夜の検温。
勝負の刻(とき)が来た。
俺は布団の中で、脇を冷やして少しでも熱を下げるという悪あがきを済ませ、戦う準備を整えた。
隣のすずも、さっきから妙に姿勢を正して、気合十分といった様子だ。
そこへ、死神——じゃなくて、白布が無愛想なツラを構えて入ってきた。
「測れ」
二人に体温計が配られる。
運命の1分間。
ピピピッ、とほぼ同時に鳴った音。
俺は祈るような気持ちで画面を見た。
…37.8℃。よし、下がった! 下がったぞ!
隣を見ると、すずが顔を真っ青にして——いや、逆に赤くして固まっている。
彼女が震える手で差し出した体温計には、無情にも「38.2℃」の数字。
(…よっしゃ。俺の勝ちだ。)
俺は勝ち誇った顔でホワイトボードを掲げた。
『はい、俺の勝ち 約束通り、マスク外せ
俺も、セットで外してやるから』
「…お前ら、さっきから何やってんだ?」
白布の低い声が鼓膜に刺さる。
あ、忘れてた。
こいつ、まだいたんだ。
白布は俺たちのやり取りをゴミを見るような目で一瞥し、ため息をついた。
「すず。お前、熱上がってんじゃねーか。…太一、お前もだ。37℃台で調子に乗るな。安静にしろっつってんだろ。」
すると、すずが掠れた声で、必死に白布に食い下がった。
「……し、らぶ、せんせ……っ。……ハファリン、……ハファリンちょうだい……勝ち、たい...。」
「……あ?」
白布の眉間が、見たこともない深さで裂けた。
「ハファリンだぁ? お前、自分が何の病気か分かってんのか。劇症の扁桃炎に市販の鎮痛剤で誤魔化そうとすんな。…胃を荒らしたいのか、それとも薬物相互作用でぶっ倒れたいのか、どっちだ?」
すずが「…ひっ」と短い悲鳴を上げて布団に潜る。
白布の説教は止まらない。
「だいたい、さっきからなんだその不謹慎なやり取りは。…マスク外せ? 隔離病棟から出てきたばっかの奴が、狭い密室内で何さらしてんだ。お前ら、2人まとめてバイオテロでも起こすつもりか?」
「…すんません」
俺は反射的にホワイトボードで顔を隠した。
白布の正論は、時としてナイフより鋭い。
「特に太一。お前が唆(そそのか)したんだろ。…いいか、次そんなふざけた真似したら、お前らのベッドの間にブルーシート張るからな。…寝ろ。一歩も動くな。喋るな。」
白布は嵐のように去っていった。
残されたのは、怒られすぎて魂が抜けかけた俺と、布団から目だけ出しているすず。
……。
……。
俺は、白布が廊下へ消えたのを確認してから、ゆっくりと自分のマスクの紐に手をかけた。
(…ブルーシート張られる前に、終わらせるわ)
すずも、俺の動きを見てハッとしたように目を見開く。
約束は、約束だ。
白布の「バイオテロ」発言が頭をよぎるけど、今の俺たちにとって、この「小さな約束」を守ることは、病気に屈しないための最後の砦みたいなもんだった。
「……ほら、約束。」
俺は掠れた声でそう言って、耳から紐を外した。
すずも、震える手でゆっくりと、自分のマスクを顎の下へずらしていく。
隠されていた、彼女の素顔。
赤くなった頬と、熱に浮かされた潤んだ瞳。
少しだけ尖らせた唇。
隠されていた、彼女の素顔。
予測はしていた。
いかつい格好の下には、きっと年相応の顔があるだろうって。
でも、実際に目にしたそれは、俺の乏しい想像力なんて一瞬でオーバーフローさせるくらい、直視しがたい熱を帯びていた。
(…あー。やっぱ、隠しとくの、もったいねーわ)
俺の冷静な思考回路が、音を立ててショートしていくのがわかった。
すずは俺の顔を見て、少しだけ目を見開いた後、ふいっと顔を背けた。
『太一のバカ。次は絶対、負けないから。』
ホワイトボードに書きなぐられた、照れ隠しの宣戦布告。
俺は自分の顔を再びマスクで覆い、熱い吐息をつきながら、天井を見上げた。
「…ああ。…次は、もっと面白い罰ゲーム、考えてやるよ。」
白布に「バイオテロリスト」と呼ばれようが、構わない。
この瞬間だけは、俺たちは世界で一番、不謹慎で自由な病人だった。