ファインモーションが凱旋門賞を制した結果、勢い余って運命を粉砕する物語   作:ゆのいん

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第2話:凱旋門にて

 フランスはパリ。

 秋のパリロンシャンレース場は、地鳴りのような歓声に包まれていた。

 

 凱旋門賞。

 

 世界最高峰と讃えられる、芝の頂上決戦。その決戦の舞台に、今、俺の担当ウマ娘が立っている。

 

 トレーナーはさっきから、控え室とパドックの狭い通路を意味もなく行ったり来たりし、何度もハンカチを取り出して手汗を拭っていた。心臓の鼓動が頭の奥まで届く。観客達の声や、差し込む太陽の光が、いつもの何倍も鋭く感じられる。まるで彼自身がこれから走るかのように緊張しきっていた。

 一方で、当のファインモーションは大舞台を前にしても『実に彼女らしい仕上がり』を見せていた。つまり……いつも通りだった。

 

「フランスのラーメン屋さん、まだ三軒しか開拓できてないね。帰るまでにあと一、二軒は行けるかな?」

 

「……レース前に言うことか? それが」

 

「ふふっ、緊張してる? 私はしてないよ。だって――」

 

 彼女はそこで少しだけ声を落とし、遠くを見た。

 

「お姉さまはね、この舞台で二度、二着だったの。二度、あと一歩だけ届かなかった」

 

「……ああ」

 

「今日は、その続きを走るだけだから」

 

 そう言って微笑む様子は、ラーメン屋がどうとか言っていた十秒前と同じもので――しかし、瞳の奥が静かに燃えていた。

 

 発走が近づき、関係者席に戻ると、隣から声をかけられた。

 

「深呼吸だ、トレーナー」

 

 彼女は『プロジェクトL'Arc』の発起人、佐岳メイ。ファインの今回の挑戦も、彼女の全面的な後押しを受けたものだ。

 

「どんな相手だろうと、あの子なら大丈夫さ」

 

 メイは沸き立つ場内を見渡し、少し苦笑して続けた。

 

「それにしても、日本の悲願を最初に果たしそうなのが、アイルランドから来たお姫様とはな。あたし様の計画の、斜め上もいいところだぜ」

 

「はは、確かに……でも本人は言ってましたよ。『私は日本とアイルランド、両方を背負って走る』って」

 

「そりゃあ……どっちの国のためにも、いよいよ負けられないな」

 

 

 * * *

 

 

 レースを見ている間は、妙に体がふわふわして、まるで夢を見ているような感覚だった。

 

 覚えているのは、うねるように起伏する重い芝の上を、彼女が驚くほど自然に駆けていたこと。世界の強豪たちがひしめく馬群のなか、彼女はごく冷静に脚をためていた。

 フォルスストレートの喧噪。世界中の願いがぶつかり合う、最後の直線。

 

 そして――その真ん中を、まっすぐに伸びてきた一筋のきらめき。

 

『――ファインモーション! ファインモーション! なんということだ、ファインモーションです!!』

 

 自分がどんな声を上げたのかは、覚えていない。

 

 コンビニでお湯の入れ方もわからなかった、あの世間知らずのお嬢様が。本来は走ることすら許されていなかった彼女が。目を輝かせてラーメンを啜り、時には激辛担々麺を一気食いして悶絶していたあの子が。

 

 今、世界の頂点にいる。

 

 気づけば、トレーナーは泣いていた。大の男が人目もはばからず。

 

 メイは何も言わず、硬直したようにうつむいている。何十年ぶんの想いの成就を、その身ひとつで受け止めるように。もっとも、涙で滲みきったトレーナーの瞳には、そんな彼女の姿はほとんど映っていなかったが。

 

「トレーナー!!」

 

 泥と芝の匂いをまとったまま、ファインが駆け寄ってくる。

 

「届いた、私、届いたよ!!」

 

「ああ……ああ! 見てた、全部見てたぞ……!」

 

 言葉はそれ以上続かなかった。トレーナーが再び泣き出して、ファインは笑いながら少しだけ泣いた。

 日本とアイルランドの応援旗がスタンドで一緒くたになって揺れている。二つの国が同時に彼女を称え、誇っていた。

 

 さて。

 

 ここまでは、本当に美しい思い出だ。

 

 

 * * *

 

 

 まず、SP隊長の電話が鳴りやまなくなった。

 

「――はい。……はい、間違いなく確認いたしました。では“例の件”、予定通り進めてください」

「議会側の反応は? ……そうですか。ええ、これでもう、反対する者はいないでしょう」

「『時は満ちた』と、お伝えください。ええ……ええ。御当主様も、きっとそう仰ると思っておりました」

 

(……警備の打ち合わせかな? 物々しいな、さすが凱旋門)

 

 トレーナーがぼんやりと見ていると、通話が一段落したSP隊長が不意に近寄ってきた。

 

「トレーナー様。我が国からも、今回のあなたの功績を称え、ぜひとも贈呈したいものがございます」

 

「え……アイルランドから直々に? うわぁ。ありがたいけど、さすがに緊張するな」

 

 いそいそと襟を正しながら答えるトレーナーに、彼女はただ厳かに頷いてみせた。

 

 次に、燕尾服の老紳士が現れた。恭しい足取りでトレーナーの前まで来ると、天鵞絨張りの小箱を捧げ持ち、深々と一礼して、朗々たる現地の言葉で何かを述べはじめた。

 

A dhuine uasail, thar ceann mhuintir na hÉireann, is mór an onóir dom an gradam seo a bhronnadh ort……

 

「…………」

 

 神妙な顔で聞き入るトレーナーだったが、その内心は――

 

(……わ、わからん。アドゥーニャ……オサ……?)

 

 老紳士の言葉が何一つわからなかった。

 そして長い。やたら長い。祝辞だろうか? ちんぷんかんぷんなトレーナーは、ただ曖昧な微笑みを浮かべて彼の言葉を聞き流すしかなかった。

 

(参ったなぁ。何年もあったんだから、もっと勉強しておけばよかった……)

 

 とはいえ、駆け抜けるように過ぎていったこの数年。ファインやSP隊長の日本語はほぼ完璧だし、なんなら凱旋門を目指すと決めてからはフランス語を齧るので精一杯で。彼女の国の言葉を学ぶのは、どうしても後回しになっていた。

 

 やがて彼の言葉が途切れると、SP隊長がすっと進み出て通訳した。

 

「『記念品です。おめでとうございます』――と、申しております」

 

(……ん? それだけ?)

 

 なんか、もっといろいろと喋っていたと思うが……回りくどく格式ある言い回しを、SP隊長が省略してくれたということかもしれない。

 

「ありがたく頂戴します。俺も誇らしく思います」

 

 受け取った箱を開けると、翠玉をあしらった金の紋章と、見事なカリグラフィーの羊皮紙が収まっていた。

 

(はぁー、記念品にしても立派なものだなぁ。書かれてることはまったく読めないけど。さすがアイルランド政府……)

 

 トレーナーは丁寧に箱を閉じ、自らの鞄に仕舞った。

 老紳士が、なぜか感極まった様子でもう一度深く礼をした。SP隊長が、なぜか一瞬だけ遠い目をした。

 

 

 * * *

 

 

「――やぁ。君が、妹をここまで連れてきてくれた男だね?」

 

 振り向くと、背の高いウマ娘が立っていた。

 

 直接会うのは初めてだが、名前を聞くまでもなかった。ファインとよく似た目元。それでいて、まるで似ていない、どこかシニカルに口角を上げた笑み。彼女こそファインの姉、ピルサドスキー。

 

「お、お姉さん……! あの、初めまして、いつぞやはお電話で――」

 

「ああ、覚えているとも。あの時は電話越しにも伝わるほど、初々しく強張った声だったねぇ。いやぁ、なかなかどうして。生で見ると、存外悪くない顔つきだ」

 

(お、おお……なんだこの距離感)

 

 独特な調子に困惑するトレーナーを無視して、彼女は話を続けた。

 

「勝利の女神というのは、つくづく気まぐれなレディでね。私ほどの口説き上手でも、二度も素通りされた。あの子ときたら、私などよりよっぽど上手く神様の手を取ってみせたよ」

 

 そう言うと、彼女は唐突に一歩踏み出してトレーナーの肩に手を置き耳元に顔を近づけた。

 

「うわっ!? ええっと、お姉さん……?」

 

「我が一族は心から君に感謝している。今後のことも、楽しみにしておくといい」

 

「……はい? 楽しみに、ですか? 何を……?」

 

「ふふ」

 

 答えないまま、彼女は優雅に去っていった。何やら思わせぶりな言葉だったが、ひっきりなしに声をかけてくる関係者への対応に追われ、トレーナーがそれ以上深く考えることはなかった。

 

 そんな中、ポケットのスマホが震えた。ファインの親友――と、少なくともトレーナーは認識している――エアシャカールからだった。

 

『レースのデータは寄越せ。今週中にだ』

 

 開口一番、この物言い。少しだけ肩の力が抜けた。人生で最大の感情に、朝からずっと振り回された一日において、妙に安心する「いつも通りのシャカール」だった。トレーナーは苦笑しながら承諾しようとしたが、彼女はそれを遮るように続けた。

 

『――あと。お前の周りで、妙な動きしてるヤツはいねェか?』

 

「……妙な動き?」

 

 トレーナーは周囲を見回した。

 

 相変わらず電話中のSP隊長。何を喋っているかはわからない。いつの間にか増えている黒塗りの車。早足で行ったり来たりするスーツの一団。遠くで大使と談笑しているピルサドスキー。

 

(――別に、妙ってほどでもないか)

 

「いや、特にないけど?」と、そのまま答えると。しばらく間があって、一言だけ返ってきた。

 

『そうかよ』

 

 

 * * *

 

 

 夜。祝勝会を抜け出した二人は、ライトアップされた本物の凱旋門を見に行った。

 エトワール広場の真ん中で、ファインは荘厳で巨大な白い門を見上げながらぽつりと言った。

 

「ね、トレーナー。『凱旋門』って、『勝って帰ってくる門』っていう意味だよね」

 

「ああ、そうだな。『凱旋』。今日の君にぴったりな言葉だ」

 

「ふふ。でも、まだだよ」

 

「ん?」

 

「私の凱旋は――もう少しだけ、先かな」

 

 ファインはそれっきり、続きを言わなかった。

 ただ、とてもとても機嫌よさそうに、鼻歌まじりで歩き出した。パリで最後に回る予定のラーメン屋の話をしながら。

 

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