幼なじみの終わらせかた 作:朱雨
机の一番深い引き出しを開けると、封の切られた茶封筒が出てきた。宛名は朝倉芽衣。差出人は夏目航平。中には十年以上前に書いた便箋が入っている。手に取ろうとして、やめた。
この手紙の話をするには、ずいぶん昔まで戻らなければならない。
三歳の春、隣の空き地に引っ越しのトラックが来た。
母親に手を引かれて隣の玄関の前に立つと、チャイムの音がやけに大きく聞こえた。
「はーい!」
ドアの向こうから弾むような声が飛んできて、俺はとっさに母親の背中に回り込んだ。心臓がうるさい。
「あ! おんなじくらいのせたけ!」
声の主は俺よりほんの少しだけ背の高い女の子だった。大きな目が動いて、肩のあたりで髪が揺れている。口元がしまりなくゆるんでいた。
「おともだちになりたい! いっしょにあそぼ!」
母親同士があいさつを交わすより早く、女の子は俺の手をつかんだ。振りほどこうとしたけど、その手は思ったより強くて、温かくて、振りほどけなかった。
「だいじょうぶだよ。わたしがついてるから」
芽衣と呼ばれたその子は、泣きそうな俺の顔をのぞきこんで笑った。何が大丈夫なのかよくわからなかったけど、その言葉に肩の力が抜けた。
庭にはもう砂場ができていた。芽衣にスコップを渡されて、おそるおそる砂を掘る。ふたりで山を作って、てっぺんに小枝をさした。そのとたん、通りかかった男の子が足を踏み入れて、山はぐしゃりと崩れた。
芽衣が唇を噛みしめる。大きな目に涙がたまっていく。
俺はスコップを持ちなおして、崩れた砂を集めはじめた。芽衣はしばらく黙って見ていたけど、やがて隣にしゃがみこんで、いっしょに砂を掘ってくれた。
「……ありがと」
声がいつもより小さかった。俺はただうなずいた。
「ずっといっしょにあそぼ!」
その言葉がこんなにあたたかく響いたのは、生まれて初めてだった。
それからの日々は、あっという間だった。芽衣は毎日のようにうちの庭に来て、ときには俺が芽衣の家に上がることもあった。芽衣の母親はいつも「こうへいくん、いらっしゃい」と笑顔で迎えてくれて、うちの母親も「芽衣ちゃん今日も来てるよ」と言っておやつを出した。父親同士が休みの日に庭でバーベキューをすることもあって、そんなときは二家族が当たり前のように一緒にテーブルを囲んだ。
芽衣が隣にいることは、空気のように自然で、そしてかけがえのないことだった。
◆◆◆
三月。ようちえんの運動会。
朝からお腹が痛かった。かけっこがある。人前で走るのがいやで、前の日からずっとぐずぐずしていた。
「こうへいくん、だいじょうぶ?」
芽衣が心配そうにのぞきこんでくる。だいじょうぶじゃなかったけど、首を縦にふった。いつもの癖だった。
スタートラインに立つと足がふるえた。笛が鳴って、みんなが飛び出す。俺も走り出した。最初の数歩はよかった。でも途中で足がもつれて、気がついたら地面にたおれていた。
口の中に土の味が広がった。ひざがじんじん痛む。手のひらもすりむいている。涙で視界がにじんで、ゴールの向こうが見えない。立ち上がろうとしたけど、うまく力が入らなかった。
「こうへいくん! ここ! こっち! ここだよ!」
芽衣の声だけが、やけにくっきりと聞こえた。
顔を上げる。芽衣が両手を大きくふって、とびはねながら叫んでいる。まわりの声はぜんぶぼやけているのに、芽衣の声だけが耳の奥に届いた。
立ち上がった。ひざが痛い。それでも走った。
ビリだった。いちばん最後にゴールした。
ゴールテープの先で芽衣が待っていた。息を切らして、汗をかいて、目をきらきらさせて。
「かっこよかったよ!」
ぼろぼろ泣きながら、声をしぼり出した。
「……ありがと」
涙でぐしゃぐしゃだったけど、たしかに言えた。芽衣は一瞬きょとんとして、それから俺の手をぎゅっと握った。
「いたいのいたいの、とんでけ」
ひざにふれる芽衣の手は、あいかわらず温かかった。その手を引かれるまま立ち上がると、芽衣は心の底から嬉しそうに笑った。
「一緒に走れて、楽しかった!」
涙をぬぐいながら言うと、芽衣はますます笑顔になった。
「うん! また一緒に走ろうね!」
その笑顔を見て、俺は思った。芽衣が笑うと、自分まで嬉しくなる。この気持ちが何なのか、まだよくわかっていなかったけど、ずっと隣にいたいと、心の底から思った。
◆◆◆
ある日、芽衣が幼稚園で転んだ。
それほど痛くなさそうだったけど、膝をすりむいて、血が少しにじんでいた。芽衣は泣かなかったけど、唇を噛みしめてうつむいている。まわりの子たちは「だいじょうぶ?」と声をかけたけど、すぐに遊びに戻っていった。
俺はしゃがみこんで、自分のハンカチを差し出した。母親がいつも持たせてくれていた、少し黄ばんだ白いハンカチだ。
「これ、つかっていいよ」
芽衣は驚いた顔でハンカチを見て、それから俺の顔を見た。
「……こうへいくん、やさしいね」
そう言って笑った芽衣の目は、まだ少し潤んでいたけど、もう悲しそうじゃなかった。俺は何も言えずにうつむいた。でも、芽衣が笑ってくれたことが、ただ嬉しかった。
その日の帰り道、芽衣はずっとハンカチを握りしめていた。「洗って返すね」と言って、家の前で別れるときも、まだ握っていた。
後日、洗ってアイロンのかかったハンカチを受け取ったとき、芽衣は「これ、こうへいくんのだから、だいじにするね」と言った。俺は「もう返してもらったから、それは芽衣のだよ」と答えようとしたけど、やっぱり言葉が出てこなくて、ただうなずいた。
それからしばらくして、芽衣の母親がうちの母親に「芽衣がね、航平くんのハンカチを宝物みたいにしてるのよ」と話しているのを聞いた。俺は自分の部屋で、顔が熱くなった。
◆◆◆
三月。卒園式の日。
空は青くて、桜が満開だった。風がふくたびに花びらがまいあがって、あたり一面がうすい紅色に染まった。かすかに桜の匂いがして、春の風はまだ少し冷たかった。
式が終わって、園服のまま、となりの公園へ行った。なかよし公園。公園のすみの大きな桜の木が、今がいちばんきれいだった。
芽衣は桜の木の下に立って、くるりとこっちをふり返った。
「しょうがっこうも、いっしょだよね」
うなずく。学区は同じだった。
「よかった」
芽衣はほっとしたように笑って、一歩近づいてきた。
「ねえ、こうへいくん。おおきくなっても、ずっといっしょにいようね」
風がふいた。桜の花びらがふたりのあいだをまう。
「やくそく、してくれる?」
差し出された小指に、自分の指をそっとからめた。芽衣の小指はあいかわらず温かかった。自分のは冷たくて、それが少しだけ恥ずかしかった。
「やくそく」
声はふるえていたけど、今度はちゃんと言えた。小指にぎゅっと力を込める。芽衣も握り返してくれた。その感触が、ずっと指に残っている気がした。
芽衣は嬉しそうに笑って、それから、ふと思い出したように言った。
「でもね。やくそくってね、まもらないと、こわれちゃうんだって。ママがいってた。だから、ぜったいまもってね」
俺は大きくうなずいた。こわさない。ぜったいに守る。心の中でそう誓った。
桜の花びらが、ひらひらと二人の肩に落ちた。
◆◆◆
それからの数ヶ月はあっという間だった。気がつけばランドセルを背負って、慣れない革靴で小学校の門をくぐっていた。
四月とは思えない肌寒い日で、式が終わるころには鼻水が止まらなくなっていた。
「こうへいくん、はなみず」
芽衣がティッシュを差し出す。黙って受け取って鼻をかんだ。芽衣はそんな俺を見てくすっと笑う。
「しょうがくせいになっても、かわらないね」
クラスは別になった。芽衣はとなりの組、俺は窓際の一番後ろ。それでも芽衣は休み時間になると教室に顔を出した。「たいいくのじかん、たのしみだね」とか「きゅうしょく、なんだろうね」とか、短い言葉を交わして戻っていく。それが日課になった。
芽衣が来ると、教室の空気が少しだけ明るくなった。まわりのやつらも、最初は好奇の目で見ていたけど、そのうち「また来たね」と笑うようになった。芽衣は誰にでも同じように笑うから、自然とそうなるんだろう。俺はそれが、なんとなく誇らしかった。
◆◆◆
三年生のある日、休み時間に廊下を歩いていると、芽衣が数人の男子に囲まれているのが見えた。
「朝倉さんって、本当は夏目と付き合ってるの?」
「え、ちがうよ。ただの幼なじみ」
「じゃあさ、今度一緒に帰らない?」
芽衣が困ったような笑顔で、返事に迷っている。俺は気がついたら、男子たちの間に割り込んでいた。
「おい、芽衣。今日日直だろ。早く来い」
自分でも驚くくらい、声が低かった。芽衣は一瞬きょとんとして、それから笑った。
「あ、そうだった。ごめんね、じゃあね」
男子たちがぽかんとしている前で、俺は芽衣の手を引いて歩き出した。心臓がばくばくしていた。教室に着くまで、ずっと手を握っていた。芽衣は何も言わなかったけど、にこにこしていた。教室の前で手を離すとき、芽衣が言った。
「こうへいくん、もしかしてヤキモチ?」
「ちがう! 日直だって言っただけだ!」
顔が熱くなった。芽衣は「ふーん」と言って、楽しそうに笑った。俺はそれ以上何も言えずに、自分の教室に逃げ帰った。後ろから芽衣の小さな笑い声が聞こえていた。
◆◆◆
三年生の夏、芽衣が学校を休んだ。
風邪をひいたらしい。前の日まで元気だったのに、朝になったら熱が出て、母親から連絡があった。教室に行くと、芽衣の席だけが空っぽだった。
休み時間、俺は芽衣のクラスに行って、隣の席の子にプリントを預かってもらえるか聞いた。
「おれが届けるから」
自分でも驚くくらい、すんなりと言葉が出てきた。
放課後、芽衣の家のインターホンを押す。母親が出てきて、「あら、こうへいくん」と笑顔で迎えてくれた。芽衣の部屋に行くと、ベッドの上で芽衣が座っていた。パジャマ姿で、少し顔が赤い。
「こうへいくん……来てくれたの?」
「プリント、届けに」
「……ありがと」
芽衣はプリントを受け取って、大事そうに胸に抱えた。
「早くよくなれよ」
「うん」
芽衣は笑った。熱のせいでいつもよりぼんやりしていたけど、その笑顔は本物だった。俺はそれだけ言うと、逃げるように部屋を出た。心臓がうるさくて、顔が熱かったのは、たぶん芽衣の熱がうつったからじゃない。
◆◆◆
四年生の春、芽衣は地元のミニバスケットボールチームに入った。
体育の授業でドリブルをほめられ、そのままスカウトされたらしい。芽衣はみるみる上達して、三ヶ月でレギュラーメンバーになった。ユニフォームをもらった日、「ばんごう、ななばんだって! ラッキーセブンだよ」と嬉しそうに俺に見せびらかした。
芽衣の誕生日が近づいて、俺は何かプレゼントを用意しようと思った。小さなキーホルダーを買って、ラッピングまでしてもらった。誕生日の前日、キーホルダーをポケットに入れて、芽衣の家の前まで行った。インターホンを押そうとして、指が止まった。渡して、もし「なにこれ」って言われたら。もし「重い」って思われたら。十分くらい迷って、結局、ポケットから出せないまま家に帰った。芽衣は何も言わなかった。たぶん、俺が誕生日を忘れていると思ったんだろう。違うのに。そう思いながら、キーホルダーは机の引き出しにしまったままになった。
五月。市民体育館で初めての試合があった。芽衣に頼まれて、俺は母親と一緒に応援に行った。会場には芽衣の母親も来ていて、うちの母親と並んで大声で声援を送っていた。
試合が始まると、芽衣はすぐにシュートを決めた。俺は思わず立ち上がって声をあげた。芽衣が点を取った。それがただ嬉しかった。
試合は勝った。終了の笛が鳴ると、芽衣はチームメイトと抱き合って喜んでいた。チームメイトの男子が芽衣の肩をポンと叩く。芽衣が笑う。その笑顔は俺が何度も見てきた笑顔だった。でも今は、俺に向けられたものじゃなかった。
胸の奥が、ちりっと焼けるような感じがした。
名前をつけたくなかった。名前をつけたら、何かが変わってしまう気がした。
試合が終わって、芽衣が駆け寄ってきた。汗で髪が顔に張りついて、息がまだ弾んでいる。
「こうへい、みてた?」
「みてた」
「どうだった?」
「……すごかった」
もっと言いたいことがあった。シュートの瞬間かっこよかったとか、ドリブルが速かったとか。でも口から出てきたのは「すごかった」だけだった。
芽衣はちょっとだけ残念そうな顔をして、すぐに笑った。笑ったまま、指で目尻をこすった。
「そっか。またくる?」
「うん」
芽衣はうなずいて、チームメイトのもとへ走っていった。さっき肩を叩いた男子がまた何か話しかけている。芽衣が笑ってうなずいている。
俺はその背中を見送りながら、さっきのちりっとした感覚をもう一度思い出していた。正体はわかっているのに、認めたくなかった。認めてしまったら、いままでの「幼なじみ」が壊れてしまう。それが怖かった。
◆◆◆
五年生のバレンタインデー。
朝、玄関を出ると、芽衣が立っていた。手に小さな紙袋を持っている。
「これ、あげる」
中にはラッピングされたチョコレートが入っていた。不格好で、ちょっとだけ溶けかかっている。
「じぶんでつくったの。きょねんより、うまくできたとおもう」
芽衣はもじもじしながら俺の反応を待っている。
「……ありがと」
紙袋をランドセルにしまった。芽衣はほっとしたように笑って、「たべたら、かんそうおしえてね」と言って先に歩き出した。
ホワイトデーが近づいた。何を返そうか一週間ずっと考えて、文房具屋でいちばんシンプルな無地の便箋を買った。
家に帰って、机に向かった。
「すきだ」
書いた瞬間、心臓がばくばくした。三文字だけで全身が熱くなる。間違いなく、そう書いてある。
でも読み返すうちに、指の先が冷たくなっていった。
これを渡すのか。芽衣に。
想像した。紙を開いた芽衣が一瞬だけ固まる顔。「え」と言ったきり言葉が出てこない顔。困ったように笑って、「ありがとう……」と小さな声で言う顔。そのあと、どうなるんだろう。明日から芽衣は俺の教室に来なくなるかもしれない。「たいいくのじかん、たのしみだね」って、もう言ってくれないかもしれない。牛乳パックも届けてくれなくなるかもしれない。
それでも、もし。
もし芽衣が、困った顔をしなかったら。もし笑って、「ばかだね」って言ってくれたら。もし「私も」って言ってくれたら——
そこまで考えて、自分が嫌になった。ない。絶対にない。そう思えるだけのことを、俺は何もしていない。言いたいことがあるのに言えない。伝えたいことがあるのに伝えられない。頭の中には言葉が溢れているのに、口まで届く前にどこかで消えてしまう。
俺はその文字をじっと見つめた。
それから定規をあてて、二重線を引いた。
ぎゅっと筆圧をかけて三文字を消した。でも完全には消えなかった。ボールペンの跡が紙を凹ませていて、光にかざすと「すきだ」がうっすら浮かび上がった。
新しい行に「これからもよろしく」と書いた。封筒に入れて、のりで封をして、机のいちばん奥の引き出しにしまった。
引き出しを閉めたあと、もう一度開けて、手紙を取り出した。封筒を裏返す。表には何も書いていない。芽衣に渡すなら、名前を書くべきなんだろうか。それとも、手渡しなら書かなくていいのか。そんなことすらわからなかった。
当日は市販のクッキーだけを渡した。
「ありがと! おいしそう」
芽衣は嬉しそうにクッキーを受け取った。手紙のことは何も言わなかった。言えるわけがなかった。
手紙は、引き出しの奥で眠りつづけた。
翌朝、俺は引き出しを開けて、手紙を取り出した。封筒をポケットに入れる。学校で、もし芽衣に話しかけられたら。もし、いい感じの流れになったら、その時こそ。
教室に向かう足が重かった。ポケットの中で、封筒が歩くたびにかさりと音を立てる。その音が、自分だけに聞こえている気がして、心臓がうるさくなる。
結局、その日も渡せなかった。芽衣は休み時間に来たけど、いつも通り「たいいくのじかん、たのしみだね」と笑って、すぐに戻っていった。俺はポケットに手を入れたまま、何も言えなかった。
家に帰って、手紙を引き出しに戻す。封筒の端が、少しだけよれていた。
次の日も、その次の日も、手紙を持っていった。ポケットの中で、封筒はどんどんくたびれていった。それでも渡せなかった。一週間後、俺は手紙を引き出しに戻した。もう、しばらくは開けなかった。
◆◆◆
六年生の夏が来た。
地元の夏祭りが近づくと、町のあちこちにポスターが貼られた。神社の境内に屋台が並んで、夜には花火も上がる。毎年恒例の大きな祭りだった。
「こうへいくん、ことしのなつまつり、いっしょにいかない?」
芽衣がそう言ったのは祭りの三日前だった。放課後、二人で帰っているとき、芽衣が急に立ち止まった。
「あたらしいゆかた、かってもらったんだ。ことしはね、むらさきいろなの」
声が弾んでいた。目がきらきらしていて、浴衣を着るのを楽しみにしているのがよくわかった。俺と一緒に行けることを、心から楽しみにしている顔だった。
俺は「いいね」と言いかけて、口を閉じた。
数日前、クラスの男子たちに「夏祭りの夜、みんなで集まって花火しようぜ」と誘われ、なんとなく「行く」と返事をしてしまっていた。断る勇気がなかったのだ。
前の晩、布団の中でずっと考えていた。芽衣を誘おうか。でももう友達と約束してしまった。でも芽衣は浴衣を買ってもらったと言っていた。俺と行くつもりでいる。どうしよう。
LINEの画面を開いた。「夏祭り、一緒に行かない?」と打つ。指が止まる。送信ボタンを押せない。画面を閉じた。もう一度開く。また閉じる。そうしているうちに夜が明けた。
結局、俺は何も送れなかった。
「……ごめん、その日、クラスのやつと約束してて」
芽衣の笑顔が、一瞬で消えた。
目をそらした。芽衣の顔をまっすぐ見られなかった。さっきまで弾んでいた声が、嘘みたいに静かになった。
「……そっか」
芽衣の声は思ったより落ち着いていた。
「じゃあ、しかたないね。またらいねん、いこ」
「……うん。ごめん」
「あやまらなくていいよ」
芽衣はそう言って、また歩き出した。それからの帰り道、芽衣はほとんど口をきかなかった。浴衣の話もしなかった。下駄箱で別れるとき、芽衣は笑顔で手をふった。でもその手が、いつもより少しだけ早く下りたのを、俺は見ていた。見ていたのに、何も言えなかった。
◆◆◆
その夜、俺は引き出しを開けて、手紙を手に取った。ポケットに入れる。封筒はもう、何度も持ち歩いたせいでくたびれていた。それでも、これしかないと思った。
外に出る。夏の夜の生ぬるい風が、肌にまとわりつく。芽衣の家の前に立った。インターホンに手を伸ばす。指が、ボタンの直前で止まった。
そのとき、窓から芽衣の笑い声が聞こえた。母親と楽しそうに話している。
「明日、すごく楽しみ! 新しい浴衣、絶対かわいいって言ってもらうんだ!」
明るい声だった。さっき下駄箱で見せた曇った顔が嘘みたいに、嬉しそうだった。誰と行くんだろう。友達と行くのが、そんなに楽しみなんだろうか。俺と行けなくなったのに、あんなに明るく笑えるんだ。
俺がいなくても、芽衣は笑えるんだ。
インターホンから指を離した。
手紙を握りしめたまま、家に帰った。封筒は手の中でくしゃりと音を立てた。引き出しに戻そうとして、やめた。机の上に置いたまま、その夜は一睡もできなかった。
翌朝、俺は手紙をそっと引き出しに戻した。封筒には、昨夜の握りしめた跡がくっきりとついていた。
◆◆◆
夏祭りの日。友達と河川敷に集まって花火をした。火をつけて振り回して、消えるまでの十数秒だけ派手に光る。楽しいはずなのに、頭の中は芽衣のことばかりだった。
今ごろ芽衣は、神社の参道を歩いているんだろうか。友達と楽しそうに笑っているんだろうか。浴衣、誰かにかわいいって言ってもらえたんだろうか。
線香花火がぽとんと落ちた。
「なにぼーっとしてんだよ」
友達に肩を叩かれて我に返った。
「なんでもない」
新しい花火に火をつけた。
祭りの数日後、芽衣が家に来た。
「これ、あげる」
差し出されたのは、透明な袋に入ったりんご飴だった。
「ひとりでたべるのさみしくて、ふたつかっちゃった。ひとつあげる」
芽衣はいつもみたいに笑った。責める言葉は何ひとつなかった。
「いや、俺、祭り行けなかったし……」
「いいから。もらって」
俺の手にりんご飴を押しつけて、「じゃあね」と手をふった。それだけだった。
しばらく動けなかった。手のひらの上のりんご飴が、じわじわと溶けていく。透明な袋の中で、赤い飴が自分の形を失っていくのを、ただ見つめていた。
もし、これが言葉だったらよかったのに。そう思った。りんご飴みたいに、甘くて、透明で、誰にでも渡せるものだったら。でも俺の気持ちは、いつも喉の奥でつっかえて、形にならないまま溶けていく。
それから数日後、近所のおばさんが立ち話をしているのを、偶然聞いてしまった。
「芽衣ちゃん、祭りの日、ずいぶん遅くまで一人で歩いてたんですってね」
「そうなのよ。本当は航平くんが来てくれるかもしれないからって、新しい浴衣まで着て、すごく楽しみにしてたのに」
「あらまあ」
「約束してたわけじゃないみたいだけど、ずっと待ってたみたいで。かわいそうに」
俺はその場を離れた。足の感覚がなかった。
新しい浴衣。俺が来るのを待っていた。あの夜、窓から聞こえた楽しそうな声は、俺以外の誰かとの約束じゃなかった。俺に「かわいい」って言ってもらうための浴衣だったんだ。
全部、俺のためのものだったのに。
気がついたら、家に帰っていた。机の引き出しを開けて、手紙を見つめる。握りしめた跡がついた封筒。あの夜、インターホンを押せなかった自分の指を思い出す。
芽衣は俺を待っていた。俺は、その「誰か」になれなかった。
りんご飴は食べられなかった。冷蔵庫に入れたまま、三日後に母親が片づけていた。棒だけがゴミ箱の中で、やけに白く目立っていた。
◆◆◆
それからの半年間、俺は芽衣の顔をまともに見られなかった。
学校で会っても、目を合わせられなかった。芽衣は何も変わらない笑顔を向けてくれた。それが、余計に苦しかった。謝ることすらできなかった。あの夜、インターホンを押さなかったことを、芽衣は知らない。知らないから、笑えるんだ。
俺はただ、毎日をやり過ごした。芽衣の隣にいる資格なんて、もうないと思った。それでも、離れる勇気もなかった。
◆◆◆
三月、卒業式。
体育館で卒業証書をもらったあと、校庭は記念撮影の嵐になった。あちこちでシャッター音が鳴っている。
校庭のすみで、芽衣が数人の男子に囲まれているのが見えた。
「朝倉さん、第二ボタンちょうだい!」
「ずるい、俺も!」
芽衣は困ったように笑いながら、「えー、どうしよう」と言っている。
俺はその光景を、ただ遠くから見ていた。
足元の地面が、急に消え失せたような感覚がした。声をかけたかった。でも足が動かなかった。
写真を撮り終えた芽衣が、俺に気づいて走ってくる。
「こうへい! しゃしんとろ!」
「……うん」
二人並んで、母親のカメラに収まる。芽衣は無邪気にピースサイン。俺はぎこちない笑顔。
帰り道、芽衣が言った。
「ちゅうがくでも、いっしょだね」
「うん」
「またあしたから、いっしょにかよおうね」
「うん」
夏祭りの過ちを、まだ取り戻せるはずだ。俺の居場所はまだあるはずだ。まだ大丈夫だ。あと三年もある。焦らなくてもいい。いつか、ちゃんと伝えればいい。
そう自分に言い聞かせていた。
「こうへい、どうしたの?」
「……なんでもない」
芽衣はちょっと首をかしげて、それから笑った。笑う前に、一瞬だけ、何かを言いかけたような気がした。でも芽衣はすぐに口を閉じて、スキップしながら桜並木の下を歩いていく。
桜はまだつぼみだった。入学式のころに満開になるんだろう。
俺はその背中を見ながら、まだ大丈夫だと、心の中で必死にくり返していた。
家の前で別れるとき、芽衣がふり返った。
「じゃあね、こうへいくん。ちゅうがくでも、よろしくね」
笑顔だった。あのころと変わらない、ひまわりみたいな笑顔だった。
ランドセルがやけに軽く感じた。六年間ずっと背負ってきたものが、明日からはなくなる。でも芽衣が隣にいることは変わらない。そう思っていた。そう思いたかった。
家に帰って、机の引き出しを開ける。手紙はまだ奥にある。握りしめた跡がついた封筒。破れかけた端。何度もポケットに入れて、何度も引き出しに戻した手紙。もう、新品だった頃の面影はない。
俺は手紙を手に取って、そして押し込んだ。引き出しのいちばん奥に。まるで二度と目に入らないようにするみたいに。
中学こそ、ちゃんと言おう。今度こそ。
でも、もしまた、言えなかったら。もしまた、同じことを繰り返したら。そんな思いが、胸の奥で渦を巻いている。
窓の外を見る。隣の家の明かりが、カーテンの向こうで揺れている。芽衣はあそこにいる。たった数メートル先に、十年間ずっといた。これからも、きっといる。