国道一号線   作:datéshima

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第7話

 私が彼らの行軍に同行を始めて、もう何日になるか。正確な日数さえ、あやふやになりつつあった。

 

 朝は隊列の後方に付いて歩き、日中は将兵たちの様子を観察し、夜は野営地の隅の小さなテントで眠る。それだけの毎日だったが、不思議と飽きることはなかった。

 

 足の裏には、いくつもの豆ができては潰れ、皮が厚くなっていく感触があった。革靴で長距離を歩くようにできていない身体を、無理やり作り替えているような感覚である。歩くことは、もはや義務というより、本能に近いものになりつつあった。

 

 初日に靴底と人生設計を呪った男が、今では一日数十キロを歩いている。人間の適応力は大したものだ。もっとも、周囲の基準では、私はまだ「歩けない側」である。

 

「先生、もう音を上げたか」

 

「上げていません。息を整えているだけです」

 

「息を整えるのに、腰まで曲がるのか」

 

「……効率的な姿勢なのです」

 

「腰の曲がった効率は初めて見たわ」

 

 この調子である。四百年前の人々に体力で敬意を払われる日は、恐らく来ない。

 

 今の私に、政府から支給された携帯食はもう残っていない。手元にあるのは、彼らが分けてくれる飯だけだった。

 

「先生は、存外よく食われますな」

 

 初めの頃、ある古参の兵に半ば呆れられたことがある。

 

「先生の分まで残しておいてやったのに、それでも足りぬのか」

 

「――申し訳ない。育ちが良かったもので」

 

「育ちがいいと、そんなに食うものなのか」

 

 傍で聞いていた別の雑兵が真顔で尋ねてくるので、思わず笑ってしまった。

 

「育ちの良し悪しは関係ありません。強いて言えば、性分です」

 

「性分で三人前は食えぬわ」

 

「二人前半です」

 

「先生よ、その半分の勘定、前にも聞いたぞ」

 

「聞いたかもしれませんが、真実は何度でも繰り返す価値があります」

 

「真実なら、腹の虫にも言うて聞かせよ。飯時のたびに軍鼓のように鳴っておるぞ」

 

「……軍鼓」

 

「陣中で一番よう通る腹の音じゃ。誇れ」

 

 誇れる要素がどこにあるのか分からなかったが、彼らの中では、私の食欲は既に一種の名物のような扱いになっていた。鎧兜の武者たちより学者の胃袋が目立つ行軍である。悪い気はしなかった。むしろ、こういうやり取りが、この数日で唯一の息抜きだった。

 

 准教授には、もう何日も、言葉を届けられずにいた。彼が今どうしているのか、対策本部で何が起きているのか、私には想像することしかできない。

 

 それでも、奇妙なことに、この数日で一番よく眠れているのは、皮肉にもこの野営生活の中だった。研究室の椅子で仮眠を取っていた頃より、地べたに寝袋一枚の方がよほど深く眠れる。人間の身体というのは、案外どうにでもなるものらしい。文明とは何だったのか。少なくとも私の睡眠の質に関しては、文明は四百年間、何もしてくれていなかったことになる。

 

 支援物資も、もう届かない。今の私は、与える側ではなく、与えられる側だった。彼らの厚意に、ただ縋っているだけの身である。それを思うと、時折、薄氷を踏むような心許なさに襲われた。もし彼らの気が変われば、私はこの隊列の中で、真っ先に見捨てられる存在でしかない。

 

 もっとも、そんな不安を口にしたところで、誰かが答えてくれるわけでもない。今の私に残された選択肢は、ただ、この足で歩き続けることだけだった。

 

 神奈川から静岡へ差し掛かる頃には、道の両脇の景色も、目に見えて変わり始めていた。ビルの代わりに、みかん畑が斜面を覆い、遠くに海の青が覗くようになる。

 

 隊列の誰もが、その変化に気づいていないはずはなかった。だが、誰もそれを口にはしなかった。景色がどれほど移ろおうと、彼らの目指す場所は、ただ一つだけだったからだ。

 

 その日の昼下がり、隊列が緩やかな坂を上りきったところで、前方の視界が急に開けた。

 

 雲の切れ間から、富士山が姿を現していた。

 

 隊列の中から、小さなどよめきが起きた。先頭の方で誰かが指をさし、つられて後方の者たちも次々と足を止めては、山を見上げる。

 

「――霊峰か」

 

「あの通りの姿とは、変わらぬものよ」

 

「わしは初めて見るぞ。故郷でも噂には聞いておったが」

 

 口々にそんな言葉が漏れるのを、私は少し離れた場所で聞いていた。

 

 永禄だろうと令和だろうと、あの山の輪郭だけは、誰の目にも同じように映る。人が入れ替わり、道が舗装され、街並みが変わっても、変わらないものは確かに存在する。四百年を隔てた集団が、同じ山を見て同じように足を止める。これ以上の史料が、どこにあるだろう。

 

 隣を歩いていた若い雑兵が、私の手にしていた手帳に目を留め、興味津々といった様子で覗き込んできた。

 

「先生、それは何でござる。先ほどから、しきりに書き付けておられるが」

 

「――これですか。見聞きしたことを、書き留めているだけです」

 

「絵も描けるのか」

 

 試しに、手帳の端に、目の前の富士山を手早く写し取ってみせると、彼は目を丸くして絶句した。

 

「――これは、まことに見事なものよ。絵師顔負けではないか」

 

「仕事柄、スケッチはそれなりに」

 

「先生は、学者のくせに手先も器用で、飯も食えるのじゃな」

 

「最後のは特技に数えないでください」

 

 彼があまりに素直に驚くので、私は思わず歯を見せて笑った。

 

 問題は、その後である。

 

「――先生。わしも、描いてもらえぬか」

 

 富士のスケッチを見ていた別の雑兵が、遠慮がちにそう言い出した。

 

「あなたを、ですか」

 

「応。故郷の母者に、無事な姿を見せる手立てがない。絵ならば、いつか届けられるやもしれぬ」

 

 断れるはずがなかった。

 

 私は彼を道端の石に座らせ、手帳の一頁を使って似顔を描いた。決して上手い絵ではない。だが、彼は出来上がったそれを両手で受け取ると、まるで書状でも扱うように、懐の奥へ丁寧に仕舞い込んだ。

 

「――恩に着る」

 

 それを見ていた周囲が、黙っているはずもなかった。

 

「先生、次はわしじゃ」

 

「わしが先に頼んだ」

 

「順番じゃ、順番。列を作れ、列を」

 

「押すな! 絵が歪んだらどうする!」

 

 気づけば、私の前には行列ができていた。戦国の武者たちが、似顔絵を求めて整列している。国道の路肩で。

 

 この光景を空からドローンが撮っていたらと思うと、今でも冷や汗が出る。『武士の集団に絵を描かされる私服のおじさん』。SNSの大喜利が三日は持つ画である。

 

 結局その日だけで、七人描いた。翌日には十二人描いた。全員が全員、描き上がった絵を懐の奥に仕舞った。誰一人、その場で捨てなかった。

 

 母者に。妻に。許嫁に。生まれたばかりで、顔もまだよく覚えておらぬ子に。

 

 彼らが絵を持ち帰りたい相手の話を聞きながら、私は途中から、笑えなくなっていた。この絵が届く宛先は、四百年前にしか存在しないのだ。それでも彼らは、懐に仕舞う。届くと信じている者の手つきで。

 

 私にできるのは、なるべく良い顔に描いてやることだけだった。

 

 その日の野営地は、川沿いの広い河川敷だった。もう静岡に入ってしばらくたっている。

 

 雨が上がったばかりの空気には、湿った土と、焚き火の煙と、干された具足の匂いが混じり合っていた。あちこちで小さな火が焚かれ、その周りに雑兵たちが車座になっている。

 

 誰かが櫛で髪を整え、誰かが具足の傷んだ革紐を繕い、誰かが鼾をかいて眠っている。戦の話をする者もいれば、故郷の話をする者もいる。何百年も前の戦装束を纏っていても、彼らがしていることは、驚くほど今の私たちと変わらなかった。

 

 一人の若い雑兵が、擦り切れた草鞋の底を、器用に編み直していた。手つきに迷いがない。何百年も繰り返されてきた作業なのだろう。彼はふと顔を上げて私に気づくと、ばつの悪そうな笑みを浮かべ、小さく会釈をした。

 

 私も、会釈で返した。言葉を交わさずとも成立するやり取りがある。ここ数日で、私はそれを学んだ。

 

 ある日など、擦れて血の滲んだ私の踵に気づいた古参の兵が、何も言わずに布切れを差し出してきたことがあった。礼を言う間もなく、彼はまた黙々と自分の作業に戻っていった。そうした小さな親切の一つ一つが、言葉以上に、私たちの間にある何かを繋いでいた。

 

 火の傍らでは、二人の若い雑兵が、何やら小声で言い合いをしていた。聞き耳を立てると、どうやら故郷に残してきた許嫁の話らしい。

 

「わしの方が良い女子を待たせておる」

 

「その分、待たせすぎて逃げられておるのではないか」

 

「なっ……逃げるものか。わしの帰りを、指折り数えて待っておるわ」

 

「指が足りぬほど待たせておいて、よう言うわ」

 

 周りがどっと沸いた。

 

「先生、どちらの女子が良いか、裁定してくれ」

 

「――会ったこともない方々の優劣は、つけられません」

 

「学者は、そういう時ばかり慎重よの」

 

「では、判じ方だけお教えします。四百年後の世では『そういう争いは、両者とも負け』と言います」

 

「なぜじゃ」

 

「聞いている周りが、一番楽しんでいるからです」

 

 一同が顔を見合わせ、それから今夜一番の笑い声が上がった。時代がどれほど隔たっていようと、男というのは、こういう話で盛り上がる生き物らしい。四百年後の居酒屋でも、まったく同じ会話を聞ける。

 

 別の火では、年嵩の武者が、若い者たちに説教めいたことを語っていた。

 

「よいか、戦場で一番怖いのは、敵の刃ではない。己の足がすくむことよ」

 

 したり顔でそう続ける様子に、周りの若者たちは神妙な顔で頷いている。

 

 私はその光景を、手帳の端に書き留めずにはいられなかった。史料には決して残らない、こういう他愛のない言葉こそが、後世の人間が一番知りたがるものだったりする。

 

 考えてみれば、奇妙な巡り合わせだった。私は大学の講義で、何度となく「戦場の心理」というテーマを扱ってきた。士気の維持、恐怖の統御、指揮官と兵卒の関係。どれも、史料や研究書の中でしか触れたことのない概念だった。それが今、まさに目の前で、生きた言葉として交わされている。教科書の一行が、こんな形で立体化してくるとは、講義をしていた頃の自分には想像もつかなかった。

 

 受講料を払うべきは、私の方だった。実際、払っている。似顔絵で。

 

 野営地の中央には、旗指物が一本、地面に突き立てられていた。

 

 何度も目にしてきた意匠だったが、こうして間近で見るのは初めてだった。四つの角ばった模様が、菱形に組み合わさるようにして並んでいる。鹿の子絞りに似た、独特の染め抜き方。

 

 学生時代、系図や古文書の片隅で幾度となく目にしてきた紋様である。図版でしか見たことのない紋を、至近距離で拝める。不謹慎を承知で言えば、テンションが上がるのを抑えられなかった。

 

「――その旗印、朽木ですよね」

 

 私は、傍らで草鞋を繕っていた雑兵に、思わず尋ねていた。

 

 彼は、当然のことを聞かれたとでも言いたげに頷いた。

 

「いかにも。我らは朽木の郎党にござる」

 

「朽木を、目指しておるのか」

 

「左様。我らが立ち返るべき地は、他のどこでもございませぬ」

 

 その答えに、迷いは一片もなかった。

 

「――ですが、随分と遠い道のりでしょう。不安には、ならないのですか」

 

 思わずそう尋ねると、雑兵は、心外だとでも言いたげに片眉を上げた。

 

「不安、とな。何を言うか」

 

 隣で聞いていた別の武者が、横から口を挟んできた。

 

「将がおられるのだぞ。将が、我らを朽木まで連れ帰ってくださる。それだけのことよ」

 

「――将のことを、随分と信じておられるのですね」

 

「信じる、というより、そういうものよ」

 

 武者は、当たり前のことを聞かれたという顔で、続けた。

 

「我らは、ただ将についていけばよい。道に迷うことも、飢えることも、時にはあろう。だが、将が先頭に立っておられる限り、我らがどこへ行き着くかを案ずる必要はない」

 

「――もし、将のお考えが、間違っていたら」

 

 我ながら、意地の悪い問いだと思った。だが、武者は気を悪くする様子もなく、あっさりと答えた。

 

「その時は、皆で間違えるまでよ。将だけに背負わせるつもりは、端からない」

 

 その一言に、周りにいた雑兵たちも、当然だという顔で頷いていた。

 

「――先生は、随分と難しい顔で色々考えるのだな」

 

 最初に声をかけてきた雑兵が、からかうように言った。

 

「我らは、そう難しくは考えておらぬ。将が朽木へ連れて行ってくださる。それだけを信じて、歩いておるだけよ」

 

 その単純さが、私にはむしろ、眩しいものに感じられた。

 

 彼らは、疑うことを知らないわけではない。ただ、疑うよりも先に、信じることを選んでいるだけなのだ。組織論の講義で百回説明しても伝わらないものが、この焚き火の周りには、当たり前の顔をして転がっていた。

 

 私は、それ以上何も聞けなかった。ただ、胸の奥で何かが静かに音を立てるのを感じていた。

 

 夜の帳が下りると、野営地は驚くほど静かになる。虫の声と、川のせせらぎと、時折混じる誰かの寝息。都会の喧騒に慣れた耳には最初こそ落ち着かなかったその静けさも、今ではすっかり馴染んでいた。

 

 将は、いつも野営地の一番奥、川の水音が一番よく聞こえる場所に陣を敷いていた。

 

 その夜、私が水を汲みに川辺まで下りた時、彼はそこに一人でいた。

 

 具足を脱ぎ、粗末な単衣だけを纏った姿で、川面を見つめている。焚き火の明かりも届かない、薄闇の中だった。

 

 護衛の姿もなかった。将ともあろう者が、こんな無防備な場所に一人でいることが、私には少し意外だった。もっとも、この土地に彼を害する者など、そういるはずもない。あるいは、彼自身がそれを分かった上で、あえて一人になれる時間を選んでいたのかもしれない。

 

 声をかけるべきか、迷った。結局はそのまま近づいてしまった。

 

 昼間、隊列の先頭で万余の視線を集めているときの彼とは、まるで別人のような背中だった。肩の線が、いつもより小さく見えた。人というのは、鎧を脱いだ時に、初めて本当の輪郭を見せるものなのかもしれない。

 

「――これは、我らを謀る妖術か」

 

 独り言のような、抑えた声だった。

 

「それとも、我らはすでに死者にて、黄泉とは、かような所か……のう」

 

 川の水音に紛れてしまいそうなほど、小さな声だった。誰に問うでもない、自分自身に向けた問いのようだった。

 

 私は、その場から動けなかった。声をかけることも、立ち去ることもできず、ただその背中を見つめていた。

 

 隊列の先頭で万余の視線を集める男が、たった一人になった夜には、こんな声も出すのだ。

 

 私は、驚いた顔を見せないようにした。ここで大げさに反応すれば、彼が今見せているものが、二度と見られなくなる気がした。

 

「――随分と、静かな夜ですね」

 

 私は、それだけを口にした。

 

 彼は、ゆっくりとこちらを振り向いた。薄闇の中でも、その目に一瞬だけ、何か戸惑うような色が浮かんだのが分かった。

 

「――そなたには、聞こえておったか」

 

「川の音の方が、大きかったように思いますが」

 

 噓だった。だが、彼はそれ以上、追及してこなかった。

 

 しばらくの沈黙のあと、彼は川面に視線を戻した。

 

「この地には、見慣れぬものばかりが溢れておる。光る箱、音を立てて走る鉄の塊、天を翔ける鳥のごときもの」

 

「ええ」

 

「それでも、この川の水音は、故郷のそれと変わらぬ」

 

 その言葉に、私は何と返せばいいのか分からなかった。ただ、頷くことしかできなかった。

 

「――生きておるという心地は、こういう時にこそ、確かめたくなるものらしい」

 

 彼はそう呟くと、しばらく黙って水面を見つめていた。私も、それ以上言葉を継がず、ただ隣に立っていた。夜風が、焚き火の煙の匂いを運んでくる。

 

「先生」

 

「はい」

 

「そなたは、我らを恐ろしいとは思わぬのか。人を斬り、物を奪う。傍から見れば、賊とさして変わらぬ」

 

 不意打ちのような問いだった。私は、少し考えてから答えた。

 

「――正直に言えば、最初は恐ろしかった。今も、まったく怖くないと言えば噓になります」

 

「ほう」

 

「ですが、それ以上に、あなた方がどういう理由でここに立っているのか、それを知りたいという気持ちの方が、今は強いのだと思います」

 

 将は、それを聞いて小さく笑ったようだった。

 

「学者らしい物言いよ。恐ろしさより物見高さが勝る男など、儂は戦場でも見たことがないわ」

 

「――生まれつき、そういう性分なもので」

 

「その性分、戦国に生まれておったら三日で死んでおるな」

 

「でしょうね。ですから、この時代に生まれておいて、よかったと思っています」

 

「――ふ。抜かせ」

 

 彼は短くそう言ったきり、それ以上は語らなかった。だが、その横顔から、僅かに強張りが抜けたように見えた。

 

「時に、先生よ」

 

「はい」

 

「兵どもに、絵を描いてやっておるそうじゃな」

 

 知られていた。この男の耳の速さは、報道機関より上である。

 

「――出過ぎた真似でしたら、やめます」

 

「構わぬ」

 

 将は、川面を見たまま言った。

 

「……儂は、頼まぬぞ」

 

「はい」

 

「頼まぬが――兵どもの絵は、なるべく良い面構えに描いてやってくれ。あれらの顔が故郷に届くなら、勇ましい顔の方がよかろう」

 

 自分は頼まない、と言いながら、部下の絵の注文はつける。私は「承知しました」とだけ答えて、笑いを噛み殺した。この男の不器用さは、四百年の時を渡っても、たぶん誰にも直せない。

 

 私は、少しの間迷ってから、口を開いた。

 

「――この先、どこまで行かれるおつもりですか」

 

 朽木、という回答を期待しての質問だった。

 

「我らは朽木ぞ。殿のところに戻る。地の果てまでもお供するまで」

 

 その答えには迷いも恐れもなかった。静かな覚悟だけがあった。

 

「――あなたはこの世が怖くは、ないのですか」

 

 気づけば、そう尋ねていた。学者らしくもない、あまりに直截な問いだった。

 

 将は、少し考えるような間を置いてから、静かに答えた。

 

「恐ろしくはないが、不気味ではある。妖の類に化かされているようで、何もかも分からぬ。じゃが、それを面に出せば、後ろに続く者たちが不安がる」

 

 その言葉に、私は何かを言いかけて、一度は呑み込んだ。

 

 だが、耳の奥では、先ほどの独り言が、まだ響いていた。これは我らを謀る妖術か。黄泉とは、かような所か。この男は、半ば察している。察した上で、確かめる術がないまま、たった一人で抱えている。

 

 誤魔化しの利く相手ではない。そして、誤魔化し続けていい相手でもなかった。

 

「――将。申し上げねばならないことが、あります」

 

 自分の声が、川音の中で、妙にはっきりと聞こえた。

 

「申せ」

 

「ここは、妖術の世界でも、黄泉でもありません。――あなた方の世から、およそ四百年が過ぎた後の世です」

 

 将は、すぐには何も言わなかった。川面を見つめたまま、微動だにしない。

 

「……四百年、か」

 

「はい」

 

「大きく出たのう。法螺を吹くなら、もそっと信じられる数を申すものよ」

 

「法螺ではありません。光る箱も、音を立てて走る鉄の塊も、天を翔ける鳥も――全て、四百年の間に、人が作り上げたものです。妖術は、ひとつもありません」

 

 将は、しばらく黙っていた。それから、ふっと短く息を吐いた。笑ったのかもしれなかった。

 

「……いや、よい。薄々、分かってはおった。妖術にしては、あの鉄の箱は、あまりに退屈な顔をしておるでな」

 

 退屈な顔のSUVに、少しだけ同情した。だが、口を挟める空気ではなかった。

 

「されば、聞く」

 

 将の声が、一段低くなった。

 

「――殿は?」

 

 二文字だけだった。だが、その二文字に、この男がここまでの道中で押し殺してきたものの全てが詰まっていた。

 

 私は、息を整えてから、答えた。

 

「元綱公のその後の生涯は、書物に残っています。――乱世を生き延び、徳川の世まで長らえて、天寿を全うされました。畳の上で、静かに。齢八十を超えてのご大往生であったと伝わります」

 

「――畳の上で」

 

「はい」

 

 将は、目を閉じた。

 

「……それは、重畳」

 

 絞り出すような声だった。戦場で死ななかった。その一事が、この男にとってどれほどの意味を持つのか、私にはその夜、初めて分かった気がした。

 

「朽木のお家も、続きました。江戸の世――徳川の治世を通じて、家名は絶えることなく保たれました」

 

「家が、続いたか」

 

「続きました」

 

「――上々よ。上々の、果てじゃ」

 

 その声は、微かに揺れていた。

 

 だから、続く言葉を口にするのが、余計に重かった。

 

「――ですが、将。それは全て、四百年前に終わった話です。朽木谷に戻られても……元綱公に、お会いになることは、叶いません。殿は、もう、この世のどこにもおられません」

 

 長い、長い沈黙があった。

 

 川の音だけが、二人の間を流れ続けた。

 

 やがて、将は目を開けた。

 

「――殿の墓は、あるのか」

 

「……朽木に、菩提寺が残っています。墓所も、現存しているはずです」

 

「ならば、道は変わらぬ」

 

 あまりにあっさりとした声だったので、私は一瞬、聞き間違いかと思った。

 

「……変わらない、のですか」

 

「殿が城でお待ちならば、城へ参る。殿が墓でお待ちならば、墓へ参る。奉公の相手が、生きた殿から墓前に変わった――ただ、それだけのことじゃ」

 

 将は、こともなげにそう言った。

 

「四百年も遅参したのじゃ。今さら一日二日を急いだとて、殿のご機嫌は直るまいがな」

 

 真顔である。この男の冗談は、いつも真顔で繰り出される。そして今夜のそれは、冗談の形をした、覚悟の別名だった。

 

 私は、何も言えなかった。理屈としては、強弁である。だが、武士の論理としては、一分の隙もなく筋が通っていた。奉公は、主君の生死では終わらない。忠義の宛先は、人から墓に変わっても、消えはしない。

 

 将は、川面に視線を戻して、続けた。今度は、ずっと静かな声だった。

 

「それにな、先生」

 

「はい」

 

「……兵どもから、帰る先まで取り上げてみよ。あの者たちに、何が残る」

 

 私は、答えられなかった。

 

「あの者たちは、殿がおわすと信じて歩いておる。飯を分け、絵を描かせ、許嫁の自慢をしながら――皆、朽木に帰るという一事だけで、この見知らぬ世を歩けておるのじゃ。主君を失うた兵は、ただの流民よ。流民の千が、この世で、どこへ行く。何をする」

 

「……」

 

「将の役目は、兵たちを生かすことじゃ。主君がおろうと、おるまいと、それだけは変わらぬ」

 

 彼らは知らない。将だけが知っている。そして将は、知らないままの千人を、知っている一人として、故郷まで連れて帰るつもりなのだ。

 

「このこと、兵らには申してはおらぬな?」

 

 将は、こちらを見ずに言った。

 

「まだ、だれにも」

 

「申せば、儂はそなたを斬らねばならぬ。……そういう類の話じゃ」

 

「――承知しました。誰にも申しません」

 

「案ずるな。そなたの口が堅いことは、分かっておる」

 

「……先日、隠し事が下手だと仰いませんでしたか」

 

「顔に出るのと、口から出るのは、別の病よ」

 

 この男は、時々、対策本部の誰よりも人事評価が精密である。

 

 私たちはそれから、しばらくの間、並んで川を眺めていた。何を話すでもなく、ただ水の音だけを聞きながら。

 

 四百年の重さを、たった今、この男に手渡した。手渡した私の肩が軽くなったかといえば、まったく逆だった。秘密というのは、分け合うと重くなる類の荷物らしい。

 

 それでも、この数日で初めて訪れた、静かな時間だった。

 

 翌朝、隊列が動き出してすぐ、前方から戻ってきた物見の雑兵が、将のもとへ駆け寄り、何事かを耳打ちした。将の表情が、僅かに険しくなるのを、私は少し離れた場所から見ていた。

 

「――由比、と申したか」

 

 将が呟いたその地名に、私は思わず耳を疑った。

 

「この先の道が、これまでとは様子が違うとのことです。山と海に挟まれ、道幅が極端に狭くなると」

 

 物見の報告に、将はただ黙って頷いただけだった。

 

 由比。広重の浮世絵にも描かれた、東海道の古い難所である。山と海に挟まれた、あの狭い土地の名を、まさかこんな形で耳にすることになるとは思わなかった。

 

 狭い道は、大軍にとって最大の弱点になる。戦国の戦においても、隘路での奇襲や伏兵は、ごく基本的な戦術の一つだった。彼らの物見が、わざわざそれを報告してきたということは、行軍の側でも、その危うさを察知しているのだろう。

 

 対策本部が、この地形をどう見ているのか、私には知る由もなかった。連絡の手立ては、とうに失っている。ただ、単なる地形の巡り合わせにしては、あまりにも出来すぎているような気がしてならなかった。

 

 それがどんな場所であれ、昨夜のあの静けさが、そう長くは続かないだろうという予感だけは、確かにあった。

 

 私はテントを畳みながら、ふと、昨夜の彼の言葉を思い出していた。

 

「将の役目は、兵を家に帰すことじゃ。主君がおろうと、おるまいと、それだけは変わらぬ」という、あの静かな声を。

 

 殿はもういないと知った上で、なお千の兵を故郷へ連れて帰る。その理屈が、覚悟なのか、それとも、覚悟という言葉でしか支えられない何かなのか、私にはまだ判じかねた。

 

 ただ一つ、確かなことがある。今朝の隊列の中で、あの重さを知っているのは、将と私の、二人だけだ。

 

 その答え合わせをする日が、思っていたよりずっと早く来るのかもしれない、という気だけはしていた。

 

 隊列は、今日もまた歩き始める。由比という名の隘路に向かって。

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