昼下がり。
帝丹小学校の授業を終えたコナンは、毛利探偵事務所へ向かって歩いていた。
ランドセルを背負った子供たちが、それぞれの帰り道へ散っていく。
「あ、おじさん」
前方を歩く背中に気付き、コナンが声を掛けた。
振り返ったのは小五郎だった。
「おう、コナン。帰りか」
「うん」
「おじさんは?」
「依頼人との話が終わってな」
「今、事務所へ戻るところだ」
「じゃあ、一緒に帰ろう」
「ああ」
二人は並んで米花商店街へ入った。
夕食の買い物をする主婦。
学校帰りの学生。
威勢よく客を呼び込む八百屋。
どこにでもある、平和な午後だった。
「新しいパン屋さん、すごい人気だね」
コナンが店先を見上げる。
焼きたてのパンを求め、十数人が列を作っていた。
「テレビで紹介されたらしい」
小五郎は人通りを眺めながら言う。
「人が集まる場所は活気がある」
「その分、何か起きた時は混乱も大きい」
コナンは苦笑した。
「おじさんは仕事柄、そういう見方になるんだね」
その時だった。
――パンッ。
乾いた破裂音が商店街に響き渡る。
一瞬の静寂。
続いて悲鳴が上がった。
「きゃあっ!」
「誰か人が倒れたぞ!」
人々が一斉に音のした方へ視線を向ける。
小五郎は迷わず駆け出した。
「コナン!」
「俺から離れるな!」
「うん!」
二人は人垣をかき分け、現場へ向かう。
路上では、一人の男性が胸を押さえ、苦しそうに倒れていた。
「救急車!」
「誰か救急車を呼んで!」
小五郎は男性のそばへ膝をつく。
「聞こえますか。大丈夫ですか」
男性は薄く目を開け、小さく頷いた。
小五郎は素早く全身を確認する。
出血はない。
衣服に弾痕も見当たらない。
首筋へ指を当てる。
脈はある。
「意識あり。脈も安定してる」
「無理に動かさないでください」
周囲へ落ち着いた声で指示を飛ばす。
「どなたか救急車は」
「もう呼びました!」
「ありがとうございます」
小五郎は自分の上着を丸め、男性の頭の下へ差し入れた。
「もうすぐ救急隊が来ます」
「安心してください」
男性は苦しそうに息を繰り返すだけだった。
容体が急変していないことを確認すると、小五郎はゆっくり立ち上がる。
「皆さん」
「救急隊が来ますので、この周囲を空けてください」
落ち着いた声に、人々は自然と後ろへ下がっていく。
コナンは現場を見回した。
(銃声みたいだった……)
(でも、火薬の匂いはしない)
地面にも薬きょうは落ちていない。
男性の服にも銃で撃たれた跡は見当たらなかった。
(おそらく、凶器は銃ではない)
(じゃあ、あの音は何だったんだ……?)
コナンは早くも一つ目の違和感を覚えていた。
一方、小五郎も静かに現場全体を見渡していた。
倒れた男性の足元には、誰が落としたものか、買い物袋が転がっている。
袋から転がり出た一つのリンゴが、歩道の端で止まっていた。
小五郎は何も言わない。
ただ、そのリンゴと周囲の状況を静かに見つめていた。
遠くから、パトカーと救急車のサイレンが近付いてきた。
ほどなくして、救急車とパトカーが商店街へ到着した。
救急隊員が男性のもとへ駆け寄る。
「交代します」
小五郎はすぐに場所を譲って、迅速に情報を引き継ぐ。
「意識あり。脈は安定しています」
「外傷は確認できませんでした」
「ありがとうございます」
救急隊員は男性の状態を確認し、担架へ乗せる。
その様子を見届けると、目暮警部が近付いてきた。
「毛利君」
「警部」
二人は短く言葉を交わす。
「状況は?」
「破裂音の直後、この男性が倒れました」
「ですが、発砲の痕跡はどこにもありません」
「銃創も薬きょうも見当たりません」
目暮警部は眉をひそめた。
「ふむ、妙だな……」
「ええ」
「まだ事件か事故かも判断できません」
その時、高木刑事が駆け寄ってきた。
「警部」
「現場にいた方々へ聞き込みを始めます」
「頼む」
「毛利君も気になることがあれば自由に動いてくれ」
「分かりました」
小五郎は頷き、人だかりへ目を向けた。
一方、コナンは周囲を見回していた。
(みんな倒れた人を見てる)
(でも、一人だけ違う人がいる)
視線の先。
パン屋の入口付近に立つ男がいた。
男は倒れた男性ではなく、パン屋の床を気にするように何度も視線を落としている。
(なんで床を……?)
コナンは男を見つめる。
男は店員に何か一言だけ話すと、そのまま人混みに紛れて歩き去っていった。
(気になる)
コナンが男の後を追おうと一歩踏み出した、その時だった。
「コナン」
小五郎の声が後ろから飛ぶ。
「勝手に動き回るな」
「あ、ごめんなさい」
コナンは素直に戻る。
小五郎はコナンの表情を見て尋ねた。
「何か見つけたのか?」
コナンは男がいた方を指差す。
「さっきの人」
「みんな外を見てたのに、一人だけパン屋の床ばかり見てたんだ」
小五郎はその方向へ静かに視線を向けた。
「なるほど」
それ以上は何も言わず、ゆっくりとパン屋へ足を向けた。
パン屋の店内では、客がほとんど帰り、店員たちが落ち着きを取り戻そうとしていた。
小五郎は店員へ名刺を差し出す。
「毛利探偵事務所の毛利です」
「少し、お話を伺ってもよろしいですか」
「はい」
若い女性店員が緊張した面持ちで頷く。
「先ほど、店へ入ってきた男性ですが」
「お知り合いですか」
「いいえ」
「初めて見る方でした」
「男性は何か買われましたか」
「それもありません」
「店へ入ってくるなり、『入口は汚れていませんか』って聞かれたんです」
コナンは思わず顔を上げる。
(やっぱり床を気にしてた)
小五郎は表情を変えずに尋ねる。
「汚れとは?」
「黒っぽいものが落ちていないか、何度も入口を見ていました」
「正直、私は何のことか分からなくて……」
「そうですか」
小五郎は礼を言うと、入口へ歩み寄る。
しゃがみ込み、床へ視線を落とした。
入口近くの床には小さな黒い汚れが付着していた。
コナンも気付いていた。
(これだ)
(でも、何の汚れだろう)
小五郎は手を伸ばしかけたが、途中で止めた。
「警部」
目暮警部が店へ入ってきて応じる。
「毛利君」
「何か見つけたかね」
「鑑識をお願いします」
「この汚れ、事件と関係がある可能性があります」
目暮警部はすぐに無線を飛ばす。
「鑑識をパン屋へ回してくれ」
「入口付近の汚れを採取する」
「了解しました」
コナンはそのやり取りを見つめる。
(おじさんも気付いてたのか)
(でも、自分では触らない)
(証拠を残すためか……)
小五郎は静かに立ち上がる。
「警部」
「もう一つ、お願いがあります」
「何だね」
「現場にいた方たちへ、もう一度だけ確認してください」
「破裂音そのものではなく、その直前に不自然な動きをしていた人物がいなかったか」
目暮警部は頷いた。
「分かった」
「高木君、聞き込みをやり直そう」
「はい!」
高木刑事は再び目撃者たちのもとへ走っていく。
コナンは小五郎の隣に立ち、小さく考え込んだ。
(犯人は、もう見えてる)
(でも、おじさんはまだ決めつけない)
(最後の証拠が揃うまで動かないんだ)
しばらくして、高木刑事が足早に戻ってきた。
「警部」
「聞き込みで新しい証言が取れました」
目暮警部が振り返る。
「話してくれ」
「破裂音がする一分ほど前、倒れた男性と帽子を被った男がパン屋の前で話をしていたそうです」
「口論というほどではありませんが、何か言い争っているように見えたと」
小五郎は静かに尋ねる。
「会話の内容は」
「人通りが多く、そこまでは聞こえなかったそうです」
「ただ、一人の目撃者が『黒い小さなケースのような物が見えた』と証言しています」
コナンは心の中で整理する。
(ケース……)
(それが事件の鍵なのか)
高木刑事は続けた。
「帽子の男がケースへ手を伸ばしたように見え、その直後、二人が揉み合いになったそうです」
「そして、破裂音が聞こえたと」
目暮警部は腕を組む。
「ケースを取り合っていたのか」
「その可能性があります」
小五郎はすぐには断定しなかった。
「まだ分かりません」
「ですが、少なくとも偶然会った二人ではないでしょう」
「何らかの目的があって待ち合わせていたようです」
その時、一人の女性が手を挙げた。
「あの……もう一つ思い出したことがあります」
高木刑事が振り向く。
「何でしょう」
「揉み合った時、黒いケースが地面へ落ちたように見えました」
「でも、すぐに人が集まってしまって……」
「その後どうなったかまでは分かりません」
コナンは目を見開く。
(ケースを落とした……)
(だから、あの男は事件の後に現場へ戻って探してたのか)
小五郎は静かに頷いた。
「ありがとうございます」
「貴重な証言です」
目撃者が離れると、小五郎は目暮警部へ向き直った。
「警部」
「このケースが事件の鍵になりそうです」
「まずは、その行方を追いましょう」
目暮警部は頷いた。
「高木君」
「ケースを中心に現場をもう一度調べてくれ」
「はい」
高木刑事は鑑識員とともに捜索を始めた。
一方、小五郎は静かに現場を見渡していた。
パン屋の入口。
被害者が倒れていた場所。
その間を何度も視線で往復する。
コナンも同じように現場を眺める。
(犯人も見つけられなかったみたいだけど……)
(ケースはどこへ行ったんだ)
その時、高木刑事の携帯電話が鳴った。
「はい、高木です」
短いやり取りを終え、目暮警部へ向き直る。
「警部」
「病院からです」
「被害者の身元が判明しました」
「名前は田中 恒一、三十八歳」
「電子部品メーカー勤務です」
目暮警部が尋ねる。
「意識は?」
「まだ戻っていません」
小五郎は静かに口を開いた。
「警部」
「田中さんの勤務先へ向かいましょう」
「今日、なぜこの商店街へ来たのか」
「もしかしたら、知っている人がいるかもしれません」
目暮警部はすぐに頷く。
「よし」
「高木君、勤務先へ向かうぞ」
「はい」
警察官たちが慌ただしく動き始める。
コナンは小五郎の隣を歩きながら考え込む。
(ケース)
(事件の後に現場へ戻った男)
(全部つながってる気がする)
(でも、まだ何が入っていたのか分からない……)
小五郎は何も言わず、前だけを見て歩いていた。
――File.2 商店街の銃声(後編)へ続く