国道一号線   作:datéshima

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第3話

 迎えの車が来たのは、まだ夜も明けきらない、翌朝六時半のことだった。

 

 私が住むのは、大学から車で十分ほどの、築三十年は下らない3Kのアパートである。家賃の安さだけを取り柄に選んだ部屋で、玄関を開ければすぐ台所、その先には史料の山というか海が広がる。独り身の学者の趣味と寂しさを煮詰めた空間だ。

 

 そんな部屋の前に、黒塗りのセダンが堂々と横付けされていた。

 

 場違い、という言葉の意味を、私は身をもって理解した。隣室のカーテンが微かに揺れている。ご近所の皆様、違います。家宅捜索ではありません。たぶん。

 

 乗り込むと、助手席の職員が振り返りもせずに資料の束を差し出してきた。

 

 

「道中でお目通しください」

 

 

 それきり、誰も口を利かなかった。おはようございます、の一言もない。国家の緊急事態に、挨拶の予算は計上されていないらしい。

 

 資料には、私の経歴が箇条書きでまとめられていた。専門、戦国史。中でも、近江国衆の動向、特に永禄から天正にかけての一帯の軍事的な出来事について、国内でも数少ない専門家、という一文があった。

 

 近江国衆というのは、今の滋賀県にあたる近江国を拠点にした、比較的小規模な武家勢力の総称だ。織田や浅井、朝倉といった大大名たちの狭間で、時に従い、時に反旗を翻しながら、したたかに生き延びた地方領主たち。永禄から天正は、西暦でいえばおよそ一五六〇年から一五九〇年前後。桶狭間の少し後から、秀吉の天下統一までの三十年間だと思ってもらえればいい。

 

 資料の最後には、私の過去の論文タイトルまで律儀に列挙されていた。どれも学会の隅でひっそりと発表され、引用数は片手で数えられる。

 

 誰にも読まれなかった論文が、国家の緊急資料に格上げされている。引用数ゼロの論文の初めての引用元が内閣府。学術誌に載せたい実績だが、載せたら消される類の実績でもある。

 

 車が地下駐車場に入ると、案内の職員が待ち構えていた。

 

 

「入館証です」

 

 

 渡された紙製の名札には、氏名も所属も一切なく、ただ「有識者」とだけ書かれていた。

 

 有識者。ずいぶんと乱暴な括りである。魚で言えば「魚」と書かれた札を首から下げるようなものだ。

 

 准教授からメッセージが届いたのは、その時だった。

 

 

『先生、これから有識者としてどうするんです?』

 

『今まさに「有識者」の札を首にかけられたところだ』

 

『本当に有識者って書いてあるんですか。ウケる』

 

『笑い事じゃない。私の四十年の研鑽が、三文字に要約された』

 

『でも先生、名前より通りがいいですよ、その三文字』

 

 

 茶化しているのか、本気で心配しているのか。判別のつかない男である。だが後から思えば、彼には予知能力があったに違いない。この日以降、私の名を呼ぶ人間は、この国から順調に消えていくことになる。

 

 連れて行かれた先は、都心のとあるビルの一室だった。看板も出ていない、いかにも急ごしらえの対策本部である。長机が並べられ、モニターが持ち込まれ、配線がむき出しのまま床を這っている。徹夜明けらしい顔の職員たちが、コーヒーの空き缶を積み上げながら行き来していた。

 

 そして、部屋の空気は、お世辞にも一枚岩とは言えなかった。

 

 奥のテーブルでは、内閣官房の一団が、声を低く抑えながら「まずは情報統制を最優先に」と繰り返している。その隣では、迷彩服の一団が、明らかに苛立った様子で地図を睨んでいた。

 

 

「これだけの規模だ。これ以上待てば、被害が拡大する一方だ」

 

 

 二つの一団の間には、机ひとつ分の距離しかない。なのに、まるで別の会議室にいるような温度差があった。互いの言葉に相槌を打つ気配が、驚くほど薄い。

 

 その隙間を埋めるように、また別の一団が、少し離れた場所で静かに書類をめくっていた。名刺交換の折に「外務省」の肩書が見えた。彼らの関心は専ら、この一件が国外にどう報じられるか、どの国のメディアが最初に食いつくか、その一点にあるようだった。

 

 国道の惨状より先に、海の向こうの反応を気にする。順番の付け方に、私は場違いな居心地の悪さを覚えた。

 

 三十人足らずで、これほどの温度差を作れるものかと、逆に感心する。同じ患者を前にした三人の医者が、それぞれ違う診断書を書いている。しかも三人とも、聴診器を当てる前から書き始めている。

 

 

「先生、こちらへ」

 

 

 案内されるまま、私は状況説明を受けた。集団は現在も隊列を保ったまま歩みを止めていないこと。装束・武具ともに、専門家の目から見て極めて精巧であること。

 

 

「先生には、現地でのご協力をお願いしたい。装束や言葉遣いから、彼らの出自や意図を読み解いていただきたいのです」

 

「意思疎通は、まだ一度も?」

 

「言葉自体は、断片的にですが、聞き取れております。ただ、こちらの呼びかけには、まるで反応がありません。拡声器で何度呼びかけても、こちらの声そのものが聞こえていないかのようで」

 

「もしや、こちら側の存在自体が見えていないのですか?」

 

「いえ、違います。現場の見立てでは、彼らはどうも、我々のことを妖術か、物の怪の類だと思っているようなのです。呼びかければ呼びかけるほど、かえって警戒を強めている節さえあります」

 

 

 その言葉に、私はしばらく黙り込んだ。

 

 存在しないもの、として扱われているわけではない。あまりに異質な化け物として、明確に警戒されている。つまり現代日本は今、四百年前の軍勢から「出来の悪い妖怪」と認定されているわけだ。国辱と呼ぶべきか、あながち外れていないと呼ぶべきか。

 

 私は頷いた。頷きながら、自分の中で、ある考えがゆっくりと形を成しつつあることに気づいていた。

 

 

「――もしかすると」

 

 

 気づけば、口にしていた。

 

 

「彼らが応えないのは、言葉が通じないからではなく、我々の呼びかけ方そのものが、彼らにとって"武士の作法"に則っていないからではないでしょうか」

 

 

 怪訝な顔をされた。私は構わず続けた。こういう時の私は、止まらない。

 

 

「戦国の世において、敵味方が初めて言葉を交わす際には、決まった作法がありました。まず、名乗りを上げること。己が何者で、いかなる用向きでまいったかを、大声で宣言する。次に、相応の格を示す出で立ちで臨むこと。そして――なるべくならば、馬上から声を発すること」

 

「馬上、ですか」

 

 

 防衛省の担当者が、眉を寄せた。

 

 

「地に足をつけたまま声を張り上げる者は、彼らの目には、物乞いか下郎にしか映らないはずです。無機質な拡声器の音も、彼らの耳には、人ならざる者の唸り声に聞こえているのかもしれません」

 

「――つまり先生は、時代劇のような出で立ちで、馬に乗って、名乗りを上げろと?」

 

「近いです。ただ、本物の馬をすぐに用意するのは現実的ではない。車でも、バイクでも構いません。跨るような形で乗れる、ある程度高さのあるものであれば」

 

 

 沈黙が落ちた。誰もが「まさか」という顔をしていた。

 

 気持ちは分かる。国家の対策会議で出た結論が「コスプレして車の上から叫ぶ」である。議事録に書く方の身にもなってほしい。

 

 だが、これまでの手立てはことごとく不発に終わっている。他に選択肢もなかったのだろう。

 

 

「――やってみましょう」

 

 

 内閣官房の担当者が、芯のある声でそう言った。藁にもすがる、とはまさにこのことだった。続けて、彼はこう付け加えた。

 

 

「先生に、それをやっていただくのが、一番早いかと思います」

 

「……私が、ですか」

 

「作法をご存じなのは、先生だけですので」

 

 

 正論だった。正論というのは、逃げ道を塞いでから撃ってくる。

 

 断る理由を探したが、見つからなかった。他の誰かにこの作法を一から仕込む時間はない。そして白状すれば――断りたくない自分も、確かにいた。四百年前の軍勢に、正式な作法で名乗りを上げる。こんな機会、歴史学者の人生に二度は来ない。

 

 数十分後、私は、倉庫から引っ張り出されてきたという、舞台演劇の小道具じみた陣羽織を着せられていた。誰のサイズにも合っていない、丈の余った代物である。

 

 

「先生、お似合いです」

 

「気を遣わなくて結構」

 

「いえ、その、思ったより様になっているという意味で」

 

「思ったより、が余計だ」

 

 

 乗り物は、黒塗りのSUVだった。屋根の上に簡単な足場を組み、そこに騎乗するような格好で立て、という指示である。馬でこそないが、地面から見上げる高さだけは確保できている。手には拡声器代わりの大型スピーカー。

 

 我ながら、滑稽な格好だという自覚はあった。だが、笑っている余裕は、もう残っていなかった。

 

 現地への移動は、規制線を何重にもくぐる、ひどく回りくどい道程だった。同乗した職員から、手短に注意事項を告げられる。

 

 

「絶対に単独行動はしないでください」

 

「はい」

 

「彼らに触れることは、いかなる理由でも禁じます」

 

「はい」

 

「万一の際は、装備や資材は全て捨てて逃げてください」

 

「この陣羽織もですか」

 

「……陣羽織も、です」

 

「借り物なのに」

 

「先生。命の方が借り物より高いのです」

 

 

 当たり前のことばかりだったが、その当たり前を律儀に並べる声には、隠しきれない緊張があった。

 

 車の窓越しに見えた国道一号線は、テレビ越しに見るよりも、はるかに生々しかった。

 

 雨上がりの路面に反射する光。むせ返るような、泥と汗と馬の匂い。旗指物が風にはためく音が、思いのほか大きく聞こえた。

 

 規制線のすぐ内側まで案内されたとき、私は思わず息を止めていた。

 

 これは、面白い。

 

 場違いだと分かっていながら、その感想が真っ先に胸を満たした。史料の中でしか会えなかったものが、雨に濡れたアスファルトの上に、確かな質量を持って立っている。具足の擦れる音。槍の穂先に残る油の匂い。隊列の隅々にまで行き渡った統率。

 

 こんな贅沢な現地調査は、後にも先にもない。不謹慎だと分かっていても、笑いがこみ上げてくるのを止められなかった。学者というのは、つくづく因果な生き物である。

 

 近づけば近づくほど、隊列の規模を肌で実感させられた。空撮では平面的にしか見えなかった密度が、実際には途方もない圧を伴っていた。具足の擦れ合う音、革紐の軋み、時折混じる馬の嘶き。それらが重なって、低い唸りのような空気の震えを作っている。遠くから眺めているだけの私でさえ、鳩尾のあたりに重みを感じた。

 

 隊列の中ほど、ひときわ立派な具足を纏った人物が、こちらに向き直った。

 

 馬上からこちらを見下ろすその姿には、隊列全体を束ねる重みが宿っていた。歳の頃は三十代半ば。日に焼けた肌、無駄のない佇まい、そして何より、こちらを値踏みするような静かな眼差し。

 

 恐れているようには、まるで見えなかった。むしろ、値踏みされているのはこちらの方だという気さえした。

 

 兜には、簡素ながら意匠の凝った前立て。傍らに控える者たちの佇まいから察するに、あの人物がこの軍勢を束ねる将であることは、ほぼ間違いなかった。周囲の武者たちが、彼の一挙手一投足に、絶えず視線を向けている。命令ひとつで、この数百の身体が一斉に動く。そう思うと、規制線の薄さが急に心許なくなった。

 

 SUVが、隊列の正面、規制線ぎりぎりの位置まで進み出た。

 

 屋根の上に立った私は、深呼吸を一つしてから、拡声器のスイッチを入れた。手が震えているのが、自分でも分かった。

 

 武者震いだと思うことにした。学術的には、ただの震えである。

 

 

「――我こそは、戦国の世の歴史を学びし者なり! 貴殿方に、いささか尋ねたき儀あって、まかり越した!」

 

 

 声は、思っていた以上に大きく響いた。自分の声とは思えないほどだった。

 

 隊列に、明らかな動揺が走った。これまでの静かな無関心とは、明確に質の違う反応だった。周囲の職員たちが遠巻きにざわめく。誰かが無線で何かを報告している。だが、それらすべてが、急に遠いものに感じられた。

 

 馬上の人物が、こちらに向かって大きく口を開いた。

 

 

「――尋ねたき儀があると申すか! されど、まずこちらからよ!」

 

 

 低く、地を這うような声だった。こちらの声が届いた!

 

 

「――そこな戦国の歴史を学ぶものよ! 元綱公の御在所、いまだ見届けおらぬけ、のう!」

 

 

 規制線の内も外も、一瞬にして静まり返った。

 

 古めかしい活用と、聞き慣れない語尾が幾重にも折り重なった、その一言。現場にいた誰にとっても、単語の輪郭すらまともに掴めなかったはずだ。

 

 語尾の「け」は、たしか湖西、それも山深い土地に残った古い言い回しのはずだ。交通の便が悪い山里ほど、言葉は中央から取り残され、独自に凝り固まって残る。方言周圏論の講義の知識が、まさかこんな場面で役に立つとは。あの時、後ろの席で寝ていた学生どもをどやしてやりたい気分だ。

 

 案内役の職員が、SUVの下から小声で私に囁いた。

 

 

「先生、今の、聞き取れたんですか」

 

「聞き取れました」

 

「な、なんと言って――」

 

 

 彼の言葉を聞き取るより前に、気づけば、私の興味が先行して声が出ていた。

 

 

「――まさか、貴殿方は、戦国の世からまいられたと、そう仰せか!」

 

 

 自分でも驚くほど大きな声だった。職員たちがぎょっとした顔でこちらを見る。すまない。だが今、私を止められる人間は、この地球上にいない。

 

 馬上の男の目が、初めて、はっきりとこちらを捉えた。値踏みするような色から、何かを見定めるような色へと、微かに変わる。

 

 

「元綱公の御在所を、そなたは知っておるのか!」

 

「――いえ、存じません! ですが、貴殿方の装束、言葉遣い、そのいずれもが、私の知る限りでは、四百年以上前のものと、寸分違わぬように見えます!」

 

 

 正確には、四百五十年以上前だ。学者の性で端数まで言いたくなったが、拡声器で言う内容ではない。

 

 男は、しばらく私を見つめていた。値踏みが、まだ続いているようだった。

 

 

「――ここは、いずこの地じゃ」

 

「東京、と申します。この国の、都にございます」

 

「都、とな」

 

 

 男は怪訝そうに眉を寄せた。都というものの在り処が、彼の知るそれとはまるで違うと、直感的に察したのかもしれない。

 

 

「――背後に控えし、あの者どもは何じゃ」

 

 

 規制線の外に控える、官房や防衛省の面々を指してのことだろう。

 

 

「この国を治める者たちにございます。貴殿方との、話し合いの糸口を探しております」

 

「治める者、とな。――公方様の使いか。それとも、帝より遣わされし者か」

 

 

 その問いに、私は一瞬、言葉に詰まった。

 

 将軍でも、朝廷でもない。この国の統治の形そのものが、彼の知る枠組みとは根本から違う。さて、選挙制度を戦国武将に一言で説明せよ。政治学の期末試験にも出ない難問である。

 

 

「――いずれでもございません。この国は今、選挙という仕組みで選ばれた者たちが、政をお預かりしております。将軍も、帝の親政も、既に久しく行われてはおりません」

 

「選挙、とは」

 

「民が、おのおの一票を投じ、政を託す者を選ぶ仕組みにございます」

 

「――民が、主を選ぶと申すか」

 

 

 男の眉間に、深い皺が寄った。値踏みというより、算段が合わないことに戸惑っている色だった。

 

 その視線が、規制線の向こう、鉄兜やスーツ姿の一団の上を、ゆっくりと這っていく。何かを推し量ろうとしているのは分かった。だが、その先に、彼の求める答えがあるようには見えなかった。

 

 

「――もうよい」

 

 

 男は、そう呟いた。諦めというより、これ以上は噛み合わぬと見切りをつけたような響きだった。

 

 

「明日の正午、今一度、そなたと話がしたい」

 

 

 その一言には、有無を言わせぬ響きがあった。

 

 

「――承知しました」

 

 

 私がそう答えるより早く、男は踵を返していた。それ以上の言葉は、もう返ってこなかった。

 

 案内役の職員が、私の肩を強く摑んだ。

 

 

「先生、今のは……」

 

「――少なくとも、彼らが、言葉の通じる相手だということだけは、分かりました」

 

 

 自分の声が、思いのほか落ち着いていることに、遅れて気がついた。

 

 周囲では既に、次の手立てを巡る協議が始まっていた。誰かが「今の受け答えができる専門家を、引き続き現地対応に」と言い、誰かがそれに頷いている。

 

 私はその輪から少し離れた場所で、ただ、馬上の男の背中を見つめ続けていた。胸の奥では、恐怖よりも先に、抑えきれない高揚が渦を巻いていた。

 

 着慣れない陣羽織の袖を、私はそっと握りしめた。

 

 滑稽な格好で、滑稽な声を張り上げただけの中年学者が、この国でただ一人の、彼らとの回線になった。

 

 昨日まで「何の役に立つの」と聞かれ続けた専門が、である。親戚一同に教えてやりたかったが、この件はたぶん、当分の間、機密である。

 

 雨上がりの生ぬるい風が、旗指物を揺らして通り過ぎていった。

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