毛利小五郎の事件簿   作:オッパッピー

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ギャグでない、ちゃんとした大人として生きる男の話。


File.1「眠らない名探偵」

 午前八時二十分。

 

 毛利探偵事務所には、穏やかな朝の空気が流れていた。

 

 毛利小五郎はソファに腰掛け、新聞の社会面を静かに読んでいる。

 

 事件記事に目を留めては、手帳へ短く書き込みを加える。その姿は、依頼のない朝でも仕事を止めない探偵そのものだった。

 

 階段を下りてきた江戸川コナンは、その様子を横目で見る。

 

(真面目なんだな……)

 

 まだこの家へ来て間もない。

 

 毛利蘭の父親で、元刑事の私立探偵。

 

 それ以上のことは知らない。

 

 すると、電話が鳴った。

 

「毛利探偵事務所です」

 

 受話器を取った小五郎の表情が引き締まる。

 

「……分かりました。すぐ向かいます」

 

 電話を切ると、蘭が台所から顔を出した。

 

「事件?」

 

「ああ。警部からだ」

 

 小五郎はコートを羽織り、手帳を胸ポケットへ入れる。

 

「コナン」

 

「え?」

 

「ついてくるのは構わないが、俺の傍を離れるな」

 

「う、うん」

 

 蘭は玄関で二人を見送りながら微笑んだ。

 

「コナン君、お父さんの言うことをちゃんと聞くのよ」

 

「分かった!」

 

 現場へ向かう道中、小五郎は事件について一切話さない。

 

 頭の中で状況を整理しているのだろう。

 

 コナンも余計なことは聞かなかった。

 

 マンションへ着くと、既に規制線が張られていた。

 

「毛利さん!お疲れ様です!」

 

 警察官が敬礼する。

 

 コナンは少し驚く。

 

(このおじさん。警察から、こんなに信頼されてたのか)

 

 三〇二号室では目暮警部が待っていた。

 

「来てくれたか、毛利君」

 

「警部、状況を」

 

 挨拶より先に本題へ入る。

 

 目暮も慣れた様子で説明を始めた。

 

「被害者は会社員。死亡推定時刻は昨夜九時から十一時。第一発見者は同僚だ」

 

 説明を聞き終えると、小五郎は静かに現場へ足を踏み入れた。

 

「鑑識、そのグラスはまだ動かさないでください」

 

「はい」

 

「高木刑事、玄関からここまでの靴跡をもう一度撮影してくれ」

 

「分かりました」

 

「窓には誰も触れないように」

 

 次々と飛ぶ指示に、警察官たちは迷いなく動き出す。

 

 コナンはその光景を見つめていた。

 

(現場をまとめてる……)

 

 小五郎は遺体の傍らにしゃがみ込み、周囲を一瞥する。

 

 そして立ち上がると、関係者一人ひとりに短く質問を始めた。

 

 無駄な質問は一つもない。

 

 答えを聞くたびに、手帳へ短く書き込むだけだった。

 

 その間、コナンも独自に現場を見て回る。

 

 割れたグラス。

 

 開いた窓。

 

 ベランダの泥。

 

 第一発見者の証言。

 

 近隣住民の話。

 

 断片だった情報が、頭の中で一つに繋がる。

 

(そうか……)

 

(犯人はあの人だ)

 

 コナンは小五郎を見る。

 

 小五郎はまだ関係者への聞き取りを続けていた。

 

(まだ決め手を探してるのかよ)

 

(だったら……)

 

 コナンは腕時計へ視線を落とす。

 

 阿笠博士から渡されたばかりの時計型麻酔銃。

 

 まだ一度も使ったことはない。

 

(この姿じゃ、俺が犯人を指摘しても誰も信じない)

 

(眠ってもらうしかない)

 

 コナンは息を潜め、照準を小五郎のうなじへ合わせる。

 

 静かに、発射ボタンを押した――。

 

 

――シュッ。

 

 空気を裂くような小さな音。

 

 細い麻酔針は真っすぐ小五郎のうなじへ向かって飛んだ。

 

 その瞬間だった。

 

「……!」

 

 小五郎の体がわずかに動く。

 

 振り返ったわけではない。

 

 誰かに呼ばれたわけでもない。

 

 ただ、長年刑事として危険な現場に身を置いてきた経験が、無意識に身体を反応させた。

 

 半歩。

 

 本当に半歩だけ身体がずれる。

 

 麻酔針は小五郎の横を通り過ぎ、そのまま後方の壁へ突き刺さった。

 

「……え?」

 

 コナンは息をのむ。

 

(避けた……?)

 

 偶然か。

 

 いや、偶然にしては出来過ぎている。

 

 小五郎は一瞬だけ壁へ視線を向けた。

 

 何かが刺さっていることには気付いた。

 

 だが、それを確かめるより先に、部屋の中を見回す。

 

「警部」

 

「何だね、毛利君」

 

「全員、この部屋から動かさないでください」

 

 静かな声だった。

 

 しかし、その一言だけで室内の空気が変わる。

 

 目暮警部はすぐに頷いた。

 

「分かった。誰も外へ出すな」

 

 高木刑事たちが関係者の前へ回る。

 

 コナンは呆然と小五郎を見つめていた。

 

(麻酔針に気付いたのか……?)

 

(いや、それより――)

 

 小五郎はゆっくりと第一発見者へ歩み寄る。

 

「山崎さんが亡くなっているのを見つけた時、あなたは真っ先に警察へ通報しましたね」

 

「は、はい」

 

「部屋へ入った時、このグラスは割れていましたか」

 

「……え?」

 

「質問に答えてください」

 

「わ、割れていました」

 

 小五郎は静かに頷く。

 

 次に視線を別の男性へ向けた。

 

「あなたは昨夜、被害者と口論になった」

 

「……だから何です」

 

「理由は仕事上のトラブル」

 

「そうですが」

 

 小五郎はそれ以上追及しない。

 

 部屋を一周し、再び遺体の前で足を止めた。

 

 数秒。

 

 沈黙が流れる。

 

 コナンは思わず拳を握る。

 

(何を確認してるんだ……)

 

(犯人がまだわからないのか)

 

 その時、小五郎が小さく息をついた。

 

「警部」

 

「うむ」

 

「もう十分です」

 

 その言葉に、室内の全員が小五郎へ視線を向けた。

 

 コナンも思わず顔を上げる。

 

「犯人が分かりました」

 

 その一言で、空気が張り詰めた。

 

 コナンの瞳が大きく見開かれる。

 

(え……分かった?)

 

(違う……)

 

(この人は、さっきまで迷ってたんじゃない)

 

(最初から見えてたのか……?)

 

 小五郎はゆっくりと一人の男へ歩き出し、その男の正面で足を止めた。

 

「犯人は、あなたです」

 

 部屋の空気が凍りつく。

 

 名指しされた男は一瞬だけ目を見開いたが、すぐに鼻で笑った。

 

「証拠もないのに、ずいぶんな決めつけですね」

 

「決めつけではありません」

 

 小五郎の口調は終始穏やかだった。

 

「私は現場へ来てから、皆さんに同じ質問をしました」

 

 男は黙っている。

 

「ところが、あなたは一つだけ答える必要のないことまで答えた」

 

「……何の話です」

 

「被害者と最後に口論した理由です」

 

 男の眉がわずかに動く。

 

「私は『口論になった』とは聞きましたが、『内容』は一度も尋ねていません」

 

 男は何も言い返せない。

 

「あなたは『仕事上のトラブル』と自分から口にした」

 

 静かな声が部屋に響く。

 

「心当たりがある人間ほど、自分を正当化しようと余計な説明を加える」

 

 目暮警部が腕を組む。

 

「なるほど……」

 

 小五郎は続けた。

 

「もちろん、それだけで犯人とは言いません」

 

「現場の状況、証言、あなたの行動。それらを合わせて考えれば、一つの結論しか残らない」

 

 男の額に汗が浮かぶ。

 

「昨夜、あなたは被害者に会いに来た」

 

「口論となり、感情的になって突き飛ばした」

 

「その結果、被害者はテーブルの角へ頭を強く打ち付けた」

 

 男は俯いたまま動かない。

 

「あなたは事故だと思いたかった」

 

「だから窓を開け、第三者が侵入したように見せかけようとした」

 

「しかし、部屋を荒らす余裕まではなかった」

 

 沈黙。

 

 長い沈黙だった。

 

 コナンは思わず息をのむ。

 

(全部……繋がってる)

 

(俺が見つけた証拠だけじゃない)

 

(聞き込みで得た情報も、証言の癖も、人の心理も全部合わせて犯人を見抜いてる……)

 

 男の肩が小刻みに震え始める。

 

「……違う」

 

 かすれた声だった。

 

「殺すつもりじゃなかった」

 

 誰に向けた言葉なのか、自分でも分かっていないようだった。

 

 小五郎は責めることなく静かに答える。

 

「その言葉は、ご遺族の前で話してください」

 

「あなたが犯したことは変わりません」

 

 男は両膝から崩れ落ち、顔を覆った。

 

「……すみませんでした」

 

 高木刑事が静かに近付き、男へ手錠を掛ける。

 

 目暮警部は深く息を吐いた。

 

「毛利君、今回も助かった」

 

「いえ」

 

 小五郎は短く答えると、壁へ視線を向けた。

 

 誰も気付いていない。

 

 壁には、細い針が一本だけ刺さったままだった。

 

 小五郎は何事もなかったように視線を外す。

 

(あの針……)

 

(現場が終わってからでいい)

 

(まずは事件を終わらせる)

 

 その横顔を、コナンは複雑な表情で見つめていた。

 

(俺は……)

 

(完全に思い違いをしていた)

 

(毛利のおじさんは、自力でここまで辿り着いてたんだ)

 

 子どもになってから初めて担当した事件。

 

 そして初めて目の当たりにした、毛利小五郎という探偵の実力だった。

 

 

 

 現場検証が終わる頃には、外はすっかり夕暮れになっていた。

 

 鑑識員が機材を片付け、関係者もそれぞれ事情聴取のため現場を離れていく。

 

「毛利君」

 

 目暮警部が近づいてきた。

 

「今回も本当に助かった」

 

「警察の皆さんの聞き込みが早かったおかげです」

 

 小五郎は手柄を誇ることなく答える。

 

 目暮は苦笑した。

 

「君は昔からそうだ」

 

「自分の手柄にしたがらん」

 

「事実を言っただけです」

 

 短いやり取りを終えると、小五郎はリビングの壁へ歩み寄った。

 

 誰にも気付かれないよう、壁に刺さった細い針を指先で抜き取る。

 

 見たこともないほど細い金属製の針。

 

 先端には、ごくわずかに液体が残っていた。

 

(麻酔か……?)

 

 元刑事としての経験が、そう告げていた。

 

 しかし断定はしない。

 

 静かにハンカチへ包み、ポケットへしまう。

 

 その一部始終をコナンは遠くから見ていた。

 

(気付いてた……)

 

(やっぱり、あの針にも)

 

 小五郎は何も言わず、コナンの横を通り過ぎる。

 

「帰るぞ」

 

「……う、うん」

 

 二人はマンションを後にした。

 

 夕焼けに染まる帰り道。

 

 しばらく無言の時間が続く。

 

 コナンは何度も小五郎の横顔を見上げた。

 

 何か言われるだろうか。

 

 針のことを聞かれるだろうか。

 

 胸の鼓動が少し速くなる。

 

 やがて、小五郎が足を止めた。

 

「コナン」

 

「えっ?」

 

 静かな声だった。

 

「少し話がある」

 

 その言葉に、コナンの身体がこわばる。

 

 小五郎は怒鳴るでもなく、責めるような目を向けるでもない。

 

 ただ、真っ直ぐコナンを見つめていた。

 

「今日、俺に向かって何か撃ったな」

 

 コナンの呼吸が止まる。

 

 言い逃れはできない。

 

 あの場で避けられ、針まで回収されている。

 

 頭の中で必死に言葉を探すが、一つも見つからなかった。

 

 小五郎は続ける。

 

「理由は聞かない」

 

 その一言に、コナンは顔を上げた。

 

 予想外だった。

 

「誰にだって、他人には話せない事情くらいある」

 

「……」

 

「だが、それとこれとは別だ」

 

 小五郎の声は低く、それでいてどこか優しかった。

 

「相手が誰であれ、正体の分からないものを人に向けて使うな」

 

「もし薬じゃなく毒だったら」

 

「もし狙いが外れて別の誰かに当たっていたら」

 

「取り返しのつかない事になっていた」

 

 コナンは俯いたまま、小さく拳を握る。

 

 新一だった頃なら、こんな言葉を真正面から向けられることはなかった。

 

 探偵としてではなく、一人の子どもとして叱られている。

 

 それが胸に重く響いた。

 

 

 

 しばらく沈黙が続いた。

 

 夕日が二人の影を長く伸ばしている。

 

 やがて、コナンは小さく口を開いた。

 

「……ごめんなさい」

 

 その声には、言い訳も反発もなかった。

 

 心からの謝罪だった。

 

 小五郎は小さく頷く。

 

「反省してるなら、それでいい」

 

 そう言うと、コナンの頭へ軽く手を乗せた。

 

「子どもだから失敗することもある」

 

「だが、今日のことだけは忘れるな」

 

「命を守るために使うなら仕方ないが、誰かを傷つける道具にしちゃいけない」

 

 コナンはもう一度、小さく頷いた。

 

「……うん」

 

 小五郎はそれ以上何も言わなかった。

 

 再び歩き始める。

 

 その背中を見つめながら、コナンは胸の内で静かに誓う。

 

(もう……)

 

(この時計は簡単には使わない)

 

(本当に誰かを守るため、どうしても必要な時だけだ)

 

 阿笠博士から受け取ったばかりの時計型麻酔銃。

 

 その日を境に、コナンの中でその位置付けは大きく変わった。

 

 毛利探偵事務所へ戻ると、蘭が玄関まで迎えに来た。

 

「お帰りなさい」

 

「ああ」

 

「事件、解決したの?」

 

「ああ」

 

 小五郎は短く答え、靴を脱ぐ。

 

 蘭はほっとしたように笑った。

 

「じゃあ夕飯にしましょう」

 

「先に風呂だけ入ってくる」

 

「分かった」

 

 コナンは二人のやり取りを見つめる。

 

 現場で見せた鋭い表情とは違う。

 

 家に帰れば、一人の父親の顔になっていた。

 

 夕食を終え、蘭が食器を片付け終わる頃には、時計の針は午後十時を回っていた。

 

「コナン君、おやすみ」

 

「おやすみ、蘭姉ちゃん」

 

 コナンは自室へ向かう。

 

 部屋の扉を閉めると、今日一日の出来事が頭の中によみがえった。

 

 避けられた麻酔針。

 

 冷静な推理。

 

 静かな叱責。

 

(毛利のおじさん……)

 

(俺は、あの人のことを何も知らなかったんだな)

 

 布団へ入っても、すぐには眠れなかった。

 

 一方、小五郎はベランダへ出る。

 

 グラスへウイスキーを少しだけ注ぎ、ゆっくりと口に含む。

 

 事件を解決した日だけ、自分に許している一杯。

 

 夜風が心地よく頬を撫でる。

 

 ポケットから携帯電話を取り出し、慣れた手つきで電話をかけた。

 

「……俺だ」

 

 電話の向こうから、落ち着いた女性の声が聞こえる。

 

 小五郎の表情が、ほんの少しだけ柔らかくなった。

 

 

「今日の事件は片付いたよ」

 

 受話器の向こうで、小さく安堵したような息遣いが聞こえる。

 

『そう。お疲れさま。』

 

 優しく落ち着いた声。

 

 別居中の妻、妃英理だった。

 

「そっちは」

 

『今日も勝ったわ。依頼人も納得してくれた。』

 

「そうか」

 

 短い会話。

 

 それでも二人には、それで十分だった。

 

 沈黙が流れる。

 

 気まずさではない。

 

 互いの存在を確かめ合うような、穏やかな時間。

 

『蘭は?』

 

「もう寝る頃だ」

 

『無理させてない?』

 

「心配するな」

 

 小五郎はグラスを傾ける。

 

「元気にしてる」

 

『そう。』

 

 英理も小さく笑ったのが分かった。

 

『今週末は予定、空けてあるわ。』

 

「ああ」

 

『前に話してた店、予約しておいたから。』

 

「助かる」

 

『スーツ、新しいのを着てきてね。』

 

「……善処する」

 

 その一言に、英理は思わず吹き出した。

 

『"善処する"じゃなくて、着てきなさい。』

 

「分かったよ」

 

 照れ隠しのように答える。

 

 事件では一切動じない男が、妻の前では少しだけ調子を崩す。

 

『じゃあ、今日はゆっくり休んで。』

 

「ああ」

 

「今日もお疲れ様、英理」

 

『あなたも、お疲れ様。』

 

 通話が切れる。

 

 小五郎は携帯電話をしまうと、夜空を見上げた。

 

 グラスの中の氷が、小さく音を立てる。

 

 ふと、昼間に回収した細い針を取り出した。

 

 街灯の明かりに照らしながら静かに眺める。

 

(子どもの持つような物じゃない)

 

(だが、あいつの目は悪戯をした子どもの目じゃなかった)

 

 恐怖でもない。

 

 愉快犯でもない。

 

 何かを守ろうと必死になっている目だった。

 

 小五郎は針をハンカチで包み直し、引き出しの奥へしまう。

 

「事情があるなら……今は聞かん」

 

 小さく呟く。

 

「話したくなった時に話せばいい」

 

 その言葉を聞く者はいない。

 

 ベランダの窓越しに部屋を見ると、コナンの部屋の明かりはもう消えていた。

 

 小五郎は残ったウイスキーを飲み干す。

 

「おやすみ、コナン」

 

 その声は夜風に溶け、静かな米花町の夜へ消えていった。

 

                      ――File.1「眠らない名探偵」 完




この世界に眠りの小五郎は誕生しません。
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