城の申し出が蹴られた翌朝も、私はいつも通り、野営地の外れで文明一式を警護担当に預け、隊列に合流した。
いつも通りでなかったのは、テントの方である。
これは後になって、断片を繋ぎ合わせて知ったことだが――あの夜から、対策本部は私に見せる顔と、見せない顔を、はっきり使い分けるようになっていた。
理由は、考えてみれば当然だった。私は日中、行軍の中にいる。将と言葉を交わし、兵と飯を分け合っている。次の手が「彼らの意に沿わないもの」になるなら、私は知らせてはいけない側の人間なのだ。うっかり顔に出られては困る。実際、私は隠し事が下手である。それは後日、将にすら太鼓判を押されることになる。
もっとも、当時の私も、鈍いなりに違和感は覚えていた。
夜の報告会が、妙に短くなった。
「本日の報告は以上です。何かご質問は」
「ありません。お疲れさまでした」
「……ないんですか。昨日まで、縅糸の話でも三つは質問が来たのに」
「本日は結構です」
「そうですか。ちなみに今日は兵たちの草鞋の消耗率について、興味深い観察が」
「結構です」
結構です、が早い。おかしい。私の話は長いが、無下にされるほどではないはずだ。たぶん。
テントの奥のホワイトボードは、私が入ると同時に裏返された。私がテントの入り口に立った瞬間、条件反射のように板が回転した。
「……あの、そんなに堂々と裏返されると、逆に気になるのですが」
「気のせいです」
「私の台詞の使い回しはやめてください」
書類も同様である。私が近づくと、机の上の紙という紙が、一斉に伏せられる。全員の手つきが揃っていて、シンクロナイズドスイミングのようだった。国家公務員の危機管理研修には、書類を伏せる訓練でもあるのだろうか。
一度だけ、伏せ損ねた紙の端に「屈折率」という単語が見えた。
屈折率。
歴史学者の日常に、およそ登場しない単語である。私は首を捻り、そして考えるのをやめた。今思えば、あれは煙幕資材の仕様書だったのだろう。視界をどれだけ遮れるか、という。
――そのころ、私のいないテントの奥では、話が着々と、そして勝手に進んでいた。
以下は全て、後から聞いた再現である。
「表向きの理由は、どうしますか」
「道路損壊による通行止め、でいきましょう。災害対応に準じた説明です」
「損壊……していますか、あの道」
「千人が具足で毎日歩けば、路面は傷みます」
「傷んでいるのは主に路肩の植え込みでは」
「植え込みも道路の一部です」
この国の役所は、嘘をつかない。嘘にならない言い方を発明するのである。その創意工夫を、もう少し別の方向に使えないものか。
「資材の名称ですが、『催涙ガス』は報道で使われると刺激が強すぎます」
「では『煙幕状の非殺傷資材』で」
「非殺傷、と付けると、かえって殺傷を連想させませんか」
「では『視界制限資材』」
「見えなくするだけ、みたいで印象がいいですね。それでいきましょう」
名称会議に三十分かけたという。中身は一グラムも変わっていない。
計画はこうだった。小田原城の手前一帯に、大規模なバリケードを敷く。隊列が達したら、視界制限資材――つまり煙幕と催涙性のガスを展開し、物理的に進路を塞ぐ。狙いは殺傷ではなく、足止めと進路変更。市街地への突入だけは、何としても防ぐ。
机上では、筋が通っていた。機動隊が暴徒を止める手順としては、教科書通りですらあった。
問題は、相手が暴徒ではなく、軍だったことである。暴徒は痛みと恐怖で散る。軍は、散らない。特に、あの軍は。
テントの誰よりも、それを正確に予測できる人間が一人だけいた。そして、その一人だけが、計画を知らされていなかった。
人事というのは、つくづく皮肉にできている。
作戦決行の日、私はいつも通り、隊列の中にいた。
朝から、嫌な感じはあった。空撮のヘリが、妙に多い。沿道の規制線が、いつもより遠い。そして警護担当が、朝の受け渡しの時、私と目を合わせなかった。
「今日は、その……先生、なるべく隊列の後方にいてください」
「なぜです」
「……なんとなく、です」
「あなたの『なんとなく』は、辞令で動く『なんとなく』ですか」
「…………」
「分かりました。後方にいます」
彼を問い詰めても仕方がない。彼は彼で、言えないことを言えないと言えないのだ。役人の沈黙は、雄弁である。
昼過ぎ、隊列の行く手に、それは見えた。
国道を塞ぐ、灰色の壁。バリケードである。鉄柵と土嚢と車両を組み合わせ、道幅いっぱいに、幾重にも積み上げられていた。小田原の市街地は、もう目と鼻の先だった。
隊列は、歩みを緩めなかった。
先頭の武者たちが、バリケードに取り付いた。鉄柵が、まるで竹垣のように引き抜かれ、押し倒されていく。彼らの膂力もさることながら、迷いのなさが恐ろしかった。障害物は、除ける。それだけである。
そして、煙が来た。
風上から、白い幕が湧くように広がり、隊列を呑み込んだ。目と喉に、火のついたような刺激。私は咄嗟に袖で顔を覆った。視界が白く塗り潰され、周囲から咳き込む音が幾重にも上がる。
「――妖術ぞ!」
「怯むな! 息を浅くせよ! 進めば抜ける!」
誰かの声が飛ぶ。悲鳴ではない。指示である。この期に及んで、彼らの声は統率を失っていなかった。
煙の中で、私は理解した。これは足止めにならない。彼らは煙を「攻撃」と解釈した。攻撃と解釈した以上、彼らの作法では、返答は一つしかない。
前進である。
目を腫らし、咳き込みながら、隊列はじりじりと、しかし確実に、バリケードの残骸を越えていった。
私は後方で、ただ立ち尽くしていた。止める言葉を、私は持っていなかった。どちらの側の言葉も。
そして、あの音が響いた。
乾いた発射音。続けて、くぐもった爆発音。
地面が僅かに震え、進路の脇で土煙が高く舞い上がった。威嚇のための空砲と、進路脇に仕掛けられた小規模な爆薬――だと知ったのは、全てが終わった後である。その瞬間の私に分かったのは、爆発が起きた、それだけだった。
白い煙と土煙の向こうで、隊列の先頭が、一瞬、たじろぐように止まった。
止まったのは、一瞬だけだった。
「――狼藉者め!」
怒号が、煙を裂いた。
威嚇のための爆発は、彼らにとっては、最後の一線を越えた「攻撃」以外の何物でもなかったのだろう。武者たちは怯むどころか、爆発の発生源――威嚇射撃を行った小隊へと、迷いなく踏み込んでいった。
「――止まれ、それ以上近づくな!」
「発砲許可を、発砲許可を要請します!」
規制線の向こうから、拡声器越しの声と、生の悲鳴が入り混じって聞こえた。
悲鳴が上がったのは、それから数秒後のことだった。
煙の中の出来事を、私は断片でしか見ていない。見えていたとしても、書けたかどうか分からない。
結局、その一件で自衛隊員が三名死亡。重軽傷者多数。部隊は撤退を余儀なくされ、作戦は完全な失敗に終わった。
夕刻、混乱の収まった隊列が野営に入ってから、私は迎えのSUVで前線本部に運ばれた。テントの中は、通夜のように静かだった。ホワイトボードは、もう裏返されもしなかった。裏返す気力も、隠す意味も、失われていた。
板の上には、作戦の時系列が、几帳面な字で書かれていた。私はそれを、黙って最後まで読んだ。
「――これを、私に隠していたのですね」
誰も、答えなかった。代わりに、末席の若い職員が、絞り出すように言った。
「……先生に話せば、彼らに伝わると。そういう判断でした」
「伝えませんよ。私の仕事は観察であって、内通ではない」
「分かっています。ですが――先生は、顔に出ますので」
反論しようとして、やめた。事実だからである。この件に関してだけは、対策本部の人事評価は正確だった。
私は後になって、現場の映像記録を見せられる機会があった。
踏み込んだ武者の動きには、やはり迷いがなかった。城の申し出は突っぱね、道を塞がれてもなお前進を続けた彼らにとって、あの威嚇の爆発は、明確な「攻撃」だった。目には目を、という当然の道理で、その一撃は繰り出されていた。
ただし、と私は思う。
彼らは、逃げ惑う民間人には、最後まで刃を向けていない。兵糧の徴発こそすれ、殺めるのは常に、こちらから手を出した相手に限られていた。その一線だけは、これまでのところ、頑なに守られている。
この事実に、当の政府関係者たちがどこまで気づいているのか、私には分からなかった。少なくとも、報道の見出しに、その一線への言及は一つもなかった。
テレビでは、この件を巡って、瞬く間に世論が二つに割れていった。
『先に手を出したのは自衛隊の方だ。ガスを撒いて、爆破までしておいて何を今さら』
『隊員が何人も亡くなってるんだぞ、これで排除に踏み切らない方がおかしい』
『向こうは向こうで筋を通してるだけだろ、いい加減にしろよ人道派気取り』
『この武士たちを誰か何とかしてくれ。。』
排除を求める声と、彼らの筋の通し方に理解を示す声が、画面の中で真っ向からぶつかり合っていた。どちらの側にも、それぞれの理屈があった。そして、どちらの理屈も、目の前で起きている惨状を止める力は持っていなかった。
私は報告書の最後に、当たり障りのない表現で、一文だけを書き添えた。「当該集団は、非戦闘員に対する加害を一貫して回避している」。誰かがそれを読んで、少しでも冷静さを取り戻してくれることを願いながら。
報告書をまとめ終えた頃には、日はすっかり暮れていた。私は職員に付き添われ、野営地へと戻った。本来なら、テントで仮眠を取る時間である。だが、この夜だけは、なぜか、隊列の側に戻らなければならない気がした。
野営地に着いた頃には、あたりはもう薄闇に包まれていた。今日の一件のせいか、いつもより空気が張り詰めている。焚き火の数もまばらで、誰もが言葉少なだった。
昼間、あれほど軽口を交わした雑兵たちも、今日は誰も、私に声をかけてこなかった。当然だろう。彼らの目から見れば、今日の煙も爆発も、私の属する側が仕掛けたものだ。距離の縮まり方より、開き方の方が、ずっと速い。
私は手ぶらのまま、隊列の端――野営地の外れに、ぽつんと腰を下ろしていた。
しばらくして、あの将が、単身、こちらに歩み寄ってくるのが見えた。護衛らしき者を伴わず、たった一人で。
夕暮れの薄闇の中、彼の具足は雨に濡れて、鈍い光を放っていた。昼間見た時よりも、幾分か疲れているように見えた。今日の一件で、彼もまた何かを背負い込んだのかもしれない。
彼はしばらく、値踏みするような沈黙を挟んでから、静かに口を開いた。
「――先生」
人目を避けるような、抑えた声だった。将はそう呼びかけると、しばし黙り込んだ。
「今日の、あの毒の煙や、砲撃のこと。そなたは、あらかじめ知っておったか」
単刀直入な問いだった。誤魔化しても、恐らく見抜かれる。
「――いいえ。私は、何も知らされていませんでした」
噓ではなかった。皮肉なことに、一片の噓もなかった。将は、それをしばらく吟味するように、こちらの顔を見つめていた。
「そなたが、あちら側の間者のような真似をするとは、儂は思うておらぬ」
その言葉に、私は少しだけ息をついた。
「間者にしては、そなたは物を知りすぎておるし、隠し事が下手すぎる」
「……それは、褒めておられるのですか」
「貶しておる」
将は、にこりともせずにそう言った。この男の冗談は、いつも真顔で繰り出される。そして、冗談なのかどうかの確認は、許されていない。
奇妙な話だが、その瞬間、私は対策本部の連中の顔を思い出していた。先生は、顔に出ますので。四百年を隔てた二つの組織が、私という人間について、完全に同一の評価を下している。学術的に言えば、これはもう定説である。
「じゃが」
将は、続けた。低いが、はっきりとした声だった。
「――もはやそなたを、あちらへ帰すわけにはいかぬ」
その一言の重みを、私はすぐには呑み込めなかった。帰すわけにはいかぬ、という言葉が、保護なのか、拘束なのか、あるいはその両方なのか、判じかねた。
「あちらに戻れば、そなたはまた、何も知らされぬまま、知らぬ顔で儂らの隣を歩くことになる。次の煙が来る日も、な」
図星だった。ぐうの音も出ない、とはこのことである。
「それは、そなたのためにもならぬ。儂らのためにもならぬ。――ならば、こちら側に置いておく方が、互いに、まだ筋が通る」
将は私の護衛担当へと、視線を移した。
「――そこな者」
名を呼ばれたわけでもないのに、担当者は弾かれたように背筋を伸ばした。
「先生は、しばし我らの下に留め置く。戻って、然るべき者にそう伝えよ」
担当者は、明らかに動揺した様子で、こちらに助けを求めるような視線を寄越した。だが、将の口調には、有無を言わせぬ響きがあった。
「――承知、いたしました」
担当者は深く一礼すると、対策本部に向けて引き返していった。その背中を、私は妙な感覚に襲われながら見送っていた。
たった今、自分の帰る場所が、静かに一つ失われたのだという感覚だった。毎朝毎晩繰り返してきた、文明の着脱。あの奇妙な通勤が、今日で終わった。明日から私は、脱ぎっぱなしである。
将は、それを見届けてから、再びこちらに向き直った。
「ここより改めて同行してもらおう」
「はい。朽木までご一緒します」
「――よう言うた」
将は小さく息をつくと、それ以上は何も言わず、踵を返して隊列の方へと戻っていった。
その背中を見送りながら、私はふと、初日の雑兵の言葉を思い出していた。
昔のことを調べると、飯が食えるのか。難儀な稼業じゃのう。
難儀な稼業である。今日をもって、家にも大学にも、テントにすら帰れなくなった。それでも、この隊列と共に歩く以外の選択肢を、私はもう、考えられなくなっていた。
難儀なのは稼業ではなく、性分の方だった。