バイオハザード:リサ・トレヴァー 〜怨霊と血濡れのトマホーク〜 作:ai試し
それから、5ヶ月もの時間が過ぎた。
クリスと仲間たちが遺族やコネを使い、根回しをしていた間、アレクシアにとってはこの期間こそが人生最大にして最悪の「試練」となった。
その理由は、他ならぬリサ・トレヴァーである。
(……もう、限界よ)
アレクシアは絶望に染まった顔で天井を見上げていた。
彼女は今、リサの膝の上に頭を乗せられていた。毎日、決まった時間に、逃げ場のない強制的な「膝枕タイム」が設けられているのだ。 最初は屈辱だった。誇り高きアシュフォード家の末裔である自分が、元実験体の怪物に膝枕を強要されるなどという状況は、正気の沙汰ではない。
リサは無表情のまま、ただ淡々とアレクシアの頭を撫で続ける。その手つきは丁寧だが、逃げ出そうとすれば瞬時に触手が伸びてくるため、アレクシアはなすすべもなくこの時間を耐え忍んできた。
しかし、精神的な限界点に達したとき、彼女の中に一筋の光――天啓が降りてきた。
(……待ちなさい。逆転の発想よ!)
かつて、アシュフォード家の教育の一環として学んだイギリス貴族の処世術。「逆に考えるんだ」という教えだ。
アレクシアはゆっくりと目を閉じ、自分の頭を支えているリサの太ももの感触に意識を集中させた。
3ヶ月が過ぎた頃からだったか。彼女は気づいた。自分はいつの間にか、この膝枕における「最適解」を見出していたことに。どの角度で頭を預ければ最も快適か。
(そうよ……そもそも、この太ももは誰のもの? リサのものでなんてあるはずがないわ)
アレクシアの思考が加速する。
これほどまでに自分をリラックスさせ、深い安らぎを与えるこの贅沢なクッションは、もはやリサという個人の所有物ではない。これは、主である私に捧げられた「供物」なのだと。
(そうだわ! この太ももは断じてリサのものではない! この私、アレクシア・アシュフォード様のものよ!)
定義を書き換えた瞬間、屈辱感は消え去り、代わりに強烈な所有欲と快感が押し寄せた。
今やアレクシアは、リサが膝を叩いて合図を送る前から、自ら進んで最適なポジションに頭を滑り込ませるまでに至っていた。
「ふふ……」
リサの太ももの上に横たわりながら、アレクシアは恍惚とした表情で呟いた。
リサはそんな彼女の豹変ぶりにわずかに眉をひそめたが、構わずゆっくりと頭を撫で続けた。
(いいわ、もっと撫でなさい。私の所有物である手と太ももを使って、私を心地よくさせるのがあなたの役目よ)
心の中で不敵に笑うアレクシアだったが、その顔は完全にリラックスしきっており、今にも寝落ちしそうなほどであった。
心地よい微睡みに包まれていたアレクシアの意識を、鋭い感覚が呼び覚ました。
(……来たわね)
彼女の神経と繋がっている虫たちが、人間の接近を検知した。このタイミングで来るのは、間違いなくクレアだろう。
「リサお姉さま、シェリー! 準備しなさい。お客様よ」
アレクシアは素早く身を起こすと、衣服の乱れを整えた。リサは名残惜しそうに鼻を鳴らしたが、すぐに立ち上がった。シェリーもまた、レッドと共に期待と不安が混ざった表情でアレクシアに従った。
一行は地下通路へと向かった。
そこにいたのは、クレアとスティーブだった。
「ごきげんよう」
アレクシアは完璧な淑女の微笑みを浮かべて声をかけた。
対するスティーブは、相変わらずの陽気さで大きく手を振り、快活に返事を返す。
「よう! 久しぶり!覚えてるか?俺スティーブ」
そう言いながら、彼はアレクシアとリサ、そしてシェリーを順番に眺めた。すると、ふと思いたったように、口走った。
「今の君たちを見ていると……やっぱり、あと10年くらい経ってから会いたかったぜ!」
その余計な一言に、場の空気が一瞬だけ凍りついた。
リサの瞳に鋭い光が宿り、触手がわずかにうねった。アレクシアの目は完全にごゴミを見る目だ。
そんな緊張感の中、シェリーだけが控えめに会釈をした。
「こんにちは、スティーブさん」
しかし、彼女が言葉を終えるか終えないかのうちに、背後から優しい手が伸びた。リサが、まるで大切な宝物を隠すように、シェリーの肩を抱いて自分の背後の死角へとすっと引き寄せたのだ。
リサの無言の圧力がスティーブに突き刺さる。
スティーブは冷や汗を流しながらも、なお、にこやかな笑みを崩さなかったが、その背中には明確な「生存本能」による震えが走っていた。
クレアは深く、心底呆れたようにため息をついた。そして、隣で相変わらず緊張感のない顔をしているスティーブを軽く小突くと、アレクシアに向き直った。
「……ごめんなさい。クリスは今、色々な調整に追われていて来られなかったの。代わりに私が報告に来たわ」
クレアの表情は真剣だった。彼女は手元の資料を軽く広げ、これまでの5ヶ月間の成果について話し始めた。
「進捗だけど……意外にも、アメリカ以外の国々からはかなり好意的な反応を得られたわ。欧州連合の主要国や、アジアのいくつかの政府が、『人道的な観点』および『生物兵器の実態解明』という名目で、共同調査団の派遣に同意してくれている、実態はどうであれね」
アレクシアはわずかに眉を上げた。予想以上の速さだ。クリスが相当な奔走をしたことが伺える。だが、クレアの声にはまだ迷いが残っていた。
「けれど……最後の一押しが足りないの。あなたも分かっている通り、他国の警察権や軍事力による介入は、どの国家にとっても忌避されることだわ。特に今のアメリカ政府は、『国内問題である』と主張して、非常に強硬に反対している、自国民が被害を受けた国々が非難を強めているけどあまり効果は出ていない」
クレアは視線を落とし、苦い表情で続けた。
「コネクションの根が深いのは分かっているけれど、アメリカという国家のメンツと権限を盾にされると、他国も無理に踏み込むことはできない。国際的な圧力があっても、『アメリカ政府の許可』がない限り、ARKへの物理的なアクセスは法的に不可能に近い状態よ」
結局のところ、内部から扉を開けるか、あるいは世界が無視できないほどの「決定的な衝撃」を外から更に与えない限り、壁は突破できない。
(……ふん。妥協がたまには必要ということかしら)
アレクシアは心の中で自分に言い聞かせた。かつて自分の計画が完璧であると信じ込み、あっさりとリサにやられた、彼女は冷静に現状を受け入れた。ここは多少強引にでも状況を作り出す必要がある。
「いいわ。政治的な手続きで時間を浪費するのはもう十分よ、ARKの守りもあるし、今は時間が惜しいわ」
アレクシアは視線を移し、具体的な準備状況を確認した。
「それで……マスコミの方はどうなっているかしら? 私たちが表に出るための舞台装置は整っているの?」
クレアは頷き、一人の名前を挙げた。
「ええ。アリッサ・アッシュクロフトが動いてくれているわ。彼女はラクーンシティ事件の生き残りであり、記者としてのネットワークも持っている。今、彼女を中心に、権力に屈しない信頼できるメディア関係者を密かに集めてもらっているところよ」
アリッサという名前を聞き、アレクシアはわずかに口角を上げた。
真実を追い求める執念を持つ記者。コネクションのような闇の組織にとって最も厄介なのは、政治家ではなく、正義感に突き動かされた不屈のジャーナリストだ。
アレクシアは視線を地下通路の奥へと向けた。
(唯一の懸念は、ARKを塞いでいるあの『肉の壁』ね……)
現在、施設への入り口はリサが分離し、放射能と一体化した巨大な触手の群れによって封鎖されている。コネクションがどれほど最新の兵器を持っていても、物理的に突破するには至難の業だろう。だが、彼らが何らかの特効薬や新兵器を開発していれば話は別だ。リスクはある。しかし、待つことのリスクの方が今は上回っていた。
アレクシアは決断した。彼女は凛とした表情で、クレアを見据えた。
「決めたわ。予定を早めましょう。表に出る時が来たわ」
その宣言に、クレアが驚いたように目を見開く。
「えっ……! 本当にやるの?」
「ええ。フランスへ向かうわよ。準備しなさい」
アレクシアは淡々と告げた。そして、隣でぼーっと立っているリサを見た。
「私とリサお姉さまは、泳いでフランスまで行くから、シェリーを頼むわ」
大西洋だ。数千キロメートルの大海原である。常人であれば自殺行為に等しいが、リサとアレクシアは違う。彼女たちは必要に応じて下半身を鯨の尾びれに変え、超人的な肺活量と耐久力を持つ「人魚形態」へと変身できる。
だが、問題はシェリーだ。
「さすがにシェリーを泳いで大西洋横断させるわけにはいかないわ。彼女は人間だものね。だからクレア、あなたたちが何とかして彼女をフランスまで連れて行ってちょうだい」
アレクシアは当たり前のように言い切ったが、さらに追い打ちをかける。
「まあ、メキシコかカナダあたりまでは送るけど……あとの道程はどうにかしなさい」
クレアはあまりに突拍子もない無茶ぶりに、こめかみを押さえて深く溜息をついた。
目の前の少女は、世界を揺るがす告発という大計画を語りながら、移動手段に関しては完全に「生物兵器の視点」で考えている。
(……もう、どうにでもなれね)
クレアは頭痛に耐えながら、心の中に強く刻んだ。
(帰ったらすぐにクリスに相談しなきゃ。このめちゃくちゃな計画について!)
「準備があるから、改めて来るのは一週間後にしてちょうだい」
アレクシアは淡々と言い残し、踵を返した。彼女にとっての準備とは、単なる荷造りではない。告発に使用するデータの最終整理と、何よりリサに「表舞台での振る舞い」を叩き込むための特訓――もとい、淑女教育の再徹底もある。
クレアは、去りゆくアレクシアの背中に向けて、ふと思い出したように声をかけた。
「……一つ言っておくけど、フランスではジルに相手をしてもらうかもしれないわ」
アレクシアが足を止め、わずかに首をかしげた。
「ジル? あのS.T.A.R.S.の……。なぜ彼女なの?」
「だって、私たちがシェリーをフランスまで運べる保証がないからよ」
クレアは正直に答えた。誘拐扱いでパスポートがないシェリーを連れて密かに海を越え、ヨーロッパまで移動させるのは至難の業だ。ついでにアメリカ政府もシェリーを探している、もし自分たちが詰まった場合、フランスではクリスの補佐をしているジルに相手をしてもらうしかないだろう。
アレクシアはふふっと小さく笑い、振り返り手を振った。
「いいわよ。時間がかかっても構わないし。最低限、私とリサお姉さまが揃えば、舞台は完成するわ」
その声には、絶対的な自信が満ちていた。
そして、すべての打ち合わせが終わった。
スティーブは満足げに伸びをすると、にこにこして見守るシェリーと、相変わらず無表情なリサ、そして不敵に微笑むアレクシアに向けて、最高の笑顔を向けた。
「じゃあな、お嬢ちゃんたち! また10年後くらいにな、もっと大人になった頃に会おうぜ!」
クレアは呆れた顔でスティーブの背中を押し、「本当にごめんなさい」とリサとアレクシアに小さく会釈して、彼と共に地下通路へと歩き出した。
「バイバイ! クレア、スティーブさん!」
シェリーだけが、元気いっぱいに手を振って見送った。リサはその様子を見て、満足そうにシェリーの頭をぽんぽんと叩いた。
レッドもワンっと親愛の情を示して軽く吠えた。おやつでももらったのだろう。
クレアたちが去り、再び地下空間に静寂が戻る。
しかし、その沈黙は嵐の前の静けさだった。大西洋を横断し、フランスという舞台で世界を揺るがす。そんな途方もない計画を抱えたまま、リサとアレクシア、そしてシェリーという奇妙な共同体は、ゆっくりと次なる行動への準備に入っていった。
深い霧に包まれた古城の一室。豪華な椅子に深く身を沈めた老いた男、オズウェル・E・スペンサーは、傍らに立つ執事から静かに報告を受けていた。
「……閣下。不都合な知らせがございます」
執事は淡々とした口調で、現在世界で起きている異変を伝えた。
アンブレラ社の非道を糾弾し、盾突こうとする愚か者たちが、もはや一国に留まらず、複数の国家間で団結し始めていること。そして、彼らが共通して「ラクーンシティの合同調査」という名の介入を強く訴えているということだ。
スペンサーは、その報告を聞いて突然、喉の奥からせり上がるような笑い声を漏らした。
「クク……ハハハ! 愉快だ。実に愉快だよ!」
老人の瞳には、狂気と傲慢さが入り混じった光が宿っていた。彼にとって、国家レベルの団結などというものは、せいぜい質の悪い見世物に過ぎない。
「支援してやれ」
スペンサーは事もなげに命じた。
予想だにしない言葉に、執事は一瞬だけ動きを止め、信じられないといった表情で聞き返した。
「……失礼ながら、閣下。彼らはアンブレラの敵でございます。それを支援せよとは、どういうお考えで……」
「いいからやれと言っているのだ!」
スペンサーの鋭い怒声が部屋に響く。だが、すぐにその表情は冷酷な笑みに戻った。
「考えろ。コネクションという不快な寄生虫どもが、今まさにARKを再び喉元まで飲み込もうとしている。やつらが最も恐れるのは何だ? そう、ラクーンシティへの注目と介入だ」
スペンサーは指先で椅子を叩いた。
「反アンブレラの旗を掲げて各国が団結し、ラクーンシティへ押し寄せる。そうなれば、コネクションの連中は自分たちの目的と正体を隠すために、必死にその動きを阻止せねばならなくなるだろう。結果として、彼らのリソースは分散され、ARKの奪還計画には大きな支障が出るはずだ」
敵の敵は味方ではないが、利用価値はある。
スペンサーにとって、国家間の争いや正義感などというものは、自分の目的を達成するための使い捨ての道具に過ぎなかった。
「さあ、行け。その愚か者たちに十分な『追い風』を送ってやるのだ」
一方、世界の一角にある静寂な空間。
冷徹な光を放つサングラスの男、アルバート・ウェスカーは、目の前に立つ女性から報告を受けていた。
「……クリスが急に動きを変えたわ」
エイダ・ウォンは淡々とした口調で、手元の端末にある情報を提示した。
「あの方は今、各国の政府や有力者に根回しを始めている。単なる捜査ではなく、国際的な共同作戦を構築しようとしているようね」
ウェスカーはわずかに目を細めた。
クリスの動き方は拙い。だが、その方向性は極めて正解に近い。彼が誰に誘導され、何を目的として動いているのか――その背後にいる「不都合な存在」たちの気配を、ウェスカーは敏感に察知していた。
(ふん……面白い。駒が自ずと最適な位置へ移動し始めたか)
ウェスカーにとって、コネクションという組織の肥大化は、自身の計画における不確定要素でしかなかった。彼らが強力になるなら、誰かに足を引っ張らせるのが最も効率的な方法だ。
「支援してやろう」
ウェスカーが低く呟いた。
「クリスが望む『舞台』を整えてやる。H.C.F.にも利益があるだろう」
エイダは呆れたように肩をすくめた。彼女にとって、ウェスカーの行動原理は常に不透明であり、同時に最高に面倒だった。
「相変わらず、他人の人生をチェス盤のように扱うのが好きね」
そう言い捨てると、エイダは一度も振り返ることなく、静かにその場を去っていった。
残されたウェスカーは、暗闇の中で一人、口角を吊り上げた。
静寂に包まれた地下施設の一室。アレクシアは古びた通信機を手にしていた。この電話が、彼と自分の最後になることを彼女は確信していた。
コール音が数回鳴り、やがて低く、枯れた声が聞こえてきた。
2人の間に名前を呼び合う意味はない。それは互いが相手の正体を十分に理解しているからであり、同時に、もはや呼ぶ必要のない関係になったからでもあった。
「……ごきげんよう。おじさま」
アレクシアは静かに切り出した。その声には、かつての幼い少女の面影はなく、一人の独立した女王としての威厳が宿っていた。
「さようなら。これが最後になるわね」
彼女は淡々とした口調で、別れの言葉を告げた。それは単なる挨拶ではなく、過去との完全な決別の宣言だった。アンブレラという虚飾の帝国からも、自分はもう自由であるということ。
電話越しの男は、短く鼻を鳴らした。
「ふん……今のアンブレラはやはり君にはお気に召さなかったか」
その声には、どこか皮肉な響きと、わずかな寂寥感が混じっていた。創業者仲間の子孫であり、優秀な天才少女が、自らの手で帝国の崩壊を加速させようとしていることへの、歪んだ感慨であろう。
アレクシアはふっと口角を上げた。
「ええ。あまりに退屈な組織になっていたもの。……けれど、一つだけ聞きたいことがあるわ」
彼女は間を置き、本題を切り出した。
「T-ALOSの計画書は届いたかしら?」
電話の向こうで、わずかな沈黙が流れた。やがて、納得したように低く笑う声が聞こえる。
「……やはりあれは君だったのか。研究者たちは狂喜乱舞していたよ。あのようなな発想、理論構成、今のアンブレラには存在しない才能だ」
「あら、ごめんなさい。わくわくさせすぎてしまったかしら。まあ、彼らが喜んでくれたのならいいわ」
アレクシアは冷淡に答えた。彼女にとって計画書の送付は親切心ではなく、自分のためだ。
すると、男がふと疑問を口にした。
「一つ気になることがある。君の兄はT-ALOS計画の詳細を知る機会はなかったはずだ。彼は常に忙しく時間がなかった」
アレクシアは自然に、そして無意識に答えた。
「ええ。ARKで計画の詳細を知りましたもの」
その瞬間、電話の向こう側で息を呑む音が聞こえた。
「……リサ・トレヴァーと共にか」
スペンサーの声には、明らかな驚愕が混じっていた。
ARKその名を聞いたスペンサーの脳裏に、ある記憶が蘇った。
ジョージ・トレヴァー。ジェシカ・トレヴァー。そしてリサ・トレヴァー。
今までの犠牲……
今の現状……
自分が追い求めた理想。
「HOPEだ……」
老人は独り言のように呟いた。口にする気はなかった、しかしつい出てしまった…
アレクシアは息を呑んだ。
(HOPE…?まさか…)
彼女は聞き返そうとしたが、寸前でそれを思い止めた。ここで追求しても意味がないだろう。
スペンサーの声が再び聞こえた。
「……もういい。我々には言葉など不要だ」
決別の言葉だった。
「ええ。そうね」
アレクシアは静かに答えた。
「あなたの余生が、せいぜい退屈で平穏なものでありますように」
「君の方こそ……美しく散るがいい」
皮肉に満ちた最後の言葉を交わし、アレクシアは迷わず通信を切った。
耳元に残るのは静寂だけだったが、彼女の心はかつてないほどに荒れていた。
通信を切った後、アレクシアは深く溜息をついた。
「……最悪。この忙しい時に、新しい仕事が増えるなんて」
彼女はうんざりとした表情で額を押さえた。スペンサーが口にした「HOPE」という単語。それが何を意味するのか、そして彼がなぜ自分でも驚愕したのか。その答えは間違いなくここ、ARKの深層に眠っている。
(……そうね。なら、リサお姉さまに決めさせればいいわ)
アレクシアは不敵な笑みを浮かべた。自分がお膳立てし、最後の一押しをリサに任せる。
彼女はリサを呼び寄せると、施設の中枢にある端末の前に立たせた。そこにはパスワード入力画面が表示されている。
「いい? リサお姉さま。この装置に『HOPE』という言葉を打ち込めば、『エルピス』というものが手に入るわ」
アレクシアは淡々と説明した。
「正直、エルピスが何なのかは私も知らない。けれど……もしパスワードを間違えれば、この施設(ARK)は跡形もなく吹き飛ぶことになるでしょうね」
リサは首を傾げた。彼女は絵こそ理解できるが、文字は理解できないし書けない。そこでアレクシアは、画面上のボタンを指差しながら、押すべき順番を丁寧に教えてやった。
「まずここを押して、次にここ……」
説明が終わるか終わらないかのうちに、リサが迷わず指を伸ばした。その速さに驚いたアレクシアは、慌てて彼女の手を止めた。
「待って! 冗談じゃないわよ!」
アレクシアの顔に、初めて本物の焦りが浮かんでいた。自分が吹き飛ぶのは御免だ。
「……本当に押すつもり?」
リサは無表情なまま、ゆっくりとうなづいた。その瞳には、「やるなら今だ」という強い意志が宿っていた。
アレクシアは観念したように肩をすくめた。
「分かったわよ。なら、私はシェリーとレッドを避難させるから、シェリー達の安全が確認されるまで待って。避難が終わったら、虫を使って知らせるわ」
リサは静かに待ち構えていた。
アレクシアは急いでシェリーの腕を引き、レッドを追い立てて施設の外へと走り出した。
静寂に包まれた端末の前で、リサは一人、指を止めていた。
そのとき、彼女の内側から、深く重厚な声が響き渡った。インディアンの怨霊だった。
(……本当に押すつもりか?)
怨霊の声には、危惧と好奇心が混ざり合っていた。間違えればすべてが終わる。だが同時に、ここにある「何か」を解放することが、運命を変える鍵になるかもしれないことも予感していた。
リサは答えなかった。ただ、ゆっくりと、静かにうなずいた。
その瞳には迷いなど微塵もなく、ただ真っ直ぐに前方を見据えていた。
(ふっ……戦士の直感か。いいだろう)
怨霊は小さく笑った。理屈ではなく、魂が求める方向へ突き進む。それはかつての大地を駆け抜けた戦士たちの生き様そのものだった。やがて、怨霊の声は静かに消え、リサの意識だけが研ぎ澄まされていった。
そこへ、一匹の虫が猛スピードで飛んできた。
アレクシアからの合図だ。避難が完了したことを知らせる、短い羽ばたき。
リサの指が動いた。
迷いなく、教えられた順番通りにボタンを叩く。
カチッ。カチッ。カチッ。カチッ。
最後の一打が入力された瞬間、端末から低い作動音が響き、ARKで何かが動き出す。