忘れもしませぬ。あれは拙僧が生きながらにして神となった頃のこと…… 作:Calく
濃い香の匂いが漂う広間に、薬売りが一歩足を踏み入れる。
その視線が、一人の男を捉えた。
狩衣をまとい、扇を手にした陰陽師。
猫のように細い瞳が、こちらを見て愉快げに弧を描く。
「ンンン……これはこれは」
「……」
薬売りは、ごく僅かに目を見開いた。
驚き。
それは瞬きほどの時間で消え去る。
「薬売り殿ではありませぬか」
「……道満殿」
その名が広間に落ちる。
居合わせた坂下が二人を見比べ、眉をひそめた。
「何だ、薬売り」
訝しげな声。
「おぬしの知り合いか?」
薬売りは少しだけ考える素振りを見せる。
「知り合い……」
その言葉を吟味するように、道満へ視線を向けた。
「まぁ、そのようなもの、ですね」
「そのようなもの、とはまた淡白なお言葉」
道満は肩を揺らし、愉快そうに笑う。
「わたくしとしては、幾度も怪異を共にした仲と思っておりますが」
「共に、というより」
薬売りは静かに返す。
「貴方が勝手について来られたことの方が、多かったように思います」
「おやおや」
「しかも毎度、面倒事まで抱えて」
「濡れ衣ですなぁ」
「そうでしょうか」
二人のやり取りに、坂下は口を挟めずにいた。
法師は供養のために呼ばれた長駆の美男。
一方で薬売りは、どこの誰とも知れぬ行商人。
本来、交わるはずのない二人である。
だがその会話には、互いの力量を知る者同士だけが持つ、奇妙な間合いがあった。
道満は扇を閉じる。
「しかし、これは好都合」
その瞳が大奥の奥へ向く。
幾重もの御殿の向こう。
人の欲も、嫉妬も、執着も折り重なる場所。
「ここは、実に――見応えのある場所でございますな」
薬売りはその言葉にだけ、静かに目を細めた。
「……道満殿」
その声音は低い。
「ンンン」
道満は笑う。
「ご安心を。拙僧も仕事で来ておりますれば」
その笑みを見た薬売りは、小さく息を吐いた。
「その言葉が、一番信用できないのですがね」
坂下は二人を見比べながら首をかしげる。
「……知り合い、というよりは」
薬売りは答えず、道満だけが楽しげに続けた。
「ええ。腐れ縁、と申しましょうか」
薬売りは否定も肯定もせず、ただ大奥の闇へと視線を向ける。
その沈黙が、かえって道満の言葉を肯定しているようにも見えた。
蛇神が退いた後も、大奥には静寂だけが残っていた。
唐傘も、火鼠も、もはや在りはしない。
だが、モノノ怪が消えたからといって、失われた命が戻ることはない。
積み重なった怨嗟も、流された血も、その場から消え去るわけではなかった。
「供養を」
誰かがそう口にした。
大奥で命を落とした女たち。
志半ばで斃れた者も、憎しみを抱えたまま逝った者もいる。
その魂を鎮めねば、この場所は再び澱みを生むかもしれない。
そこで大奥が呼び寄せたのが、縁のある法師――蘆屋道満であった。
「ンンン……供養、ですか」
道満は扇で口元を隠し、笑みを浮かべる。
「人は亡くなれば仏になる、と申しますが、そう簡単に割り切れるものでもありませぬ。残る想いというものは、実に複雑でしてな」
「モノノ怪は既に討たれた。ならば、残るは人の世の務め」
その声音には、いつもの戯けた調子がない。
「未練を鎮め、弔い、境界を閉じる。それもまた法師の役目にございます」
法師にして陰陽師の蘆屋道満が招かれて、数日。
何事もなく供養の儀は続いていた。
モノノ怪の騒ぎによって甚大な被害を受けた大奥は、人手も物資も足りない。
読経の合間には、道満自ら式神へ荷を運ばせ、壊れた廊下の資材を運搬させていた。
転びかけた者があれば袖を取って支え、
崩れた荷に押し潰されそうな者がいれば式神が受け止め、
思案に暮れる者がいれば、さらりと知恵を授ける。
それを当然のように繰り返していた。
滞在していた薬売りもまた、負傷者へ薬を塗りながら、その様子を静かに眺めていた。
やがて口を開く。
「道満殿は」
道満が振り返る。
「……随分、ここを気にかけるようで」
その言葉に、道満は猫のような瞳を細めた。
「気にかける、とは?」
「ンンン……失礼ながら、薬売り殿」
肩を竦める。
「拙僧、これでも法師にて」
「民草を気にかけるのは、当然では?」
「ええ」
薬売りは手を止めない。
「ですが」
包帯を巻き終え、静かに立ち上がる。
「貴方は、人を助ける理由を持たない方だと思っていました」
沈黙。
式神たちだけが忙しなく行き交う。
やがて道満は、小さく笑った。
「……手厳しい」
扇を口元へ運ぶ。
「まぁ、その通り」
「善人を気取る趣味はございませぬ」
「ならば」
薬売りは真っ直ぐに見つめる。
「何故です」
道満は少しだけ遠くを見る。
忙しなく働く女中たち。
泣き疲れて眠る少女。
亡き者へ手を合わせる老女。
その光景を眺めながら、ぽつりと零した。
「拙僧といたしましても」
「これほど人々の中へ交わるのは、久方ぶりでして」
「……」
「人というものは」
道満は苦笑する。
「近くで見れば、実に騒がしい」
「泣いて、笑って、怒って、欲を抱き」
「それでも明日を生きようとする」
薬売りは黙って聞いている。
「不思議なものですな」
「見ておりますと」
「ほんの少しばかり」
そこで言葉を切り、扇を閉じる。
「――手を貸したくもなるもので」
薬売りはその横顔を見つめた。
「……そうですか」
それ以上は何も問わない。
道満が嘘をついていないことだけは、分かったからだ。
道満もまた、その沈黙に笑う。
「ンンン」
「ですが、勘違いなされますな」
「拙僧、善人になった覚えはございませぬ」
「知っています」
薬売りは淡々と薬箱を閉じる。
「だからこそ」
「今の貴方は、良き人に思える」
その一言だけが、道満の胸に静かに残った。