夜の体温計バトル。
結果は、俺の完敗。
38.2℃の俺に対して、すずは37.7℃。
「よっしゃあ!」と、もはや掠れすぎて空気の音しかしないような声で、彼女は小さくガッツポーズを作った。
(…ったく。こんなしょうもねー数字で、よくそんなに喜べるな。)
呆れ半分で眺めていたが、ふと気づく。
出会った当初、あの「勇者の鎧」を着込んで、眉間にシワを寄せていた「いかつい女」はどこに行った。
今、目の前で体温計を振り回して笑っているのは、ただの、少しだけ表情のうるさい女の子だ。
…意外と、いい顔して笑うんだな、こいつ。
『はい、罰ゲーム。太一の黒歴史、教えて?』
筆談ボードに躍る、容赦ない要求。
俺は観念して、バイト先の居酒屋での出来事を話した。
『酔っ払いのおっさんに絡まれて「お兄ちゃん、イケメンだけど愛想がないねぇ」って言われた。そんで無理やり営業スマイルを作ったらお客さんに引かれた。店長から「太一、今日は皿洗いだけしてろ」って命じられて3時間ずっと裏で皿洗いさせられた。』
すずは「……っ、げほっ、……あはは!」と、咳を混ぜながらも、ベッドを叩いて笑っていた。
「…次は、お前の番だぞ。」
すずが散々俺の黒歴史を抉り倒す中、俺は自分の番を終わらせるタイミングを待ち構えていた。
ボードを受け取ったすずは少し考えた後、さらさらとペンを走らせた。
それは、彼女がかつてカラオケ店でバイトしていた時の話だった。
『その日、風邪引いてて。途中から意識がぼーっとしてたみたいで。
気づいたら、手に持ってたはずのジョッキが、足元で粉々になってて。周りのスタッフに笑われながら、とりあえず業務日誌に「申し訳ございません。ビールジョッキ1個割りました」って書いたの。』
そこまでは、まあ、体調不良あるあるだ。
だが、話には続きがあった。
『そしたら、そのすぐ後。また全く同じように、2個目を割っちゃって。
店長から「すずさん、体調悪いんでしょ? 今日はもう上がって休みな?」って、逆に心配されちゃった。前代未聞だよ、店長の方から強制退勤させられるなんて。』
俺は思わず、顔を覆った。
…こいつ、相当な天然か、それともただの馬鹿か。
『でね、私。日誌に書いた「1個」って数字を二重線で消して、「2個」に書き直してから退勤したんだ。』
ボードの最後のひと言を見て、俺は心の底から呆れた。
そこまでして日誌を修正してから帰る必要、あるか?
(…変なところで律儀だな、本当。)
「…お前さ、そこは『すみません!』って、泣きついて、帰る、ところだろ。...なんで律儀に、訂正印レベルの、修正、してんだよ。」
俺が掠れた声でツッコむと、すずは『だって、事実は事実だし』と、どこか誇らしげに胸を張った。
…本当、馬鹿だ。
要領が悪すぎる。
誰も見てないところで、誰にも評価されない「正確さ」のために時間を浪費して。
でも。
(…そんな馬鹿だから、あんな顔で泣くんだな、お前は。)
その不器用な正義感が、今の俺には、どんな合理的な正論よりも価値のあるものに思えた。
『お前みたいなやつ、俺の周りにはいなかったわ』
俺は枕に頭を沈めて、天井を見上げた。
白鳥沢の連中は、もっと狡猾(こうかつ)か、あるいは突き抜けた天才ばかりだったから。
こんな、ジョッキ2個割って日誌を書き直すような、不器用で愛おしい「凡人」の必死さを、俺は知らなかった。
夜が更けていく。
熱はまだ引かないけれど、彼女の「2個」という書き直された数字の話が、妙に胸に残って離れなかった。