ファインモーションが凱旋門賞を制した結果、勢い余って運命を粉砕する物語 作:ゆのいん
国際空港の出発ロビー。
アナウンスの無機質な声と人々の喧騒が、高い天井に反響している。
ファインモーションが『日本親善大使』として学園に戻ってきた時から数年。そして、凱旋門賞での勝利から数ヶ月。彼女は、期限付きだった夢の「延長戦」を最後まで全力で駆け抜けた。日本と祖国の架け橋として、そしてトゥインクル・シリーズを彩る優駿として、誰からも愛されるキャリアを全うした。
だが、どんな夢にも醒める時は来る。
今度こそ、本当の帰国だ。もう「親善大使としての出向」なんて方便じみたやり方は通用しない。彼女は国を支える一族の使命を果たすため、彼の地へと戻らねばならない。
保安検査場の入口へ続く出発ロビーの通路を、二人は並んでゆっくりと歩いていた。少し後ろを、SP隊長達が音もなく付き従っている。
「しかし、凱旋門の後から今日まで、本当にあっという間だったな」
トレーナーはしみじみと呟いた。
「取材だ祝賀会だで毎日てんてこ舞いで、ニュースもろくに見られてない。秋川理事長も『学園の仕事はしばらく後回しでいいッ!』の一点張りだったしな。おかげで世間が今どうなってるのか、さっぱりわからないよ」
「ふふ。トレーナーってば、本当に忙しそうだったものね」
「まあね。……それも今日で一区切り、か」
トレーナーは話しながら、頭の中では今後の段取りについて考えていた。
(ファインを見送ったら、まず理事長に報告して、いろいろ放ったらかしだった仕事を片づけて……次に担当するウマ娘のスカウトも、そろそろ考えないと)
考えていないと、この寂しさを直視してしまう。彼女のことを思うなら、間違っても「行かないでほしい」なんて口走るわけにはいかない。仕事のことを考えよう。明日のことを考えよう。ファインがいなくなっても、当たり前の日常は続いていくのだから。
(あ、そうだ。冷蔵庫を買い替えようと思ってたんだ)
そんな場違いなことが頭に浮かんだ頃――いつの間にか、保安検査場の入口前へと辿り着いていた。
ファインはトレーナーに向き直り、改めて口を開いた。
「送ってくれてありがとう、トレーナー。最後まで、キミにエスコートしてもらえて嬉しかった」
「――」
トレーナーは思わず息を飲んだ。
かつてのような少女のあどけなさを残しつつも、今や大人の女性としての品格を纏ったファイン。その声が、思っていたよりもずっと穏やかで、優しくて。
今さらになって、彼女と歩んだ日々の長さを、そして彼女の成長を、心から実感した。
「ああ……俺もだ」
ただ頷いて、短く答るトレーナー。
言葉を尽くすと、そのまま涙も溢れそうだった。だから、多くは語らない。彼女との思い出も、彼女と得た経験も。全てこの心に刻まれている。
「向こうに戻っても、元気でな。ラーメン食べすぎて太るんじゃないぞ?」
「ふふっ、わかってる。……キミもね」
ファインは美しく微笑むと、踵を返した。
SP隊長が保安検査場へ続く導線を確保している。
その向こうの制限区域へ彼女が消えれば、もう二度と、こうして言葉を交わすことはないかもしれない。
遠ざかる背中。
さようなら、俺の最高の担当ウマ娘。
俺の、一生の――
「――あれ?」
不意に、ファインが立ち止まった。
不思議そうに振り返り、首をかしげている。
「どうしたの、トレーナー。行かないの?」
「え?」
トレーナーは瞬きをした。
行かないの、とはどういう意味だ。
「いや……俺はここまでだよ。この先は搭乗客しか入れないし」
「搭乗客? ……ああっ、そっか!」
ファインはポンと手を叩くと、肩にかけていたバッグをごそごそと探りながら小走りで戻ってきた。そして、バッグから一冊の手帳と搭乗券らしき紙片を取り出すと、押し付けるようにトレーナーに差し出した。
「はい、これ! ごめんごめん、うっかり渡すのを忘れてたよ」
「……なにこれ?」
それはパスポートだった。
しかし、見慣れた日本の菊の御紋ではない。深みのある高貴なグリーンに、金の紋章が箔押しされた重厚な装丁。
「……綺麗なパスポートだな。どこの国のだ?」
「私の国の!」
「へぇー……で、なんで俺に?」
トレーナーはおもむろにその表紙を開く。
証明写真の欄には自分の顔写真があった。
「日本にいる間に記念写真を撮ろう」と言われて、数週間前に何枚か撮ったうちの一枚が。「はい、真面目な顔も一丁!」とか言い出したファインに乗せられて、なぜか真顔で正面から撮った一枚が。
『氏名』の欄には、当然のごとく自分の名前。
『国籍』の欄には――[ アイルランド ]。
「ん? ……んん?」
おかしい。何かがおかしい。それも、致命的な何かが。
トレーナーはパスポートと、にこにこ笑うファインを交互に見た。
「ファイン、これ、なに?」
「? だから、パスポートだよ。キミの」
「えっと、俺の国籍は、日本……」
「『だった』、だよ」
ファインは小首をかしげ、事も無げに言った。
「キミの戸籍なら、先週あっちに移しておいたから」
「はい?」
「だって、これからずっと一緒にいるのに、いちいちビザの申請とか面倒でしょう? だからお父さまに頼んで、特例で国籍ごと変更してもらったの。あ、ちなみに向こうでの役職は『一族お抱え・筆頭バレット兼トレーナー』だから安心してね♪」
「嘘ぉぉ!!??」
トレーナーは絶叫した。空港のロビーに声が響く。
「ま、待て! 俺の仕事は!? 家は!? 年金とかどうなってんの!?」
「トレセン学園には辞表を出しておいたよ、『円満退社』って感じで。お家は引き払っておいたし、荷物はもう本邸に用意してるキミの部屋に届いてるはず。完璧でしょう?」
「……ぜ、全部事後報告!?」
頭が、まるで追いつかない。
退職? 住所変更? 戸籍移動? 国籍変更?
本来ならいくつもの書類と窓口と厳正な審査を経て、慎重に慎重を重ねて行われるべき手続きの数々が。それが「代わりにやっておいたから♪」の一言で、すべて済まされてしまったというのか。
(……いや、待て。落ち着け。もしかして、これはあれか?)
ドッキリ。そう、ドッキリって奴かもしれない。そもそも、このパスポートだって今初めて見たものだ。本物かどうかなんてわかりゃしない。ファインならこういう手の込んだ悪戯を仕掛けることは可能だ。区役所に確認したわけでも、外務省に問い合わせたわけでもない。ファインの言葉の裏付けなんて、実のところ何ひとつ存在しないのだ。
理路整然と自分に言い聞かせてみて、しかし。
なぜか、彼自身の直感がその理屈にまるで説得力を感じていない。それでも、半ば縋るようにその理屈を頭に留めてどうにか正気を保っている。
その時、不意にポケットの中でスマホが震えた。
画面に躍る名前は『秋川理事長』。なんというタイミング。渡りに船とはこのことだ。
「理事長!! ちょうどよかった、今すぐ確認したいことがあるんですけど! 俺って、まだトレセン学園に雇用されてますよね!? 辞表なんて出してませんよね!?」
『――トレーナーよ!』
トレーナーの必死の訴えを遮るように唐突に切り出す秋川理事長。その声は、あくまで晴れやかだった。
『これまでの多大なる貢献、わたしは心から感謝するッ! 君の功績はトレセン学園、いや、日本のレース界の永遠の誇りだッ!』
「え? あの、理事長、そうじゃなくて――」
『そして――栄転ッ! おめでとうッ! 新たな場でのますますのご活躍を、心よりお祈り申し上げるッ!』
「いや、ちょっ……理事長!? 理事長ーーっ!!」
通話は、一方的に切れた。一縷の希望も、一方的に絶たれた。
「いや……いや、待て待て待て。ちょっと待ってくれ」
トレーナーは、両手で頭を抱えた。
何をどう言えばいいのか、まるでわからない。正論も常識も、もはや意味を持たない。怒る? 泣く? いや、喜ぶべきなのか? 思考はぐるぐると空回りするばかりで、一向に言葉にならない。
しばしの葛藤の末に、彼がバッと顔を上げて口走ったのは――
「運命は!? 使命は!? 俺たちの関係って……期間限定の夢だからこそ美しい的な、そういう切ない話だったんじゃないのか!?」
妙に自分達を客観的に認知した、身も蓋もない問いだった。
「うん、そのはずだったね」
「だよな!?」
「でもね、トレーナー。私、よ~く考えたの」
ファインは胸の前で軽く両手を組んだ。その顔は、いつになく真剣だった。
「別れって、尊いものでもあるんだよね。私、それはちゃんとわかっているつもりなの。会えなくなるからこそ思い出は輝くし、寂しさを抱えて前に進むから、人は次の場所へ行ける。でもね……」
彼女は人差し指を立て、にっこりと笑った。まるで、素晴らしい思いつきを披露する子どものように。
「別れなくて済むなら、別れなくていいよね?」
「…………」
「気づいちゃいました♪」
「気づかないでおいてくれ!! そこは!!」
「ふふっ、真理はいつだってシンプルなの」
トレーナーが震える手でパスポートを握りしめていると、背後から無言の圧力が迫った。いつの間にか、黒スーツのSPたちが彼を取り囲んでいる。
その輪の中からSP隊長が進み出て、タブレット端末を恭しく掲げた。
「トレーナー様。“あのお方”から、お言葉がございます」
「え……あっ」
画面には、威厳ある壮年の男性が映っていた。彼はファインモーションの父であり、その高貴な一族の当主でもある。
『久しいな、トレーナー』
「ご、ご無沙汰しております……! あの、お父上、今回の件、俺はまだ何も――」
『はて。そなたの返事なら、とうに貰っている』
「え?」
『あの日、私はそなたに問うた。「我が娘を、託される覚悟はあるか」と。そなたは言った。「彼女の夢を全力で支える」と』
「は、はい。確かに言いました、が……」
『であれば、話は早い。まさか今さら、放り出すなどとは言うまいな?』
「え!? いや、夢を支えるっていうのは、レースの話であって……え? え?」
『レース? うむ』
画面の向こうで、ファインの父はゆったりと首を傾げながら言った。
『いかにも。期限付きとしたのは、まさしくレースの話だ。娘を託すことに、期限を付けた覚えはないが?』
「そんな……えっ、そんな話でしたっけ!? え!?」
契約書の隅の小さな文字を、何年も後になって突きつけるかのような所業。
『だいいち――』
彼の瞳が、すっと細められた。
『数ヶ月前、そなたも喜んで“あれ”を受け取ったであろう』
「……あれ?」
あれ。……あれ? あれって?
記憶を浚う。数ヶ月前に、彼女の国から受け取ったもの。
翠玉をあしらった、金の紋章。見事なカリグラフィーの羊皮紙。凱旋門の日、「記念品です」と手渡された、あの――
「……まさか」
「あれは、御一族の紋章の下に列せられた証。貴族位の正式な認証状でございます」
SP隊長が補足した。数ヶ月前の話に、今さら。
「き、記念品だって言ってたじゃないですかぁ!?」
「ええ、記念品に相違ありませんが。ただ、細かい説明は省略いたしました。長くなりますので」
「そこがいちばん大事なとこでしょうが!?」
『いやはや、私もこうなるとは思っていなかったが。致し方あるまい? まさか、凱旋門まで取ってしまうのだからな』
画面越しのファインの父は、とぼけたように軽く肩をすくめた。
『あれほどの偉業を成したとあっては、一族としてもこれしきの礼は尽くさねば民に格好がつかぬ。何より、そなたも快く受け取ってくれたであろう? うむ、嬉しかったぞ』
「あなたの一族って、みんな白々しかったりするんですか!?」
『他人事のように言っているが、例の物を受領した時点でそなたは我が一族に列しているぞ。つまり、これは身内の話だ。住処や仕事の手続きを代理で行う程度のこと、もはや些事であろう?』
「…………」
絶句したトレーナーの横から、ファインがひょいと画面を覗き込んだ。
「お父さま、心配いりませんわ。トレーナーの覚悟なら、私がいちばんよく知っているもの」
『……そうであろうな』
ファインの父は静かに目を閉じ、それから最後に、何やら一方的に納得して声を和らげた。
『それでは、トレーナーよ。改めて、我が娘を頼む』
どう答えるべきか、言葉を探しているうちにあっさり通話は切られてしまった。
「さぁ、トレーナー! 向こうに着いたら、美味しいスタウトと煮込み料理が待ってるよ!」
「ちょ、待っ……心の準備がぁぁ!」
「出発時刻ですので、お二人ともお急ぎください」
SP隊長が、恭しく、しかし絶対的な力強さでトレーナーの背中を押す。というか、押し込む。抵抗は無意味だった。
「うん! 行きましょう、私のトレーナー!」
ファインは光り輝く笑顔で彼の手を取り、保安検査場へと引っ張っていく。
別れの運命なんて、最初から存在しなかった――いや、あったかもしれないが。彼女によって粉砕された。しかも、想像を絶する力業で。
「は、はは……めちゃくちゃだ……」
トレーナーは乾いた笑いを漏らし、諦めてパスポートを懐にねじ込みながら前に歩みだした。それだけ愛されてる証拠だと思って、もう観念するしかない。というか、もはや自分の力ではどうしようもない。
どうやら俺たちの「夢の続き」は、海の向こうでまだまだ続くらしい。たぶん、一生。
「あ、そうだトレーナー。日本のラーメンをあっちで食べるのは難しいから、職人さんも三人ほど連れていくの!」
「あ、そう……それは、俺も嬉しいよ……」
ツッコむ気力もなく、『元・日本人』のトレーナーは、愛しきウマ娘と共に故郷を後にした。
もうちょっと続く。