぐに、
『行け行け』
『神回の予感』
『スパチャ投げるから最前列行って』
の物量に押し流された。
人は、自分が代償を払わない見世物には、際限なく寛容になれる。
画面の中で、隊列との距離がみるみる縮まる。旗印が画面いっぱいに映る。
その時、先頭の武者の一人が、僅かに顔を上げて配信者を見た。
私の背筋を、何かが撫でた。
その目に、恐怖も戸惑いもなかった。怒りすら、なかった。あったのは、道端を横切る羽虫を見る時の、あの静かな無関心だけだった。
演技なら、悪役は睨む。エキストラは目を逸らす。本物の兵だけが――関心を、持たない。
配信者だけが、その温度に気づかない。
「うわ、近い近い、これもう至近距離ですよ皆さん! こんなん配信史上ないでしょ、伝説確定でしょ!!」
「この鎧と刀、マジで作り込みエグくないですか!? 絶対オーダーメイドですよ、いくらかけてんすかこれ! どこの案件ですか!! 俺も宣伝するんで教えてくださいよ!!」
疑いの色は欠片もない。ある意味、幸福な男である。この瞬間までは、間違いなく。
彼はポケットから何かを取り出した。
黒い、玩具めいた形の銃。量販店で数千円の、電動エアガン。
「せっかくの武士だから、銃相手にどういうリアクションするか見たいですよね! これで――」
彼は笑いながら構えた。狙いは、最も近くの足軽の胴。外しようのない距離。
コメント欄が、この日一番の速度で流れた。
『おい待てw』
『それ流石にダメだろ』
『武士に切腹させられるぞ笑』
切腹、と打ち込んだ誰かは、まだ笑えていた。
画面の向こうの誰も、本気では止めなかった。現場の誰も、彼の腕を掴める距離にいなかった。
私は椅子から半分腰を浮かせたまま、動けずにいた。
机の上では、食べかけのおにぎりが冷えていった。未来のおにぎり四個の存在を、私はこの後、深夜まで思い出さないことになる。
口の中だけが、張り付くように乾いていた。