白布が去った後の病室は、妙に静かだった。
窓の外はオレンジ色に染まり始めていて、チェス盤の駒が長い影を落としている。
すずは、負けたのがよっぽど悔しいのか、ホワイトボードに『次、私が勝ったら罰ゲーム重くするから!』と書きなぐって、俺をジロリと睨んできた。
…さっきまで白布の前でシュンとしてた癖に、立ち直りが早すぎる。
俺は、サイドテーブルに置かれたままのペットボトルの水を一口含んだ。
喉の痛みは相変わらずだけど、昨夜のような「いつ終わるかわからない恐怖」は、今のこの空気の中にはない。
(…ま、こいつがこれだけ元気なら、いいか。)
俺はふと思い立って、ホワイトボードを引き寄せた。
ずっと、喉の奥に引っかかっていたことを、文字にする。
『俺、太一でいいよ そっちは?』
あえて、苗字じゃなく名前を提示してみた。
すずがホワイトボードを見て、一瞬、ペンの動きを止めた。
マスク越しでも、彼女が少しだけ戸惑ったのがわかる。
『じゃあ、私も「すず」でいい。苗字、堅苦しい。』
そう書いて、彼女は少し恥ずかしそうに視線を逸らした。
その仕草は、昨夜のあの「崩れ落ちた姿」とはまた違う、年相応の女の子の反応。
俺は、不意に湧き上がってきたイタズラ心を抑えきれず、さらにペンを走らせる。
『了解、すず
で、さっきの宣戦布告だけど。
次の検温バトルの罰ゲーム、俺が勝ったら「マスク外せ」ってのは
どう?』
書き終えて差し出すと、すずが目を見開いて固まった。
顔が、耳のあたりまでじわじわと赤くなっていくのがわかる。
(…お、いい反応)
昨夜、あんなに剥き出しの自分を見せていたのに、今さら「素顔を見せる」ことに照れている。
その矛盾が、なんだか無性に面白くて、愛おしい。
『バカじゃないの!? 病人の顔なんて、見て得することないでしょ!』
速攻で返ってきた猛抗議。
俺はそれを見て、声を出さずに肩で笑った。
『得とか損とか、そういう話じゃねーよ
俺が、見たいって言ってるだけ』
熱に浮かされた頭のせいか、いつもより少しだけ、言葉が真っ直ぐになりすぎる。
すずは、ボードの文字をじっと見つめたまま、今度はなかなかペンを動かさなかった。
(…あ、これ、やりすぎたわ)
固まったまま動かないすずを見て、少しだけ冷静な自分が頭をもたげる。
出会って二日目。
それも、お互いボロボロの入院患者。
そんな状況で「素顔を見せろ」なんて、ナンパどころかただの変質者だろ。
白布に聞かれたら、今度こそ点滴の速度を最大にされる。
でも、一度口に(文字に)しちまったもんは、取り下げられない。
それが白鳥沢の「負けを認めない」流儀だ…なんて、勝手な理屈を自分に言い聞かせる。
すずは、真っ赤な顔で必死にホワイトボードにペンを走らせた。
『不公平だよ! 太一だってマスクしてるじゃん!』
お、名前呼び。…悪くない。
俺は自分の口元を覆っている不織布に手をやり、不敵な笑みを隠さずに返した。
『じゃあ、セットでいいよ。俺が負けたら、俺も外す。 これなら五分(ごぶ)だろ?』
すずが「うっ…」と言葉に詰まったような顔をした。
彼女にとって、自分の「鎧」を脱ぐのは、研究やバイトができなくなることと同じくらい勇気がいることなのかもしれない。
でも、昨夜のあの「剥き出しの涙」を見た俺からすれば、今さら隠すものなんて何もない気がしている。
『わかった。勝負だよ、太一。
でも、さっき勝ったのは私だからね!次も絶対、私が勝つ!』
震える文字で書かれた、決死の承諾。
俺はそれを見て、満足げに喉の奥で笑った。
(…よっしゃ。乗ったな。)
相手の裏をかいて、望み通りの土俵に引きずり込んだ時のあの感覚。
バレーのコートで感じていたゾクゾクするような高揚感が、今、この狭い病室で再現されている。
喉は相変わらず燃えるように痛いが、気分は最高だった。
次の検温までは、あと数時間。
それまでに、なんとしてでも熱を下げなきゃいけない。
俺は、それまで「ただの不快感」でしかなかった体の火照りが、急に勝負のための「燃料」に変わったのを感じた。
『じゃ、それまでちょっと寝るわ』
俺はあえて背を向けて、布団に潜り込んだ。
すずに、自分のニヤけそうな顔を見られないように。
心臓の鼓動が、熱のせいか、それとも別の理由か、さっきよりもずっと激しく胸を叩いていた。
病室に流れる、夕暮れの穏やかな時間。
俺たちの「不謹慎な遊び」は、いつの間にか、もっと別の「何か」に変わり始めていた。