忘れもしませぬ。あれは拙僧が生きながらにして神となった頃のこと…… 作:Calく
雨の降りしきる、都の片隅。
古びた屋敷の門前に、奇妙な身なりの男が立っていた。背には大きな薬箱、異様なほどに鮮やかな着物。モノノ怪を斬る「薬売り」は、その屋敷から発せられる濃密な怨嗟の気配を追い、門を叩いた。
「この屋敷には、人の身には余るモノが棲んでいる。話を聞かせていただきたい」
だが、門番たちは薬売りを一笑に付した。
「立ち去れ!ここは今、高名な陰陽師の方が御用で滞在しておられる。貴様のような胡乱な行商人など、目障りだ」
薬売りが引き下がろうとしたその時、門の隙間からひょいと顔を出した男があった。烏帽子をずらし、ねっとりとした笑みを浮かべる道満だ。
「おや、これはこれは。……そこの薬売り殿、見えるのですかな。この屋敷の『澱み』が」
道満は機転を利かせ、狂言回しのように門番を煙に巻くと、薬売りを屋敷の奥へと招き入れた。
「今の都は、ある陰陽師の威光で満ちている。……ですが、光が強ければ、その影もまた肥大化する。さて、薬売り殿はどの様な御用があって此方へ?」
モノノ怪が本性を顕にした。
薬売りの持つ退魔の剣の鍔が、カチリと音を立てて回転した。
虚空に浮かび上がる幾何学模様が、男の視線を束ねる。
「モノノ怪の、形を、得たり」
薬売りの声は、雨音を弾くように冷徹に響く。
その言葉が引き金となった。
屋敷の淀みを食らい、都の罵詈雑言を糧として肥大化した黒い影が、輪郭を現す。それは道満の背後に重なるようにして立ち昇る、巨大な呪の塊。
髪は千切れた蛇のように蠢き、指先は焼けた炭のように崩れ落ち、その眼窩には――晴明に対する、燃え尽きることのない業火が宿っていた。
「形は暴いた。だが、剣を抜くにはまだ足りない」
薬売りは、異形のモノノ怪に覆われながらも、泰然と立つ道満を見つめた。その眼差しは、彼を糾弾するものではなく、ただ「理」を静かに射抜こうとしている。
「道満殿。……貴殿が、このモノノ怪を生み出した真と理を聞かせ願いたい」
道満は、崩れ始めた肉体を抱え、裂けた唇で歪な笑みを浮かべた。
彼の心に去来するのは、己を愚弄した者たちの嘲笑ではない。餓えた民に毒を与えた時の、最期の震える手の温もり。そして、何百回、何千回と塗り重ねた研鑽の果てに、なおも遥か彼方にあり続ける「光」への、狂おしいまでの――。
「理か。……それはな、薬売り殿」
道満の声は、地底から響く雷鳴のように、低く、深く、そしてどこまでも悲痛に響いた。
「救い得ぬ者たちを背負い、救い得ぬ自分を呪いながら、それでも『一番』を夢見た、道化の足掻きだ」
それは、憧憬であった。
自分には到底たどり着けないと悟りながら、その背中を追い続けずにはいられなかった、敗北の物語。
道満が腕を上げると、周囲の空気が重く澱む。
「儂の命は薪。このモノノ怪は、儂という器から溢れ出した、渇望の形。これこそが、存在し続けた、儂の――道満の、理だ」
薬売りは、その言葉の重みに、ゆっくりと頷いた。
「憧憬、執念、そして憐憫。……の真と理、相分かった」
薬売りが剣の柄に手をかける。
道満の背後にあった魍魎が、最後の咆哮を上げる。それは呪詛の叫びであり、同時に、一人の陰陽師がたどり着いた、魂の悲鳴でもあった。
「形と真と理。三様が揃い……剣を、解き…放つッ!」
退魔の剣が鞘から抜かれた瞬間、屋敷全体が眩い光に包まれる。
最期の決戦の幕開け――。
雨は止み、屋敷を包んでいた禍々しいモノノ怪の瘴気も、退魔の剣の放つ光と共に霧散しようとしていた。
薬売りの眼差しは、崩れゆく道満の姿を真っ直ぐに捉えていた。その瞳には、冷徹さと、人間を憐れむ慈悲が同居している。
道満は、自らの肉体を見下ろした。
あれほどまでに、喉から手が出るほど欲した「卓越」も、今や指の間を零れ落ちる塵に過ぎない。
「……陰陽師、だと?」
道満は、乾いた笑みを漏らした。
その声には、今まで隠し通してきた——あるいは、狂気で塗り潰してきたはずの、年相応の疲弊と、一瞬の安らぎが混じっていた。
「……そうか。儂は、ただの道化ではなかったのか。あの男の影を踏むためだけに、その光を奪うことだけを生きる糧にしてきた……その道程そのものが、儂の術(わざ)であったと、そう言うのか」
薬売りは無言で、しかし力強く頷いた。
彼は知っている。モノノ怪の理は、常に「人の思い」の中に宿る。道満がどれほど己を卑下しようとも、その掌に刻まれた幾千の呪術の痕跡と、晴明という一点を見据え続けた強靭な精神は、まごうことなき「陰陽師」のそれであったことを。
「貴方の星は、決して掌には収まらなかった。だが、その星を追い求めたそのの歩み自体が、暗闇を照らす明かりになっていたのですよ」
道満は、空を仰いだ。
都の雲の切れ間から、ほんのりと星の光が差し込んでいる。
……届かない。何度見上げても、何度手を伸ばしても、やはりあの光には届かない。
「……ははは。なんとも、毒気のないお言葉だ。そんなことを言われても、儂は地獄へ落ちる身。晴明の鼻を明かすことも叶わぬ、敗北者だというのに」
道満の輪郭が、輪郭がさらに薄れていく。
だが、その表情は先ほどまでの激昂とは違い、どこか晴れやかで、酷く寂しげだった。
「……まあ良い。薬売り殿、礼を言いましょうぞ」
モノノ怪騒ぎを経て都を追放され、各地を放浪することとなった男は、ふと気付いた。
「ンンン。これは……実に、実に面白い冗談ですな」
男は、自分の両手を見つめた。
かつて晴明を呪い、都を滅ぼそうとあがいた呪で黒ずんだ指先。毒で民を救い、狂気にその身を焦がしたあの肉体に混ざる、清廉で、どこか得体の知れない「神」としての輪郭がそこにあった。
「祀り上げられた、か。儂のような毒の塊に、何を望んで頭を垂れるのか。……滑稽な話です」
男は鼻で笑った。しかし、神となったことで、かつて自分が毒を飲ませた民たちの「最期の安らぎ」の記憶が、祈りとして流れ込んでくる。
彼らは自分を恨んでなどいなかった。あの地獄のような苦しみから解放してくれた、慈悲深い「何か」として、名もなき祠に彼を奉ったのだ。
「あの方々、儂を呪いから救い出してくれたつもりですか。……毒を盛られた側が、毒を盛った側を神と崇める。……はは、晴明が見たら腹を抱えて笑い転げましょうな」
男——蘆屋道満は、門の陰でふらりと立ち上がった。
かつての前前世の記憶。遥か未来か、はたまた異界の理か。運命の物語の中で己がどのような道を辿ったか、その知識が頭の中に混濁している。
己の姿そっくりな物語の陰陽師。
「薬売り」という奇妙な旅人。退魔の剣。「モノノ怪」の理。
それらが一つの物語として脳裏を駆け巡る。
「……クロスオーバー、とでも言うのですか。放浪の果てに待っていたのがこれとは、なんとも悪趣味な配置だ」
追放され放浪者となった今、以前のように「晴明への■」という名のモノノ怪に支配されることはない。だが、だからこそ空虚なのだ。星への執着を失った道満は、もはやただの「今」に縛り付けられた亡霊に過ぎない。
「……ンンン。せっかく暇な身分になったのです。……神として、現世にどのような呪いを——いえ、どのような『恩返し』をいたしましょうか」
彼は外を見下ろす。そこには、以前と変わらぬ、救いのない日常が続いていた。
道満は、神として微笑んだ。
それは、かつての狂気に満ちた微笑みよりも、ずっと深く、冷たく、そしてどこか哀愁を帯びた、神の笑みであった。
この物語が、一体どのような結末を迎えるのか。