由比を発つ朝、私は懐から手帳を取り出し、そこで初めて気づいた。
表紙が半分もげ、中の頁は、泥と、何かの液体を吸って、べったりと貼りついていた。あの騒乱の最中、しゃがみ込んだ拍子に落としたのだろう。誰かに踏まれ、そのまま土に擦り込まれたに違いなかった。
指先で慎重に頁をめくってみたが、書き込みのある頁は、どこも似たような有様だった。行軍の隊列の組み方、具足の縅糸の色、聞き取った言葉の訛り。この十日ほどで書き留めてきた記録の、大半が滲んで読めなくなっていた。富士山を写し取ったあの頁だけが、辛うじて輪郭を残していた。
私は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
思えば、この手帳が、私に残された最後の道具だった。将から持ち物を禁じられて以来、私が扱えるものは、この紙と鉛筆だけだったのだ。その十日分が、一晩で泥に還った。
学者にとって、記録を失うというのは、思っていたよりもずっと堪えるものだった。人の記憶というものが、いかに当てにならないかを、私は職業柄、誰よりもよく知っている。史料が残らなければ、それはやがて無かったことになる。四百年前の彼らが、まさにそうであったように。
それでも、後ろの方の頁は、まだ白いまま残っていた。使う前の頁だけが、泥を吸わずに生き延びたのだ。皮肉な話である。過去は流れ、白紙だけが手元に残った。
奇妙なことに、その事実は、私が思っていたよりも、ずっと軽く胸に落ちた。
失った分は、いずれ記憶から書き起こせばいい。それより、この白い頁には、これから見るものを刻んでいく。そう思い直した瞬間、自分の中で何かの区切りがついたような気がした。
由比を発ってから、隊列の空気は明らかに変わっていた。
軽口は減り、代わりに、荷車に横たえられた者たちの呻き声が増えた。動ける者は歩き、動けない者は担がれ、あるいは戸板のようなものに乗せられて運ばれていく。具足の傷んだ革紐を繕う手つきにも、以前のような余裕は見えなくなっていた。
私は、その戸板の一つに、見覚えのある顔を見つけた。
許嫁の話でみなを沸かせていた、あの若い雑兵だった。
意識は戻っていた。だが、目の焦点はまだどこか遠くを見ていて、隣を歩く相棒が何度話しかけても、返事は途切れ途切れにしか返ってこなかった。相棒の方は、それでも辛抱強く、同じ調子で声をかけ続けていた。
「――もう少しじゃ。もう少し歩けば、飯にありつける」
意味のある言葉というより、生きていることを確かめ合うための、儀式のような響きだった。私は、その光景から目を逸らさずにいることだけが、今の自分にできる、せめてもの誠実さのように思えた。
隊列に一人だけいる薬師――金瘡医と呼ばれていた老人が、その戸板の傍らにしゃがみ込み、若者の耳の後ろを指で押さえていた。
「――血は出ておらぬ。骨も折れておらぬ」
老人は、誰にともなくそう呟いた。
「妙なものよ。傷はどこにもないのに、中身だけが揺すぶられておる。あの音は、人の腑を直に殴りつけるものらしい」
その見立ては、恐らく正しかった。指向性の音波が体内の空洞を共振させ、平衡感覚と内臓を同時に叩く。私が学生に説明するなら、そういう言い方になる。だが老人は、四百年前の語彙だけで、ほとんど同じ結論に辿り着いていた。専門家というのは、いつの時代も、道具ではなく目で仕事をするものらしい。
「――治りますか」
思わずそう尋ねると、老人はこちらを一瞥して、ぶっきらぼうに答えた。
「二日も寝かせておけば、大方は元に戻ろうよ。妖術と申しても、所詮は音じゃ。刃で斬られたわけではない」
「音、と分かるのですか」
「分かるわ。わしの耳も、まだ鳴っておるでな」
自分も浴びておいて、他人の診立てを続けている。この老人の胆力に、私はどう返す言葉も持たなかった。命に別状はない。それだけが、今この隊列に残された、数少ない確かなことだった。
私自身も、あの日、彼らと同じ音を浴びた一人だった。将兵たちほどの至近距離ではなかったにせよ、耳の奥に残る鈍い痛みは、まだ完全には消えていない。首を横に振ると、頭の芯が、僅かに遅れてついてくるような感覚がある。
奇妙なことに、その事実が、これまでになかった感覚を私の中に生んでいた。政府から派遣された、ただの仲介役ではなく――彼らと同じものを浴び、同じように耳を塞ぎ、同じように吐き気を堪えた私は、もはや、彼らの側の一人になりつつあるのかもしれない、と。
その日の昼過ぎ、隊列は、人の消えた町を通り抜けた。
避難勧告が、よほど徹底されていたのだろう。商店のシャッターは軒並み下ろされ、洗濯物が干されたままのベランダだけが、いくつも風に揺れていた。自転車が倒れたまま放置され、自動販売機の明かりだけが、誰に向けるでもなく灯り続けている。
生活の気配だけを残して、人だけが消えている。その光景は、行軍そのものよりも、よほど現実離れして見えた。
一軒の電器店の前を通りかかったとき、私は思わず足を止めた。
ショーウィンドウの奥で、展示用のテレビが何台も、同じ映像を映し続けていた。店を閉めるとき、電源を落とす余裕さえなかったのだろう。
画面には、昨日の由比の映像が流れていた。
ドローンから撮られたものらしい俯瞰の絵に、テロップが重ねられている。ガラス越しで音は聞こえない。だが、文字だけは、はっきりと読み取れた。
『自衛隊員 多数死傷 政府「現場の判断」繰り返す』
『音響兵器の使用 専門家「想定外の運用」と指摘』
画面の下端を、視聴者の投稿らしき文字列が、絶え間なく流れていった。
『芦原三佐、話し合いしたいって言ってた人だよね』
『どうしてこうなったんだ、誰か説明してくれ』
『この人たちを止める方法、本当に他になかったのか』
『もう誰が悪いとかじゃない気がしてきた』
たった一晩で、世間の論調が変わり始めているのが、その断片だけでも分かった。排除を叫ぶ声も、擁護する声も、どちらも一度は行き止まりに突き当たったのだ。人が実際に死んで初めて、議論というものは、ようやく静かになるらしい。
私は、その画面を、しばらく黙って見つめていた。
芦原の名が、あんな形で、見知らぬ誰かの口から呼ばれている。彼が最後に部下を庇って踏み出した、あの一歩のことを、画面の向こうの誰も知らない。知らないまま、彼の階級と姓だけが、記号のように流通していく。
「――先生、何を見ておられる」
隣を歩いていた若い雑兵が、怪訝そうにガラスの中を覗き込んだ。
「あれは、絵か。それとも、水鏡のようなものか」
「――遠くの出来事を、映す道具です」
「ほう。便利なものじゃな。……して、うまいのか」
「食べ物ではありません」
「先生が長いこと見つめておるから、てっきり」
「私を何だと思っているんです」
「よう食う学者じゃと思うておる」
否定できる材料が、この十日間で一つもなかった。
彼は、しばらく食い入るように画面を見つめていたが、やがて興味を失ったように前を向いた。彼にとって、そこに映っているのは、自分たちが昨日くぐり抜けた地獄ではなく、ただの奇妙な光の板でしかなかったのだろう。
あるいは、それでよかったのかもしれない。
――由比のその後、外の世界がどうなっていたか。後に知ったことを、ここにまとめて書き残しておく。
あの夜、国内の空気は一変していたという。官公庁には半旗が掲げられ、各局は予定の番組を差し替えた。祭りのように消費されてきたこの一件を、この夜ばかりは、誰も娯楽と呼ばなかった。
『芦原三佐の「私個人としては、ない」って言葉が、頭から離れない』
『最後まで部下の前に立ってたらしい。そういう人が死ぬのか』
『タイムラインが静かすぎる。みんな言葉なくしてる』
『武士側にも重体多数だって。どっちも被害者じゃないか、これ』
『誰か教えてくれ。この話、どうすれば正解だったんだ』
誰も、答えられなかった。答えられないまま、画面の前の何千万人が、同じ問いを抱えて眠れずにいたという。
海外の反応も、質が変わった。
各国の首脳が、相次いで弔意を表明した。『REAL SAMURAI』と浮かれていた海外のSNSからは、軽口が消えた。
『初めてこれが「戦争」に見えた。誰も戦争をしたくないのに、人が死んでいく。一番悲しい形の戦争だ』
『400年前の兵士と、現代の兵士が、由比という浜で殺し合う理由が、この世のどこにあったんだ』
軍事専門家たちは、非殺傷兵器の教義そのものの限界を論じ始めた。「痛みで止まらない敵」という概念が、各国の教範を書き換えるだろう、と。四百年前の男たちは、意図せぬまま、世界中の軍隊の教科書に載ることになった。彼らが知ったら、なんと言っただろう。恐らく「載せるなら似顔を良う描け」だろう。
そして、対策本部。
あの夜のテントは、通夜のようだったという。
誰よりも打ちのめされていたのは、准教授だった。
考えてみてほしい。検問で時間を稼ぐという策は、彼の献策である。武士に「止まれ」は通じない、「待て」なら通じる。あの見立ては正しかった。正しかったからこそ、芦原はあの場所に立ち、正しかったからこそ、隊列は一度止まり――そして、たった一発の暴発が、全てを覆した。
「……私の案が、あの人をあそこに立たせたんです」
彼は、そう漏らしたという。同僚が、あなたの案は正しかった、現に工事は間に合ったのだと慰めると、彼は静かに返したそうだ。
「間に合って、どうなりました」
誰も、答えられなかった。
彼の行軍速度の予測は、一日と違わず的中していた。当たってほしくない予測ほど、よく当たる。学者という稼業の、一番割に合わないところである。
准教授は、それから三日間、会議で一言も発しなかったという。
そして四日目から――彼は、対策本部で一番よく喋る男になった。
その四日目以降の彼が何をしたかは、いずれ書く。ここでは一つだけ言っておく。あの三日間の沈黙は、彼の敗北ではなかった。弓を引き絞る時間だったのだ。
町を抜けると、道は再び、山と海の間に挟まれた。
左手の斜面には、みかんの段々畑が空へ向かって伸び上がり、右手は、ほとんど崖のような高さから、いきなり海へと落ち込んでいる。国道と、鉄路と、その上を跨ぐ高架が、身を寄せ合うようにして、細い帯を作っていた。
薩埵、と呼ばれた場所のはずだった。
由比とひと続きの、東海道でも指折りの難所である。広重が描いた「由比」の絵は、正確には、この峠から見下ろした富士の姿だったはずだ。学生に何度も講義してきた土地を、私は今、自分の足で歩いていた。単位のためでなく、命のために歩く東海道は、講義ノートの百倍の説得力があった。
そして、歩きながら、私は妙なことに気づいていた。
道が、新しすぎるのだ。
アスファルトの黒が、他の区間よりも明らかに濃い。轍の跡がなく、白線の塗料が、まだ真新しい光を放っている。ガードレールの継ぎ目には、錆の一つも浮いていない。
由比の手前で感じた、あの足元の違和感の正体が、ようやく形を成した気がした。
道を新しくすること自体は、珍しい話ではない。だが、私が引っかかったのは、その先だった。
山側へ折れるはずの旧道が、無い。
正確には、あった。ただし、その入り口には、真新しい仮設のフェンスが隙間なく立ち並び、『この先 災害復旧工事中 通り抜けできません』という、ご丁寧に照明まで仕込まれた看板が据えられていた。同じものが、その先の分岐にも、さらにその先の細い坂道にも、寸分違わぬ形で並んでいる。
一つや二つなら、偶然で済ませられた。だが、これほど律儀に、通り抜けられる道という道が、すべて同じ体裁で塞がれているとなれば、話は別だった。
私は足を止めそうになるのを、辛うじて堪えた。
道が、造り替えられている。それも、この隊列が通ることを前提にして。
そう理解した瞬間、背中を冷たいものが伝った。
彼らは、自分たちが道を選んで歩いているつもりでいる。だが実際には、行き着く先を、とうに誰かに決められている。そして、その決めた側が昨日、何をしたかを、私はこの目で見ていた。
「――なあ、先生よ」
不意に、隣を歩いていた古参の兵が、こちらに顔を向けた。
「この道は、妙ではないか」
私は、思わず息を呑んだ。
「――どのあたりが、でしょうか」
「うまく言えぬ。じゃが、山を切り開いた跡が、あまりに新しい。木の切り口が、まだ白いままじゃ」
彼は、道の脇の法面を、顎で指した。確かに、切り倒された木の断面が、いくつも生々しい色を晒していた。
「――普請したばかりの道、ということでしょう」
「そうであろうな」
古参の兵は、あっさりとそう頷いた。
「じゃが、誰が、何のために普請したものかは、儂には分からぬ」
その一言が、しばらく耳から離れなかった。
彼らは、決して鈍いわけではない。むしろ、地形を読む目は、私などより遥かに確かだ。ただ、彼らの世界には、「国が数日で道を一本造り替える」という発想そのものが存在しない。だから、目に映っているものを、正しく組み立てることができない。
知らせるべきだろうか、と考えた。
だが、知らせて、どうなる。前に進むほかない道を、前に進むなと言うのか。それとも、退けと言うのか。退くという選択肢を、この隊列は端から持ち合わせていない。
結局、私は何も言わなかった。その沈黙が正しかったのかどうかは、今でも分からない。
日が落ちるたび、隊列は少しずつ、口数を減らしていった。誰もが、由比で見たものを、それぞれの中で消化しきれずにいるようだった。
その日の野営地は、いつもより静かだった。焚き火の数もまばらで、酒代わりに配られた水を、皆黙って回し飲みしていた。
夜、そんな焚き火の一つを囲んで、古参の兵たちが低い声で話し込んでいるのを、私は少し離れた場所から聞いていた。
「殿は、まことにこの世におわすのだろうか」
まだ幼さの残る声が、そう漏らした。昼間、隊列の後方を、青い顔で歩いていた若者だった。
沈黙が、しばらく続いた。誰も、すぐには答えなかった。
「――黄泉ではない」
答えたのは、白髪の交じった古参の兵だった。低いが、揺るぎのない声だった。
「黄泉であるならば、我らはとうに殿にまみえておろう。まだお会いできておらぬということは、殿は必ず、この世のどこかにおわすということじゃ」
その理屈が、論理として正しいのかどうか、私には分からなかった。だが、その場にいた誰の顔にも、疑いは浮かんでいなかった。信じることそのものが、彼らにとっての生きる力になっているのだと、私はそのとき初めて、はっきりと理解した気がした。
そして、この焚き火を囲む誰一人、知らないのだ。その問いの答えを、将が既に知っていることを。あの川辺の夜、四百年の重さを受け取ってなお、翌朝いつもと同じ顔で馬に跨った男のことを、私は思った。兵を家に帰す。そのためだけに、あの男は今日も、誰よりも大きな声で号令をかけている。
「それに」
古参の兵は、少し声の調子を変えて続けた。
「これだけの目に遭うたのじゃ。殿にお会いした暁には、褒美の一つも頂かねば、割に合わぬわ」
その軽口に、周りから小さな笑いが漏れた。重苦しい空気の中で、それは場違いなほど場を和ませた。
「わしは、金の一枚もいただきたいものじゃ」
「贅沢を申すな。わしは、飯を三日三晩、腹一杯食わせていただければ、それで十分よ」
「飯なら先生と張り合うことになるぞ。三日三晩で足りるか」
「――む。では五日にしておこう」
流れ弾が飛んできた。この隊列では、飯の話をすると必ず私が引き合いに出される。もはや度量衡である。一先生、二先生と数えてほしい。
褒美の皮算用は、いつしか、帰ってから何をするかの話に変わっていった。
「わしは何よりもまず、風呂じゃ。谷の湯で、このふた月の垢を落とす」
「わしは女房の飯じゃ。……いや、その前に、謝るのが先か。発ってから、文の一本も出しておらぬ」
「そなた、文が書けたのか」
「……書けぬ。書けぬから、こうして頭を悩ませておるのじゃ」
「書けぬなら初めから悩む必要もなかろうが」
どっと笑いが起きた。四百年前も、令和も、詫びの入れ方に悩む夫の顔は同じである。
ひとしきり笑いが引いた後、あの若者が、ぽつりと言った。
「……わしは、田を見たい。今年の稲は、どうなったかのう。発つ時には、まだ青かった」
焚き火が、ぱちりと爆ぜた。誰も、すぐには言葉を返さなかった。
「――案ずるな」
古参の兵が、静かに言った。
「誰ぞが、見ておるわ。田というものは、そういうものよ。人が欠けても、田は誰ぞが継いで見る。谷の田とは、そうやって続いてきたものじゃ」
私は、俯いて、膝の上の拳を握った。
彼は知らない。自分の言葉が、どれほど正確に真実を言い当てているかを。あの谷の田は、四百年、絶えることなく、誰かに見守られてきた。子が継ぎ、孫が継ぎ、その孫の孫が継いで、今年も青々と稲が揺れている。私はそれを、知っている。この焚き火の輪で、ただ一人。
言えないことが、これほど重い夜もない。
「して、先生は」
若者が、こちらを向いた。
「朽木に着いたら、何をする」
「――論文を、書きます」
「ろんぶん、とは、食えるのか」
「食えません」
「では、要らぬな」
「即断しないでください。書いた本人が、巡り巡って少し食えるようになるのです」
「……回りくどい飯の稼ぎ方じゃのう。素直に田を耕せばよかろうに」
「まったくです」
まったくである。四百年前の若者に生計の本質を突かれて、返す言葉もない。
その若者は、ふと、私の足元に目を落とした。
「時に先生、前から思うておったのじゃが。その履物、わしらの草鞋より、よほど底が厚かろう」
「厚いです」
「なのになぜ、先生はすぐ息が上がるのじゃ」
「……履物の問題では、ないのです」
「では、何の問題じゃ」
「積み重ねの問題です」
「四百年の、か」
「私の、二十年の方です」
周りから、この日はじめての、まとまった笑い声が上がった。誰かが、黙って握り飯を一つ、私の手に押しつけてきた。
「――食え。よう歩いた」
礼を言う暇もなく、その男はもう、別の話を始めていた。
私は、その握り飯を両手で受け取ったまま、しばらく動けずにいた。
昨日、彼らを地に這わせた側の国から、私は来ている。それを承知の上で、この男たちは、私に飯を分けている。理屈で説明のつく話ではなかった。
焚き火が細くなり、輪が解け始めた頃、あの若者が、去り際に振り返った。
「先生も、朽木まで、来てくれるのじゃろう」
「――ええ。必ず」
若者は、満足そうに頷いて、寝床へ歩いていった。
必ず。自分で口にした二文字が、胸の奥に、楔のように残った。この約束だけは、どんな形になろうとも、果たすことになる。……果たすことに、なった。それは、また後の話である。
思えば、彼らが私を「先生」と呼ぶようになって、久しい。最初にそう呼んだのが誰だったかは、もう思い出せない。かつては政府側の人間だけが使っていた呼称が、今では、この焚き火の輪の当たり前になっていた。
そして、この隊列の中で、私の名を知る者は、ただの一人もいない。
その夜遅く、私は将に呼ばれた。
野営地の外れ、篝火の届かない場所に、彼は一人で立っていた。来た道の方角――由比のある東を、じっと見つめていた。
波の音が、思いのほか近くに聞こえた。海はもう、すぐそこまで迫っているのだろう。
「――先生」
「はい」
「昨日のことを、どう見た」
唐突な問いだった。だが、ここで言葉を濁すのは、違う気がした。
「――酷いものだと思いました。誰も、あそこまでの結果を望んではいなかったはずです。それでも、起きてしまった」
「随分と、はきとした物言いじゃな」
将は、小さく笑ったようだった。暗くてよく見えなかったが、声にそう感じさせる響きがあった。
「あの若い者たちは、まだ息をしておるか」
「はい。二人とも」
「それだけで、よしとせねばな」
しばらく、沈黙が続いた。私は、その沈黙を埋める言葉を持たなかった。
「検問におった、あの若い将校のことよ」
将が、静かに続けた。
「あの者は、退けと言われて退く男ではなかった。儂の前に立ったときの目を見れば、それは分かる」
芦原の顔が、脳裏をよぎった。バリケードの向こう側で、部下たちの間を一人ずつ回っていた、あの後ろ姿を。
「――はい」
「敵と味方に分かれておっても、そこだけは分かるものよ」
その言葉に、私は何も返せなかった。敵と味方、という区分けそのものが、この状況において、どれほど空虚なものかを、将自身も、恐らく分かっていたのだと思う。
「先生」
「はい」
「――先夜、川辺でそなたが申したこと。あれで、全てか」
私は、息を吸い込んだ。ここで誤魔化せば、恐らく二度と、まともに向き合う機会は来ない。
「――いいえ。全てでは、ありません」
将が、こちらに視線を向けたのが、暗闇の中でも分かった。
「まだ、申し上げていないことがあります。殿の歩まれた道のことも。……この先の、道のことも」
「――ほう」
「ですが、今夜、それを申し上げるつもりはありません」
自分でも、驚くほどはっきりとした声が出た。
「――なにゆえじゃ」
「申し上げれば、あなた方は、歩けなくなるかもしれないからです」
将は、しばらく黙っていた。
責められるだろうと、私は思っていた。あるいは、力尽くで吐かせようとするかもしれない。この男には、それだけの力がある。
だが、返ってきたのは、別の言葉だった。
「――そうか」
将は、静かにそう言った。
「ならば、今は聞くまい」
「――よろしいのですか」
「よくはない」
将は、あっさりとそう答えた。
「よくはないが、そなたが、我らの足を止めぬために黙っておるというのなら、それは間者の所業ではない。少なくとも、儂の知る間者は、そのような理由で口を噤みはせぬ」
その言い方に、私はどう応えていいか分からなかった。
「じゃが、先生よ」
将は、続けた。
「いずれ、その口を開かねばならぬ時が来る。そなた自身が、そう思うておるのであろう」
「――はい」
「その時が来たら、包み隠さず申せ。儂がそれをどう受け取るかは、儂の勝手じゃ。そなたが背負うことではない」
その一言が、思いのほか深く刺さった。
私はこの数日、自分が何を言い、何を言わずにいるかを、ずっと自分一人の裁量として抱え込んでいた。それを、この男はあっさりと、こちら側に返してきた。
「――承知しました」
「それともう一つ」
将は、来た道の方角から、ようやく視線を外した。
「その研究者としての目で、この先を見届けてくれ。何が起ころうとも」
その言葉には、疑いも、追及もなかった。ただ、静かな依頼だけがあった。
懐の手帳には、白い頁が、もう幾らも残っていない。それでも、見届けるだけなら、目があれば足りる。書き起こすのは、後からでもできる。私は、頷いた。
「――承知しました」
翌朝、隊列は夜明けとともに動き出した。
道は、緩やかに下り始めていた。
昨日まで、左手にそびえていた山が、少しずつ後退していく。代わりに、右手の海が、目線と同じ高さまでせり上がってくる。潮の匂いが、これまでとは比べものにならないほど濃くなっていた。
やがて、道は大きく右へ折れた。
西へ向かっていたはずの隊列が、真っ直ぐ、海の方へと向き直る。
私は、そこで確信した。
この道は、彼らを西へ帰すために造られたものではない。海へ下ろすために造られたものだ。
「――先生」
隣を歩いていた若い雑兵が、不安げに声をかけてきた。
「我らは、湊へ向かっておるのか。船に乗るのか」
「――さあ、どうでしょう」
そう答えるのが、精一杯だった。
潮騒が、行く手から、少しずつ大きくなってくる。真新しい道は、緩やかに下りながら、海へ、海へと隊列を導いていく。
この先に、何が待っているのか。
道を造った者たちが、その終点に何も用意していないはずがない。それだけは、確かだった。
午後の日差しの中を、千の足音が、道の尽きる場所へ向かって進んでいく。褒美の皮算用をしていた男たちが、風呂と女房の飯の話をしていた男たちが、今日も律儀に、列を揃えて歩いていく。
行く手で、道が最後にもう一度、大きく折れているのが見えた。
あの角の向こうに、答えがある。
隊列の先頭が、その角を、曲がり始めた。