その朝、国土交通省と警察庁の連名で、一枚の告知が発表されていた。私がその文面を実際に目にしたのは、ずっと後になってからのことだ。
『国道一号線の一部区間において、災害復旧作業に準じた大規模な交通規制を実施します。当該区間を利用予定の方は、あらかじめ迂回ルートをご確認ください』
災害復旧、という四文字に、その文面を見せられた私は、思わず乾いた笑いを漏らした。
災害は復旧するものではなく、今まさに国道を西へ歩いているのだが。都合のいい言葉を選ぶ技術だけは、この国の役所の伝統芸である。
SNSでは、案の定、様々な憶測が飛び交っていた。
『国道1号また封鎖されるの? もう慣れたわ』
『災害復旧って言ってるけど普通に例の武者集団の件だろこれ』
『政府何がしたいんだ、隠す気ゼロじゃん』
『隠したいなら嘘丸出しの記者会見とかやめてほしい』
ニュース番組のコメンテーターの一人は、神妙な顔でこう言い切った。
「これは事実上、彼らを特定のルートへ誘導する措置と見て間違いないでしょう。ただ、その先に何があるのかは、現時点では明らかにされていません」
随分と的を射たコメントだった。この番組の出演料は、他の番組より高くていい。
翌日の朝刊には、社会面の隅に小さく、こんな見出しが載った。
『国道1号「迂回」の裏に何が 識者「事実上の誘導作戦」』
記事の中身は憶測の域を出なかった。それでも、見出しだけを拾い読みした人々の間では、「政府は何かを隠している」という空気が、確かな実感を伴って広まりつつあったという。
――だが、その頃の対策本部が本当に頭を抱えていたのは、世論でも報道でもなかった。
工期である。
これも全て、後になって聞かされた話だ。
由比の先の道を作り替え、脇道と旧道を全て塞ぎ、行き着く先を小さな入り江一つに絞り込む。あの「妙案」は、承認された瞬間から、国内の建設会社を総動員した突貫工事に化けていた。資材は夜間に搬入され、作業は二十四時間の三交代。現場は報道規制の内側だから、幸か不幸か、人目だけは気にしなくてよかった。
問題は、相手の速度だった。
工程会議の席上、国交省側の担当者は、自信を持って言い切ったという。
「封鎖完了まで、あと六日。行軍の現在位置と平均速度から逆算すれば、十分間に合います」
その工程表に、真っ向から異を唱えた男がいた。
准教授である。
「――間に合いません。四日で来ます」
会議室が、静まり返ったという。
「……失礼ですが、根拠は。我々は交通量調査と同じ手法で、彼らの移動速度を三日間計測した上で――」
「その三日間、雨でしたよね」
「は?」
「彼らの装備で雨中行軍をすれば、速度は二割落ちます。つまりあなた方が計測したのは、彼らの遅い方の速度です。史料に残る戦国期の行軍記録では、晴天時の軍勢は一日十里――約四十キロを歩きます。しかも彼らには、現代の行軍が必ず抱える制約がない」
「制約、というと」
「補給計画です。彼らは略奪で食いつないでいるので、補給待ちで止まりません。渋滞もない。何しろ道路を貸し切っていますから。土日も休みません。戦国に週休の概念はありません」
「……」
「おまけに天気予報によれば、明日から五日間、晴れです。全ての条件が、彼らの背中を押しています」
後にこの遣り取りを人づてに聞いた時、私は思わず膝を打った。行軍速度の史料分析は、彼の修士論文の題目である。十年前、「そんな研究、何の役に立つの」と親戚に言われたと、彼は愚痴っていた。役に立つ日が来たのだ。国家の工程表をひっくり返すという形で。
再計算の結果は、准教授の見立て通りだった。このままでは、封鎖工事の完了より二日早く、行軍は由比を通過してしまう。由比を過ぎて工事が未完成なら、彼らは塞ぎ損ねた脇道から市街地へ抜け、計画は根本から崩壊する。
「――では、彼らを二日、遅らせるしかない」
誰かがそう言った。言うのは簡単である。相手は、城をくれてやると言っても止まらず、バリケードを素手で撤去し、催涙ガスの中を歩き続けた集団だ。
「バリケードは論外です。二度も突破されています」
「三度目の実力行使は、政治的に不可能です」
「では、どうやって二日稼ぐと」
議論が煮詰まりきった頃、隅の席から、准教授が遠慮がちに手を挙げたという。
「……あの、武士に『止まれ』は通じません。ですが『待て』なら、通じるかもしれません」
「同じことでは?」
「違います。彼らの作法では、進路を塞ぐのは敵対行為です。ですが、『しかるべき話し合いの支度が整うのを待つ』のは、敵対ではなく礼式です。戦国の交渉には、使者が立ち、場が設えられ、日取りが決まるまでの待ち時間というものが、当たり前に存在しました。彼らは然るべき理由さえあれば、待つことそのものは厭わない」
「……つまり?」
「正式な会見を申し入れて、その準備に時間がかかると、正直に伝えるんです。噓の理由で止めれば、見抜かれた時に全てが終わります。ですから――本当に、話し合いの場を作ってください。入り江での交渉は、どのみち計画に入っているんでしょう。それを、前倒しで、誠実に申し入れるだけです」
沈黙のあと、誰かが言ったという。
「……先生と、同じようなことを言いますね」
「光栄です。あの人の悪癖以外は、だいたい移りましたので」
こうして方針は決まった。由比の入り口に検問を設け、武力ではなく「会見の申し入れ」で足止めをする。求められる人材は、武張った威圧ではなく、誠実さが顔に出ている指揮官。
人選の会議で、真っ先に手が挙がった。
挙げたのは、当時、由比地区の警備部隊を率いていた若い三等陸佐――芦原、その人だったという。
「小田原の件で、我々は彼らに借りを作りました。次に彼らの前に立つ人間は、少なくとも、噓をつかない人間であるべきです。私が行きます」
上層部には、若すぎるという反対もあったらしい。だが、他に手を挙げる者はいなかった。
――繰り返すが、これらは全て、私が後になって知ったことである。
その頃の私は、世間の騒がしさとも対策本部の攻防とも無縁の場所で、ただ黙々と歩いていた。
いつからか、足元の感触に、微かな違和感を覚えるようになっていた。
アスファルトの継ぎ目が変わる箇所が、妙に少ない。あまりに平に均されていて、まるで夜間工事があった後のように感じる。
だが、確かめる術は私にはなかった。手元に地図はなく、頼れる通信機器もない。あるのは、自分の足の裏に残る、漠然とした違和感だけ。学者としては最悪の状況である。仮説だけあって、検証手段がない。
隊列の誰も、そんなことには気づいた様子がなかった。彼らにとっては、目の前に伸びる一本道がすべてだったし、そもそもアスファルト自体が違和感の塊だろう。舗装された道の違和感を、舗装を知らない人間に説けるはずもない。
道中、沿道の住民の姿はほとんど見られなくなっていた。事前の避難勧告が徹底されていたのだろう。代わりに、道路脇の電光掲示板には、いつもと変わらぬ調子で「この先、災害復旧工事中」の文字が流れ続けていた。
観客のいない劇場で、律儀に上演を続ける電光掲示板。誰に向けた表示なのか、もはや分からない。強いて言えば、歩いている武者たちに向けた表示だが、あいにく彼らは字が読めても電光掲示板は読めない。
無人の町には、無人の町なりの見どころがあった。
ある足軽が、道端の自動販売機の前で足を止めた。避難した誰かが、買った飲み物を取り忘れたのだろう。取り出し口に、缶が一本残っていた。
「――先生。この赤い箱は、なんじゃ」
「銭を入れると、飲み物が出てくる箱です」
「番人もおらずにか」
「番人もおらずに、です」
「……この国の商人は、盗まれるとは考えぬのか」
「考えていません。実際、ほとんど盗まれません」
足軽は、しばらく黙って自動販売機を見つめていた。それから、ぽつりと言った。
「――太平の世というのは、恐ろしいものじゃな」
戦国の男に、自動販売機一台で時代の本質を見抜かれた。社会学者が聞いたら泣く洞察である。ちなみに彼は、取り残された缶には最後まで手を触れなかった。中身の見えない南蛮の器より、盗みの誘惑より、「持ち主が取りに戻るやもしれぬ」が優先されたらしい。この律義さと略奪が同居しているのが、彼らという集団の面妖なところである。
この頃、SNSの一部では、行軍の様子を上空から捉えたドローン映像が、途切れ途切れに出回っていた。
『政府がわざと遠回りさせてるって説あるけど普通にありそう』
『そもそも武士どもの目的地どこなんだよ誰か教えてくれ』
『ドローン落とされないの草生える、よくあんな近くまで飛ばせるな』
道すがら、若い雑兵の一人が、ふと空を見上げて呟いた。
「――妙な道じゃな。妙に平らすぎるというか、今までよりずいぶん歩きやすくなった気がするのう」
隣にいた古参の兵が、鼻で笑い飛ばした。
「気のせいよ。疲れておるだけじゃ。今宵は飯を多めに食え」
「先生ではあるまいし、飯で全て解決するか」
「解決するわ。のう、先生」
「――しますね」
「ほれ見よ」
軽口には軽口で返す。彼らの間には、そういう救いがまだ残っていた。
だが、私は内心、あの若い雑兵の勘の方に軍配を上げていた。妙に平らすぎる。その通りなのだ。そしてその意味を、この隊列で考えられるのは私だけで、その私にも、答えの確かめようがなかった。
その日は朝から、薄い雲が空を覆っていた。潮の匂いが、風向きが変わるたびに濃くなったり薄れたりする。隣を歩く雑兵の一人が、鼻をひくつかせながら「海が近いのう」と呟くのが聞こえた。
午後、隊列は山と海に挟まれた狭い土地に差し掛かった。
由比、と呼ばれる場所だった。
かつて東海道の三大難所のひとつに数えられたその土地は、今も変わらず、山が海に迫り出すようにして、道を細く絞り込んでいた。国道一号、旧東海道、そして鉄路までが、身を寄せ合うようにして狭い帯を作っている。左手には切り立った山、右手には荒い波音を立てる海。前に進むしかない道だ。
宿場町の面影を残す家並みが、狭い道の両側に、ひっそりと連なっていた。格子戸の商店には、どこも同じ避難のお知らせが張られている。桜えびの看板を掲げた食堂の軒先に、暖簾だけが仕舞い忘れられて、潮風に揺れていた。
電気の消えた町並みというのは、江戸の版画に描かれた宿場町と、存外似た顔をするものらしい。四百年の時が、停電一つで縮む。妙な発見だった。
広重の浮世絵にも描かれた土地だと思うと、不謹慎にも、また胸の奥が疼くのを感じた。あの版画の中では、旅人たちが波打ち際すれすれの狭い道を、傘を差しながら行き交っていた。今、私の目の前を歩いているのは、傘を差した旅人ではなく、具足を纏った武者たちである。時代は違えど、この土地が人の往来にとって難所であり続けてきたことだけは、何百年経っても変わらないらしい。
夕暮れが近づくにつれ、西日が海面を橙に染め、隊列の具足を同じ色に光らせた。美しい、と言ってしまっていい光景だった。この後に起きることを知らなければ。
山と海に挟まれた隘路を進む長い隊列は、空を飛ぶドローンによって、驚くほど鮮明に映し出されていたらしい。モーター音だけは、私のいる隊列にまで、はっきりと届いていた。
『さぁ、いよいよ交通規制の由比に入ったぞ』
『実況民ドキドキで草も生えない』
コメンテーターの一人が、地図を指し示しながら、こう続けていたという。
「ご覧の通り、この由比という場所は、道が極端に狭くなっている。横に逸れる行動が取りにくいのです。仮に何かが起きた場合、被害を局所化しやすい地形だと言えます」
被害を局所化しやすい地形。
その発言の意図を、正確に読み取れた視聴者がどれだけいたかは分からない。だが、あの日、私の足元で感じていた違和感は、決して気のせいなどではなかったのだと、その話を聞かされた時、ようやく腑に落ちた。
由比駅を少しすぎたあたり、道の真ん中に、検問が敷かれていた。
道を完全に塞ぐように並べられたバリケード。両脇を固める装甲車両のエンジン音。銃を構えるでも構えないでもない、中途半端な姿勢のまま並ぶ隊員たちの列。誰の顔にも、緊張と苛立ちが等分に浮かんでいた。
バリケードの向こうには、迷彩服の一団が、二列になって道を塞いでいた。数にして五十人はいるだろうか。装甲車両のライトが、夕暮れの薄暗さの中で、やけに白々しく地面を照らし出している。誰も彼もが、視線をこちらに固定したまま、身じろぎ一つしなかった。その静けさが、かえって不穏さを際立たせていた。
また、これか。
正直に言えば、私は身構えた。小田原の光景が、嫌でも重なった。バリケード、車両、そして最後は煙と爆音。同じ舞台装置で、違う結末を期待する方が難しい。
だが、その先頭に立つ人物の佇まいだけは、これまでの現場責任者たちとは、明らかに違う空気を纏っていた。
「――現場責任者の芦原と申します!」
三等陸佐、と名乗ったその人物は、意外なほど若かった。疲労の色は隠しようもなかったが、その目には、これまで対策本部で見てきたどの顔にもなかった、真っ直ぐな光があった。
芦原は、将に向かって、一切の駆け引きなしに口を開いた。
「我々は、お前たちと戦うためにここにいるのではない!」
背後で、若い隊員の一人が、思わずといった様子で息を吞むのが分かった。
「この先、わずかな道のりの先に、話し合いの場を設けたいと考えている。ただ、まだ準備が整っていない! それまでの間、しばし、ここで足を止めてはもらえないだろうか!」
芦原の言葉を、私はできる限り正確に伝えた。誤魔化しも、装飾も加えずに。
訳しながら、私は内心で唸っていた。この申し入れは、作法に適っている。進路を塞ぐのではなく、会見の支度を待てという。それは戦国の交渉儀礼として、まったく正当な申し出だった。誰かが、入れ知恵をしている。彼らの流儀を知る誰かが。
この時の私は、その「誰か」の顔を思い浮かべることができなかった。廊下二メートル先の顔を。
「――話し合い、と申すか」
「そうだ!」
「その言葉に、偽りはないか」
「私個人としては、ない!」
芦原はそう言い切った。
個人として、という言い回しに、彼自身の立場の危うさが滲んでいた。恐らく、彼の背後にいる誰かは、この約束を保証してはくれない。組織というのは、正直者に一番過酷な場所である。それは戦国も現代も、たいして変わらない。
将は、しばらくの間、値踏みするように芦原を見つめていた。数万の兵を率いる男の視線を真正面から受けて、それでも一歩も退かない芦原の背中に、私は場違いな敬意を覚えた。
やがて、将は小さく頷いた。
「――小休止したいところであった。しばし止まるが、お前に従うわけではない! 休憩が終わったらすぐにゆく」
その視線は、芦原ではなく、私の方に向けられていた。目の前の若い将校の言葉ではなく、これまで積み重ねてきた、私という媒介の方に信頼を置いている。そう言っているようだった。
隊列は、そこで足を止めた。
止まった、という事実に、私は胸の内で驚いていた。城でも止まらず、ガスでも止まらなかった隊列が、たった一人の若い将校の、飾りのない口上で止まったのだ。
振り返れば、これこそが、准教授の狙いのすべてだった。力は二度敗れた。作法は、一度で通じた。
交渉が一区切りついたところで、私は将の後方、隊列の中へと下がっていた。通訳としての役目は、ひとまず終わっている。バリケードの向こう側にいる芦原や、その部下たちと、言葉を交わせる立場ではない。名目上こそ「話し合い」の途中だったが、実質的には、まだ両者が睨み合う延長でしかなかった。
待機を命じられてから、どれくらいの時間が経っただろうか。小休止ではなくこのまま野営に入るのだろう。日は完全に落ち、装甲車両のライトと、隊列側の篝火だけが、狭い土地を挟んで向かい合っていた。四百年を隔てた二種類の灯りが、同じ暗闇を照らしている。緊張が張り詰めたまま、ただ重苦しい時間だけが過ぎていった。
それでも、遠目には、いくつかのことが見えた。
芦原は、ただ突っ立っているだけではなかった。検問の最前列に並ぶ隊員たちの間を、一人ずつ、何事か言葉をかけながら歩いて回っているのが、この距離からでも分かった。
その中の一人――先ほどから落ち着かない様子を見せていた、あの若い隊員の前で、芦原は長めに足を止め、肩に手を置いた。何を話しているのかまでは、声も届かず、窺い知れない。ただ、指揮官が部下を気遣っている、という以上のことは、遠目にも伝わってきた。
その隊員は、話しかけられている間、幾分か肩の力を抜いたように見えた。だが、芦原がその場を離れ、次の隊員の元へ向かった後も、彼の視線は、こちらの隊列から一向に外れなかった。落ち着きなく泳ぐ視線と、微かに震えているように見える指先。この距離からでも、それだけははっきりと分かった。
私にできることは、何もなかった。バリケードの向こう側にいる彼に、声をかけることも、近づくことも、私には許されていない。ただ、遠くから、その様子を見守ることしかできなかった。
指揮官という立場が、こういう小さな言葉の積み重ねによって、部下の呼吸を整えていくものなのだと、初めて実感を伴って理解した気がした。だが、その効果がどれほど続くものなのか、この時の私には、まだ分かっていなかった。
この膠着状態は、リアルタイムで中継され続けていたという。SNSのタイムラインは、固唾を呑むような投稿で埋め尽くされていったらしい。
『今止まってる、何も動いてない』
『これ中継を見てても大丈夫? 今にも何か起きそうな空気なんだけど』
『生放送で歴史的瞬間見てる感じがして怖い』
『頼むから何も起きないでくれ』
『解説の人も急に無言になってて草、みんな息止めてるだろこれ』
その願いは、恐らく現場にいた誰もが、心のどこかで共有していたはずだった。
そして、これも後に知ったことだが――この時、由比の数キロ先では、封鎖工事の最終盤が、文字通り不眠不休で続けられていた。検問が稼いでいる一分一秒を、工事現場が食い潰していく。対策本部のモニターには、行軍の映像と工程表が並べて映し出され、誰かが呟いたという。
「――保ってくれ。あと一日なんだ」
あと一日。
その一日を、現場は保たせられなかった。
私は、あの均衡が、思っていたよりもずっと脆いものだと理解していた。あの隊員の指先の震えを見た時から、その予感は、ずっと胸の奥に居座り続けていた。
残念なことに、その予感は、間もなく的中することになる。
隊列の奥の方で、馬が一頭、不意に高く嘶いた。
甲高い嘶きが、山と海に挟まれた狭い土地に反響し、思いのほか長く尾を引いた。誰かが具足の紐を締め直そうとしてよろけたのか、それとも、ただ疲れた身体を伸ばしただけなのか、隊列の一角がわずかに揺れた。具足同士がぶつかる、乾いた金属音が二つ、三つと連なった。
その程度の、他愛のない動きだった。少なくとも、私の目にはそう映った。
だが、あの隊員の目には、そうは映らなかったらしい。
その揺れを見た瞬間、彼の顔から、みるみる血の気が引いていった。喉仏が、大きく上下する。呼吸が、目に見えて浅く、速くなっていく。額に浮いた汗が、一筋、頬を伝って落ちた。
私には、その反応が、いささか過剰なものに見えた。だが、まだ幼さの残るその顔立ちからして、実戦の経験もさほど積んでいないのだろう。そんな青年にとって、あの程度の揺れが、どれほど巨大な脅威に映っていたのか、想像することしかできない。
芦原の短いやり取りは、確かに彼の肩の力を、一時は抜いてくれたように見えた。それでも、根本にある恐怖そのものは、消えてなどいなかったのだ。
数万の武装した集団と、たった数十メートルの距離で向き合う。その現実の重さを、頭では理解していても、身体の方が受け止めきれずにいる。呼吸のたびに上下する肩、落ち着きなく泳ぐ視線、握り締めた拳の中で、じっとりと汗ばんでいるだろう掌。そのどれもが、恐怖という感情の、あまりに正直な発露だった。
届くはずもないと分かっていながら、何か声をかけてやりたい衝動に駆られた。だが、この距離ではどうにもならない。バリケードを挟んだ向こう側の一兵卒に、言葉を届ける手立ても、資格も、私にはなかった。ただ、その場に立ち尽くし、成り行きを見守ることしかできない自分を、私は後になって、何度も悔やむことになる。
中継映像を見ていた視聴者の一部も、その空気の変化を、画面越しに感じ取っていたという。
『あ、』
『今の音はなんだ?』
『武士がなんか変な動きした?』
その短い「あ、」という投稿の意味を、私が知ることになるのは、まだ先の話だ。
あの隊員の視線は、揺れた隊列の一角から離れなかった。呼吸は、もはや浅い息継ぎの連続になっていた。
あの隊員の手が、無意識のうちに、装備の一つへと伸びた。
彼の隣に立つ別の隊員が、何かに気づいたように肩に手を伸ばしたが、間に合わなかった。