銃声の話をする前に、その少し前のことを、書き残しておきたい。
検問を前にした待機の間、隊列の後方は、張り詰めた前方とは裏腹に、いつも通りの野営の支度を始めていた。彼らにとって「待つ」は作法である。待つと決めたからには、きちんと待つ。火を熾し、飯を炊き、具足の紐を緩める。
私の隣では、古参の兵が、革袋の水をひと口飲んで、バリケードの方角を顎で指した。
「――先生。あの向こうの兵どもは、夕餉を食うたのかのう」
「どうでしょう。任務中は、交代で食べるはずですが」
「交代で、とな。戦の前に、飯を半分ずつ食う軍があるか」
「戦をしないための軍なのです、本来は」
「……妙な世じゃ。戦をせぬための軍が、儂らの前に壁を作っておる」
「妙な世です。壁の前で、四百年前の軍が飯を炊いている」
「――違いない」
彼は少し笑って、それから真顔に戻った。
「じゃがな、先生。壁というものは、作った側から崩したくなるものよ。儂は長く戦場におるで、分かる」
その言葉の意味を、私はこの数刻後に、嫌というほど思い知ることになる。
夜の隘路は、奇妙な光で満ちていた。海側からは装甲車両の白いライト。山側からは隊列の篝火の橙。四百年を隔てた二種類の灯りが、狭い土地を挟んで向かい合い、その境目だけが、どちらの色でもない薄闇に沈んでいた。
波の音が、やけに大きく聞こえた。誰も彼もが黙ると、世界は存外うるさいものである。
そして――
あの若い隊員の手が、装備の一つへと伸びた。
隣の隊員が、肩に手を伸ばした。間に合わなかった。
乾いた銃声が一発、狭い土地に響いた。
幸いにも、弾は誰にも当たらなかった。宙を裂いただけの、空砲にも等しい一発だった。
だが、その音の意味を取り違えなかった者は、この場に一人もいなかった。
SNSは、まだ状況を理解できずにいた。
『由比で何かあったって?』
『さっきまで膠着してただけじゃないの』
『中継見てた人いる? 教えて』
銃声のすぐ後、無線に若い隊員の上ずった声が飛び込んだ。キリキリと耳にうるさい。
「動きます!!動いてきます! 前列、動いています!」
その声には、事実の報告というより、悲鳴に近い響きがあった。隊列の一角がわずかに揺れただけだということを、私は知っていた。だが、その声を聞いた誰かが、その揺れを別の何かとして受け取ったことも、また事実だった。
朽木の隊列に、目に見えて殺気が走った。槍を構え直す音、抜刀の音が、次々と連なった。前列の何人かは、既に地を蹴りかけていた。命令を待たず、本能だけで前へ出ようとする者たちだった。
数刻前まで飯を炊いていた男たちである。壁は、作った側から崩れた。あの古参の兵の戦場の格言は、最悪の形で的中した。
『速報 静岡・由比で衝突発生か 現地から怒号のような音声』
その一報が流れたのは、ほんの数十秒後のことだった。
「――伏せよ! 迂闊に動くでない!」
将の制止の声が飛んだ。だが、それすらも、殺到しかけた列の勢いを完全には止め切れていなかった。あと数秒で、隊列全体が雪崩を打って検問へ突っ込む。誰の目にも、それは明らかだった。
芦原の顔から、血の気が引くのが見えた。
彼が無線に向かって叫ぶ声が、隘路にはっきりと響いた。バリケードを挟んだ向こうとこちら、言葉を交わす術は私にはなかったが、その悲鳴に近い怒鳴り声だけは、狭い土地の隅々にまで届いていた。
「LRAD、使用許可! このままでは正面衝突する、痛みで止める!」
その声には、迷いよりも、祈りに近いものが滲んでいた。全面衝突になれば、双方に何人の死者が出るか分からない。それに比べれば、一時的な苦痛で押しとどめる方がまだましだと、彼は本気で、心の底から信じていた。
「本当に! 使用してよろしいのですか!」
副官らしき隊員の声が、無線越しに一瞬だけ揺れた。
「他に手がない! 早くしろ!」
芦原の怒鳴り声が、その迷いを押し切った。
次の瞬間、ヴヴ、という地鳴りなのか耳鳴りなのか分からないものとともに、空気そのものが軋んだ。
いや、音というより、圧力そのものだった。
頭蓋の内側を直接握り潰されるような、逃げ場のない振動が、狭い土地いっぱいに満ちた。
ずいぶん距離をとっていた私ですら、思わずその場にしゃがみ込み、両手で耳を塞いだ。塞いでも、意味はなかった。骨が内側から鳴っているような感覚で、胃や内臓を直接叩かれているようだった。
隊列の前列が、将棋倒しのように崩れた。何十人もの武者が、具足の音を立てながら次々と地に膝をつき、あるいは横倒しになった。呻き声、えずく音、胃の中身を吐き出す音が、幾重にも重なって響いた。
篝火が、いくつも蹴倒された。火の粉が舞い、倒れた武者たちの影を、アスファルトの上に長く不規則に踊らせた。波の音は、もう聞こえなかった。世界の音という音が、あの圧力に塗り潰されていた。
SNSの実況は、この瞬間、悲鳴じみた投稿で埋め尽くされた。
『は? 今の何、何が起きた』
『何だこれ、あんな倒れ方する? 毒ガスか? 怖すぎるんだけど』
『これ中継してていいやつなの?』
『誰か解説して!誰でもいいから!』
『映像揺れすぎて何が起きてるか分からない、誰か』
ニュースキャスターの声が上ずっていた。
「た、ただいま現地で、何らかの兵器が使用された模様です。詳しい状況は、まだ――」
言葉が、そこで途切れた。恐らく彼女自身、目の前の映像の意味を、まだ処理しきれていなかったのだと思う。
のちに解説番組が伝えたところによれば、LRAD――Long Range Acoustic Device、長距離音響装置と呼ばれるその機材は、本来、不審船を威嚇し退去させるために開発された装備なのだという。強力な指向性の音波を浴びせることで、人体に強烈な不快感と苦痛を与え、行動そのものを封じる。ただし、その効果はあくまで一時的なものであり、命に関わる被害は想定されていない――というのが、少なくとも開発側の説明だった。
ある情報番組は、翌日、スタジオに騒音計を持ち込んで「LRADの音の大きさ」を解説しようと試みたらしい。ジェット機のエンジン音がどう、削岩機がどう、と数字を並べたあげく、コメンテーターの一人がこう締めたという。
「つまり、その、とにかく大変うるさい、ということですね」
国民の理解は、一ミリも進まなかった。当の音を全身で浴びた身として言わせてもらえば、あれは「うるさい」ではない。音が、外からも頭の中からも殴ってくるのである。騒音計で測っていい種類のものではない。
『音だけで倒すって書いてあるけど普通に死人出そうだよね』
『非殺傷兵器らしいよ、痛いだけで死なないって』
『痛いだけって、痛いってことじゃん。だいぶヤバそうなんだが』
その"痛いだけ"がどれほどのものかを、私はこの目で、これから思い知ることになる。
私は、しゃがんだまま顔を上げた。
倒れた武者たちの向こうで、まだ立っている者たちがいた。
膝を折りかけては、無理やり立て直す。
えずきながらも、口元を袖で拭って、前を見る。将の名と故郷の名を呟きながら、一歩、また一歩と、崩れた列の隙間を埋めていく。
その中に、見覚えのある顔があった。
野営地で草鞋を繕っていた、あの若い雑兵だった。
私に旗印のことを教えてくれた男が、白目を剥きかけながらも、槍を杖にして身体を支え、地を這うようにして前進していた。
えずきすぎたのだろう、口の端から涎と胃液の混じった黄色がかったあぶくのようなものが垂れ、それでも彼は前を見ることをやめなかった。
「――朽木の郎党にござる」
以前、そう答えた彼の声が、耳の奥で蘇った。あの答えに、迷いは一片もなかった。今、目の前で這いずるその姿にも、迷いは見えなかった。
彼の懐には、私の描いた似顔絵が入っているはずだった。故郷の母者に見せるのだと、丁寧に仕舞い込んだ、あの絵が。良い面構えに描けと、将に注文をつけられた、あの絵が。
見えない攻撃に対して、彼らが知る唯一の応え方は、それでも前に進むことだけだったのだろう。
倒れることは、負けることだと、その身体そのものが覚えていた。
少し離れた場所では、若い雑兵二人が折り重なるようにして倒れていた。
故郷に残してきた許嫁の話で、あれほど周囲を沸かせていた二人だった。わしの方が良い女子を待たせておる、と胸を張っていた片方が、白目を剥いて痙攣する相棒の頬を、必死に叩いている。
「――目を覚ませ! おい、目を覚ませと言うに!」
掠れた声が、何度も繰り返された。相棒はまだ息をしていた。だが、LRADの直撃を受けたのか、意識は簡単には戻らなかった。
「起きよ! ……起きぬか! そなたの女子の顔を、わしはまだ、笑うてやっておらぬぞ!」
私は、それを見た。
あの晩、両者とも負けだと裁定した論争の続きを、彼はこんな場所で、こんな形で、叫んでいた。
「――ひるむな! 朽木の兵が、この程度の妖術に膝を折ってなるものか! この場で退けば、末代までの恥ぞ! 進めい!進めい!」
将の声が、ヴヴという軋むような音の合間を縫って響いた。
その声の主も、無傷ではなかった。
馬上で身体を折り曲げ、一度、二度と口元を押さえる仕草を見せながら、それでも手綱を離さなかった。
誰よりも先にこの見えない攻撃を浴び続けているはずの男が、誰よりも大きな声で、前へ前へと叫び続けていた。
私の耳にすら届いたその声が、彼らにどれほどの意味を持つものなのか、想像するだけで胸が締めつけられた。
止まらぬ兵を前に、検問側の隊員たちに、明確な動揺が走った。
倒れるはずの者たちが、倒れない。血を流すはずのない攻撃を受けて、血よりも生々しい吐瀉物を垂れ流しながら、それでも迫ってくる。
「なんで、なんで倒れないんだ……!」
若い隊員の声が裏返った。彼の手にしていた装備が、震える指の中で意味を失っていくのが分かった。
教範のどこにも、書いていなかったのだろう。痛みで止まらない人間の止め方など。書いてあるはずがない。この国が七十年以上かけて忘れてきたものが、今、目の前を歩いてくるのだから。
隊列の最前列が、ついに検問のバリケードに達した。
そこから先の光景を、私は正確に描写することができない。
できないのではなく、しない。ただ、金属と金属がぶつかる音、悲鳴、そして不意に途切れる声が、幾つも幾つも重なっていったことだけを、私は覚えている。
芦原は、最後まで自分の部下たちの前に立って、指示を出し続けていた。
倒れかけた若い隊員を庇うようにして踏み出した彼の姿を、私は確かに見た。彼が何かを叫んでいた。その声は、既に周囲の喧騒に飲み込まれて、私のところまでは届かなかった。
見えたのは、彼が、もう二度と立ち上がらなかったという事実だけだった。
偽りはないか、と将に問われ、私個人としては、ない、と言い切った男だった。その「個人」の重さを、彼は最後まで、自分の身体で支払った。組織は、彼に何を支払うのだろう。
私は、動けなかった。
声を上げることも、目を逸らすこともできず、ただその光景を見つめ続けていた。学者として、これを記録しなければならないという義務感と、目の前で起きていることへの、単純で動物的な恐怖とが、頭の中でせめぎ合っていた。どちらも、指一本動かす役には立たなかった。
検問は、十数分と持たずに突破された。
後に知ったことだが、この時、由比の先の封鎖工事は、完了まで残り一日を切っていた。対策本部のモニターの前で、誰かが「保ってくれ、あと一日でいい」と呟いた、その一日である。
現場は、あと一日を保たせられなかった。たった一発の、誰にも当たらなかった銃弾のために。
歴史を動かすのは、いつだって、こういう小さな偶然である。学者として、私はそれを何百回も書いてきた。書いてきただけだった。目の前で起きるそれは、文章とは、似ても似つかなかった。
SNSは、既に言葉を失っていた。ただ、断片的な投稿だけが、途切れ途切れに流れ続けていた。
『……これ本当に現実?』
『見ていていいのかこれ。全部本物だよな』
『もう何も言えない』
その日の夜、政府は緊急の記者会見を開いた。
壇上に立った官房副長官は、原稿を読み上げるだけの短い会見の中で、「現場の判断」という言葉を三度繰り返した。数えていた記者がいたらしく、翌日のコラムの見出しは『「現場の判断」三回、「私の判断」零回』だった。この国の責任の所在は、いつも現場という名の無人地帯にある。
記者の一人が、殉職した隊員の人数を尋ねると、副長官は「確認中です」とだけ答え、それ以上は語らなかった。
「確認中とのことですが、ご遺族への連絡は」
「……適切に、進めております」
「適切に、とは」
「適切に、です」
適切、という言葉が、これほど空疎に響いた会見も珍しい。
会見の後、対策本部の内部では、早くも責任の所在を巡る応酬が始まっていたらしい。防衛省は「使用許可の判断は現場に一任していた」と主張し、内閣官房は「そもそも交渉方針を崩したのは現場だ」と切り返した。三すくみは、この期に及んでもなお、三すくみのままだった。
『現場の判断ってなんだよ、責任逃れじゃん』
『芦原三佐、話し合いしたいって言ってた人だよね、なんでこんなことに』
『政府はまた誰も責任取らないパターンだこれ』
『何で発砲したんだ。あれさえなければ』
映像は、一晩のうちに国境を越えて拡散した。海外の主要メディアは、こぞってこの一件を速報として扱った。「日本政府、正体不明の武装集団への対応で自国部隊に多数の死傷者」という見出しが、翻訳を介してSNSに逆輸入されてくるまでに、さほど時間はかからなかった。
外務省の担当者が対策本部で漏らした「もう、国内問題では済まされなくなった」という一言を、私は後で人づてに聞くことになる。
対策本部が、この先の入り江での対応方針を、交渉から迎撃へと切り替えたことを、私が知ったのは、ずっと後になってからのことだった。
会議の記録には、後にたった一行だけ、こう残されていたという。「交渉による事態収束の可能性は、事実上消滅したものと判断する」。二度にわたる実力行使の失敗、そして今夜の惨状を経てなお列を崩さず、なお前へ前へと進もうとする集団を前に、対策本部の机上には、もはや選べる道など残されていなかったのだろう。
当初から実力行使を主張し続けていた防衛省は、この期に及んで一段と語気を強めたという。「交渉は、既に破綻している。これ以上、現場の隊員を危険に晒し続ける判断こそが、不作為だ」。一方、隠蔽路線を貫いてきた官房側も、その現実路線に強く反論することはなかったらしい。両者の間でずっと崩れなかった三すくみの均衡は、ここに来て、初めて一方向へと傾いた。
「迎撃」という、たった二文字の言葉は、会議室の中では、驚くほど平静な響きを伴って交わされたという。誰一人として、その言葉が具体的に何を意味するのかを、あえて口にしようとはしなかった。行間に押し込められたその意味の重さを、私は後になって、嫌というほど思い知ることになる。
だが、その時の私に、そんなことを知る術はなかった。ただ、由比の土を、まだ赤く染めたままの光景だけが、目の裏に焼きついて離れなかった。
夕餉を食うたのかのう、と壁の向こうを気遣った男の声だけが、耳の奥で、いつまでも消えなかった。