幼なじみの終わらせかた 作:朱雨
中学校の入学式は、四月とは思えないくらい暖かい日だった。
満開の桜が風に揺れて、花びらが校門までの道をうすい紅色に染めている。新しい制服を着た大勢の新入生が、期待と不安の混ざった顔で校舎へと吸い込まれていく。俺もその中の一人だった。
「こうへい!」
後ろから名前を呼ばれて振り返ると、芽衣が走ってくるところだった。真新しい制服に、まだ慣れていないスカートが揺れている。
「いっしょにいこ!」
小学校の卒業式のときと同じ、ひまわりみたいな笑顔だった。その笑顔を見て、俺はほっと胸をなで下ろした。見限られてはいない。まだ大丈夫だ。その安堵が、背中に張りついていた罪悪感を少しだけ軽くした。
クラス発表の掲示板の前で、芽衣が真っ先に番号を見つけた。
「あ、私、五組だ。こうへいは?」
俺は掲示板を端から順にたどった。心臓がうるさい。一緒のクラスになりたい。今度こそ隣の席で——。
「あった。一組だ」
芽衣は一瞬だけ残念そうな顔をして、すぐに笑った。
「ちょっと遠いね。でも、休み時間に会えるよ!」
「……うん」
部活動の勧誘は入学式の翌日から始まった。芽衣は迷わず女子バスケ部に入部届を出した。俺は一週間迷った末に、文芸部にした。活動は週に二回。それ以外の日は図書室で本を読んで過ごせる。何より、芽衣の部活が終わるのを待つにはちょうどいい。
待つことなら、俺は得意だった。自分から動くより、誰かを待つ方がずっと楽だった。
◆◆◆
四月の半ばから、芽衣の朝練が始まった。
毎朝七時に家を出る芽衣。俺が起きるのはその三十分後だ。気がつくと、一緒に登校することはなくなっていた。最初のうちは芽衣がLINEをくれた。「先に行くね」「了解」。たったそれだけのやりとりだったけど、それだけでつながっている気がした。
でも、朝練がない日も、芽衣は一緒に登校しなくなった。部活の友達と約束しているらしい。
「今日は大丈夫?」
その一言が打てなかった。大丈夫じゃないなら、何が大丈夫じゃないのか。一緒に来てほしい、なんて言える立場じゃない。芽衣は俺に笑いかけてくれる。それだけで十分だと思わなければいけないのに、もっと欲しいと思ってしまう自分がいた。
部活がない日は、二人で帰ることができた。週に二回か三回。体育館の前で待っていると、汗をふきながら芽衣が出てくる。タオルを首にかけて、まだ濡れた髪がこめかみに張りついている。
「またせた!」
「べつに」
図書室で本を読んでいたから、待つのは苦じゃなかった。というより、芽衣を待つことだけが、俺の部活みたいなものだった。
帰り道、芽衣はバスケ部の話をしていた。先輩は優しいか、同級生はどんな子か、どんな練習をしているか。声が弾んでいて、身振り手振りを交えながら、まるで今日あったことを全部俺に伝えようとするみたいに話し続ける。歩く速度が少しだけ速くなる。笑い声が大きくて、通りすがりの人が振り返ることもあった。
俺は相槌を打つだけで、自分の話はほとんどしなかった。それでも芽衣は嬉しそうだった。俺が隣にいるだけで、それでいいと言っているように見えた。ときどき、芽衣は俺の顔をちらりと見て、何かを確かめるように笑った。その笑顔には、まだ曇りがなかった。
「こうへいは? ぶんげいぶ、たのしい?」
「……まあ、それなりに」
「そっか」
会話はだんだん短くなっていった。それでも、芽衣は「また明日ね」と言って手をふった。その笑顔を見ると、まだ大丈夫だと思えた。芽衣が笑いかけてくれる限り、俺の居場所はまだある。そのことに安堵しながら、俺は夏祭りの罪悪感を心の奥に沈めていた。
◆◆◆
十一月。中間テストが終わって、借りていた数学のノートを返すために体育館へ向かった。
体育館に着くと、ちょうど練習が終わったところだった。女子バスケ部員たちがコートの片付けをしている。ネットを外し、モップをかけ、ボールを籠に集める。
芽衣が一人で、重そうなボール籠を運ぼうとしていた。手伝おうかと思った。でも足が動かない。手伝って「重い」と言われたら? 勝手に触って迷惑がられたら?
その数秒の逡巡の間に、背の高い男子がさっと近づいた。ユニフォームの袖から伸びる腕がやけに長くて、遠くからでもすぐにわかった。汗で濡れた髪をタオルで拭きながら、無言でボール籠の片側を持った。
「あ、ありがとう」
芽衣が笑った。その笑顔は、俺に向ける幼なじみの笑顔とは違う、年相応の女の子の顔だった。
「いいって」
男子が笑う。芽衣も笑う。自然な距離だった。
俺は体育館の入り口に立ったまま、指先が冷たくなっていくのを感じていた。あんな風に、自然に手伝えばよかったんだ。でも俺にはできなかった。
「こうへい!」
芽衣が俺に気づいて手をふる。その後ろで、さっきの男子もこっちを見ていた。目が一瞬だけ合った気がした。
「ノート、ありがと。返すの遅くなってごめんね」
「……べつに」
「あ、そうだ。紹介するね。同じバスケ部の」
「いいよ。急いでるから」
俺は芽衣の言葉をさえぎって、ノートを押しつけるように渡した。芽衣は少し驚いた顔をして、それから「……そっか」とだけ言った。声のトーンが、ほんの少しだけ低くなった気がした。
体育館を出るとき、もう一度だけ振り返りそうになった。でも、振り返らなかった。振り返ったら、自分の情けなさを直視することになる。
背の高い男子。名前も知らない。ただ、芽衣の隣で、俺ができなかったことを自然にやってのけた。それだけが、胸の奥に小さな棘のように引っかかっていた。
◆◆◆
二年生になった。
芽衣は副キャプテンになり、さらに忙しくなった。一年生を指導する立場になって、練習後のミーティングも長くなったらしい。一緒に帰れる日は、月に数えるほどになった。
そのぶん、芽衣の名前を聞く機会は増えた。廊下ですれ違うとき、教室で弁当を食べているとき、男子が芽衣の話をしているのを何度も耳にした。
「朝倉さん、バスケの副キャプテンになったんだって」
「まじですごいよな。しかもかわいいし」
「告ろうかな」
俺は聞こえないふりをして、弁当を口に押し込んだ。でも、口の中の味がしなくなった。
昼休み、高橋が弁当を持って俺の机にやってきた。高橋は同じクラスの友人で、中学に入ってからよく話すようになった。サッカー部に所属していて、明るくて、思ったことをすぐ口にする性格だ。
「お前さ、朝倉のこと好きなんだろ」
ストレートだった。
「……ちがう」
「またそれかよ」
高橋は弁当の唐揚げを箸でつまみながら、じろりと俺を見た。
「なあ、幼なじみってだけでこんなに一緒にいるやつ、いるか? 朝倉だって、お前のこと絶対意識してるぞ」
「意識って……」
「わかんねえかなあ。普通、幼なじみに牛乳届けに来たりしねえよ。一緒に帰ったりしねえよ。お前が何も言わねえから、あっちも言い出せねえんだよ」
図星だった。言い返せなかった。
「そういえばさ、男子バスケ部の黒瀬ってやつと仲良いって噂だぞ。合同練習でよく一緒になるらしい」
黒瀬。聞いたことのない名前だった。でも、すぐにあの背の高い男子の顔が浮かんだ。根拠はなかったけど、たぶん、その黒瀬というのが、あの男子なんだろうと思った。箸を持った手が、止まった。
「高校でも一緒なんだろ? でもよ、三年待つのって結構長いぞ」
高橋は一度言葉を切って、箸を置いた。
「なあ、お前が何もしなかった時間も、相手にとっては時間なんだぞ」
その言葉が、腹の底に落ちた。
「誰かに取られても知らねえからな」
「取られるって……芽衣は俺のものじゃないし」
「そういう問題じゃねえって」
高橋はため息をついた。
「お前が行動しねえから、どんどんチャンス逃してんだよ。それだけの話だ」
わかっていた。高橋の言うことは正しい。でも、「まだ大丈夫」という言葉が、いつも頭の中に浮かんで足を止めさせる。高校でも一緒だ。あと二年ある。焦らなくてもいい。いつか、ちゃんと伝えればいい。
その言葉が、ただの自分への言い訳だってことには、まだ気づかないふりをしていた。
◆◆◆
十月。文化祭。
芽衣のクラスはたこ焼きの模擬店を出すという。「たこやき、うまくできたんだよ。こうへいも食べにきてね」。その笑顔は、昔と変わらない、ひまわりみたいな笑顔だった。
「絶対行くよ」
そう返事をしたのに、結局、行けなかった。クラスの展示の準備が押していて、片付けが終わったのは午後も遅くなってからだった。急いで芽衣のクラスに向かったけど、模擬店はもう片付けに入っていて、たこ焼きの鉄板も冷たくなっていた。
廊下を歩いていると、向こうから芽衣が歩いてくるのが見えた。一人だった。少し疲れたように、うつむき加減に歩いている。足取りが、いつもより重い。
「芽衣」
顔を上げた芽衣は、一瞬だけぼんやりとした表情を見せて、それから笑顔を作った。その笑顔になるまでの、ほんのわずかな間。見逃してもおかしくないくらいの、一瞬の遅れ。
「あ、こうへい。来てくれたんだ」
「……遅くなってごめん」
「いいよ。たこやき、売り切れちゃったけど」
「そっか」
模擬店の机の上に、食べかけのりんご飴が置いてあるのが目に入った。透明な袋に包まれた赤い飴。電球の明かりを反射して、てらてらと光っている。小学校のとき、芽衣が一人で祭りを回った夜。あのとき芽衣が渡してくれたりんご飴。俺は食べられなかった。
「それ、誰の?」
「あ、それね。黒瀬くんが買ってくれたんだけど……やっぱり、一人じゃ全部食べきれなくて」
芽衣は少し寂しそうに笑って、りんご飴を手に取った。「もう溶けかけてるから、捨てるね」と言って、ゴミ箱に入れる。
黒瀬。あの背の高い男子。俺が食べられなかったものを、黒瀬は簡単に買い与えた。それでも芽衣は、一人で食べきれなかった。黒瀬の隣でも、俺の記憶がまだ残っている——そんな風に、自分に都合よく考えてしまいそうになる。でも、違う。芽衣はただ、食べきれなかっただけだ。そこに意味なんてない。
「じゃあ、また明日」
芽衣は手をふって、友達のところへ走っていった。その後ろ姿を見送りながら、俺はしばらく動けなかった。
◆◆◆
十一月。久しぶりに芽衣と二人で帰る日があった。
部活が休みで、たまたま下校時間が重なったのだ。空はすっかり暗くなっていて、街灯がぽつりぽつりと点き始めていた。風が冷たくて、吐く息が白い。冬の匂いが混ざった空気が、肺の奥まで入ってくる。
芽衣は受験のことを気にし始めていた。三年生になって慌てないように、今のうちに苦手な教科を潰しておきたいと言う。自分の将来をちゃんとしている芽衣が、少しだけ遠くに感じた。
途中の公園の前で、芽衣がふと立ち止まった。
「ねえ、こうへい。将来のこととか、考えたことある?」
ブランコが風で揺れて、かすかな金属音を立てていた。錆びた鎖のきしむ音が、静かな住宅街に不自然に響く。
「将来?」
「うん。高校どこ行くとか、大学どうするとか……そういうの」
「まだあんまり。とりあえず近くの高校かな」
「そっか」
芽衣はブランコを見つめながら、少しだけ間を置いた。風が吹いて、ブランコがまた揺れた。芽衣の前髪が乱れて、顔にかかる。それを手で払いのけることもせず、芽衣はじっとブランコを見つめていた。ブランコは誰も乗っていないのに、風のたびにぎしぎしと揺れ続けた。
「私、意外とこうへいが何考えてるか、わかってないのかもね」
その声は、風に消えそうなくらい小さかった。
街灯の明かりが芽衣の横顔を照らしている。笑おうとしているのに、口元がうまく動いていなかった。唇がわずかに震えて、それからぎゅっと結ばれる。目の縁が、街灯の光を受けて少しだけ光っているように見えた。睫毛が震えている。
全身の血が、冷えていく。指先の感覚が消えた。胃の底に、重い鉛を飲み込んだような吐き気がする。
言わなければ。そう思うのに、口が開かない。言葉が喉の奥でつっかえて、一文字も出てこない。
風が吹いた。ブランコがまた揺れた。芽衣の前髪が、また顔にかかる。今度はそれを、ゆっくりと手で払った。その仕草があまりに静かで、何かを決定的に諦めたように見えた。
「ごめん、変なこと言って」
芽衣は自分から笑って、歩き出した。その笑顔は無理をしているように見えた。目の奥の光が、ほんの少しだけ翳っている。でも、街灯の明かりのせいかもしれない。風のせいかもしれない。
違う。違うんだ。わかっているのに、体が動かない。喉の奥で、言葉が音になる前に死んでいく。
家の前で別れるとき、芽衣はいつもより早く鍵を開けて中に入った。鍵を差し込む手が、ほんの少し震えていた。一度も振り返らないドアが、ゆっくりと閉まる。鍵のかかる音が、無機質に響いた。
俺はしばらく、そのドアを見つめていた。自分の手を見る。ポケットの中で、ずっと拳を握りしめていた。手のひらに爪の跡がくっきりとついている。
家に帰って、自分の部屋に入る。机の前に立って、いちばん奥の引き出しに手をかけた。開ける。手紙はまだある。封筒を取り出して、机の上に置いた。
小学校五年生のホワイトデーに書いた手紙。もう四年以上、ここにある。
封を切ろうとした。指が震える。封筒の端に指をかけて、少しだけ力を入れた。紙がわずかに裂ける音がした。
——やめた。
開けてどうするんだ。開けて、「すきだ」の二重線を見て、それで何が変わるんだ。俺は何も言えなかった。さっきも、今も、これからも。
手に取った手紙を、引き出しに戻す。代わりに、指先で封筒の端をなぞった。それだけで、息が詰まる。すぐに引き出しを閉めた。もう、あの頃みたいに何度も開けたりはしない。開けるのが怖かった。開けたら、自分の何かが終わってしまう気がした。
◆◆◆
三年生になった。
芽衣はついにキャプテンになった。練習は週五日。朝練も夕練もあって、俺が芽衣と顔を合わせるのは、廊下ですれ違うときくらいになった。
それでも、芽衣は「また明日ね」と笑う。でも、その笑顔が少しだけ、疲れているように見える時があった。目尻のあたりに、以前はなかった影がうっすらとある気がした。笑ったあとに、ほんの一瞬だけ無表情に戻る瞬間があった。それを俺が見ていることに、芽衣は気づいていない。
ある日の帰り道、芽衣の口から「黒瀬くん」という名前が出た。
「黒瀬くんがさ、練習の時にアドバイスくれて。フォームのことで悩んでたら、動画撮って見せてくれたんだ。そういうの、すごく助かる」
芽衣の声は明るかった。でも、その明るさが逆に引っかかった。無理に明るく話そうとしているような、そんな響きがあった。
「……よかったな」
「うん。こうへいも、文芸部でいい人できた?」
「べつに、そういうのは」
「そっか」
芽衣はそれ以上何も言わなかった。俺も何も聞かなかった。黒瀬という名前が、胸の奥で小さな棘のように引っかかったまま、会話は終わった。
七月、地元の夏祭りが近づいてきた。
小学生のとき、芽衣を一人で待たせた祭り。あのときの後悔が、三年経った今も刺さったままだ。今度こそ芽衣を誘おう。
そう思って、俺はLINEの文面を三日かけて書き直した。
「今年の夏祭り、一緒に行かない?」
送信ボタンを押した指が、少し震えていた。
返信はすぐに来た。
「ごめん! 部活の子たちと先約あって……。でも、途中からでよければ一緒に回らない? こうへいもそっち来てくれない?」
「部活の子たち」という言葉に、小学校の記憶がよぎった。今回は先約があるだけマシなのかもしれない。でも、部活の仲間に混ざって、俺は邪魔じゃないだろうか。それに、黒瀬もいるかもしれない。いや、たぶんいる。
「いいよ、楽しんできな。また今度」
送信した後に、しまったと思った。でも、もう取り消せなかった。
「また今度ね」
芽衣の返信には、昔のような弾んだ響きがなかった。絵文字もスタンプもない、たった五文字。考えすぎだと思おうとした。でも、スマホを閉じたあとも、しばらく画面を見つめていた。
祭りの夜、俺は一人で神社へ向かった。たこ焼きのソースの匂い、金魚すくいの水の音、あちこちから聞こえる笑い声。浴衣姿の人たちが楽しそうに行き交う中で、俺だけが場違いだった。
遠くに芽衣を見つけた。紫色の浴衣を着ていた。小学校のときと同じ色だ。まわりにはバスケ部の仲間が数人いて、みんな笑っている。その隣に、背の高い男子がいた。体育館でボール籠を持った、あの男子。芽衣が名前を口にした、黒瀬。
芽衣が何か言った。黒瀬が笑う。芽衣が黒瀬の肩を軽く叩く。自然な距離だった。一緒にいるのが当たり前というような、そんな距離だった。
人混みが動いた。すれ違う見知らぬ男に、芽衣がぶつかりそうになる。その瞬間、黒瀬の腕が自然に伸びて、芽衣の肩を引き寄せた。人波から庇うような仕草だった。芽衣は一瞬驚いた顔をして、それから少しだけ照れたように笑った。
俺は声をかけられなかった。今まで芽衣の隣にいて、あんな風に守ったことなんて一度もなかった。ただ隣にいるだけだった。それだけでいいと思っていた。でも、それだけじゃなかったんだ。
そのまま引き返して、来た道を戻った。りんご飴の屋台の前で、足が止まった。透明な袋に包まれた赤い飴が、電球の明かりを反射して光っている。買おうかと思った。手を伸ばした。でも、指が財布に届く前に、やめた。今さら俺が買って、どうするんだ。
小学校のとき、芽衣が渡してくれたりんご飴。食べられなかった。冷蔵庫に入れたまま、三日後に母親が片づけていた。あのときから、俺は何も変わっていない。
家に帰って、机の引き出しを開ける。手紙を取り出して、机の上に置いた。封筒を見つめる。開けられない手紙。渡せない手紙。
俺はこれでいいのか。ずっとこのままなのか。
封筒に手を伸ばす。指先がかすかに震えている。封を切ろうとして、やっぱりやめた。開けたら、何かが終わってしまう気がした。手紙を引き出しに戻して、布団に潜り込む。遠くから、祭りの太鼓の音がかすかに聞こえていた。
◆◆◆
二月。中学最後の定期テストが終わった。
机に突っ伏していると、廊下から声が聞こえた。
「こうへい」
顔を上げると、芽衣が立っていた。教室の入り口のところで、鞄を両手で抱えている。まわりにいたクラスメイトがちらりと芽衣を見て、それから何事もなかったかのように視線をそらした。
「今日、一緒に帰らない? 話したいこと、あるんだ」
芽衣の声は少し硬かった。でも、目はまっすぐに俺を見ている。その目の奥に、何かが揺れているように見えた。
その目を見た瞬間、聞きたくないと思った。聞けば、俺の居場所が完全に消滅する気がした。「話したいこと」の内容が、黒瀬への想いか、自分への別れか——どちらにせよ、俺にとっての終わりだ。言葉が喉に張りつく。足が動かない。全身の血が、指先から抜けていくようだった。
頭に浮かんだのは、逃げ道だった。高橋から「バスケ部の練習試合を見に来い。黒瀬ってすごい選手が出るんだよ」と誘われていたこと。ポケットの中でスマホを握りしめる。手のひらが汗で濡れている。頭の片隅で、高橋の言葉が繰り返される——「お前が何もしなかった時間も、相手にとっては時間なんだぞ」。
「ごめん。今日、バスケ部の練習試合を見に行く約束、してて。明日じゃ、ダメかな」
芽衣の顔から、表情が消えた。
怒りでも悲しみでもない。ただ、何かが静かに終わったような顔だった。目の奥で揺れていた光が、ふっと消えたように見えた。
「……わかった。じゃあ、また今度ね」
芽衣は笑わなかった。手をふらなかった。鞄を抱えなおして、背を向ける。歩き出すスピードが次第に速くなる。でも、走りはしなかった。ただ、少しだけ早足で、人混みの中に消えていった。
一度も振り返らなかった。
また今度——その言葉が、棘のように胸に刺さったまま抜けない。小学校のときの「また来年」は希望だった。でも、今の「また今度」は違う。もう二度と、この言葉を芽衣から聞くことはないだろう。自分で逃げたくせに、その事実が喉の奥に詰まって、息ができなかった。
俺はその後ろ姿を見送りながら、声を出そうとした。でも、喉がからからに渇いていて、声が出なかった。足が地面に張りついたみたいに動かない。手はポケットの中で、スマホを握りしめていた。肩が重い。息が浅い。
逃げたのは自分なのに、取り残されたように感じた。
芽衣が最後に見せた、あの光の消えた目。それが何を意味しているのか、考えたくなかった。考えたら、何かが決定的に壊れてしまう気がした。
体育館に着くと、練習試合はすでに始まっていた。
「遅かったな」
「……ちょっとな」
ぼんやりと試合を眺めながら、芽衣の顔を思い出していた。笑わなかった芽衣。手をふらなかった芽衣。光の消えた目。そして、「また今度ね」——あの言葉が、ずっと耳の奥で繰り返されている。
「ほら、あれが黒瀬だよ」
高橋の声で我に返った。コートの中央で、背の高い選手がボールを持っている。体育館で芽衣と一緒にいた男子。夏祭りの夜、芽衣の隣で静かにうなずいていた男子。文化祭でりんご飴を買った男子。芽衣の肩を引き寄せた男子。
颯真という名前を、このとき初めて知った。
試合を見ても、芽衣の言葉が頭から離れなかった。聞きたくなかった。だから逃げた。その結果が、これだ。
その夜、家に帰ってから、机の引き出しを開けた。
手紙がまだそこにある。封を切っていない、小学校五年生のホワイトデーに書いた手紙。
手に取ろうとして、指が震える。封筒の端に指をかけて、少しだけ力を入れた。紙がわずかに裂ける音がした。
——やめた。
開けたら、十年間が終わってしまう。そんな気がした。
「今さら、渡しても意味ないよな」
声に出して言ってみる。その言葉は、誰もいない部屋に吸い込まれて消えた。手紙を引き出しに戻す。代わりに、指先で封筒の端をなぞった。それだけで、息が詰まる。すぐに引き出しを閉めた。
一晩中、天井を見つめていた。朝日が差し込んできた頃、もう一度だけ引き出しを開けて、奥にある封筒を見つめた。開けなかった。ただ、そこにあることを確かめて、また閉じた。
◆◆◆
三月。芽衣との連絡は、ほとんど途絶えた。
学校で顔を合わせることはあっても、芽衣はいつも誰かと一緒だった。バスケ部の後輩だったり、同じクラスの女子だったり、あるいは颯真だったり。俺が話しかける隙はなかった。いや、隙はあったのかもしれない。でも、俺からは話しかけなかった。話しかけたら、自分の逃げた結果を直視することになる。
それでも、まだ信じていた。高校でも一緒だ。あと三年ある。まだ大丈夫だ。
卒業式の日、桜はまだつぼみだった。
式が終わって、校庭で記念撮影の嵐が続いている。俺は校門のそばで、母親同士が話し込むのを待っていた。芽衣の母親と俺の母親は、涙ぐみながら何やら話している。
隣に、芽衣が立っていた。
「高校も同じでよかったね」
「……うん」
「こうへい、高校でもよろしくね」
「うん。こちらこそ」
芽衣は微笑んだ。昔と変わらない、ひまわりみたいな笑顔だった。でも、目が少しだけ潤んでいた。一瞬、何かを言いかけたように口を開きかけて、やめる。唇がわずかに震えて、それから、もう一度笑った。その笑顔の理由を、俺は考えなかった。考えられなかった。
家に帰ってから、机の引き出しを開けた。手紙はまだある。握りしめた跡がついた封筒。破れかけた端。何度もポケットに入れて、何度も引き出しに戻した手紙。もう、新品だった頃の面影はない。
俺は手紙を手に取って、そして押し込んだ。引き出しのいちばん奥に。まるで二度と目に入らないようにするみたいに。
「高校こそ、ちゃんと言おう」
声に出して言ってみた。本気の決意だった。
でも、芽衣の「また今度」を思い出すと、喉の奥が詰まるような感覚があった。中学に入ってから、あの言葉を何度聞いただろう。小学校のときとは違う響きだった。最後の「また今度ね」は、もう二度と訪れない「次」だった。手をふらなかった芽衣。笑わなかった芽衣。目の光が消えた芽衣。そして、決別の言葉。
それでも、まだ大丈夫だ。あと三年ある。夏祭りの過ちを、まだ取り戻せるはずだ。
呪文のようにくり返しながら、目を閉じた。手紙は、引き出しの奥で、もう二度と開けられないまま眠っている。芽衣の「また今度ね」が、耳の奥でずっと繰り返されていた。