昨夜、あんなに喉をかき鳴らして苦しんでいたはずなのに。
朝の光の中で目を覚ましたすずは、何事もなかったかのような顔をして俺を見た。
「おはよう、太一。」
掠れた声、でも真っ直ぐな笑顔。
…こいつ、本当に同じ人間か?
白布から聞いたあのエグい既往歴の数々を思い出すと、その笑顔が余計に危うく、それでいて猛烈に眩しく見えた。
「…おう。おはよう、バイオテロリスト。」
俺はわざとぶっきらぼうに返して、定例となったホワイトボードを引き寄せた。
今の俺にできるのは、湿っぽい同情を向けることじゃない。
こいつを「病人」という枠から、一秒でも長く連れ出し続けることだ。
『体温計バトル。
ルール:勝った方がオセロの先攻の権利を得る。 負けた方は、相手の点滴の残り時間をカウントダウンして報告すること』
「…何それ、地味に嫌なんだけど(笑)」
すずは喉を鳴らして笑い、いつものように体温計を脇に挟んだ。
結果、僅差で俺の勝利。
俺は意気揚々と天童さんのオセロ盤を広げた。
だが、ゲームが中盤に差し掛かった頃。
角を取ろうと手を伸ばしたすずの指先が、微かに震えているのに気づいた。
「…すず?」
『ごめん、太一。ちょっと、頭痛い。あと、なんか、寒い。』
筆談ボードに力なく書かれた文字。
朝のあの元気はどこへ行った。
みるみるうちに彼女の顔から血の気が引き、代わりに頬だけが異常に赤くなっていく。
俺は慌ててナースコール……ではなく、白布に直通のLINEを入れた。
「チッ、またぶり返したか。…すず、寒気があるならまだ熱上がるぞ。大人しく寝てろ。」
駆けつけた白布は、相変わらずの塩対応で点滴の速度を調整し、捨て台詞を残して去っていった。
すずはガタガタと震えながら、何枚もの毛布に包まって布団の中に丸まった。
俺は、自分のベッドに座ったまま、その様子をじっと見つめていた。
さっきまで、俺と互角に盤面を読み合っていた「戦友」が、今は小さな震える塊になっている。
(…白布の言う通りだわ。俺とは、積んでるエンジンが違いすぎる。)
俺なら、この程度の熱なら「あー、だりぃ」で済む。
でも、こいつにとっては、一回一回の発作や熱が、命を削り取るような真剣勝負なんだ。
それなのに、あいつは朝起きたら、あんな風に笑ってみせる。
「…戦友、ね。」
ふと、そんな言葉が頭をよぎった。
コートの上で、信じられないような点差をひっくり返そうと足掻いていた時のような、あのヒリつくような感覚。
隣で戦っているこいつを、ただの「面白い女の子」として見てる余裕なんて、もうなかった。
こいつが、また笑って「ロン」とか「チェックメイト」とか言えるようになるまで。
この不謹慎な戦場の最前線で、俺がこいつの盾になってやらなきゃいけないんじゃないか。
布団に潜り込んだすずの、時折漏れる苦しそうな吐息。
俺はそこから目を離すことができなかった。
オセロの黒い駒を指先で弄びながら、俺は丸まった彼女の背中を見つめ続けた。
相手のスパイクをドシャットした時よりも、ずっと速い心拍数。
(…ったく。俺、いつからこんなお節介な性格になったんだよ。)
治が見たら「川西、お前らしくないわ。」って笑うだろう。
でも、あいつがここに来ないなら、この役割を全うできるのは、世界中で俺しかいない。
そう確信した瞬間、熱に浮かされた俺の視界は、今までで一番クリアになっていた。