「はいっ、そこまで! これ以降の解答は不正行為とみなします」
鐘の音とゾフィーの大きな声に続いて、受験者たちがペンを置く音が聞こえた。そのおかげでふっと集中が途絶え、全身の力が抜けていく。結局、試験時間がどれくらいの長さだったのかは分からずじまいだったな。
「解答用紙を回収します。受験者の皆さんはそのまま動かずにお待ちを」
どこからともなく一斉にたくさんの修道女が現れ、不意を突かれてしまう。こんなに多くの見張りがいたのなら、やはり魔法を使おうなんて試みをしなくて正解だった。おっと、俺の答案も回収されるみたいだな。
「はい、回収しますね」
「冊子もですか?」
「いえ、冊子はお持ち帰りいただいて結構です」
修道女は格子の描かれた用紙だけ持っていき、俺の前には冊子だけが残った。田舎に持ち帰って何になるのかは知らないけど、これも良い土産にはなるだろう。
ひととおり回収が終わると、再びゾフィーが講壇の上に現れ、声を張り上げた。
「はい、それでは休憩時間といたします。次の論文式試験の開始までには、各自の座席に戻るように」
他の受験生たちが一斉に周囲と話し始め、大聖堂中が騒がしくなった。どうやら友人同士でさっきの試験について話をしているらしい。王都に友人がいない(別に田舎にもいないが)俺には関係のないことだな。
ところで「論文式試験」とは何だろう。てっきり試験はさっきので終わりだと思ったんだけどな。これもゾフィーがさっき説明していたのだろうか? やっぱり寝ていて聞いてなかったのはまずかったか。まあいい、適当な時間までに席に戻っていればいいのだろう。
「……あれ」
ふと顔を見上げると、結構な数の受験生が荷物をまとめ、暗い顔をして出口の方へと向かっていくのが見えた。まだ次の「論文式試験」とやらがあるはずなのに、帰ってしまうのだろうか。
「また三年後か……」
「今年はいけると思ったんだけどな」
「私、もうやめようかな……」
去っていく受験生から聞こえてくるのは嘆きの声ばかり。見張りの修道女たちは彼らをじっと眺めるだけで、特に引き止めることもしていない。俺が知らないだけで、
「さて」
休憩の間、少し大聖堂の中を歩いて回ることにしようか。試験場から出なければ問題はないようだし、せっかくこんな綺麗な場所に来たんだから……目に焼き付けておきたい。
席を立ち、長いすの間を歩いていく。どの方向を見ても美しく、典麗な建造物だ。妹にも見せてやりたい。アイツは俺と違って信仰心が深いからな。
大聖堂の壁に沿って、前の方へと歩いていく。さっきまで頭を一所懸命に働かせていたから、こうして身体を動かすのは良い気分転換だ。
「……おや」
その時、向こうの方から老眼鏡をかけた修道女が歩いてくるのが見えた。間違いない、シスター・ゾフィーだ。
距離が近づくにつれて、向こうも気づいたようだったので……すれ違いざま、軽く会釈をする。特に何もなく通り過ぎていくものだと思ったら、ゾフィーが声を掛けてきた。
「昨日は遅くまで勉強していたのかしら?」
「えっ?」
振り返ってみると、にこっと微笑むゾフィーの姿があった。何のことを言われているのか分からないでいると、ゾフィーはさらに話を続ける。
「見張り役のシスターから聞いて驚いたわ。試験前の説明中に居眠りしていたそうね」
「あっ、それは……」
「何かしでかすんじゃないかと肝を冷やしたわ。あなた、やはり
何かの皮肉かと思ったが、ゾフィーは本気で言っているようだった。何も咎められないということは、少なくとも試験直前に寝てはいけないという決まりはなかったらしい。
「あのっ、シスター……!」
「あら、リーザ。どうしたのかしら?」
いつの間にか、女の受験生が俺たちの近くに立っていた。リーザという名のその人は、目に涙を浮かべてゾフィーのもとへと近寄っていき、静かに抱きついた。
「私っ、やっぱり今回も全然解けなくてっ……!」
「結果が全てではないのよ。神様はリーザの努力をきっとご覧になっているわ」
「でもっ、私にはもうっ……!」
「宮廷魔導師だけが生きる道ではないわ。困ったことがあればいつでも教会へいらっしゃい」
「ああっ、あああっ……!」
すがりつくように嗚咽するリーザを抱き留め、ゾフィーは優しくその頭を撫でていた。宮廷魔導師選抜試験がどのようなものなのか、俺はまだ理解していない。けれども、目の前にいる女性の夢がついさっき潰えたことだけは――はっきりと分かった。
「さあ、元気を出して。家に帰ってゆっくりとお休み」
「はい……」
ゾフィーの励ましに背中を押されたのか、リーザはゆっくりと身を起こす。そのまま出口に向かって歩きだそうとしたのだが、別れ際に俺に向かって声を掛けてきた。
「あの、あなたも受験生ですよね。論文式も受けていかれるんですか?」
「えっ? まあ……はい」
「羨ましいです。頑張ってくださいね」
「あ、ありがとうございます」
リーザは深々と頭を下げて、去っていった。少し戸惑っていると、ゾフィーがそっと俺の隣に立ち、語り掛けてくる。
「リーザは若い頃から何度も試験に挑戦していたの。優しい子よ」
「さっき、『私にはもう』と言っていましたが」
「……もう二十七歳なのよ。彼女に三年後の試験を受ける資格はないわ」
「えっ?」
「宮廷魔導師選抜試験は三十歳未満でなければ受験できないの」
……初めて知った。もう二度と宮廷魔導師を目指すチャンスは訪れない。リーザはそんな絶望の淵に立たされていたのに、それでも俺の健闘を祈ってくれたのか。ゾフィーが彼女を「優しい子」と評していたのはそういうことだったのだろう。
「あの……申し訳ないのですが、自分はよくこの試験のことを理解していなくて……」
「『試験要項を再度説明してください』と言ってちょうだい」
「えっ?」
「私だって試験官だもの、受験生に請われたら説明する義務があるわ」
ゾフィーは穏やかな笑みを浮かべた。逆に言えば、頼まれてもないのに俺に対して試験のことを説明するのはまずいのだろう。一受験生に過ぎない俺に対して肩入れしていることになるからな。
「試験要項を再度説明してください」
「分かったわ。まず、受験生はこの筆記試験を受ける必要があるの」
「はい」
「筆記試験は『短答式試験』と『論文式試験』に分かれているの。二種類の試験結果を合算して合否を判定する仕組みよ」
さっきの200問だけで一万人もの受験生を選別するのは難しいのではと訝しんでいたが、そういうことだったのか。
「しかしシスター、先ほどから受験生が続々と帰っていますが」
「短答式の点数が上位一割に満たない場合は論文式の答案を採点してもらえないの。だから……手ごたえが悪かった子たちにとって、論文式は受けるだけ無駄なのよ」
「つまり、短答式の結果が芳しくないから――」
「諦めて帰る、ということなの。この三年間にどれだけ努力した子でも、ここで終わってしまうことがほとんどだわ」
ゾフィーは慈しむような表情で、静かに語っていた。……自分が思っていたより、この試験は遥かに残酷みたいだ。一万人が受けて、合格するのはせいぜい五人。分かっていたつもりではあったけど、実情をまざまざと見せつけられると言葉を失う。
「ほら、見てごらんなさい。もう残っている受験生の数は三割にも満たないわ」
言われるがままに大聖堂の中を見渡してみると、かなり空席が目立つようになっていた。七割が帰ったとして、およそ七千人が既に振り落とされたことになる。それも、リーザのように三年間を勉強に捧げたであろう受験生が――だ。
王都に来てから一週間弱。俺はウルムに生まれた人間が羨ましいと思っていた。本に囲まれ、魔法に親しみやすい環境で、のびのびと宮廷魔導師を目指すことが出来るのだ――と、思っていたからだ。
だが実際は違う。たとえ王都に生を受けたとしても、この過酷な試験を突破出来ない人間の方が圧倒的多数なんだろう。このウルムという土地は、遠目からでは桃源郷のように見えていた。だが、いざ近づいてみれば……ある意味では地獄のような場所にも思えてくる。
「話を戻すわ。とにかく、筆記試験を突破した受験生だけが第二次試験に進むことが出来るの」
「今日の合否はいつ分かるのですか?」
「論文式が終わったあと、宮廷付きの魔導師が総出で採点をするのよ。明日の朝には発表されるわ」
「ええっ、そんなに早く」
「だから短答式で採点対象を絞る必要があるのよ。さて、何か他に分からないことはあるかしら?」
正直、もうお腹いっぱいだった。ウルムに来てから初めて、この土地で生きる苦しさというものを垣間見た気がする。田舎では味わえない種類の困難だろう。帰る日の前に、これを知ることが出来て良かったな。
「いえ、よく分かりました。ありがとうございました」
「あなたは論文式も受けていくのでしょう? 短答式の出来が良かったのね」
「いや、それは……」
自分の出来が受験生の平均と比べてどうなのか、全く分からないからな。ウルムの受験生ならおおよその合格点も分かっているのだろうけど、俺はそうではないし。
「まあ、きっとあなたなら大丈夫よ。神のご加護があらんことを」
「は、はい」
「そろそろ休憩時間が終わるわ。今度は説明を聞き逃さないようにしなさいね」
「すいません……」
思わず頭を下げると、ゾフィーはくすりと笑って去っていった。
俺は真剣に受かる気がないのだから、帰っても良かったのかもしれない。でも、せっかく王都まで来たのだからな。最後の思い出として論文式も受けていこう。
論文式試験は、短答式よりも時間的制約は緩やかだった。試験内容も与えられた課題文に対して意見を述べるという極めて単純なもので、俺は昔に読んだ魔導書のことを思い出しながら文章を書き殴った。
早く解き終わった者は解答用紙を提出して帰って良いと言われたので、俺は一番乗りで大聖堂をあとにした。その後は宿屋に戻り、店主たちに労われながら美味しいパイを食べ、部屋に戻ってベッドに寝転がった。
あとは土産を買って家に帰るだけ。本当に楽しく、有意義な旅だった。もう二度と王都に来ることはないだろうけど、今までと少しは違う自分として田舎で生きていける気がする。この旅に金を出してくれた両親には感謝しかないな。
自分の境遇への感謝で胸がいっぱいになり、温かな気持ちで眠りについた。王都での思い出を抱いて、明日からはまた平凡な暮らしに戻るのだ。
この日の翌朝だった。すべてが動き出し、俺の生活が一変することになるのは――
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