国道一号線   作:datéshima

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第4話

 対策本部に戻るなり、初対面時には名刺すら渡してこなかった官房側の人間が、わざわざ歩み寄ってきて丁寧に頭を下げた。

 

 現金なものである。もっとも、意思疎通のとれる人間が地球上に一人しかいないとなれば、その一人への態度も変わろうというものだ。私は生まれて初めて、希少資源になった。レアメタルの気持ちが、少しだけ分かる。掘り出されるまでは、誰も見向きもしないのだ。

 

「先生、分かったことを詳しく伺えますか」

 

「古めかしい方言のようなもので、はっきりとは分かりかねますが、おそらく現在の滋賀県の西側の出自の者たちが大多数です。旗も衣裳も史実通り。信じられませんが、戦国時代の朽木の軍勢で間違いないでしょう」

 

「――にわかには信じられませんが、鎧や甲冑をきた大軍が闊歩しているとなると、そう考える他ありませんね。朽木は、戦国時代の大名ですよね」

 

「大名というより、国衆――地方領主です。近江の湖西、朽木谷を治めた一族で……ああ、いえ、この説明を始めると九十分かかります。講義一コマ分なので」

 

「要点だけで結構です」

 

「要点だけを言える学者は、学者ではありません」

 

「……先生」

 

「三十秒で済ませます」

 

 私は済ませた。四十秒かかったが、彼は聞き流してくれた。大人である。

 

「他には、なにか分かりましたか?」

 

「史料に残されている朽木の軍勢は、今の軍勢よりも数倍は多い。おそらく彼らは、あの将が率いている分隊だったと思われます」

 

「あの将、あの軍勢が何をしようとしているか、分かりますか?」

 

「彼らは今世でも、領主の元綱公を探しています。おそらく朽木谷――今の滋賀県まで進むと思われます」

 

「滋賀……。東京から、徒歩で、ですか」

 

「彼らに他の移動手段があるようには見えませんので」

 

 担当者が、遠い目をした。頭の中で国道一号線の全長を暗算したのだろう。お察しする。約四百五十キロ。東海道五十三次を、令和の日本で実演しようという集団である。歴史学者としては垂涎の企画だが、国土交通省としては悪夢だろう。

 

 その日のうちに、私は正式に「現地連絡担当」という肩書を与えられた。専門家として意見を述べるだけの立場から、規制線の内側で実際に彼らと接する立場へ。急な話だったが、断るという選択肢は、はじめから用意されていないようだった。

 

 もっとも、断りたいと思っていたわけでもない。歴史学者に「戦国の軍勢と直接話せる係」を提示して断らせようというのが、そもそも無理な相談である。釣り人に「入れ食いの穴場と竿」を渡して、帰れと言うようなものだ。

 

 辞令のようなものを受け取る際、担当者からは重ねて注意事項を告げられた。

 

「先生には、あくまで観察と最低限の意思疎通のみをお願いします。交渉や約束事の類は、先生の一存では絶対になさらないでください」

 

「もちろんです」

 

「それと、学術的なご興味での深追いも、お控えください」

 

「……もちろんです」

 

「今、間がありましたね」

 

「気のせいです」

 

 私は頷いた。頷きながら、内心では、その線引きがどこまで保つものか、いくらか怪しんでいた。主に、私自身の自制心の方を。

 

 防護装備一式を身につけさせられたときは、さすがに苦笑した。ヘルメットに防刃ベスト、そして念のためという触れ込みの緊急脱出用ロープ。

 

「このロープは、何から脱出する想定です?」

 

「……あらゆる事態から、です」

 

「あらゆる事態に、ロープ一本で」

 

「予算の範囲で最善を尽くしました」

 

「なるほど。刀や火縄相手にロープと」

 

「先生。予算の限界について現場で議論するのはやめましょう」

 

 国家の危機管理の実像を、私はこの装備一式から学んだ気がする。

 

 

 彼らが国道一号線に姿を現してから、三日目。

 

 行軍は、いつしか神奈川県の大磯宿のあたりまで進んでいた。かつての東海道の宿場町の面影を辛うじて残す一帯を、数百年前の武者たちが粛々と踏みしめていく。何度目にしても、現実感が湧かない光景だった。

 

 大学には「政府案件による特別休講」という、事務方も苦心しただろう理由が張り出されたらしい。学生たちは喜んだだろう。教員が国家機密になって休講。出席簿に書きようがない。

 

 准教授からはメッセージが届いた。

 

『先生、正式にお国のお仕事デビューですか』

 

『デビューした。ギャラの話はまだ出ない』

 

『国相手に出演料交渉する気だったんですか』

 

『大食漢の維持費は高いんだ』

 

『経費で落ちるといいですね、先生の胃袋』

 

 こんな時でも軽口を叩ける彼の図太さに、少しだけ救われた気がした。

 

 さて、現地連絡担当としての私の最初の仕事は、SUVからの並走だった。

 窓を開け、隊列の後方を歩く一団に向かって、声を張る。

 

「――昨日、名乗りを上げた者にござる! 覚えておいでか!」

 

 反応は、思っていたよりも早かった。数人の雑兵が、こちらを振り返り、何やら耳打ちを交わしている。

 

「――あの、妙な出で立ちで喚いておった学者ではないか」

 

 そんな声が、風に乗って微かに届いた。

 

 妙な出で立ちで喚いておった学者。

 

 事実誤認は一件もない。一件もないからこそ、傷つくのである。せめて「威風堂々たる学者」あたりに記憶を改竄してもらえないものか。歴史というのは、こうやって当事者の希望と無関係に記録されていくのだ。身をもって学んだ。

 

「――時に、お尋ねしたい! 昨晩は、どちらで野営を!」

 

「答える道理があるか」

 

「――ですよね!」

 

「……妙なやつじゃな」

 

 会話は成立している。塩対応だが、成立はしている。研究者人生において、査読者との応酬で鍛えた心臓が、こんなところで役に立った。門前払いに慣れている人間は、強い。

 

 だが、その日の正午、隊列の中ほどから、あの将が単身、こちらに歩み寄ってくるのが見えた。護衛も連れず、まっすぐにSUVへ。

 

 私は慌てて窓を全開にした。勢い余って、ヘルメットの顎紐に指が絡まった。歴史的会見の直前に、顎紐と格闘する連絡担当。誰にも見られていないことを祈る。

 

「――先生とやら」

 

 将は、車の窓に手をかけるでもなく、少し離れた場所に立ち止まって、静かにそう呼びかけた。私が名乗ったわけでもないのに、いつの間にか、この呼び名がすっかり定着していた。

 

「雑兵より聞いた。そなたの言、我らが朽木の名を出さずとも、我らを知っておったとな。また、殿の御在所を探る手掛かりになるやもしれぬ、とも」

 

 私の発言は、ほぼほぼ将にまで伝わっていたらしい。無線もSNSもない集団の、この情報伝達速度。現代の組織論の教材にしたいくらいである。うちの学部の連絡網より速い。悔しいが、事実である。

 

「――我らは、これよりも朽木谷を目指す。それは、初めより変わらぬ」

 

 将は、そう前置いてから、続けた。

 

「じゃが、殿の御在所については、いまだ手掛かりが乏しい。そなたの知見、貸してもらえぬか」

 

 同行を許す、というより、頼み事をされている。そんな響きだった。

 

 断る理由は、私の側にもなかった。あるはずがない。戦国の軍勢の内側に入って観察していいという誘いである。学会でこの話をしたら、同業者が全員、血の涙を流す。

 

「――承知しました」

 

 食い気味に答えてしまった。威厳もへったくれもない。

 

「じゃが」

 

 将は、私の乗るSUVを一瞥すると、明らかに不快そうに眉根を寄せた。

 

「その得体の知れぬ鉄の箱には、もう飽き飽きしておる。乗ったまま物を申されるは、どうにも据わりが悪い」

 

 鉄の箱。八百万円の公用車が、一言で鉄の箱である。無理もない。彼らの目には、馬でも輿でもない、正体の知れぬ黒い異物だ。むしろ三日間も並走を許してくれた方が驚きである。

 

「――私も一緒に歩いていいのですか?」

 

「応。歩けぬ道理もなかろう」

 

 将は、こちらを人睨みしてそう言い放った。

 

 反論できる材料は、私の側には一つもなかった。強いて言えば「運動不足です」だが、戦国武将に通じる弁明ではない。彼らの基準では、健常な成人男性は一日十里歩ける。私の基準では、研究室から学食までが長距離である。

 

「行軍には供の者を、いま一人二人連れるのは構わぬ」

 

 将は、SUVの後方に控えていた警護担当へと、ちらりと視線を投げた。

 

「ただ、隊列にある間、持ち物は許さぬ。それと――怪しい術の類は使うでない」

 

 持ち物、というのが無線機やスマートフォンの類を指しているのは、聞かずとも分かった。怪しい術というのは、恐らく拡声器や電子機器全般だろう。あの日、屋根の上から声を張り上げた光景は、彼らの目によほど異様に映ったに違いない。

 

 こうして、私の奇妙な二重生活が始まった。

 

 日中は、行軍と共にある。夕刻、隊列が野営に入ると、警護担当のSUVで前線本部のテントに戻り、その日見聞きしたことを報告する。仮眠を取り、夜明け前にまた隊列へ届けられる。

 

 昼は戦国、夜は霞が関。時差ならぬ「時代差」通勤である。四百年を毎日二往復する男は、世界広しといえども私だけだろう。時代差ボケというものがあるなら、私は間違いなく重症だった。

 

「先生。会議で『御意』はやめてください」

 

「善処します」

 

「昨日は資料を『巻物』と呼んでいました」

 

「……善処します」

 

 夜の報告会は、毎晩こんな調子で始まった。集まるのは官房、防衛省、外務省の面々。私が報告する側で、彼らが聞く側である。大学の講義と違って、全員が起きているのが新鮮だった。

 

「本日より同行した彼らの行程は約三十キロ。途中、コンビニエンスストア二軒と農協の倉庫一つで、米と乾物を徴発――」

 

「略奪です、先生」

 

「彼らの認識では徴発です。報告書は彼らの行動原理を記録するものですから、彼らの語彙で」

 

「……続けてください」

 

「特筆すべきは具足の手入れです。夜営のたびに、全員が縅糸の点検を欠かしません。あの縅糸の染めは恐らく茜と藍の重ね染めで、これが実に見事な――」

 

「先生」

 

「はい」

 

「縅糸の染色は、国家の意思決定に関係ありますか」

 

「大ありです。装備の維持水準は士気と統率の指標です。あの軍勢の統制は、まったく緩んでいません」

 

「……最初からそう言ってください」

 

「学者は結論を最後に言う生き物なのです」

 

「役所は結論しか聞かない生き物なんです」

 

 この不毛な異文化交流を、我々は毎晩律儀に繰り返した。ちなみに睡眠時間は毎日三時間である。人間、使命感と好奇心が揃うと、案外眠らなくても死なない。

 

 

 朝、野営地の外れでSUVを降り、スマートフォンから財布から時計まで、一切合切を警護担当に預ける。日中は丸腰で隊列と歩く。夕刻、野営が始まると、隊列の外れまで下がってSUVを拾い、預けた文明を返してもらってテントへ帰る。

 

 毎朝、文明を脱ぎ、毎晩、文明を着る。着脱式の四百年である。

 

 

「先生、本日もお預かりします」

 

「頼みます。ああ、腕時計も」

 

「時間はどうやって知るんです」

 

「日の高さで。三日でだいたい分かるようになりました」

 

「……人間って、そうなんですね」

 

「なるんです」

 

 警護担当の彼は、毎朝この受け渡しをしながら、少しずつ遠い目になっていった。彼の報告書に私がどう書かれているのか、知りたいような、知りたくないような。

 

 歩き始めて最初の二時間で、私は自分の靴底と人生設計を呪った。彼らは平然と歩く。具足を着けて、槍を担いで、平然と歩く。こちらは手ぶらで息が上がっている。四百年分の文明の進歩は、少なくとも脚力に関しては、完全な退化だった。

 

 それでも、隣を歩くという行為は、車の窓越しに声をかけるのとは、まるで違う距離感を生んだ。

 

 隣を歩いていた若い雑兵が、水を求めて隊列から少し外れた。喉の渇きは、時代を超えて共通の弱点らしい。私は何気なく、その訛りについて聞いた。

 

「――おぬしのその訛り、伊香の生まれか」

 

 若い雑兵は、怪訝そうな顔をした。伊香とは、現代でいえば長浜市北部、木之本や余呉のあたりを指す旧名である。

 

「よく知っておるな」

 

「学者ですから」

 

「がくしゃ、とは何じゃ」

 

「……昔のことを調べて、飯を食っている者です」

 

「昔のことを調べると、飯が食えるのか」

 

「食えます。あまり多くは食えませんが」

 

「難儀な稼業じゃのう」

 

 心の底から同情された。戦国の足軽に生計を憐れまれる国立大学教員。給与明細を見せたら、彼はもっと同情してくれたかもしれない。

 

 日が頭から少し傾いたあたり、別の足軽の具足について、ふと口にしたことがある。

 

「その縅糸の色、なかなか手が込んでいる。近江の紺屋の仕事か?」

 

 隣を歩いていた年嵩の武者が、驚いたように目を見開いた。

 

「――お主、近江のものなのか」

 

「いえ、私は静岡……三河の生まれです。ただ、近江の職人の腕は、四百年たった今でも有名なんです」

 

「四百年、とな」

 

「素晴らしい反物や色物を作ると、今も語り継がれています」

 

 武者は少し誇らしげにフンっと鼻を鳴らして、話は終わった。

 

 褒められて悪い気のする人間は、どの世紀にもいない。この程度の距離でも、少しずつ縮められるものはあるらしい。

 

 調子に乗った私は、その後も、目についたものに片っ端から食いついた。

 

「その笠の編み方は、菅ですか」

 

「その槍の柄、樫ですね。継ぎ目の補強は」

 

「その荷車の車軸――」

 

「……先生とやら」

 

 年嵩の武者が、ついに呆れ顔で振り返った。

 

「そなた、さっきから、わしらの持ち物ばかり見ておるな」

 

「職業病です」

 

「病なら、休め」

 

「これでも抑えている方なのです」

 

「抑えてあれか」

 

 周囲の雑兵たちから、失笑が漏れた。笑われている。だが、悪い笑いではなかった。奇妙な学者を面白がる、値踏み混じりの笑い。この隊列における私の立ち位置は、どうやら「よく分からんが害のない変わり者」で固まりつつあった。学会での立ち位置と、ほぼ同じである。安心感すらあった。

 

 

 その晩の報告会で、私はこの手応えを、いくらか誇らしく報告した。

 

「彼らとの信頼関係は、着実に構築されつつあります」

 

「具体的には」

 

「本日、三人の兵と世間話が成立しました。うち一人からは、笠の編み方を教わる約束を」

 

「……先生。それは信頼関係というより、ご近所付き合いでは」

 

「外交とは、突き詰めればご近所付き合いです」

 

「名言風に言わないでください」

 

 だが、こちらののんびりした歩み寄りとは裏腹に、本部の空気は日に日に張り詰めていった。

 

 封鎖が続く国道一号線。並行する物流ルートは軒並み限界に達し、一部のコンビニやスーパーが空になり始めている。近隣の病院からは、透析患者の送迎バスが定時に運行できないという切実な問い合わせ。経済団体からの申し入れ書が、対策本部の机に山と積まれていく。

 

 日本の大動脈が、機能不全を起こしているのだ。当たり前ではある。大動脈に千人の武者が詰まっているのだから。医学的に言えば、これはもう梗塞である。しかも患部は、日に十数キロずつ移動する。

 

「これ以上、指をくわえて見ているわけにはいかない」

 

 防衛省側の担当者が、そう言い放ったのを覚えている。彼らの言い分にも一理あった。命に関わる物資が滞っているという事実の前では、悠長な信頼構築など、贅沢品のように扱われても仕方がなかった。

 

 一方で、官房側はあくまで慎重だった。

 

「集団で武装しているのだ。刺激すれば、また先日のような事態を招きかねない」

 

 会議は何度も平行線を辿り、膠着した。

 

 その膠着を破ったのは、対策本部の隅で交わされていた、雑談めいた発案だった。

 

「――いっそ、然るべき場所に留まっていただくというのは、どうでしょう」

 

 誰かがそう漏らすと、その場にいた何人かが顔を上げた。

 

「留まる、と言いますと」

 

「この先、小田原に城があります。天守も含めて再建・整備が進んでいる城です。彼らの目には、由緒正しい大名の居城として映るはずです。あそこに誘導できれば、行軍そのものを止められる上、あの大軍の寝泊まりする場所の確保にもなります」

 

 彼らにとって、城というのは単なる建物ではない。統治の正当性そのものを体現する場所だ。無理に押しとどめるより、余程筋の通った申し出になるかもしれない。

 

 夜の報告会に呼ばれた私は、この案について意見を求められた。

 

「――悪くない、と思います。筋の通し方としては、これまでで一番まともです」

 

「では先生、もう一度、あの時のような形で、お話しいただけますか」

 

 あの時、というのが初めての名乗りを指しているのは、聞かずとも分かった。

 

 だが、私は首を横に振った。

 

「私では、駄目です」

 

「なぜです。彼らが唯一、言葉を交わす相手ではないですか」

 

「だからこそです。私は今や、隊列と一緒に歩いて、飯の話で笑い合っている男です。彼らにとって私は『よく喋る見慣れた学者』にすぎません。今さら儀礼めいた名乗りを上げても、厳粛さが出ない。ご近所さんが突然裃を着て来たようなものです」

 

「……では、どうすれば」

 

「――小田原の城を管理する者として、新たにどなたかが、名乗りを上げるべきです。初対面の、格のありそうな人物が」

 

 私がそう進言すると、対策本部の面々は顔を見合わせた。そして、全員の視線が、ゆっくりと一人の男に集まった。

 

 あの内閣府の担当者である。

 

 人選の理由は単純だった。ゆで卵のような禿頭に、熊のような口髭。あの面構えは、どこからどう見ても貫禄と威厳そのものだった。スーツを着ているから官僚に見えるだけで、裃を着せれば家老である。

 

「――私が、ですか」

 

 彼の声は、明らかに動揺していた。

 

「適任です」

 

「私は、演劇の経験など」

 

「演技は要りません。私が作法をお教えしますから、そのままなぞっていただければ結構です。声を張り、名を名乗り、用向きを告げる。それだけのことです」

 

「それだけ、と仰いますが」

 

「大丈夫です。私にもできました」

 

「先生は楽しんでおられたでしょう」

 

 見抜かれていた。

 

 もう一つ、私が付け加えた進言がある。名乗りの場所である。

 

「城の目前で申し入れるのは、駄目です。小田原より、結構手前で――少なくとも丸一日は手前でやってください」

 

「なぜです。城が見える場所の方が、説得力があるのでは」

 

「逆です。城門の前で『この城に入りませんか』は、もはや提案ではなく通告です。武家の交渉は、間合いが命です。申し出を受けるか、断るか、考える時間を相手に渡す。それが礼というものです。それに――」

 

「それに?」

 

「断られた場合、こちらにも次の手を考える時間が要るでしょう」

 

 我ながら、嫌な予感のする一言だった。そして嫌な予感というのは、学者の仮説より的中率が高い。

 

 

 その晩より、本部は行軍近くに移動式テントを設けることになった。

 私は本部のテントで、彼に名乗りの稽古をつけた。人生で初めての、実技指導である。講義は二十年やってきたが、発声指導は初めてだ。

 

「違います。語尾を伸ばさない。『ござるぅ』ではなく『ござる』。武士は語尾で媚びません」

 

「別に媚びている訳では…………ご、ござる」

 

「今度は硬すぎます。あなたは城主の代理です。もっと、腹から」

 

「城など管理したことがないのですが」

 

「彼らも、あなたの人事記録は確認できません。堂々と偽ってください」

 

「公務員に偽証を勧めないでいただきたい」

 

「外交です」

 

「……ござる!」

 

「よし、それです」

 

 深夜のテントに、中年男二人の「ござる」が響き続けた。警備の隊員が何事かと覗きに来て、無言で去っていった。報告書にどう書かれたのかは、知りたくもない。

 

 翌日の昼。

 

 場所は、大磯の宿場をいくらか過ぎたあたり。小田原までは、彼らの足でもまだ丸一日以上かかる地点である。進言通りの、十分な間合いだった。

 

 国道の先に据えられた仮設の台の上で、慣れない陣羽織を借り受けた担当者が、強張った顔で立った。禿頭に夏の日差しが反射して、後光のようだった。縁起がいいのか悪いのか、判断に迷う。

 

 だが、彼の第一声は、私なんかよりよっぽど様になっていた。

 

「――我こそは、この国の政を預かる者にござる! 貴殿方に、折り入って、ご提案がある!」

 

 隊列の中から視線が集まった。稽古の成果である。私は隊列の後方で、教え子の晴れ舞台を見守る指導教員の気分を味わっていた。

 

 隣の雑兵が、私を肘でつついた。

 

「――先生。あの照る頭の男、なかなか良い声じゃな」

 

「でしょう。私が教えました」

 

「なんじゃ、先生の弟子か」

 

「いえ、弟子ではありません。名乗りの練習を、一晩だけ」

 

「一晩であの声なら、大したものよ」

 

 本人に聞かせてやりたい評価だった。あとで必ず伝えようと決めた。

 

「この先、小田原と申す地に、由緒ある城がございます! 天守を戴き、かつての大名の居城として名を馳せた場所にござる。今は私が城を預かる身! 道中の宿として、また御在所の探索の拠点として、貴殿方さえよろしければ、しばしそこに腰を据えられてはいかがか!」

 

 口上は、稽古よりも堂々としていた。人間、本番に強い型というのがある。彼は明らかにそれだった。役所で三十年、想定問答で鍛えた男の底力である。

 

 隊列が、ざわめいた。

 

 城、という言葉の重みは、確かに彼らに届いていた。雑兵たちが顔を見合わせ、小声で何かを言い交わす。悪くない流れに見えた。正直、いけるのではないかと思った。

 

 将は、歩みを止めぬまま、視線だけをこちらに寄越した。担当者にではなく、隊列後方に控える私の方に。真意を確かめるような目だった。私はただ、小さく頷き返すことしかできなかった。

 

 将が、馬首を巡らせ、名乗りの台へと向き直る。

 

 隊列が、止まった。

 

「――城、か」

 

 一拍の間。

 

 その一拍の間に、私は都合のいい想像を巡らせていた。天守で史料を検分する自分。城内で装束の実測をする自分。夢が膨らむ一拍だった。

 

「不要じゃ!」

 

 夢は、大音声で砕け散った。

 

「我らは、朽木の郎党なるぞ! 主家でもない者が建てし城に、おめおめと腰を据えるなど、武士の面目に関わる話よ!」

 

「――他家の城は他家の城! 我らが帰るは朽木城である!」

 

 取り付く島もない、というのはこのことだった。

 

 天守付きの城を無償提供して、断られる。この国の不動産史上、最も豪快な商談決裂である。

 

 だが彼らにしてみれば、筋の通らない城に住むくらいなら、アスファルトの上で野営する方がましなのだ。所有権の概念が、令和の借地借家法より遥かに厳格である。

 

 将は、それだけを言い切ると、もう名乗りの台を見てもいなかった。馬首を戻し、前へ。隊列が、何事もなかったかのように動き出す。

 

 台の上には、陣羽織の担当者が、置物のように立ち尽くしていた。

 

 私は隊列を離れ、彼のもとへ駆け寄った。

 

「名乗りは、完璧でした」

 

「……断られましたが」

 

「名乗りの出来と、交渉の結果は別です。あなたの『ござる』は本物でした。隊列の兵も、良い声だと褒めていました」

 

「……武士に、褒められましても」

 

「四百年前の職人に褒められる染物師と、四百年前の武士に褒められる名乗り。どちらも国宝級だと思いますが」

 

「先生。それは、慰めになっていません」

 

「なっていませんか」

 

「なっていません。……ですが、少しだけ、なっています」

 

 彼は陣羽織の袖で額の汗を拭うと、深々と息を吐いた。禿頭から、湯気が出ているように見えた。気のせいだと思いたい。

 

 その日の夕刻、私はいつも通り、野営地の外れでSUVを拾い、本部へ戻った。

 

 テントの空気は、これまでで一番重かった。

 

 誰も、私に報告を求めなかった。求められなくても、報告すべき結論は一つしかない。交渉は、決裂した。城は、断られた。行軍は、明日も小田原へ向かって進む。

 

「――交渉が決裂したのであれば、次の手を打つほかありません」

 

 防衛省側の担当者が、低い声でそう切り出すのを、私はテントの隅で聞いた。

 

 次の手。

 

 その言葉の中身を、この夜の私は、まだ知らなかった。

 

 知らないまま、翌朝もまた、文明を脱いで隊列に戻った。それが私の仕事であり、そして正直に言えば、あの隊列の隣は、テントの中よりずっと居心地がよかったからだ。

 

 この居心地のよさに、間もなく代償が付くことになる。

 

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