深夜1時。
病室を支配する静寂は、点滴が落ちる音さえ重く感じさせるほど、どろりと淀んでいた。
隣のベッドは、夕方からずっと毛布がこんもりと盛り上がったまま、ぴくりとも動かない。
時折、そこから漏れるのは、肺の奥を削るような、湿った、苦しげな呼吸の音だけだ。
「…ゴホッ…すず。まだ、頭痛と、寒気、ゲホッ...治んねーの?」
暗闇に向かって、俺は掠れた声を投げた。
少しの沈黙。
…眠っているわけじゃないのは、その呼吸の乱れでわかる。
やがて、毛布の奥から、今にも消えてしまいそうな掠れ声が返ってきた。
「……一向に、治らん。」
その一言に、彼女がこの数時間、たった1人で耐えてきた絶望の濃度が滲んでいた。
…ああ、やっぱり。
俺は自分のベッドの端に腰掛け、天井を見上げた。
喉が焼けるように痛い。
でも、今、どうしても聞かなきゃいけない気がした。
「…なぁ。今じゃ、ない...かも、しれない...ゴホッゲホッ...けどさ、」
俺は、自分の思考を整理するように、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「すずって、...最初、見た、時は...ゴホッゲホッ...はぁっ...『一人で立ってる男勝りな勇者』って、...印象、だったんだわ。...いかつい、格好して、正論、吐いて、誰の、助け...もいらねーよ、って顔、してさ。…ゲホッ…でも、ここ4日、お前と過ごしてみて、...はぁっ...なんか……変わったわ。」
俺は、布団の中でじっと聞いているであろう彼女に語りかける。
一気に喋り過ぎて、また咳が喉の奥から迫り上がってきてた。
苦しい。
でも、続けずにはいられなかった。
「本当は、勝負に、一喜一憂して、...感情が、すぐ、顔に出る、...ゴホゴホッ...めちゃくちゃ、人間くさい、奴なんだなって。……初めて、見た、...ときは、スカしてた、けど、今は、...こうやって、『治らん』って...弱音吐くじゃん。 …だから、なんだその。…ゲホゴホゴホッ…すずって、自分を、造ってんの?」
長い、刺すような沈黙が流れた。
やがて、毛布がゆっくりと押し下げられ、常夜灯の微かな光の中に、熱で赤らんだすずの顔が現れた。
彼女は、焦点の定まらない瞳で宙を見つめ、ひどく掠れた声で話し始めた。
「…治はさ。バカみたいに、健康なんだよ。」
自嘲気味な、乾いた笑いが混じる。
「……それに比べて、私は……昔から、何故かすぐ体調を崩す。……治は優しいから、私が倒れるたびに、心配して……毎回、必ず、何かしてくれた。……でもね、太一。……それが、苦しかった。」
言葉を継ぐたびに、激しい咳が彼女の体を折る。
俺は黙って、彼女の告白を受け止めた。
「……治が優しくすればするほど……私は、一人じゃ立てないんだって……そんな事実を、嫌でも押し付けられてるみたいで。……今回、白布先生に言われたんだよ。私の身体は、もともと限界値が低くて……呼吸器も免疫も、弱いんだって。……あぁ、やっぱり。私は最初から、ダメだったんだって……そう、悟っちゃった。」
すずの声が、震え出す。
咳混じりの吐息に、隠しきれない熱が混じる。
「……分かってるんだよ。治に頼れば、あいつは……きっと、また助けてくれる。でも……これ以上、あいつのお荷物になりたくない。……私は、一人で立ちたいの。自立した、強い女でいたいの。……そのプライドを守るには……こうやって、強気に振る舞うしか……それしか、方法が、思いつかなかったんだよ……っ」
そこまで言い切ると、彼女の言葉が決壊した。
激しい咳に加えて、喉の奥から絞り出すような嗚咽が漏れ始める。
あんなにいかつい格好をして、鋭い目で周囲を牽制していた「勇者」が。
今は、ボロボロになった心と体を隠すこともできず、子供のように泣きじゃくっている。
(……あー、ダメだ。これ。)
理屈じゃなかった。
気づいたら、俺は自分の点滴スタンドを引きずって、彼女のベッドサイドまで歩いていた。
「安静にしろ」って白布の顔が浮かんだけど、そんなの知るか。
俺は、震える彼女の頭……毛布から少しだけ出ている、その熱を持った髪に、そっと手を置いた。
「……っ、……太一……?」
「泣くなよ。……いや、泣いていいんだけどさ。」
不器用なのはわかってる。
でも、ゆっくりと、その小さな頭を撫でた。
手のひらから伝わってくる、尋常じゃない熱。
そして、細い肩の絶え間ない震え。
涙で濡れた彼女の髪が指に絡みつく。
あんなに頑丈そうに見えた鎧の下には、こんなにも薄くて、今にも消えてしまいそうな素肌が隠されていた。
今まで「勇者」だなんだと思ってた存在が、今はただの、壊れそうなほど脆い女の子として、俺の手のひらの中にあった。
治はすずにとっては眩し過ぎて、隣にいるだけで自分の「弱さ」を自覚させられる相手になってしまった。
だから、すずは絶対にこの涙を見せられなかったんだろう。
でも、俺は違う。
俺も今、同じように病室にいて、同じように熱に浮かされてる「弱者」だ。
同じ地平にいる俺の前でだけ、こいつはようやく、重すぎる鎧を脱ぐことができた。
この「不謹慎な隣人」の前でしか、こいつは救われない。
(……ったく、治。お前が優しくしすぎるから、こいつはこんなに重いもん背負うハメになったんじゃねーのかよ。)
治への苛立ちか、それとも自分への高揚か。
ぐちゃぐちゃな感情を飲み込んで、俺はただ、彼女の涙が枯れるまでその熱を分かち合った。
(…こいつを守れるのは、今は俺だけかもな。)
深夜2時の病室。
俺は、泣きじゃくる「戦友」の頭を撫で続けながら、彼女の痛みを半分引き受けるように、深く、静かに息を吐いた。