貞操逆転世界で勃起を隠しながら英雄やってます 作:あけ帆
矢が飛んでくるより、女に密着する方が怖い。なぜなら、俺の相棒は正直だからだ。遺跡の罠で矢の一本くらい刺さっても、治癒魔法でどうにかなる。でも、密着して相棒が反応したら——それは治癒魔法じゃ治らない。社会的な死は、回復不能なのだ。
俺は今、その真理を身をもって証明しようとしていた。
「タクト、お前は中央だ」
グレイスがそう言った瞬間、俺の寿命がまた縮まった。
遺跡の入り口は、町の外れの丘にぽっかり開いた黒い穴だった。高さ二メートル、幅は人一人がやっと通れるくらい。松明片手にグレイスが先頭に立つ。鎧の胸元は今日も景気よく開いている。
「内部は狭い。気をつけろ」
やっぱりか。
狭い通路。女性三人。男一人。中央に配置される男一人。
これは嫌な予感しかしない。予感というか、もはや確定情報だ。
「隠密役はパーティの中央で守られるものだ」
守られる。
その言葉が、今日も俺の寿命を静かに削っていく。中央ってことは、前からも後ろからも挟まれるってことだ。体温も、気配も、たぶんそれ以外のものも、全方位から迫ってくる。そして俺の相棒は、そういう時に限って正直に反応する。
「ほらほら、怖がらないの」
背中をどんと叩かれた。骨が軋んだ。
振り返ると、百九十五センチの女がにかりと笑っていた。褐色の肌。短い金髪。傷だらけの鎧。背中には自分の身長より長い大斧。
ジャンヌ・ブレイズ。今朝会ったばかりの重戦士だ。
「男の子がびびる気持ちもわかるけどな。大丈夫、あたしが守ってやる」
「べ、別にびびってません」
「強がるなって。可愛いなあお前」
わしわしと頭を撫でられる。そのたびに彼女の胸元が視界の端で揺れる。俺は必死に視線を天井に固定した。
この人も距離感がバグっている。撫でるたびに胸が揺れるのを自覚していないのか。いや、この世界ではそれが普通なんだ。男が反応しなければ、何の問題もない。でも——俺は違う。
「ジャンヌ、あんまりタクトをいじめるな」
「いじめてねえよ。可愛がってるんだ」
「彼はデリケートなんだ」
デリケート。その言葉はたぶん俺の「持病」を指している。違う。デリケートなのは俺の相棒であって俺自身ではない。でも否定できない自分がいる。今朝、俺は宿を出る前に三十分かけて精神統一をした。冷たい水で顔を洗い、深呼吸を繰り返し、相棒に向かって「頼むから今日は静かにしていてくれ。お前が顔を出すたびに、俺の寿命が縮む」と五回唱えた。
今のところ、なんとか静かだ。朝の説得が効いたらしい。
「準備はいいか」
「俺はいつでも」「私もです」「ああ」
ジャンヌ、リリィ、そして——
「ちょっと待って、記録中だから」
ミリアが眼鏡をくいっと押し上げながら、ノートに何かを書きつけている。
「タクトさんの出発前ベースライン、心拍数七十二、体温三十六度五。発汗量通常。よし記録完了。これで遺跡内の変動が正確に測れる」
「やめてくださいその計測」
「やめないよ。今日のクエストの目的の一つだから」
「クエストの目的は遺跡調査でしょうが!」
「私の個人的クエストも並行して走ってるの」
悪びれずに言い切った。この女、研究者の仮面をかぶったストーカーだ。
「そ、それでは私も……」
か細い声。最後尾に立っていたリリィ・ホワイトムーンが、おずおずと手を挙げた。金髪ショート、白い法衣、百五十五センチの小柄な体。今朝初めて会った、このパーティで唯一おとなしい人だった。
「リリィは回復術師だ。何かあれば彼女が治す」
「よ、よろしくお願いします、タクトさん。私、男性と冒険するの初めてで……その……」
リリィは顔を真っ赤にして、最後まで言えずに俯いた。
たぶん俺のことを「守るべき対象」として見ているんだろう。この世界の常識では、男はか弱い存在で、彼女たちが守るものだ。
「こちらこそよろしくお願いします」
軽く頭を下げると、リリィはさらに耳まで赤くして「は、はい……!」と蚊の鳴くような声を出した。
「よし、行くぞ」
俺たちは遺跡の中へ足を踏み入れた。
◆◆◆
遺跡の中は、思った以上に狭かった。
高さ二メートル、幅一メートルもない通路が続く。壁は湿った石。かび臭い空気。松明の明かりだけが頼りだ。
隊列は先頭グレイス、俺、ミリア、リリィ、最後尾ジャンヌ。
中央は俺だ。前にグレイス。後ろにミリア。右は壁。左も壁。逃げ場がどこにもない。相棒が騒いでも、逃げ込むスペースすらない。
「タクト、大丈夫か」
グレイスが振り返らずに声をかけてくる。
「だ、大丈夫です」
「息が荒いぞ」
「気のせいです」
気のせいじゃない。だって今、グレイスの背中が俺の眼前三十センチにある。松明の灯りに揺れる白銀の鎧。鍛え抜かれた肩甲骨の動き。細いくびれ。そして時折彼女が体をひねるたびに、鎧の横から見える——見える——。
俺は必死に天井を見上げた。
ダメだ。見てはいけない。見たら反応する。反応したらミリアの眼鏡が即座に検知する。そして「タクトさん、今、心拍数と体温が同時に上がりましたね。これは恐怖ではなく別の反応ですね」と、あの無邪気な声で核心を突いてくる。目に浮かぶようだ。
「タクトさん、今、心拍数が上がりましたね」
後ろからミリアの声。ほら来た。
「気のせいです」
「気のせいじゃないです。さっきから五分おきに上がってる。それも、グレイスさんが動くたびに」
「計るなと言ってるでしょうが!」
「計るのが仕事なので」
ミリアはこともなげに言った。
「ていうかタクトさんって面白いですね。グレイスさんが動くたびに心拍数が跳ねる。でもジャンヌさんが話しかけたときはそこまででもない。リリィさんが近づいてもほぼ変化なし」
俺の背中を冷や汗が伝った。
「……なにが言いたいんですか」
「別に。ただ、なんとなくタクトさんには特定のタイプの女性にだけ正直に反応する傾向があるのかなって」
正直に。その言葉が妙に強調されて聞こえたのは気のせいだろうか。
「ミリア、あまりからかうな」
グレイスが助け船を出した。
「からかってないよ。ただの興味」
「彼はデリケートなんだ」
「……そうです。デリケートなんです、俺。いろいろと」
「ほら」
グレイスがドヤ顔でミリアを見た。何にドヤっているのかは謎だ。
「ふうん。まあいいや。でも遺跡の中はこれからもっと狭くなるよ」
ミリアがにこりと笑う。
「タクトさん、耐えられる? いろんな意味で」
「……耐えますよ。耐えてみせます」
俺は歯を食いしばった。
絶対にバレない。絶対に守り抜く。
これが俺の戦いだ。相棒をなだめ、心拍数をごまかし、ミリアの魔道具の目をかいくぐる。まるでスパイだ。股間スパイ。
◆◆◆
十五分ほど歩いたところで、前方に広い空間が現れた。
高さ十メートルほどの石造りのホール。壁面には無数の彫刻。中央には祭壇のような台座。
「着いたな。第一区画だ」
各々調査を始める。グレイスは壁の文字を。ミリアは祭壇の構造を。ジャンヌは出入り口の確認を。リリィは松明の追加で。
俺はとりあえず床を見ていた。
「タクト、こっち手伝ってくれ」
呼ばれて近づく。壁には古代文字がびっしり刻まれている。読めない。当然だ。ついさっきまで俺は日本のプログラマだった。
「読めるか」
「読めません」
「そうか」
グレイスは少し考えてから、俺の手を取った。突然のことに心臓が跳ねる。
「な、なにを」
「文字に触れてみろ。お前の隠密スキルが何か反応するかもしれない」
「そんな適当な」
でも彼女の手は強く、俺の手を壁に押し当てた。
その瞬間だった。
壁の文字が、ぼんやりと光り始めた。
「な——」
「やはりか。お前には何かある」
違う。違うんです。俺が驚いて心臓が跳ねて、そのせいで相棒が「なんだなんだ、なんか面白いことあったか」と顔を出しかけて、それを必死に抑え込もうとしたら隠密スキルが勝手に発動して、その結果、壁の文字が光っただけだ。
俺の羞恥心と相棒のコンビネーションが、またしても偶然を引き起こした。
「これは古代の加護文字だ。選ばれた者にしか反応しないと言われている」
ミリアが眼鏡を輝かせながら近づいてくる。
「タクトさん、やっぱりあなた、普通じゃない」
「普通です。めちゃくちゃ普通です。普通に生きたいだけです」
「普通の人間が古代文字を光らせるわけないでしょ」
それは俺の相棒が犯人ですとは言えない。あいつはただ、グレイスに手を握られて嬉しくなっただけだ。俺の意思とは無関係に。
「タクト」
グレイスが俺の肩に手を置いた。
「お前はやはり、預言の英雄なのかもしれない」
「ちがいます」
「謙遜するな。さっきの光は、お前が選ばれた者である証拠だ」
「ただの偶然です」
「偶然であんなことが起きるものか」
起きるんです。俺の相棒が関与すると、だいたいなんでも起きる。あいつはそういうやつだ。
でも言えるわけがない。
◆◆◆
さらに奥へ進む。通路はますます狭くなり、天井も低くなった。ほとんど這うようにして進む区間もあった。
「この先に、古代の預言が記された石碑があるらしい」
「預言……」
「ああ。『世界を覆す者、来たれり』という予言だ」
俺の背筋に冷たいものが走る。
預言。英雄。選ばれた者。全部、俺のことじゃない。俺はただ相棒を隠しているだけの男だ。でも周囲はそう見てくれない。
「着いたぞ」
高さ二十メートル、壁面には無数の壁画。中央には高さ五メートルの巨大な石碑がそびえている。
「世界を覆す者、来たれり」
ミリアが石碑の文字を読み上げた。
「男の恥を知り、男の誇りを取り戻す者。その者、いつか呪いを解くだろう——って書いてある」
「男の恥を知り……?」
ジャンヌが首をかしげた。
「どういう意味だそれ。男の恥ってなんだ」
俺の心臓が、かつてない速度で鼓動を始めた。相棒もびっくりしているのがわかる。やめろ。それ以上考えるな。
「うーん、わかんない。でも深い意味がありそう」
頼むから深掘りしないでくれ。掘れば掘るほど、俺の相棒にたどり着く。
「タクトさん、心拍数、また上がってますね」
「なんにもありません」
「ふうん」
ミリアはそれ以上追及せず、石碑の文字を書き写し始めた。俺は密かに安堵の息を吐いた。
——「男の恥を知る者」か。たぶん、俺のことだ。
二十八年間、女の子を見てはドキドキし、それでも必死に隠して生きてきた。この世界に来てからも、毎日が恥との戦いだ。相棒は毎日のように空気を読まずに騒ぎ、俺はそれをなだめ、隠し、ごまかす。そんな俺が世界を覆す者。冗談じゃない。俺はただ、普通に生きたいだけなのに。
◆◆◆
石碑の調査を終え、俺たちはさらに奥へ進んだ。
通路は下り坂になり、空気が冷たくなっていく。壁一面に、古代の人々の生活を描いた壁画が続いていた。狩りをする女たち。機を織る男たち。
「なあ、これ」
ジャンヌが壁画の一部を指さした。
「男が、堂々と歩いてるぞ。しかも肌を晒して」
全員がその壁画に見入る。胸元の開いた鎧で剣を掲げる女の隣に、短い腰布だけで上半身裸の男が立っている。誰も恥じらわず、誰も隠さず、ただ自然に並んでいる。
「信じられない」
リリィが顔を覆った。
「男性が、あんな格好で……恥ずかしくないのかしら」
恥ずかしくない。むしろこれが俺の知ってる「普通」だ。
じんわりと、目の奥が熱くなった。
——って、待て。待て待て待て。今、俺は泣こうとしている。この壁画を見て、懐かしさで泣こうとしている。でも——泣いたら、それを説明しなければならない。「なぜ泣いたのか」と聞かれて、「この世界が逆転する前の、俺の知ってる普通の世界が懐かしくて」なんて言ったら、転生者であることがバレる。
俺は慌てて自分の頬を叩いた。両手で、思い切り。ばちん、といい音がした。
「タクト!? 何をしている!?」
グレイスが目を丸くする。
「な、なんでもないです。ちょっと眠気覚ましです」
「涙目になってるが」
「あくびです。生理現象です」
「あくびで頬を叩くのか」
「俺の故郷の風習です」
「変わった故郷だな」
異世界転生者、故郷の風習理論、これで二勝目。便利すぎる言い訳を発見してしまった。
「タクトさん、今の行動、心拍数と一緒に涙腺の反応も記録しておきますね」
「涙腺まで見えるんですかその眼鏡!?」
「見えるよ。高い魔道具だから」
「高い金かけてなんの研究してるんですかあなたは!」
「男性生理反応学」
「そんな学問聞いたことない!」
「私が作った」
「作らないでください新しい学問を!」
ジャンヌが腹を抱えて笑い出した。
「タクトとミリア、漫才みてえだな!」
「笑い事じゃないんですよジャンヌさん!」
グレイスだけが真面目な顔で顎に手を当てていた。
「タクト。故郷の風習で涙を堪える、か。お前は本当に、いろいろなものを抱えているんだな」
見当違いの感心をされて、俺は何も言えなくなった。相棒はこっそり静かになっていた。
「行こう。最奥まであと少しだ」
グレイスが歩き出す。俺たちも後に続いた。
◆◆◆
最奥の部屋は、意外なほど小さかった。十畳ほどの石造りの空間。中央の台座に、小さな箱が置かれている。
「これが遺跡の宝物か」
ジャンヌが箱に手を伸ばす。
「待て、罠かもしれない」
グレイスが制した。そのときだった。
「——ッ!」
リリィが短く息を呑む。同時に、部屋の四方の壁が動いた。轟音。無数の穴が開き、そこから矢が飛び出す。
「罠だ! 伏せろ!」
グレイスの叫び。矢が雨のように降り注ぐ。
俺はとっさに床に伏せようとした——が、その瞬間、決定的なことに気づいた。
伏せたら、俺の右にジャンヌ、左にリリィが同時に伏せてくる。狭い部屋の中で、四人が一斉にしゃがめば、必然的に体が触れ合う。誰かの肩が、腕が、太腿が、俺のすぐそばに来る。それも、避けようのない距離で。
そして今、俺の相棒は、さっきの壁画の涙のせいでまだ完全には静まっていない。中途半端に起きていて、あとはちょっとした刺激で本格的に反応する準備ができている。ここで密着したら——終わる。
伏せるより先に、密着で終わる。矢で死ぬより、恥で死ぬ方が怖い。
俺は動きを止めた。伏せるのをやめた。
代わりに、背筋を伸ばしたまま、両腕を大きく広げた。まるで盾になるみたいに。実際は、誰にも触れられない位置を死守しているだけだった。半径五十センチの絶対防御圏。俺と相棒のための。
「タクト! 伏せろ!」
動けなかった。動くわけにはいかなかった。
矢が、俺の体をかすめて飛んでいく。頬をかする。ローブの裾を貫く。心臓が縮み上がる。痛い。怖い。でも、密着の方がもっと怖い。矢は治癒魔法で治る。でも、勃起がバレたら——それは治らない。一生だ。社会的な死は、回復魔法でも蘇生魔法でもどうにもならない。
数秒後、矢の雨は止んだ。
「タクト……!?」
グレイスが駆け寄ってくる。顔が蒼白だった。
「なぜ伏せなかった! 死ぬつもりか!」
「ち、ちがいます。伏せたら、その——」
言えない。密着して、相棒が正直に反応するのが怖かったからですとは。
「とにかく、無事でよかった……」
グレイスがほっと息を吐く。
「すごいな。矢を全部避けたのか」
ジャンヌが感心したように言った。
「いや、避けては……」
「避けてたよ。完璧に」
ミリアが眼鏡を押し上げる。
「タクトさん、今の動き、すごかったです。最小限の動きで全ての矢の軌道を読んで回避してた。まるで舞いみたいに」
「そんなつもりは……」
「しかも、私たちの前に立って、矢から守ろうとした」
違う。違う違う違う。俺はただ、誰にも触れられない位置に立ち続けただけだ。俺の相棒を守るために。自分の恥を守るために。
「タクト……」
グレイスが何か言いたげに俺を見つめる。その碧眼が、今までにない光を帯びている。
「お前は——」
「ちがいますからね! なんでもありませんからね!」
「矢が怖いのに、伏せなかったのか」
「ちが、そういう意味じゃなくて——」
「それだけ、仲間を信じていたということか」
「どうしてそうなるんですか!」
「違うのか」
「ちが——いや、ちがわないというか——」
後ろからミリアの声。
「心拍数、さっきよりさらに上昇。体温も上昇。面白いデータが取れた。特に、伏せなかった理由——仮説を立てるのに十分な数値です」
頼むから、それ以上記録しないでくれ。そして仮説を立てないでくれ。
◆◆◆
遺跡を出たのは、日が傾き始めた頃だった。
結局、箱の中身は「古代の護符」だった。持っていると魔力が少し上がるらしい。大した宝物ではないが、収穫は十分だ。
「今日はお疲れさま。タクトさん、すごかったですね」
「……どうも」
俺は生返事をしながら早足でギルドへ向かう。とにかく今日は終わった。矢の罠は怖かったけど、なんとかバレずに済んだ。むしろ評価が上がった。意味がわからない。でも生き延びた。
「タクト」
グレイスが後ろから声をかけてきた。
「なんでしょう」
「今日のことで、伝えたいことがある」
彼女の声はいつになく真剣だった。
「お前は、自分の命を誰かのために使うことを恐れている——そう思っていた。だが今日のお前を見て、考えが変わった」
グレイスはまっすぐに俺を見た。
「お前は、怖くないんじゃない。怖くても、戦えるんだな」
「え、いや、それは……」
「私は、そんなお前を——」
彼女はそこで言葉を切り、小さく微笑んだ。
「いや、今はやめておく。そのうち、きちんと伝える」
そう言って、グレイスは先に歩いていった。
俺はその場に立ち尽くす。
いま、彼女は何を言おうとしたんだ。というか——俺、また何か誤解されてないか。怖くても戦える? 違う、怖いものを天秤にかけて、より怖くない方を選んだだけだ。矢より恥が怖かった。それだけだ。
「タクトさん」
今度はミリアだ。いつものノートを抱えて、にこにこしながら近づいてくる。
「今日のデータ、面白かったです。特に矢の罠のときの心拍数と体温の急上昇。それと隠密スキルの発動タイミング。あと、伏せなかった理由についての考察」
「論文にしないでください」
「大丈夫、匿名で出すから」
「匿名でもダメです!」
ミリアは笑いながらノートを閉じた。
「でも本当に面白いです、タクトさん。あなたのその——何かを必死に隠そうとする姿。私、結構好きですよ」
「……え」
「研究対象として、そして——」
彼女は言葉を切って、ウインクした。
「それはまだ秘密」
彼女はグレイスの後を追っていった。
俺はしばらくその場に立ち尽くしていた。
研究対象として好き。そして秘密。褒め言葉なのか脅迫なのか。たぶん両方だ。ミリアの「秘密」は、いつか俺の秘密にたどり着く。それは時間の問題のような気がする。
◆◆◆
「タクトさん」
また声。今度はリリィだった。相変わらずおずおずとした様子で近づいてくる。
「あの……これ……」
差し出したのは、小さな石だった。青白く光っている。
「冷却石……ですか?」
「はい。あの、遺跡の中で、タクトさん、ずっと緊張されてたみたいだったので……特に、体を冷やすといいかなと思って」
彼女は顔を真っ赤にして、早口で言った。体を冷やす。その一言が、妙に的確で、俺は動揺した。
「お気遣いありがとうございます」
俺が受け取ると、彼女はほっとしたように微笑んだ。
「私も……あの、人より緊張しやすいほうで……人前で話すのが苦手で……だから、タクトさんの気持ち、少しわかる気がして」
リリィは、俺の目をじっと見つめた。今まで見たことのない、何かを深く理解しているような色をしていた。
「なにか、隠していることがあるの、すごくわかります」
どきりとした。相棒までびっくりして縮み上がった。
「……その、体のことで、人に言えない悩みがあるんだろうなって」
彼女の言葉は、核心からほんの数ミリずれているようで、実はまったく外れていなかった。
「だ、だから——無理しないでくださいね。私、誰にも言いませんから」
彼女はそう言うと、ぺこりと頭を下げて小走りに去っていった。
俺は冷却石を握りしめたまま、動けなかった。
リリィ。彼女は、もしかして。俺の秘密に、誰よりも近づいている。体のことで人に言えない悩み。それはもはや言い当てているに等しい。具体的な部位を特定していないだけだ。
「おーい、タクト! 置いてくぞ!」
ジャンヌの大声が飛んできた。俺は慌てて後を追った。
でも心の片隅に、小さな不安が残ったままだった。
リリィはどこまで知っているんだろう。そして——いつ、その沈黙が破られるんだろう。
その夜。ギルドの酒場で、俺たちは今日の成果を祝っていた。
と言っても、俺は隅の席で一人、林檎ジュースを飲んでいるだけだ。酒を飲んだら相棒がさらに制御不能になる。絶対に飲めない。酔った勢いで相棒が暴れ出したら、もう手がつけられない。
「タクト! こっち来て飲めよ!」
ジャンヌがジョッキを掲げている。
「いえ、俺はジュースで」
「なんだよつまんねえな! 酒くらい飲めるだろ、男なら」
「男だから飲まないんです」
「ああん?」
「彼はデリケートなんだ。無理に勧めるな」
グレイスがまた「デリケート」と言った。今日何回目かもう覚えていない。でも不思議と悪い気はしなかった。この言葉に、どれだけ救われたかわからない。デリケート。便利な言葉だ。すべてをぼかして、すべてを守ってくれる。
「タクトさん、今日のデータのまとめができましたよ」
ミリアがノートを開く。
「やめてください」
「聞いてください。今日一日で、タクトさんの心拍数が急上昇した回数、合計二十七回。そのうち二十三回はグレイスさんが動いたタイミングと重なってます」
「やめてくださいって言ってるでしょうが!」
「でも残り四回は、壁画を見たとき、罠が作動したとき、リリィさんが話しかけたとき、あと一回は——」
ミリアは言葉を切って、にやりと笑った。
「なんでもないです」
「なんだよ気になるだろ!」
ジャンヌが身を乗り出す。
「企業秘密」
「ずるいぞ! なあタクト、心当たりあるのか?」
「……ないです。たぶん。いや、わからないです」
俺は林檎ジュースを一気に飲み干した。
酒場が笑い声に包まれる。
俺は空になったジョッキを見つめながら、密かにため息をついた。
バレそうで、バレない。この絶妙なラインを、今日もなんとか保つことができた。相棒も、最後まで大きな反乱を起こさなかった。朝の説得が効いたのか、それとも矢の恐怖で縮み上がっていたのか。
でも——リリィのあの目。ミリアのあの「秘密」。
二人とも、俺の秘密に、少しずつ近づいている。
彼女たちは、何を知っているんだろう。
そして、知ったとき——どうするんだろう。
不安と、ほんの少しの安堵。誰かに知られる恐怖と、誰かにわかってもらえるかもしれない期待。そんな矛盾した感情を胸に抱えながら、俺は二杯目の林檎ジュースを注文した。
酒場の隅で、ミリアは一人、ノートを開いていた。
『タクト・フラウエンシルト観察記録 二日目』
『本日の心拍数急上昇ポイント二十七回。うち二十三回はグレイス・ヴァルキュリアの動作と連動。注目すべきは罠作動時のデータである』
『彼は矢の襲来に対し、伏せるという最適解を選ばなかった。恐怖反応はあった。心拍数は瞬間的に跳ね上がった。発汗も確認。にもかかわらず直立を保ち、矢を回避した』
『この行動の理由は何か。仮説A:仲間を守るため(グレイス説)。仮説B:単にパニック(ジャンヌ説)。仮説C——伏せた場合、他者との身体的接触が生じる。タクトはそれを、矢よりも恐れた』
『身体的接触を矢より恐れる理由とは何か』
彼女はそこでペンを止めた。しばらく宙を見つめる。眼鏡の奥の瞳が、わずかに細められた。
『……もう少しで、何かが見えそうだ』
彼女は顔を上げ、カウンターで林檎ジュースを飲むタクトの背中を見つめた。
「……やっぱり、面白い。そして——」
彼女はノートを閉じ、口元をほころばせた。
「——少しだけ、悔しい」
その呟きの意味を、まだ誰も知らない。