入院3日目。
朝、昼、晩。
もはやルーティンと化した「体温計バトル」だけど、現実はそう甘くない。
俺は38.1℃、すずは37.9℃。
「やった、勝った!」と掠れた声で喜ぶすずを見て、俺は「…微差だろ」と毒づきながらチェスの駒を出した。
また先手を譲ることになってしまった。
結局、お互い劇的に熱が下がるわけじゃない。
この数字の呪縛からは、まだ逃げられそうになかった。
チェスで無事勝ち、暇を持て余した俺が『次何する?』とボードを掲げると、すずがニヤリと不敵な笑みを浮かべ、それを奪いにきた。
マスク越しでもわかる、あの「獲物を見つけた目」だ。
『私、麻雀打てるよ。アプリでやろうよ、対局。』
「…は?」
思わずすずが掲げるホワイトボードを凝視したまま固まった。
農学部で、いかつい格好してて、初日の深夜はあんなに泣きじゃくって…で、趣味が「麻雀」?
この女、ギャップの在庫が多すぎだろ。
(…あー、なるほど。合理的で、駆け引きが必要な遊びが好きなわけだ。)
アプリを立ち上げ、病室のWi-Fiを介して始まった麻雀。
…ボコボコにされた。
相手の呼吸を読んでブロックに跳ぶのは得意なはずなのに、こいつの牌効率と押し引きには、俺のリードが全く通用しない。
「……っ、げほっ、……ロン。満貫」
喉を鳴らして宣告する彼女の瞳には、この間の夜の涙の欠片もなかった。
掠れた声で、でも嬉しそうに宣告する彼女を見て、俺は自分の「観察眼」を修正した。
こいつ、ただの「無理してる女の子」じゃない。
勝負事の土俵に立つと、途端に「本物の勝負師」の顔になるんだ。
(…あー、クソ。…可愛げねーのに、目が離せねー…面白いわ、こいつ。)
午後はさらにカオスだった。
「太一〜! 差し入れ追加だよん♪」
天童さんを筆頭に、五色や他のOBたちがゾロゾロと病室に雪崩れ込んできた。
静かだった病室は、一瞬で部室のような喧騒に包まれる。
「太一、隣の子と麻雀してんの!? 混ぜてよ!」
「あ、五色、それ、...ゴホッ...俺の、点滴に、引っかかる…」
「川西さん! この人、めちゃくちゃ打ち筋鋭いっすね!」
OBたちの騒ぎっぷりに、すずも最初は戸惑っていたけど、天童さんの適当なトークにいつの間にか乗せられて、筆談と掠れた声で応戦している。
その様子を眺めながら、俺はふと、入り口のドアの方に目をやった。
(…今日も、来なかったな。治。)
すずがあんなに苦しんで、隔離病棟から出てきて、ようやく笑えるようになったっていうのに。
「おにぎり宮」の店主は、一度も姿を見せない。
白布からも連絡はいっているはずだ。
それなのに来ないってことは、やっぱりあの二人の間の「溝」は、俺の想像以上に深くて、暗い。
「…太一。お前ら、いい加減にしろっつったろ」
背後から、氷点下を指した温度計より冷たい声。
白布が、阿修羅のような顔で立っていた。
「…天童さんも、部外者を連れ込まないでください。ここは病院だ。…全員、外に出ろ。」
「あはは、賢二郎怖い〜! 太一、またね〜!」
嵐が去った後の病室は、耳が痛いくらいの静寂に包まれた。
説教を食らって、ぐったりとベッドに沈む俺たち。
すずが、ホワイトボードに小さく書いた。
『楽しかったね。太一の先輩たち、変な人ばっかり笑』
俺はそれを見て、鼻で笑いながら返した。
『お前も十分変な奴だけどな』
夕暮れ時。
オレンジ色の光が、病室のカーテンを透かして、彼女の横顔を照らしている。
治が来ない。
その事実に、少しだけ胸がチリついた。
でも、その代わりを俺が務めているような、そんな奇妙な使命感が、今の俺を支えていた。
「…ゴホッ...。夜は、何で勝負する?」
俺は、彼女にだけ聞こえるような小さな声で、次の「悪巧み」を提案した。