幼なじみの終わらせかた   作:朱雨

3 / 3
十年越しのラブレター

 青藍高校の入学式は、あいかわらず暖かい日だった。

 

 満開の桜が風に揺れて、花びらが校門までの道をうすい紅色に染めている。新しい制服を着た大勢の新入生が、期待と不安の混ざった顔で校舎へと吸い込まれていく。その中で、俺はただ立ち尽くしていた。芽衣の姿を探そうとして、やめた。どうせクラスは違う。

 

 三組と七組。今度は階まで違った。それでも芽衣は「休み時間に会えるよ」と笑った。昔と変わらない、ひまわりみたいな笑顔だった。俺はその笑顔に、まだすがっていた。中学の最後に逃げたことを、心の奥に押し込めたまま、日常に紛れさせていた。

 

 芽衣は女子バスケ部のキャプテンになり、俺は文芸部を続けた。颯真が男子バスケ部のキャプテンに選ばれたことは、廊下に貼られた部活紹介のポスターを見て初めて知った。芽衣と颯真は合同練習で顔を合わせる機会が多く、体育館の前を通るたびに、二人が笑いながら話している姿を見かけた。

 

 それでも俺は、「まだ大丈夫」と思っていた。高校でも一緒だ。あと三年ある。まだ時間は残っている。そう思わなければ、自分を保てなかった。

 

 ◆◆◆

 

 秋のはじめ、廊下を歩いていると、芽衣と颯真が並んで話しているのを見かけた。芽衣が何か言って、颯真が笑う。颯真が何か言って、芽衣が笑う。その距離は、中学の頃よりもずっと近くなっていた。俺は声をかけられず、そのまま二人を見送った。

 

 その日の帰り道、芽衣が「黒瀬くんがさ、今日の練習でこんなこと言ってくれて」と話し始めた。声が少しだけ弾んでいる。俺は相槌を打ちながら、黒瀬の名前が芽衣の口から出るたびに、胸の奥が冷たくなっていくのを感じていた。以前は「部活の先輩」だった黒瀬が、今では「黒瀬くん」に変わっている。呼び方の変化が、二人の距離を物語っていた。

 

 十一月。芽衣がキャプテンとしてのプレッシャーに押しつぶされそうになっているのを、体育館の裏手で見かけた。一人で壁にもたれて、うつむいている。声をかけようと思った。でも足が動かない。「大丈夫か」の一言が、喉の奥でつっかえて出てこなかった。俺に何ができる。俺が声をかけたところで、芽衣の疲れが消えるわけじゃない。余計なお世話かもしれない。

 

 そうやって立ち止まっている数秒の間に、背の高い男子が芽衣の隣に立った。

 

「無理するなよ。お前が背負い込みすぎるの、周りもわかってるから」

 

 颯真の声は、風に消されないくらい静かで、でも確かに芽衣に届いていた。芽衣は顔を上げて、少しだけ驚いた表情を見せてから、肩の力を抜いて笑った。

 

「……ありがと」

 

 その笑顔は、俺に向ける幼なじみの顔とは違う、少しだけ弱さを見せた女の子の顔だった。誰かに弱音を吐くことを、芽衣は俺にはしなかった。いや、俺がさせなかったんだ。俺がいつも一歩引いていたから、芽衣は俺に甘えることを覚えなかった。

 

 颯真が芽衣の頭を軽くぽんと叩いて、体育館に戻っていく。芽衣はその後ろ姿を少しだけ見つめてから、深呼吸をして、自分も体育館に戻っていった。

 

 俺は壁の陰に立ったまま、指先が冷たくなっていくのを感じていた。あんな言葉すら、俺にはかけられなかった。芽衣が疲れているのを知っていながら、何もできなかった。颯真は、また俺のできないことを自然にやった。

 

 その夜、机の引き出しに手をかけて、やっぱり開けられなかった。手紙はまだ奥にある。握りしめた跡、破れかけた端。十年の重みが封筒に刻まれている。開ける勇気すら、もう残っていなかった。

 

 ◆◆◆

 

 年が明けて、三年生になる前の春。廊下で颯真とすれ違ったとき、颯真が小さく頭を下げた。嫌味の欠片もない、爽やかな会釈だった。俺もぎこちなく会釈を返す。すれ違ったあと、振り返りそうになって、やめた。

 

 その日の放課後、芽衣と颯真が並んで歩いているのを、また見かけた。颯真が芽衣の肩に手を置いている。自然な仕草だった。芽衣はそれを拒まず、むしろ少しだけ寄り添うように歩いていた。

 

 俺はその場に立ち尽くしたまま、二人の後ろ姿を見送った。声をかける資格すら、もう自分にはない気がした。

 

 ◆◆◆

 

 三年生の秋。高橋に呼び出されたのは、放課後の屋上だった。

 

 高橋も同じ青藍高校に進学していた。サッカー部でレギュラーを取ったらしい。忙しいはずなのに、わざわざ俺のために時間を作ったのが、話の重さを物語っていた。

 

「お前、朝倉のこと諦めたのかよ」

 

「諦めるも何も、別に」

 

「嘘つけ」

 

 高橋は屋上の柵にもたれかかって、空を見上げた。灰色の雲が、風に流されている。

 

「黒瀬と朝倉、もうほぼ付き合ってるみたいなもんだぞ。知ってたか」

 

 知っていた。見ないふりをしていただけだ。

 

「お前が言わねえから、全部持ってかれたんだよ」

 

「言ったところで、何が変わるんだ」

 

「変わらねえよ。もうな」

 

 高橋は吐き捨てるように言って、それから俺の方を見た。

 

「なあ、『まだ大丈夫』って、お前、それいつまで言うつもりなんだよ。相手の時間は、お前が止まってても進むんだぞ。小学校の頃からずっとだ。何年経ったと思ってんだ」

 

 言葉が出なかった。高橋の言うことは全部正しい。正しすぎて、耳を塞ぎたくなる。

 

「でもよ」

 

 高橋は少しだけ声を柔らかくした。

 

「お前が本気で言おうとしてるなら、今からでも遅くねえんじゃねえの。結果はどうあれ、何もしねえよりはマシだろ」

 

「……結果がどうあれ、か」

 

「そうだよ。お前がずっと逃げてきたツケを、これ以上増やすな」

 

 高橋はそれだけ言うと、軽く手を上げて屋上を出ていった。一人になって、冷たい風が吹き抜ける。冬の匂いが混ざった空気が、肺の奥まで入ってくる。

 

 その夜、俺は数年ぶりに机の一番深い引き出しを開けた。手紙はまだ奥にある。握りしめた跡がついた封筒。破れかけた端。何度もポケットに入れて、何度も引き出しに戻した手紙。もう新品だった頃の面影はない。でも、まだここにある。

 

 手に取った。封筒の感触は、記憶よりもずっと軽かった。

 

 なかよし公園の桜の木の下で、十年分の想いを伝える。場所は決まっていた。約束の場所。そこで、ちゃんと言おう。「好きだ」と。

 

 LINEの画面を開いた。「話したいことがある。なかよし公園で待ってる」と打つ。指が震える。送信ボタンに指をかけた。

 

 その瞬間、スマホが震えた。芽衣からのLINEだった。

 

『明日、放課後に話したいことがある。なかよし公園で待ってるね』

 

 指が止まった。画面を見つめたまま、動けなくなる。

 

 芽衣の方から「話したいこと」と言ってきた。場所はなかよし公園——約束の場所。

 

 もしかしたら。いや、それは都合が良すぎる考えだ。俺が何度も逃げてきた結果を、芽衣は全部知っている。それでも、もしかしたら——

 

 震える指で「わかった」と打った。

 

 その夜、一睡もできなかった。手紙を胸の上に置いて、天井を見つめ続けた。心臓の音がうるさくて、何度も手紙を握りしめた。封筒はくしゃりと音を立てて、また新しい跡がついた。

 

 ◆◆◆

 

 放課後。空は曇っていて、冷たい風が吹いていた。

 

 なかよし公園の桜の木は、裸の枝を空に伸ばしている。葉は一枚も残っていなかった。花どころか、葉すらない。ただ枝だけが、寒空に向かって広がっている。

 

 芽衣はもう来ていた。コートを着込み、マフラーを巻いて、桜の木の下に立っている。うつむいていて、俺が近づくまで気づかなかった。

 

「来てくれて、ありがとう」

 

 顔を上げた芽衣の表情は硬かった。それだけで、これから話されることが嬉しい話じゃないとわかった。

 

「私、黒瀬くんと付き合うことになったの」

 

 世界から音が消えた。風の音も、遠くの車の音も、何もかもが遠くなって、芽衣の声だけが妙にくっきりと聞こえた。胃の底が、冷たくなっていく。

 

「ずっと、言えなくてごめんね。でも、こうへいにだけは、ちゃんと伝えなきゃって思ってた。誰よりも先に」

 

 必死に笑顔を作る。これが、自分にできる唯一のことだと思った。

 

「そっか。おめでとう」

 

 声は震えていなかった。それだけが、せめてものプライドだった。中身なんて、何もなかった。ただの音の羅列だった。

 

 芽衣の目から涙がこぼれる。彼女は泣きながら、笑おうとしている。

 

「ありがとう。……私、こうへいのこと、ずっと待ってたんだよ。小学校の頃からずっと。こうへいが言ってくれるの、待ってた」

 

 初めて聞く、芽衣の本音。その言葉が胸を貫く。

 

「でも、待つのに疲れちゃった」

 

 芽衣は一度言葉を切って、また続けた。

 

「こうへいを嫌いになったわけじゃない。今でも大切。それは変わらない。でも、黒瀬くんは、ちゃんと向き合ってくれて、ちゃんと言葉で伝えてくれて……私は、私のことをちゃんと見てくれる人と、前に進みたい」

 

 芽衣は言葉を詰まらせた。

 

 俺は何も言えなかった。「わかってる」の一言さえ、出てこなかった。ただ立っていた。自分が何もしてこなかったこと。芽衣を何年も待たせて、すり減らしていたこと。颯真は、ただ誠実に想いを伝えただけ。誰も悪くない。悪いのは、一歩を踏み出せなかった自分だけ。

 

 そのことが、頭ではわかっていた。でも、わかることと、受け止めることは、まったく別の作業だった。

 

「ごめんね、ありがとう。……こうへいも、幸せになってね」

 

 芽衣が立ち去ろうとする。その背中を見て、俺はポケットの手紙を握りしめた。

 

「待って」

 

 声が出た。自分でも驚いた。芽衣が振り返る。

 

「これ……ずっと渡せなかった。今さらだけど」

 

 手紙を差し出す。手が震えていた。封筒はくたびれて、握りしめた跡だらけだった。膝の力が抜けそうで、必死に足を踏ん張る。指先の感覚が消えていく。

 

 芽衣は驚いた顔で手紙を受け取る。封を切る。便箋を開く。

 

 数秒、動きが止まった。

 

「……これ」

 

 芽衣の指が、便箋の一点をなぞる。二重線で消された、三文字。

 

「"すきだ"って、書いてある。……消して、あるけど」

 

「……小五の、ホワイトデー」

 

 芽衣は、泣きながら、笑った。怒りでも拒絶でもない。ただ少しだけ困ったように、そして懐かしむように、目を細めた。その表情を見た瞬間、全身の血が冷えていくのがわかった。

 

「五年生の時から、書いてたんだ。書いて、消して、しまってたんだ。ずっと」

 

 芽衣は手紙を胸の前で両手で持ち、それから俺を見た。涙で顔がぐしゃぐしゃだったけど、その目はどこまでも優しかった。

 

「……ありがとう。あの頃、私もこうへいくんのこと、好きだったよ」

 

 過去形だった。あの頃。好きだった。

 

 彼女はもう、俺の想いを現在のものとして扱ってくれない。完全に過去の思い出として、優しく、丁寧に、その胸にしまおうとしている。拒絶された方が、どれだけよかったか。怒って突き返してくれた方が、どれだけ——。

 

 手紙は、芽衣の手に渡ったまま、返ってこなかった。

 

「ごめんね。ありがとう。……ばか」

 

「ばか」は、芽衣が俺に初めて言った、本気の言葉だった。そして、最後の言葉だった。

 

 芽衣は手紙を持ったまま、今度こそ走り去った。俺はその後ろ姿を見送ることしかできない。手の中には、もう何も残っていなかった。

 

 桜の木の下に、一人残された。風が吹く。裸の枝がかさかさと音を立てる。動けなかった。どれくらい、そうしていただろう。気がつくと、あたりはもう暗くなっていた。街灯が一つ、公園の入り口で点いている。

 

 考える。

 

 芽衣の鞄を抱えた手。一度も振り返らなかった後ろ姿。「わかった。じゃあね」の声。「また今度ね」の響き。中学の最後の日——あの日、芽衣が「一緒に帰ろう」と言った日。俺は颯真たちの応援を選んだ。

 

 あれが、彼女からの最後のサインだった。

 

「まだ大丈夫」——そう言い続けた日々は、あの日、完全に終わっていたんだ。

 

 俺が失ったのは今日じゃない。中学最後の日でもない。もっと前から、少しずつ、少しずつ、手からこぼれ落ちていた。それを「まだ大丈夫」と言い訳するたびに、芽衣の時間を奪っていた。

 

 颯真に悪気はない。芽衣にも悪気はない。俺が、何もしなかった。それだけだ。ずっと、それだけのことを、今日まで引き延ばしてきただけだ。

 

 ふと、小学六年生の夏祭りの夜を思い出す。あのとき芽衣が渡してくれた、透明な袋に入ったりんご飴。食べられなかった。冷蔵庫に入れたまま、三日後に母親が片づけていた。棒だけがゴミ箱の中で、やけに白く目立っていた。あの飴も、この手紙も、俺の手からこぼれ落ちた想いだ。違うのは、手紙は芽衣が持っていったことだけだ。

 

 家に帰って、机の前に立つ。引き出しを開けた。手紙はもうない。十年間、ここにあった手紙は、芽衣が持っていった。それが救いなのか罰なのか、まだわからない。ただ、空っぽになった引き出しの奥を見つめながら、俺はしばらく動けなかった。

 

 ◆◆◆

 

 数日後、廊下で高橋に会った。

 

 高橋は俺の顔を見て、何かを察したように、少しだけ眉を下げた。

 

「言ったのか」

 

「……言った。でも、過去形で返された」

 

 高橋はしばらく黙って、それから「そうか」とだけ言った。それから、俺の肩を軽く拳で叩く。

 

「……でも、お前、ついに言ったんだな」

 

 その言葉が、なぜか胸の奥にしみた。結果は何も変わらなかった。でも、言ったことを認めてくれる人間がいる。それだけで、少しだけ息ができる気がした。

 

「ありがとな」

 

 俺が言うと、高橋は照れくさそうに「ばかやろう」とだけ言って、去っていった。

 

 その日、廊下で颯真とすれ違った。颯真は俺に気づくと、一瞬だけ足を止めて、それから小さく頭を下げた。何も言わなかった。俺も何も言わなかった。芽衣から聞いたのかもしれないし、聞いていないのかもしれない。どちらでもよかった。もう、何を知られていても構わなかった。

 

 三年生になる頃には、芽衣と颯真が手をつないで歩いているのを見ても、心臓が跳ねることはなくなっていた。慣れたわけじゃない。ただ、痛みの場所が変わっただけだった。前は胸のあたりが焼けるように痛かった。今は、もっと奥の、名前のつけようがない場所が、いつも静かに冷えている。

 

 卒業式の日、桜は満開だった。

 

 芽衣は颯真と並んで笑っていた。かつて俺に向けられていた光が、今は別の誰かを照らしている。その光を見つめながら、俺は静かに目を閉じた。あの光は、もう俺のものじゃない。ずっと前から、そうだったのかもしれない。

 

 芽衣とは「卒業おめでとう」「そっちもね」の二言だけを交わした。それで終わりだった。十年間のすべてが、その二言に収まった。

 

 式の後、校門の前で高橋が待っていた。

 

「終わったな」

 

「……ああ」

 

「これからどうすんだ」

 

「わからない」

 

 高橋は少しだけ黙って、それから言った。

 

「まあ、終わったなら、次だろ」

 

 次。その言葉が、意外なほど自然に胸に落ちた。次があるのかどうかはわからない。でも、少なくとも、立ち止まっているだけの時間は終わったのかもしれない。

 

「そうだな」

 

 俺が答えると、高橋は満足そうに笑って、手を上げて去っていった。

 

 ◆◆◆

 

 式の後、俺は一人で歩いていた。

 

 なかよし公園へ向かおうとして、足が止まる。あの桜の木の下——約束の場所。手を引かれて立ったあの日。小指を絡めたあの瞬間。芽衣の小指は温かくて、自分の指は冷たくて、それが少しだけ恥ずかしかった。「ずっと一緒にいようね」「守らないと壊れる」。守れなかったのは、俺の方だった。

 

 結局、たどり着けなかった。公園の手前で、満開の桜を遠くに見つめながら、立ち尽くす。内ポケットには、もう手紙はない。手紙は芽衣が持っていった。それが、十年越しの答えだった。俺の十年間は、あの手紙と一緒に、芽衣の過去の中にしまわれた。

 

「まだ——」

 

 口に出しかけて、やめた。その言葉は、もう俺の中から消えていた。まだ大丈夫——そう言い続けた十年間は、あの冬の日に終わった。でも、終わったのは芽衣を待つ資格の方だった。俺の中の何かは、たぶん、あのまま止まっている。

 

 桜の花びらが、風に舞っている。春の陽気が、何もなかったように世界を包み込む。

 

 春が来れば、この桜はまた咲く。でも、その隣に立つのは、もう、俺じゃない。あの日の約束は、守られないまま、ここに残っている。手のひらに花びらが一枚、落ちてきた。それを指でつまんで、そっと離した。花びらは風に乗って、どこかへ消えていく。

 

 約束の場所に行く勇気もないまま、俺は春を見つめていた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
一言
0文字 一言(任意:500文字まで)
※評価値0,10は一言の入力が必須です。参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。