午前八時二十分。
毛利探偵事務所には、穏やかな朝の空気が流れていた。
毛利小五郎はソファに腰掛け、新聞の社会面を静かに読んでいる。
事件記事に目を留めては、手帳へ短く書き込みを加える。その姿は、依頼のない朝でも仕事を止めない探偵そのものだった。
階段を下りてきた江戸川コナンは、その様子を横目で見る。
(真面目なんだな……)
まだこの家へ来て間もない。
毛利蘭の父親で、元刑事の私立探偵。
それ以上のことは知らない。
すると、電話が鳴った。
「毛利探偵事務所です」
受話器を取った小五郎の表情が引き締まる。
「……分かりました。すぐ向かいます」
電話を切ると、蘭が台所から顔を出した。
「事件?」
「ああ。警部からだ」
小五郎はコートを羽織り、手帳を胸ポケットへ入れる。
「コナン」
「え?」
「ついてくるのは構わないが、俺の傍を離れるな」
「う、うん」
蘭は玄関で二人を見送りながら微笑んだ。
「コナン君、お父さんの言うことをちゃんと聞くのよ」
「分かった!」
現場へ向かう道中、小五郎は事件について一切話さない。
頭の中で状況を整理しているのだろう。
コナンも余計なことは聞かなかった。
マンションへ着くと、既に規制線が張られていた。
「毛利さん!お疲れ様です!」
警察官が敬礼する。
コナンは少し驚く。
(このおじさん。警察から、こんなに信頼されてたのか)
三〇二号室では目暮警部が待っていた。
「来てくれたか、毛利君」
「警部、状況を」
挨拶より先に本題へ入る。
目暮も慣れた様子で説明を始めた。
「被害者は会社員。死亡推定時刻は昨夜九時から十一時。第一発見者は同僚だ」
説明を聞き終えると、小五郎は静かに現場へ足を踏み入れた。
「鑑識、そのグラスはまだ動かさないでください」
「はい」
「高木刑事、玄関からここまでの靴跡をもう一度撮影してくれ」
「分かりました」
「窓には誰も触れないように」
次々と飛ぶ指示に、警察官たちは迷いなく動き出す。
コナンはその光景を見つめていた。
(現場をまとめてる……)
小五郎は遺体の傍らにしゃがみ込み、周囲を一瞥する。
そして立ち上がると、関係者一人ひとりに短く質問を始めた。
無駄な質問は一つもない。
答えを聞くたびに、手帳へ短く書き込むだけだった。
その間、コナンも独自に現場を見て回る。
割れたグラス。
開いた窓。
ベランダの泥。
第一発見者の証言。
近隣住民の話。
断片だった情報が、頭の中で一つに繋がる。
(そうか……)
(犯人はあの人だ)
コナンは小五郎を見る。
小五郎はまだ関係者への聞き取りを続けていた。
(まだ決め手を探してるのかよ)
(だったら……)
コナンは腕時計へ視線を落とす。
阿笠博士から渡されたばかりの時計型麻酔銃。
まだ一度も使ったことはない。
(この姿じゃ、俺が犯人を指摘しても誰も信じない)
(眠ってもらうしかない)
コナンは息を潜め、照準を小五郎のうなじへ合わせる。
静かに、発射ボタンを押した――。
――シュッ。
空気を裂くような小さな音。
細い麻酔針は真っすぐ小五郎のうなじへ向かって飛んだ。
その瞬間だった。
「……!」
小五郎の体がわずかに動く。
振り返ったわけではない。
誰かに呼ばれたわけでもない。
ただ、長年刑事として危険な現場に身を置いてきた経験が、無意識に身体を反応させた。
半歩。
本当に半歩だけ身体がずれる。
麻酔針は小五郎の横を通り過ぎ、そのまま後方の壁へ突き刺さった。
「……え?」
コナンは息をのむ。
(避けた……?)
偶然か。
いや、偶然にしては出来過ぎている。
小五郎は一瞬だけ壁へ視線を向けた。
何かが刺さっていることには気付いた。
だが、それを確かめるより先に、部屋の中を見回す。
「警部」
「何だね、毛利君」
「全員、この部屋から動かさないでください」
静かな声だった。
しかし、その一言だけで室内の空気が変わる。
目暮警部はすぐに頷いた。
「分かった。誰も外へ出すな」
高木刑事たちが関係者の前へ回る。
コナンは呆然と小五郎を見つめていた。
(麻酔針に気付いたのか……?)
(いや、それより――)
小五郎はゆっくりと第一発見者へ歩み寄る。
「山崎さんが亡くなっているのを見つけた時、あなたは真っ先に警察へ通報しましたね」
「は、はい」
「部屋へ入った時、このグラスは割れていましたか」
「……え?」
「質問に答えてください」
「わ、割れていました」
小五郎は静かに頷く。
次に視線を別の男性へ向けた。
「あなたは昨夜、被害者と口論になった」
「……だから何です」
「理由は仕事上のトラブル」
「そうですが」
小五郎はそれ以上追及しない。
部屋を一周し、再び遺体の前で足を止めた。
数秒。
沈黙が流れる。
コナンは思わず拳を握る。
(何を確認してるんだ……)
(犯人がまだわからないのか)
その時、小五郎が小さく息をついた。
「警部」
「うむ」
「もう十分です」
その言葉に、室内の全員が小五郎へ視線を向けた。
コナンも思わず顔を上げる。
「犯人が分かりました」
その一言で、空気が張り詰めた。
コナンの瞳が大きく見開かれる。
(え……分かった?)
(違う……)
(この人は、さっきまで迷ってたんじゃない)
(最初から見えてたのか……?)
小五郎はゆっくりと一人の男へ歩き出し、その男の正面で足を止めた。
「犯人は、あなたです」
部屋の空気が凍りつく。
名指しされた男は一瞬だけ目を見開いたが、すぐに鼻で笑った。
「証拠もないのに、ずいぶんな決めつけですね」
「決めつけではありません」
小五郎の口調は終始穏やかだった。
「私は現場へ来てから、皆さんに同じ質問をしました」
男は黙っている。
「ところが、あなたは一つだけ答える必要のないことまで答えた」
「……何の話です」
「被害者と最後に口論した理由です」
男の眉がわずかに動く。
「私は『口論になった』とは聞きましたが、『内容』は一度も尋ねていません」
男は何も言い返せない。
「あなたは『仕事上のトラブル』と自分から口にした」
静かな声が部屋に響く。
「心当たりがある人間ほど、自分を正当化しようと余計な説明を加える」
目暮警部が腕を組む。
「なるほど……」
小五郎は続けた。
「もちろん、それだけで犯人とは言いません」
「現場の状況、証言、あなたの行動。それらを合わせて考えれば、一つの結論しか残らない」
男の額に汗が浮かぶ。
「昨夜、あなたは被害者に会いに来た」
「口論となり、感情的になって突き飛ばした」
「その結果、被害者はテーブルの角へ頭を強く打ち付けた」
男は俯いたまま動かない。
「あなたは事故だと思いたかった」
「だから窓を開け、第三者が侵入したように見せかけようとした」
「しかし、部屋を荒らす余裕まではなかった」
沈黙。
長い沈黙だった。
コナンは思わず息をのむ。
(全部……繋がってる)
(俺が見つけた証拠だけじゃない)
(聞き込みで得た情報も、証言の癖も、人の心理も全部合わせて犯人を見抜いてる……)
男の肩が小刻みに震え始める。
「……違う」
かすれた声だった。
「殺すつもりじゃなかった」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分かっていないようだった。
小五郎は責めることなく静かに答える。
「その言葉は、ご遺族の前で話してください」
「あなたが犯したことは変わりません」
男は両膝から崩れ落ち、顔を覆った。
「……すみませんでした」
高木刑事が静かに近付き、男へ手錠を掛ける。
目暮警部は深く息を吐いた。
「毛利君、今回も助かった」
「いえ」
小五郎は短く答えると、壁へ視線を向けた。
誰も気付いていない。
壁には、細い針が一本だけ刺さったままだった。
小五郎は何事もなかったように視線を外す。
(あの針……)
(現場が終わってからでいい)
(まずは事件を終わらせる)
その横顔を、コナンは複雑な表情で見つめていた。
(俺は……)
(完全に思い違いをしていた)
(毛利のおじさんは、自力でここまで辿り着いてたんだ)
子どもになってから初めて担当した事件。
そして初めて目の当たりにした、毛利小五郎という探偵の実力だった。
現場検証が終わる頃には、外はすっかり夕暮れになっていた。
鑑識員が機材を片付け、関係者もそれぞれ事情聴取のため現場を離れていく。
「毛利君」
目暮警部が近づいてきた。
「今回も本当に助かった」
「警察の皆さんの聞き込みが早かったおかげです」
小五郎は手柄を誇ることなく答える。
目暮は苦笑した。
「君は昔からそうだ」
「自分の手柄にしたがらん」
「事実を言っただけです」
短いやり取りを終えると、小五郎はリビングの壁へ歩み寄った。
誰にも気付かれないよう、壁に刺さった細い針を指先で抜き取る。
見たこともないほど細い金属製の針。
先端には、ごくわずかに液体が残っていた。
(麻酔か……?)
元刑事としての経験が、そう告げていた。
しかし断定はしない。
静かにハンカチへ包み、ポケットへしまう。
その一部始終をコナンは遠くから見ていた。
(気付いてた……)
(やっぱり、あの針にも)
小五郎は何も言わず、コナンの横を通り過ぎる。
「帰るぞ」
「……う、うん」
二人はマンションを後にした。
夕焼けに染まる帰り道。
しばらく無言の時間が続く。
コナンは何度も小五郎の横顔を見上げた。
何か言われるだろうか。
針のことを聞かれるだろうか。
胸の鼓動が少し速くなる。
やがて、小五郎が足を止めた。
「コナン」
「えっ?」
静かな声だった。
「少し話がある」
その言葉に、コナンの身体がこわばる。
小五郎は怒鳴るでもなく、責めるような目を向けるでもない。
ただ、真っ直ぐコナンを見つめていた。
「今日、俺に向かって何か撃ったな」
コナンの呼吸が止まる。
言い逃れはできない。
あの場で避けられ、針まで回収されている。
頭の中で必死に言葉を探すが、一つも見つからなかった。
小五郎は続ける。
「理由は聞かない」
その一言に、コナンは顔を上げた。
予想外だった。
「誰にだって、他人には話せない事情くらいある」
「……」
「だが、それとこれとは別だ」
小五郎の声は低く、それでいてどこか優しかった。
「相手が誰であれ、正体の分からないものを人に向けて使うな」
「もし薬じゃなく毒だったら」
「もし狙いが外れて別の誰かに当たっていたら」
「取り返しのつかない事になっていた」
コナンは俯いたまま、小さく拳を握る。
新一だった頃なら、こんな言葉を真正面から向けられることはなかった。
探偵としてではなく、一人の子どもとして叱られている。
それが胸に重く響いた。
しばらく沈黙が続いた。
夕日が二人の影を長く伸ばしている。
やがて、コナンは小さく口を開いた。
「……ごめんなさい」
その声には、言い訳も反発もなかった。
心からの謝罪だった。
小五郎は小さく頷く。
「反省してるなら、それでいい」
そう言うと、コナンの頭へ軽く手を乗せた。
「子どもだから失敗することもある」
「だが、今日のことだけは忘れるな」
「命を守るために使うなら仕方ないが、誰かを傷つける道具にしちゃいけない」
コナンはもう一度、小さく頷いた。
「……うん」
小五郎はそれ以上何も言わなかった。
再び歩き始める。
その背中を見つめながら、コナンは胸の内で静かに誓う。
(もう……)
(この時計は簡単には使わない)
(本当に誰かを守るため、どうしても必要な時だけだ)
阿笠博士から受け取ったばかりの時計型麻酔銃。
その日を境に、コナンの中でその位置付けは大きく変わった。
毛利探偵事務所へ戻ると、蘭が玄関まで迎えに来た。
「お帰りなさい」
「ああ」
「事件、解決したの?」
「ああ」
小五郎は短く答え、靴を脱ぐ。
蘭はほっとしたように笑った。
「じゃあ夕飯にしましょう」
「先に風呂だけ入ってくる」
「分かった」
コナンは二人のやり取りを見つめる。
現場で見せた鋭い表情とは違う。
家に帰れば、一人の父親の顔になっていた。
夕食を終え、蘭が食器を片付け終わる頃には、時計の針は午後十時を回っていた。
「コナン君、おやすみ」
「おやすみ、蘭姉ちゃん」
コナンは自室へ向かう。
部屋の扉を閉めると、今日一日の出来事が頭の中によみがえった。
避けられた麻酔針。
冷静な推理。
静かな叱責。
(毛利のおじさん……)
(俺は、あの人のことを何も知らなかったんだな)
布団へ入っても、すぐには眠れなかった。
一方、小五郎はベランダへ出る。
グラスへウイスキーを少しだけ注ぎ、ゆっくりと口に含む。
事件を解決した日だけ、自分に許している一杯。
夜風が心地よく頬を撫でる。
ポケットから携帯電話を取り出し、慣れた手つきで電話をかけた。
「……俺だ」
電話の向こうから、落ち着いた女性の声が聞こえる。
小五郎の表情が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
「今日の事件は片付いたよ」
受話器の向こうで、小さく安堵したような息遣いが聞こえる。
『そう。お疲れさま。』
優しく落ち着いた声。
別居中の妻、妃英理だった。
「そっちは」
『今日も勝ったわ。依頼人も納得してくれた。』
「そうか」
短い会話。
それでも二人には、それで十分だった。
沈黙が流れる。
気まずさではない。
互いの存在を確かめ合うような、穏やかな時間。
『蘭は?』
「もう寝る頃だ」
『無理させてない?』
「心配するな」
小五郎はグラスを傾ける。
「元気にしてる」
『そう。』
英理も小さく笑ったのが分かった。
『今週末は予定、空けてあるわ。』
「ああ」
『前に話してた店、予約しておいたから。』
「助かる」
『スーツ、新しいのを着てきてね。』
「……善処する」
その一言に、英理は思わず吹き出した。
『"善処する"じゃなくて、着てきなさい。』
「分かったよ」
照れ隠しのように答える。
事件では一切動じない男が、妻の前では少しだけ調子を崩す。
『じゃあ、今日はゆっくり休んで。』
「ああ」
「今日もお疲れ様、英理」
『あなたも、お疲れ様。』
通話が切れる。
小五郎は携帯電話をしまうと、夜空を見上げた。
グラスの中の氷が、小さく音を立てる。
ふと、昼間に回収した細い針を取り出した。
街灯の明かりに照らしながら静かに眺める。
(子どもの持つような物じゃない)
(だが、あいつの目は悪戯をした子どもの目じゃなかった)
恐怖でもない。
愉快犯でもない。
何かを守ろうと必死になっている目だった。
小五郎は針をハンカチで包み直し、引き出しの奥へしまう。
「事情があるなら……今は聞かん」
小さく呟く。
「話したくなった時に話せばいい」
その言葉を聞く者はいない。
ベランダの窓越しに部屋を見ると、コナンの部屋の明かりはもう消えていた。
小五郎は残ったウイスキーを飲み干す。
「おやすみ、コナン」
その声は夜風に溶け、静かな米花町の夜へ消えていった。
――File.1「眠らない名探偵」 完
この世界に眠りの小五郎は誕生しません。