ファインモーションが凱旋門賞を制した結果、勢い余って運命を粉砕する物語   作:ゆのいん

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Rain or Shine, You're Forever Fine

 アイルランドに「招聘」されてから、というもの。

 トレーナーの毎日は、目まぐるしいの一言に尽きた。

 

 夜明けとともに叩き起こされ、まずは各種言語の講義。英語はともかく、アイルランド語は単語ひとつ知らない状態からの出発。しかも文法も発音も特異なもので、説明を聞けば聞くほど理解不能である。昼は「一族に連なる者」としての立ち振る舞い――ナイフとフォークが片側に何本も並ぶ食事の作法、相手の身分ごとに適した呼び方、高貴な客人とすれ違う際の歩幅などのレッスン。夕は延々と続く歴史と文化、そして「決して口外してはならぬ事項」の暗記。エトセトラエトセトラ。

 

 指導してくれるのは、もっぱらSP隊長だった。彼女は「トレーナー様、“閣下”に対する会釈の保持は三秒です。二秒では略式、四秒では嫌味に相当します」などと、正気を疑うレベルの知識を真顔で詰め込んでくる。しかもうっかり人前で間違えれば国際問題に発展しかねないというのだから、気の休まる暇はない。

 

 奇妙な疑問もあった。

 アイルランドの歴史、周辺諸国との関係、貴族的な作法礼法。そういう知識は、頭がショートするほど叩き込まれる。その一方で、この家そのものの歴史は、なぜか途中からしか教えられない。「一族がこの地に根を下ろして以降」とか、「新たな祖国に仕えるようになってから」とか。それより前の知識は、不自然なまでの空白になっている。

 

 思い返すと、日本で共に過ごした数年間も、「一族」とか「ある国の王族」といった言葉で濁されていた。「高貴な家とはそういうものなのだろう」と、我ながら安易に片付けていたが、考えてみると不思議である。

 

 

 * * *

 

 

 今日は、そんな怒涛の日々における「休日」だった。

 

 本邸のテラスにて、午後のティータイム。トレーナーは緑に覆われた美しい庭を眺めながら、ふと口を開いた。

 

「なぁ、ファイン」

 

「ん? なぁに、トレーナー?」

 

「俺も(半強制的に、とはいえ)君の家の一員になったわけだし……そろそろ教えてくれてもよくないか?」

 

「何を?」

 

「君のルーツだよ。君は『とある王族の末裔』とか『殿下』って呼ばれてるけど、具体的にどこのなんて家の血筋なんだ? 俺、今の自分の本籍地すらわからないぞ。書類がわざわざ黒塗りで修正されてるし……」

 

 家族のようなものになったのだから、家の名前くらい知っておきたい。至極当然の疑問である。

 ファインモーションはおもむろにカップを置くと、意味深な微笑みを浮かべた。

 

「トレーナー。世の中にはね、『名前がないからこそ、そこに在り続けられるもの』があるんだよ?」

 

「……え?」

 

「例えば……もし私が具体的な『なにがし朝』の正統な末裔だと公言したら、どうなると思う?」

 

 彼女は席を立ち、壁飾りとして広げてあったヨーロッパの大きな古地図の上を、つい、ついっ、と無造作に指でなぞった。

 

「大陸の国境線が、また書き換わっちゃうかもしれないね?」

 

「スケールがでかいよ!」

 

「…………」

 

 トレーナーのツッコミに対してファインは微笑んだまま、何も言わず席に座り直した。

 そして、紅茶の湯気越しにただこちらを見つめている。

 

(……あれ? なんで無言?)

 

 ――カチャン。

 庭の向こうで、衛兵が銃器を手入れする金属音が、妙に大きく響いた。

 

 何かを悟ったトレーナーの表情は、急速に凍りついていく。

 

(え……マジで言ってる?)

 

 ファインの沈黙は、かえって雄弁に言葉の重みを伝えていた。

 彼の脳は、今までの人生で蓄えた「世界史」に類する知識を、勝手に、猛烈な勢いで参照していく。

 

 場所はアイルランド。欧州の端。

 『旧』王族だが、隠しきれない財力を持ち、各国からの特別な外交的配慮を受ける。

 彼女が時折口にする、イギリスとの微妙な距離感。

 

(例えば……海峡の向こうで王冠を失った、もうひとつの王統の末裔だとしたら?)

(あるいは、大戦のドサクサで地図から消えた『東の古い王冠』の継承権を、まだ誰にも渡していなかったとしたら?)

(あるいは、革命で処刑されたとされる皇女が、実は生き延びて子孫を残していた、なんて都市伝説が事実だったとしたら?)

(もし……現存する国々の支配者よりも、ファインの持つ『血の正当性』の方が、古い文書の上では強かったとしたら?)

 

 そのどれか一つでも当たっていた場合、国境線が書き換わるというのは冗談でも比喩でもなんでもない。彼女の家名が公表された瞬間、現在の体制を良しとしない勢力がそれを旗印として、正統性を巡る内戦や国際紛争の引き金を引くという意味だ。

 トレーナーは、自分の顔から、すぅーっ……と、血色が抜けていくのを感じた。

 

(やめろ。考えるな。俺の脳みそ、考えるのをやめろ)

 

 そんな彼の内心など露知らず――あるいは全て見透かした上で――ファインは朗らかに言葉を継いだ。

 

「外務省の上の方なら、事情くらいは把握してるよ。でも、この家の本当の名前まで知っている人となると……私が知る限り、私たち一族と、ローマの地下にある古い書庫を管理してる人。それから――」

 

 そっと身を乗り出し、内緒話をする少女のように声をひそめるファイン。

 

「海の向こうの古い塔で、『開かずの間』の鍵を管理している人くらいかな?」

 

「…………」

 

 トレーナーは、どうにか引きつった笑顔と明るい声を作って答えた。

 

「……う、うん! 名前なんて飾りだよな! 君はファインモーションで、俺はそのトレーナー。それだけで十分だ!」

 

「そうそう、やっぱりそれがいいよね!」

 

 そう言って、ファインは悪戯っぽく目を細めた。

 

「いつか“その時”が来たら、ちゃんと教えてあげるから。だから、それまでは知らないふりでお願いします♪」

 

「そ、そっかぁ……」

 

 “その時”って何のタイミングなんだろう? 俺がこの家の名前を教わってもいい頃合い。例えば、一族がその血筋を大っぴらにしてもいい時だとすると、“革命の機”とか、そういう――

 

(だから考えるなって言ってるだろ、俺の脳みそ!)

 

 冷や汗で背中を濡らしながら、トレーナーはこの話題について二度と掘り下げないことを内心で誓った。

 

 

  * * *

 

 

 そんな寿命の縮むようなティータイムから、数刻の後。

 

 日は牧草地の向こうへ沈み、本邸のプライベートシアタールームには、ほのかな明かりが灯っていた。

 ふかふかのソファに並んで身を沈め、二人が眺めているのは、古いモノクロ映画――不朽の名作『ローマの休日』だ。

 

(よりによってあんな話を聞いた後に、お忍びの王女様の映画か……)

 

 トレーナーは胸の中でひとりごちたが、スクリーンの中の物語は、そんな邪念をすぐに忘れさせるほど美しかった。

 ラストシーン。王女は義務を果たすため、愛した新聞記者に別れを告げて宮殿へと戻っていく。謁見の間を去る王女を見送り、記者は一人、コツコツと足音を響かせて去っていく――

 

「……いい映画だったな」

 

 美しい。本当に美しいラストだ。

 身分違いの恋。一夜の夢。愛するがゆえに、互いの世界を尊重して別れる潔さ。これぞ「王女と庶民」の物語のあるべき姿であり、世界中が涙する王道の筋書きである。

 チラリと横を見ると、ファインモーションも静かにスクリーンを見つめていた。膝の上のポップコーンには、いつの間にか手がついていない。

 

「……うん。いい映画だったね」

 

 思いのほか、しっとりとした声だった。

 

「アン王女は義務を選んで、彼は何も言わずに見送った。最後まで、二人とも一言も『好き』とは言わないの。……言わなくても、全部伝わるんだね」

 

「ファイン……」

 

 彼女は目を細め、どこか遠くを見るように続けた。

 

「ああいう別れ方をしたら、あの一日は二人の中で一生輝き続ける。色あせない思い出になる。……うん、わかるなぁ、これは」

 

 トレーナーはファインの話を聞きながら、素直に感心した。おそらく彼女は幼少期から様々な名作を教養として浴びるように観てきたのだろう。この映画の妙、別れの美学というものを、よく理解して言語化している。

 

 理解して……いる?

 

 …………。

 

「……あの、ファインさん? わかっていらっしゃるなら、お聞きしたいんですけど」

 

「なぁに?」

 

「君、俺と離れるどころか連れてきたよね。国籍ごと根こそぎ」

 

 ファインはきょとんと瞬きをして、それから、なんの曇りもない眼で言った。

 

「うん! だって私たち、別れる必要がなかったもの」

 

「…………」

 

「ぜんぜん違うお話なんだから、比べちゃダメだよ?」

 

 にっこりと笑って、言葉を続ける。

 

「もっとも――もし本気で望んだのなら、アン王女にだって方法はいくらでもあったと思うけれどね? ふふっ」

 

 トレーナーは天井を仰いだ。

 そういえば、世間は自分たちについて「『ローマの休日』のような別れを覆した物語」だと思って涙しているらしい。あながち間違いでもないが、上映中にフィルムを無理矢理書き換えるのはいかがなものか。

 

「ま、どっちにしろ私は映画の主人公じゃないし!」

 

 ファインモーションは屈託のない笑顔で、トレーナーの腕にギュッと抱きついた。

 

「私の物語は、キミがいる限り終わらせないんだから♪」

 

 モノクロのスクリーンの中では、まだ美しい余韻が漂っている。

 だが、極彩色の現実にエンドロールが流れることはありえない。

 

 スクリーンの淡い光を受けて、ぱちぱちと瞬く大きな瞳も。その無邪気な笑顔も、こちらの腕に体重を預けきっている無防備さも。当然のように、かわいい。

 腕にしがみついたまま、もう画面よりもこちらの顔を楽しそうに眺めているお姫様を見下ろして、トレーナーはようやく実感した。

 

(まぁ……そこに至るやり口が、あまりにも荒業すぎたとはいえ――)

 

 映画の中のあの記者は、去りゆく人をただ見送るしかなかった。片やこちらは、これ以上ないくらい求められ、居場所と役割を用意されている。悪くないどころか、ありえないほど上等な結末だ。

 

(考えてみると、俺はあの記者よりよっぽど幸運だな)

 

 ……幸運。頭に浮かんだその言葉が、いつだったか、トレセン学園で交わした何気ない会話の記憶を呼び起こした。

 

『私ね、見つけられたの。私にとっての、幸運のクローバー』

『……というと?』

『キミだよ、トレーナー』

『有難いけど、違うかな。君が“幸運のクローバー”なんだよ』

 

 結局、あの時自分で言った通りだったのだ。

 彼女は、関わる人を片っ端から惹きつけては、その運命ごと明るいほうへ引っ張っていってしまう。ファンも、友達も、ライバルも。

 

(そして何より、この俺自身が最大の証拠だ)

 

 日の丸の国からシャムロックの国まで、ほとんど無理矢理連れて来られたというのに、彼女の笑顔一つですっかり前向きになっているのだから。我ながら現金なものである。

 

 やがてエンドロールが終わると、ファインはリモコンをテーブルへ戻し、満足そうにひとつ伸びをした。そして何かを思いついたらしく、ぱっと表情を輝かせる。

 

「さ、次は『ラーメンの休日』にしよっか! シェフを呼んで!」

 

「ラーメンとローマって……何も掛かってなくない?」

 

 弾けるような笑顔は、出会った日から何ひとつ変わらない。

 映画のような結末とは無縁の、騒がしくも幸せな「アイルランドの休日」は、まだ続いていく。

 

 雨の日も、晴れの日も。

 彼女はきっと、永遠に“ファイン”のままだろう。

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