パン、と乾いた発射音が、一度だけ響いた。
玩具にしては、存外よく通る音だった。BB弾が空気を裂く、微かな風切り音が続く。
狙われた足軽が、僅かに眉をひそめた。「――ぬ」という短い呻き。当たったのは、たぶん具足の隙間、脇腹のあたり。プラスチックの弾ひとつが肌をかすめた、蚊に刺された程度の反応だった。
それだけのことだ。
それだけのことの、はずだった。
「うわ、今の入ったっしょ! ちょっと待って、マジで――」
配信者の声は、最後まで言い切られなかった。
私は、その先の展開を予測できたわけではない。ただ、モニターの向こうの空気が変わったのだけは、はっきりと分かった。研究室の空調の音まで、一瞬止まった気がした。錯覚だとは思う。だが、そう感じるくらいには、画面の向こうの何かが変質していた。
足軽の動きに、迷いというものが一切なかった。
振り返る。腰の刀を抜く。踏み込む。
その三つの動作の間に、呼吸ひとつ挟まっていない。まるで、そうすることが最初から決まっていたかのような、迷いのない三拍子だった。
画面が大きく傾いだ。自撮り棒がアスファルトに転がり、カメラは半分空を、半分地面を映す不自然な角度で固定された。
マイクは、それでも拾い続けていた。
悲鳴。てんでばらばらの方向に散っていく足音。誰かが「逃げろ、逃げろ!」と叫び、別の誰かが子供の名前らしきものを繰り返し呼んでいた。数十秒前まで面白がって集まっていた野次馬たちが、我先にと逃げ惑っている。歓声から絶叫への切り替わりに、境目と呼べるものは、ほとんどなかった。
コメント欄が、一瞬だけ完全に止まった。
それから、津波のように動き出した。
『は?』
『え、待って』
『これ演出だよね?だよね?』
『今の絶対まずいって』
『誰か救急車呼んで』
『生配信で人斬ってるとかヤバすぎるだろ』
誰も、まだ信じたくなかったのだと思う。私自身がそうだったから、よく分かる。
地面すれすれの角度で固定されたカメラは、しばらくの間、何も語らなかった。ただ、画面の隅に、赤黒いものがじわりと広がっていくのだけが見えた。
雨に薄まりながら、それでも確かに、アスファルトの目地に沿って流れていく。
それは、絵の具でも、ケチャップでもなかった。
誰もが心のどこかで分かっていたことを、その赤い色だけが容赦なく突きつけてくる。
私は椅子から完全に立ち上がっていた。いつの間にか、おにぎりの残りが机から落ちて、床に転がっていた。拾う気にもなれなかった。
「――噓だろ」
自分の声が、ひどく他人のもののように聞こえた。
配信は、それから十数秒後に唐突に途切れた。運営による強制停止か、配信者の端末が壊れたか。理由は分からない。
途切れる直前、画面の端に、旗指物を背負った誰かの足が映り込んでいた。踏み出された草鞋の裏に、泥がべったりとこびりついていた。私はその泥の乾き方まで、妙に鮮明に覚えている。
人間というのは、本当に衝撃を受けた瞬間、こういうどうでもいい細部ばかりを克明に記憶してしまうものらしい。全体を受け止める作業を、脳のどこかが拒否しているのだろう。
配信が切れてから、世界が本当の意味でひっくり返るまでには、十分もかからなかった。
誰かが保存していたアーカイブが、瞬く間に切り抜かれ、あらゆるSNSに転載されていく。モザイクをかけたもの、かけていないもの、同じ場面を何度もスローで検証する動画。悲鳴、絶句、それでも再生数だけは律儀に伸びていく。
『これマジのやつだ!!』
『通報とかそういうレベルじゃない!』
『ヤバイヤバイ!武器持った集団が都内を進軍してるって理解でいい!?』
『なにこれ、集団テロとかそういうこと?』
『白金高輪在住だけど普通に怖いんだが』
『警察は何やってんだよ早く動け』
『これ海外のニュースにも出てるらしいぞ』
『これもうリアルパニック映画じゃん』
先ほどまでの浮かれた空気は、跡形もなく消えていた。
代わりに広がったのは、もっと粘度の高い、生々しい恐怖だった。人は、疑いようのない事実を突きつけられると、驚くほど早く態度を変える。三十分前に『逆に見たい』と書き込んだ誰かは、今ごろ避難経路を検索しているのだろう。
テレビ各局も、ほぼ同時に速報の切り替えに動いた。「大規模な撮影イベント」という言葉は、この十分の間にどの局からも消えた。かわりに流れてきたのは、もっと即物的な言葉たちだ。
『国道一号線、白金高輪周辺、緊急の避難呼びかけ』
『複数の物流会社、当該路線での配送を一時停止』
『都内主要交差点、大規模な交通規制へ』
『周辺の小中学校、臨時下校および明日以降の臨時休校を検討』
物流会社の律儀な詫び文句は、もう笑えるものではなくなっていた。むしろその生真面目さが、事態の異様さを裏側から照らしていた。
窓の外を見下ろすと、大学の正門前でも、学生たちがスマートフォンを片手に立ち尽くしているのが見えた。誰も彼もが同じ画面を見ているのだろう。示し合わせたように同じタイミングで顔を上げ、また俯く。潮の満ち引きのような動きだった。
テレビは臨時特番の体制に切り替わり、専門家と称するコメンテーターが、代わる代わる画面に呼ばれては、歯切れの悪い推測を並べた。
「テロ組織の可能性が」
「模擬戦のはずが暴発したという線も」
「防衛上の演習との情報もありますが、未確認です」
どれも、確信を持って言い切れる者は一人もいなかった。
当然だろう。この現象を正しく説明できる語彙を、まだ誰も持ち合わせていないのだから。正しく説明できる可能性のある人間は、今、研究室で床のおにぎりを見下ろしている。
被害者の身元は、しばらく伏せられたままだった。それでも、ネット上ではとうに特定作業が始まっていた。過去の炎上履歴、本名らしき情報、家族構成の憶測まで、まるで祭りの続きのように掘り返されていく。
人が一人死んだという事実よりも、その人物が誰であったかという好奇心の方が、先に検索窓を埋めていく。私はその光景に、行軍そのものよりも、いくらか薄ら寒いものを感じていた。
一方で、当の軍勢は、何事もなかったかのように、隊列を崩すことなく歩みを進めていた。
彼らにとって、あの一件は道端の小石を踏んだ程度の出来事でしかないのかもしれない。その温度差こそが、何よりも雄弁だった。
私はテレビとスマートフォンを交互に眺めながら、自分の手が微かに震えていることに気づいた。寒気のせいではない。空調はいつも通りである。
准教授から、もう軽口の混じらないメッセージが届いた。
『先生、これもう笑えないやつですよね』
『笑えない』
『さっきの「軍だ」って話、本気だったんですか』
『本気だ』
『……あの、変なこと聞きますけど』
『なんだ』
『戦国時代の兵って、人を斬ることに、ためらいってあるんですか』
私は、その問いにしばらく指を止めた。
『ある。ただし、対象によるな』
『対象?』
『敵と認識した相手には、ない。訓練と実戦で、そこの回路は最適化されている。さっきの映像の彼は、振り返ってから斬るまで呼吸ひとつ分だった。あれは「キレた」動きじゃない。「処理した」動きだ』
返信は、しばらく来なかった。
『先生、それ、テレビで絶対言わないでくださいね』
『言わんよ。パニックになる』
『違います。先生が楽しそうに解説しちゃいそうだからです』
否定できなかった。こんな時でも、私の中の学者は、あの三拍子の動きを「美しい」と採点していたのだ。この職業病だけは、墓場まで持っていくしかない。
しばらくして、もう一通届いた。
『先生って、こういう時どうするんですか。第一人者として』
第一人者。その言葉が、今の自分にはひどく大きすぎるように感じられた。結局、私は『まずは状況を整理するしかないよ』とだけ返した。我ながら、何の中身もない返信である。
だが、それ以上の言葉を、この時の私は持ち合わせていなかった。
研究室の時計は、午後六時を回っていた。普段なら夕食の算段を始める時間だ。未来のおにぎりが四個あることも、まだ思い出していなかった。
夕方のニュースは、急遽組まれた政府の記者会見を映し出していた。
長机に並んだ数人の担当者。その表情には、素人目にも分かる温度差があった。
中央の内閣官房の担当者は、終始抑えた声で繰り返した。
「国民の皆様には、冷静な行動をお願いしたい」
「未確認情報の拡散は、お控えいただきたい」
具体的なことは、何ひとつ言わない。「確認中」という単語だけが、湯水のように供給される。この国の会見は、情報の代わりに定型句を配給する仕組みになっている。
記者の一人が踏み込んだ。
「亡くなった配信者の身元は」
「現在、確認中です」
「これはテロなのですか、それとも防衛上の事案なのですか」
しばらくの沈黙。
「――確認中です」
その隣の防衛省側の人間は、対照的に硬い顔つきだった。「自衛隊の出動は」と問われるたび、僅かに身を乗り出しかけては、官房側に目配せされて言葉を呑み込む。そのやり取りを、二度繰り返した。
三度目の質問で、とうとう彼は踏み込んだ。
「現時点では、関係機関と緊密に連携し、あらゆる選択肢を排除せず検討している段階で
す」
その瞬間、隣の官房担当者の頬が、明らかにひきつるのが見えた。
同じ壇上にいながら、二人の間には見えない線が引かれていた。何を優先するかにおいて、そもそも一致していないのだ。
会見の後半、外務省の関係者らしき人物が付け加えた一言だけが、やけに浮いて聞こえた。
「国際社会からの問い合わせにも、適切に対応してまいります」
都内で人が斬られた日に、まず海の向こうの反応を気にする。この期に及んで、優先順位が三方向にばらけている。
一つの事件を前に、三人の医者が、それぞれ違う診断書を書き始めている。患者としては、あまり聞きたくない類の話だった。
夜の九時を回った頃、私はようやく研究室を後にし、駐車場の車に乗り込んだ。
シートベルトに手をかけた時、スマートフォンが鳴った。見覚えのない番号だった。
こんな日に知らない番号から電話。出たくない予感しかしない。私は出た。学者の好奇心は、危機管理能力より常に強い。
「――もしもし」
「夜分に恐れ入ります。内閣府の者です。戦国史がご専門でいらっしゃる、先生のお電話で間違いございませんでしょうか」
今日一日、慌ただしく専門家を洗い出していたのだろう。大学の教員一覧か、学会名簿を辿れば、私の連絡先などすぐに割り出せる。
昨日まで誰にも需要のなかった専門に、国家から電話がかかってくる。皮肉というのは、こういう手際のいい形でやってくるものらしい。
「――はい、私ですが」
「至急、お伺いしたいことがございます」
相手はひどく事務的な口調で、簡潔に用件だけを告げてきた。詳細は明日、直接お伝えする。明朝一番で車を向かわせる。それだけだった。
こちらの都合を尋ねる余地は、初めからなかった。国家というのは、頼み事をする時ほど、疑問文を使わないものらしい。
窓の外では、まだ雨が降っていた。律儀に、降ったり止んだりを繰り返しながら。
私はスマートフォンを握ったまま、しばらくの間、何も言えずにいた。
研究室の隅には、広げたままの合戦装束の資料が、開かれた頁のまま放置されている。
誰にも見られたくない類の予感が、腹の底に静かに根を張り始めていた。