「――隼瀬殿」
私は、初めて、彼をその名で呼んだ。
将は、微かに目を見開いた。それから、ゆっくりと床几から立ち上がった。
「――ほう」
驚きよりも、どこか可笑しさを堪えるような声だった。
「四百年も後の世で、名乗った覚えもない名を呼ばれるとはな。……書物か」
「書物です」
「儂のような端武者の名まで、残っておるのか」
「残っています。それをお伝えするために、参りました」
夕闇の浜で、私たちは向かい合った。波の音が、規則正しく、二人の間を満たしていた。
「申し上げねばならぬことがございます。……全てを」
「全て、とな」
「はい。私が最初から知っていて、今日まで黙っていたことの、全てをです」
将――隼瀬殿は、しばらく私を見つめた。それから、床几を顎で指した。
「長くなるか」
「なります」
「ならば、座れ。……立ち話で聞く類の話ではなかろう」
私は、砂の上に腰を下ろした。彼は床几に戻り、海に半身を向けたまま、続きを待った。
「――私は、あなた方が国道に現れたその日、旗指物を一目見た時から、朽木元綱公の軍勢だと分かっていました。隅立て四つ目結。私の専門は、近江国衆の研究です。あなた方のことを、この世の誰よりも調べてきた人間です」
「……初日から、か」
「初日からです」
「道理で」
彼は、短く息を吐いた。
「初めて相まみえた日、そなたは我らの名を出さずに、我らを言い当てた。あれは学者の眼力かと思うておったが……種を明かせば、初めから答えを知っておったわけか」
「はい」
「――先生よ。そなた、存外、性質が悪いのう」
「否定できません」
「褒めておるのじゃ。戦場では、種を隠せる者から生き残る」
真顔である。だが今夜ばかりは、その乾いた軽口が、切り出しにくい話への、彼なりの助走であることが分かった。
「続けよ。まだ、序の口であろう」
「……はい。まず、金ヶ崎のことから、正しくお伝えせねばなりません」
私は、一つ息を吸った。
「あの時、織田信長公は、盟友であったはずの浅井長政殿に裏切られ、袋の鼠となりかけておりました。朽木谷は、その退路にあたる地でした。もし朽木が信長公を見限り、あるいは進路を阻んでいれば、信長公はあの場で命を落とされていたでしょう。しかし、元綱公は、信長公をお守りし、道案内までなさった。世に言う『朽木越え』です。あなた方の――朽木の武名は、あの一日で、まぎれもなく歴史に刻まれています」
隼瀬殿は、何も言わなかった。ただ、じっと海を見つめていた。
「そして、隼瀬殿。あなたのお名前は、金ヶ崎の記録に、確かに残っています。信長公の退却路を守る一隊を率いた、忠義の士として」
「――しかし、それきりです。それ以降、あなたのお名前も、この隊のことも、二度と歴史には現れません。恥ずかしながら私は、長年それを、金ヶ崎の後、特筆すべき働きがなかったからだろう、などと吞気に考えておりました」
その物言いに、隼瀬殿がわずかに眉を上げた。学者の軽口を、笑ってよいものか判じかねているような顔だった。
「働きがなかった、とな」
「学界の通説でした。……訂正の必要があります。あなた方は歴史から姿を消したのではない。この時代に、来てしまっていたのです。四百年の間、あなた方は、どの書物のどの頁にもいなかった。いないはずです。ここにいたのですから」
「……儂らの四百年は、書物の上では、白紙か」
「白紙です。その白紙を、今、あなた方自身が埋めています」
彼は、しばらく黙った。それから、ぽつりと言った。
「悪くない話じゃ。書き手のおらぬ頁を、自前の足で埋めておるとはな」
どこまでも、この男は、この男だった。
「――さて、ここからが本題です」
私は、続けた。ここから先は、助走の利かない話だった。
「川辺の夜、私は、元綱公が乱世を生き延び、天寿を全うされたと申し上げました。朽木の家が続いたことも。……あれは、全て真実です。ですが、その生き延び方までは、申し上げませんでした」
「……申せ」
「金ヶ崎の後も、朽木は織田家に仕え続けました。信長公が本能寺にて討たれた後は、天下を継いだ豊臣家に仕えました。そして時は下り、豊臣秀吉公が身罷られた後――かつての盟友であったはずの徳川家康公と、豊臣家を守ろうとする石田三成殿らとの間に、大きな亀裂が生じます。世に言う、関ヶ原の戦です」
「元綱公は、当初、石田殿らの西軍――豊臣家を守る側として、この戦に加わっておられました。ですが戦の最中、勝敗の趨勢を見て取ると、東軍――家康公の側へと、陣を返されたのです」
言い終えたとき、私は自分の声が、思いのほか落ち着いていることに驚いた。積み重ねてきた沈黙の重さに比べれば、事実そのものは、あまりに短い言葉で語り終えてしまえるものだった。
「――偽りを申すな」
隼瀬殿の声は、低く、そして震えていた。
「殿が、さような裏切りをなさるはずがない」
「私は、史実を申し上げているだけです」
「史実など、知らぬ! 殿は、忠義に篤きお方じゃ。一度組した者を、易々と見限るような御仁ではない!」
彼の声が、初めて荒々しくなった。私は、その激しさの奥に、何か別のものが揺れているのを感じた。あの夜、川辺で聞いた独り言――これは我らを謀る妖術か、という、あの震える声と、同じ根から出ているもののように思えた。
「――ならば、なにゆえ」
彼は、そこで一度言葉を切った。
「なにゆえ、そなたはそれを、川辺の夜に言わなんだ。殿の御最期まで教えておきながら、なにゆえ、そこだけを伏せた」
「言えば、あなた方の歩みを、止めることになると思ったからです」
「今は、なぜ言う」
「――この包囲を、ご覧になったからです」
私は、斜面を指した。夕闇の中、装甲車両の輪郭が、篝火に照らされて黒々と並んでいた。
「いつ、何が来るのか、私には分かりません。あちらとの繋がりは、とうに絶えています。ですが……あれは、話し合いの構えではない。それくらいは、素人の私にも分かります。もう、明日があるかどうかも分からない。ならば、今夜のうちに、全てを申し上げておきたかった」
「――知っておる」
「え」
「あれが物見遊山の陣立てに見えるか。儂を誰と心得る。――隼瀬重秀。金ヶ崎の折、殿より殿軍を賜り、預かった兵を一人も欠かさず連れ帰った男ぞ」
初めて聞く、彼自身の名乗りだった。書物の中で何百回も目にしてきたその名が、本人の声で、夜の浜に響いた。
「そなたの書物に、儂の名は、それきりしか残っておらぬのやもしれぬ。じゃがな、先生。しんがりというはな、敵の構えを読み違えれば、預かった皆が死ぬ役目じゃ。儂は一度も、読み違えたことがない。……ゆえに、案ずるな。そなたは今、退き際と進み際に、この世でいちばん目の利く男の、隣におるのじゃ」
自分を鼓舞するようでもあり、私を安心させるようでもある、不思議な物言いだった。そして実際、私は少しだけ、安心してしまったのだ。この期に及んで。この男の言葉には、そういう力があった。
隼瀬殿は、包囲を一瞥もせずに言った。
「教えてやろうか、先生。今日の昼、儂らがこの浜に着いた頃、あの車の列は、まだ忙しなく動いておった。それが日暮れ前に、ぴたりと止まった。――備えが成った、ということよ。備えが成って、なお兵を遊ばせておく大将は、この世におらぬ」
彼は、指を一本ずつ折りながら、続けた。戦の講釈をする時の、いつもの手つきだった。
「物見の鉄の鳥は、着いた頃には高く回っておった。今は、低い。的の寸法を測っておるのよ。荷駄の出入りも、日暮れとともに絶えた。兵糧の積み増しが済んだ証じゃ。後ろの鉄の列は、道幅いっぱいに横隊を組んだまま、一寸も動かぬ。袋の口を縛り終えた、ということじゃ。それに――今宵は、あちらの陣から、飯の煙が早う上がった。早飯を食わせて、早う寝かせる。夜明けに事を起こす軍の、いろはのいじゃ」
ぞっとした。私が漠然と「話し合いの構えではない」と感じていたものを、この男は、車両の数と、ドローンの高度と、夕餉の煙の時刻で、帳簿のように読み切っていた。
「攻めて来るなら、夜明けよ。引き潮で浜が広うなる刻限じゃ。――明日は、戦になる。十中八九、な」
「……残りの一、二割は」
「あちらの大将が、儂の見立てより阿呆であった場合よ」
真顔だった。私は笑えなかった。笑えない冗談を言う時ほど、この男は確信している。
「ゆえに、今宵も兵には飯を炊かせ、いつも通りに眠らせておる。明日戦をする兵に、今宵できてやれることは、それしかないでな」
「そなたに教わるまでもなく、風向きくらいは読める。……そなたが教えてくれたのは、風向きではない。儂の知らなんだ、四百年の方じゃ」
彼は、しばらく黙って海を見ていた。夜の海は、もうほとんど見えない。ただ、波の音だけが、変わらぬ調子で寄せては返していた。
「――たとえ」
やがて、彼は絞り出すように言った。
「たとえ、そなたの申すことが真であったとしても」
「隼瀬殿」
「……いや」
彼は、首を振った。荒れた声は、もう凪いでいた。
「真なのであろうな。そなたは、こういう嘘のつけぬ男じゃ。四百年の書物が、そう言うておるなら、そうなのであろう」
長い沈黙があった。
「――先生よ。乱世を生きるとはな、そういうことじゃ」
「……え」
「勝つ側を見極め、家を残す。旗の色を変えてでも、郎党と、その妻子と、谷の田畑を守り抜く。……それが主君の務めよ。殿は、殿の乱世を、最後まで戦い抜かれたのじゃ。畳の上で果てるまでな」
その声は、静かだった。静かすぎて、かえって痛かった。
「儂とて、同じ立場に立たされれば、同じ道を選んだやもしれぬ。……いや、選べなんだやもしれぬ。選べる者だけが、家を四百年残せるのじゃ」
「――では、なぜ、先ほどは」
「怒鳴ったか」
彼は、少しだけ笑ったようだった。
「……頭で分かることと、腹に落ちることは、別の話よ。四百年遅れで主君の変節を聞かされて、はいそうですかと頷ける郎党がおるなら、連れてまいれ。儂が説教してくれるわ」
波が、寄せて、返した。
「じゃが、これで得心もいった」
「得心、ですか」
「殿が旗の色を変えられたは、谷を守るためであろう。郎党と、その妻子と、田畑と……つまりは、儂らを、よ。儂らは四百年、殿に守られておったのじゃ。この世に来てからも、ずっとな」
彼は、暗い海に向かって、独り言のように続けた。
「ならば、道は変わらぬ。川辺の夜に申した通りよ。――殿の墓前に参る。四百年の遅参を詫び、家をお守りくだされたことに、礼を申し上げる。目指す場所は、初めから、一寸たりとも動いておらぬ」
「――墓前に」
「応。殿が城でお待ちならば城へ、墓でお待ちならば墓へ。……そして墓前に額づいた後は、皆で谷を見る。殿が守り抜かれた谷が、四百年でどれほど豊かになったか、皆で検分してやるのじゃ。それが何よりの、御霊への手向けであろう」
その声は、もはや将としての号令ではなかった。ただ一人の、主君と故郷を想う男の声だった。
殿への忠義と、故郷への想いが、この男の中では、初めから一本の同じ道だったのだ。私は、その道の前では、もう何も言うことができなかった。
「――それでも、進まれるのですか。あの包囲の、向こうへ」
私は、辛うじてそれだけを絞り出した。
「進む。儂は、将じゃ。ここで退けば、後ろに続く者たちに、何と申し開きが立とう」
その声に、迷いはなかった。あるいは、迷いを見せぬことこそが、将としての最後の務めだと、彼は決めているのかもしれなかった。
しばらくの沈黙の後、彼は静かに続けた。
「先生」
「はい」
「そなたには、世話になった。由比でも、この道中でも」
「――隼瀬殿」
「そなたは、ここまでじゃ。もう、下がられよ」
断る、と思った。考えるより先に、口が動いていた。
「――お断りします」
我ながら、見事な即答だった。この行軍に加わって以来、いちばん迷いのない返事だったかもしれない。将の眉が、僅かに動いた。
「……ほう」
「私も、朽木まで歩きます。ここで降りるくらいなら、初めから鉄の箱を降りていません。あなた方と歩いてきた道です。最後まで、歩かせてください」
「ならぬ」
「歩けます。豆はもう潰れ尽くして、痛くもありません。飯も、以前ほどは食いません」
「食う量の話は、しておらぬわ」
「では何の話ですか」
「死ぬる話よ」
将の声は、静かだった。
「――先生よ。明日、あの列の中で、そなたに何ができる」
「……通訳を」
「明日は、言葉の通じる相手が来るのか」
ぐうの音も、出なかった。明日あの浜に来るものに、言葉は要らない。それは私が、誰よりもよく分かっていた。
「じゃが、それでも」
「そなたは申したな」
将は、私の言葉を遮った。遮って、海から、初めてまっすぐに私へ向き直った。
「儂らの四百年は、書物の上では白紙じゃと。誰にも書かれず、どの頁にもおらなんだと」
「……申しました」
「ならば、そなたの戦場は、あの列の中ではなかろう。――その白紙の上よ」
篝火が、彼の頬で揺れた。
「儂らがこの世におったことを。何を食い、何に笑い、何を信じて歩いたかを。書き残せる者は、天下広しといえども、そなた一人しかおらぬ。そなたが明日、あの浜で共に果てれば、儂らは二度死ぬのじゃ。一度目は玉と砕けて。二度目は――誰にも書かれずに、な」
私は、何も言えなくなった。
学者の性分を、これほど痛いところから正確に撃ち抜く男が、他にいるだろうか。四百年前の武士に、研究の意義を説かれている。しかも、生涯で一番深く、腑に落ちている。
「朽木へは、足で参るな。筆で参れ」
将は、そう言った。
「……それが、そなたの行軍じゃ。儂らのより、よほど長い行軍になるぞ。何しろ四百年分じゃでな」
真顔である。最後まで、この男の冗談は真顔で繰り出される。そして私はもう、それが冗談などではないことを知っていた。
私が黙り込んだのを見て、将は、ふ、と息を抜いた。それから、少し迷うような間を置いて、言った。
「……それとな、先生。一つ、頼みがある」
「なんなりと」
「絵を。……儂のを、描いてもらえるか」
息が、止まった。
儂は頼まぬぞ、と言った男である。兵たちの絵に注文だけつけて、自分は決して列に並ばなかった男である。
「描き上がったら、そなたが谷まで持って参れ。殿の墓前に、供えてくれ。――儂が帰り着いたと、分かるようにな」
「……承知、しました」
「良い面構えに、描いてくれよ。約束が違うと、化けて出るでな」
「四百年ぶりに現れた方の言う『化けて出る』は、洒落になりません」
「――ふ。抜かせ」
その夜、私は月明かりと篝火を頼りに、生涯でいちばん時間をかけて、一枚の似顔を描いた。
彼は文句ひとつ言わず、床几に腰掛けたまま、まっすぐ海を見ていた。描きながら、私は幾度も手を止めた。手が震えたからではない。この顔を、一本の線も間違えたくなかったからだ。
描き上がった絵を、彼は受け取らなかった。一瞥して、頷いただけだった。
「――うむ。儂は、こういう顔か」
「こういう顔です」
「思うたより、悪くない」
それが、受け取りの言葉だった。絵は、私の懐に戻った。谷まで運ぶのは、私の役目だからだ。
「――先生と呼ばれる者に、初めて出会うたのは、この地に来てからのことじゃった」
彼は、そう付け加えた。
「先生と呼ぶに相応しい者かどうかは、儂には分からぬ。よう食い、よう喋り、隠し事の下手な、妙な男じゃった。……だが、そなたと共に歩いた日々を、儂は忘れぬ」
「――必ず、お連れします。朽木まで」
それだけを言うのが、精一杯だった。それ以上の言葉は、喉を通らなかった。
私は深く一礼し、幔幕の前を辞した。振り返ると、彼は既に、夜の海だけを見つめていた。その背中は、あの夜、川辺で見た背中と、同じ大きさをしていた。
――後に知った。対策本部が最後まで答えを出せなかった問い。撃つなら、先生をどうする。その問いに答えを出したのは、政府でも、准教授でもなく、包囲される側の男だった。攻撃の気配を読み切った上で、その前夜に、私を静かに下げたのだ。
敵陣の民間人の安全確保。この国の誰にもできなかった仕事を、四百年前の武士が、一言で済ませた。
夜明け。
入り江は、不気味なほどの静けさに包まれていた。
引き潮の浜に、隊列が整然と並んでいく。具足の擦れる音だけが、波音の合間を縫って響いた。彼らは夜のうちに身支度を済ませ、誰に命じられるでもなく、出立の陣形を組んでいた。
包囲の斜面では、装甲車両のエンジンが、次々と低い唸りを上げ始めた。
その斜面の裏手に、私は見てしまった。
マイクロバスの列である。
白い車体が七台、朝靄の中に、行儀よく並んで駐まっていた。交渉が成立した暁には、彼らを朽木まで運ぶはずだった車両である。フロントガラスの内側で、行き先表示の枠だけが、空欄のまま光っていた。
あの七台が使われる未来と、目の前の包囲が動く未来と。二つの未来は、この朝まで、同じ駐車場に同居していたのだ。
頭上から、機械的な、抑揚のない声が降ってきた。無人機に搭載されたスピーカーからのものだった。
「――日本国政府より、最終通告する」
その声は、どこまでも平坦だった。平坦なまま、中身だけが、刃物だった。
「当該集団は、直ちに全ての武装を解除し、投降せよ。応じない場合は――撃滅する」
撃滅。
その二文字を、機械の声は、天気予報と同じ抑揚で読み上げた。それだけを繰り返し、声は途切れた。准教授の書き上げた口上は、そこには一文字も残っていなかった。呼びかけでも、命令ですらもない。名乗りもなく、礼式もなく、ただ脅しだけが、朝の空から降ってきた。
隊列は、微動だにしなかった。当然である。彼らの作法では、名乗りもしない者の言葉は、言葉ですらない。四百年かけても、この国の役所は、それを学ばなかった。
将の采配が、静かに上がるのが見えた。
その時だった。
同じスピーカーから、まるで別の声が、割り込むように響いたのは。
「――ま、待たれよ!」
機械の声ではなかった。生身の、上ずって、裏返りかけた、人間の声だった。
私は、その声を知っていた。
毎日、廊下二メートル先の研究室から聞こえていた声。学食のから揚げ定食を、少し遠慮がちに注文する声。先生、またおにぎりですかと呆れる、あの声だった。
――これも、全てが終わった後に聞いた話である。
准教授は、あの朝、現地にいた。三度直談判して三度却下された現地入りを、彼は最後の最後に、まったく別の名目でもぎ取っていた。「攻撃時、先方の音声を聞き取れる人間が現場に必要です。彼らの流儀が分かる人間が」。攻撃のための通訳要員。皮肉にも程がある人事だが、彼はそれでも頷いたのだ。現場に行ける切符なら、何でもよかったのだろう。
そして、あの機械の通告が流れ、隊列が動こうとしたその瞬間――彼は、音響車の上から、マイクを担当官の手から半ば奪うようにして掴んだという。
現場は、当然、騒然となった。
「おい、何をしている!」
「回線を切れ!」
「――いや、待て」
制止の手を止めさせたのは、現場に同行していた、あの内閣府の担当者だったという。ゆで卵のような禿頭に、熊のような口髭の、あの男である。かつて陣羽織を着て、生涯一度の名乗りを上げた男は、部下たちにこう言ったそうだ。
「……続けさせなさい。あの言葉は通じる。私は、知っている」
「始末書では済みませんよ」
「始末書なり責任なり、私が請け負う。私も彼らを朽木に帰したい」
かくして、日本国政府の公式回線から、決裁を経ていない口上が、朝の入り江に響き渡ることになった。
「――我こそは、東の学び舎にて戦国の世を学びし者! 貴殿らと共に歩みし学者の、同輩にござる!」
名乗りである。震えて、裏返って、それでも型の通りの、正式な名乗りだった。
隊列の視線が、一斉に空へ向くのが分かった。将の采配が、上がりかけたまま、止まった。
「貴殿らの武勇、既に天下に鳴り響けり! これ以上の干戈は、双方の益にあらず! 願わくは、どうか、どうか矛を収められよ!」
彼の声は、途中から、明らかに涙声になっていた。それでも、止まらなかった。
「貴殿らの故郷は――朽木は、貴殿らを待っており申す! 里の者どもは道を掃き、湯を沸かし、寝床の支度をして待っており申す! 軒に旗を掲げ、童は絵を描き、寺は墓前を清めて待っており申す! これは偽りではござらぬ! この目で確かめた、まことの話にござる!」
私は、浜の外れで、動けなくなっていた。
道を掃く古老。布団を干す集落。墓石を洗う住職。あの横断幕。私がまだ知らなかった故郷の支度を、彼の声が、朝の空から降らせていた。
「帰る道は、必ず設え申す! この場の誰も死なせず、一人残らず、朽木の谷へ帰す道にござる! ゆえに――ゆえに、どうか!どうか我らと共にご一緒くだされ――」
声が、詰まった。
スピーカー越しに、彼が息を整える音だけが、数秒、入り江に響いた。無線の向こうの日本中が、その数秒を、一緒に待っていたという。
『え、待って、急に人の声になった』
『この人、泣いてないか』
『泣いてる。完全に泣いてる』
『政府の放送で聞いた中で、初めて日本語だった気がする』
『武士たち、止まってるぞ。聞いてる。ちゃんと聞いてるよ』
そうだ。隊列は、聞いていた。
名乗りを上げた者の言葉だからだ。震えていようが、涙声だろうが、型に適った、まことの言葉だからだ。機械の通告が一音も動かせなかった千の兵が、たった一人の泣き声に、耳を傾けていた。
将は、長いこと、空を見上げていた。
それから、ゆっくりと、采配を下ろした。私は一瞬、心臓が止まるかと思った。
だが、彼は振り返ると、隊列に向かって、静かに何かを告げた。距離があって、聞こえない。ただ、その声が済むと、千の兵が、一斉に、深々と空へ向かって頭を下げたのが見えた。
口上への、返礼である。
受け取った、という意味である。そして武家の作法において、返礼の後に続くものは、二つしかない。承諾か、決別か。
将の声が、朝の入り江に、朗々と響いた。
「――良き口上、確かに承った! 故郷の支度、涙が出るほどに有難し!」
一拍。波の音。
「なれど――――待たれておるなら、なおのこと! 自分の足で歩いて帰るが、武士の筋よ!」
それから彼は、馬首を巡らせ、空の無人機を――その向こうにいる、この国の政府を、真っ向から見据えた。
「――それと、空の上の物言いにも、返答してくれるわ!」
朝の入り江に、彼の声が割れ鐘のように轟いた。
「武装を解けと、申したな! ――ならぬ!」
「この具足も! この兜も! 腰の刀も! ことごとく、殿より賜りし物なるぞ! 武士にとって、主君より賜った具足は、命ではない! 命より重い、誉じゃ! それを地べたに脱ぎ捨てて、両手を上げて命乞いせよと申すか! ――脱げというは、死ねと言うに同じよ!」
包囲の斜面が、静まり返った。装甲車両のエンジン音までもが、一瞬、遠慮したように聞こえた。
「我らは、このまま歩いて、朽木へ参る! 求めるものは、それだけじゃ! お主らの助力など一寸たりとも、望んではおらぬ! ――ゆえに、道を空けられよ!」
一拍。
「……どかぬと、申すなら――」
彼の剣が、朝日を弾いて、高々と抜き放たれた。
「――押し通る!!」
ああ、と私は思った。
そうだ。この人たちは、そういう人たちだった。迎えが来ているから止まるのではない。迎えが待っているからこそ、進むのだ。四百年、歩いて帰るのが遅れた。これ以上、一歩たりとも遅れるわけにはいかないのだ。
准教授の口上は、完璧だった。完璧だったからこそ、彼らの背中を、最後に押してしまった。
この皮肉を、笑える日が来るのだろうか。四百年後の誰かが、この議事録を読んで、正しく泣いてくれることを願う。
「――進めい!朽木へ!」
その一言に、迷いはなかった。
隊列が動き出すと同時に、斜面の向こうから、これまで聞いたこともない轟音が上がった。
それは、由比で聞いたものとは、明らかに種類が違った。痛みで押しとどめるためのものではなく、はじめから、押し返すことしか考えられていない音だった。
前列が、瞬く間に崩れた。今度は、誰も這って進むことはなかった。
土煙の向こうに、あの若い雑兵の姿が見えた。許嫁の話でみなを沸かせていた、あの二人組だった。片方が、もう片方の名を叫びながら、崩れ落ちた身体を庇うように覆いかぶさっていた。次の瞬間、その姿ごと、土煙に呑まれて見えなくなった。
海水を舐めて、しょっぱいわ、と噴き出した若者の姿も、もう探せなかった。
野営地で草鞋を繕っていた、あの男の姿も、見つけられなかった。旗印を教えてくれた、あの声も、もう二度と聞けないのだろう。彼の懐には、母者に見せるはずの似顔絵が、まだ入っているはずだった。
スピーカーは、もう何も言わなかった。いや――後で聞いた。マイクは繋がったままだったという。准教授が、声にならない声で、やめてください、やめてください、と繰り返すのが、現場の記録には残っているそうだ。それは放送されなかった。放送されなくて、よかったのだと思う。あの声だけは、歴史に残してはいけない。
将の馬が、甲高く嘶いた。彼の姿は、まだ隊列の先頭にあった。剣を掲げ、何かを叫び続けていたが、その声はもう、轟音に紛れて私のところまでは届かなかった。
兵を家に帰す。それだけを言い続けた男が、兵の先頭で、朝焼けの中に立っていた。
私は、その光景から、目を逸らすことができなかった。声を上げることも、動くこともできず、ただ立ち尽くしていた。学者としての義務感も、この瞬間だけは、何の役にも立たなかった。
引き潮の浜が、見る間に色を変えていくのを、私は確かに見た。
隊列の中に立てられた、あの見覚えのある旗指物――隅立て四つ目結の紋が、大きく傾ぎ、やがて土煙の中に沈んでいくのを、私は最後まで見届けた。
私は、懐の絵を、服の上から押さえた。
重かった。紙一枚の重さでは、なかった。