俺だけの聖域   作:ゆずみかん#HQ

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#22 泥沼の特等席

翌朝、カーテンを開けた白布の「あーあ、案の定だな。」という冷めた声で目が覚めた。

 

隣を見れば、すずは昨日より酷い顔をしている。

肩で喘ぐような浅い呼吸と、時折肺の奥を鋭く引っ掻くような「ゴホッ、コンッ」という乾いた音が、静かな病室に重く響いていた。

検温の結果は39.2℃。

 

「今日は流石に、バトルするまでもねーな。大人しく寝てろ。」

 

俺がそう言って、彼女の視界からオセロの盤を遠ざけようとした、その時だった。

震える指が、俺の病衣の袖を、縋るような力で掴んだ。

 

「……ま、だ……終わって、ない。」

 

掠れた、今にも消えそうな声。

それから彼女は、震える手つきでホワイトボードに殴り書きをした。

 

『まだ昨日のオセロ終わってない。あの角、私がとって始めるから。逃げるなよ、太一。』

 

「……バカかよ。死にかけの癖に、角狙う余裕あんのかよ。」

 

思わず口角が上がった。

 

肺炎特有の、熱が下がったと思えばまた一気に跳ね上がるあの「乱高下」。

さらに扁桃炎による高熱の追い討ち。

その最中にあって、意識も朦朧としているはずなのに。

効率とか、予後とか、そんな合理的な判断を全て踏み倒して、こいつは「勝ち」に来ている。

その真っ直ぐで、あまりに可愛げのない執念。

 

(……あー、ダメだ。こういうの、一番弱いんだわ。)

俺の頭脳派としての冷静さが、こいつの前では面白いほど機能しなくなっていくのがわかった。

 

それから数日は、奇妙な時間が流れた。

二人の体温は、白布の予言通り、上がっては下がるの繰り返しで、一向に「快方」へは向かわない。

咳が喉を刺激して扁桃炎がぶり返し、水すら飲み込むのが億劫なほど喉が焼ける。

それでも、俺たちの間には不思議な「楽しさ」が漂い始めていた。

 

「……太一、それ、私のゼリー。」

「名前書いてねーだろ。……ほら、半分やるよ。」

 

短い会話は声で交わせるようになった。

でも、長く喋るとすぐに肺が悲鳴を上げる。

そんな時は、ホワイトボードが俺たちの戦場になった。

 

『あんたのブロック、理屈っぽくて嫌い』

『お前のオセロの方が、よっぽど性格悪いだろ』

 

そんな文字の羅列が、どんなに高度な戦術を練るよりも、俺の退屈を鮮やかに彩っていった。

 

ある日、またしても38℃を超えた俺たちの検温結果を見て、白布が深いため息をついた。

 

「……お前ら、いい加減にしろよ。この状況で不謹慎な検温バトル繰り返して……。入院生活、実は楽しんでるだろ。」

 

白布はカルテをめくりながら、呆れたように、でもどこか安心したような、わずかにトーンの緩んだ声で続けた。

 

「……問題児二人の手綱を握らされてる俺の身にもなれ。……まぁ、その余力があるうちは死なねーだろうけどな。安静にしてろよ、マジで。」

 

あいつにそんな顔をさせるくらい、俺たちはこの閉鎖された空間で、お互いに「当てられて」いたんだろう。

 

その数時間後、天童さんがひょっこりと顔を出した。

 

「太一〜、生きてる〜?」なんて軽口を叩きながら、俺とすずがホワイトボードで無言の口論を繰り広げているのを見て、天童さんはニヤリと、全てを見透かしたような笑みを浮かべた。

 

「太一、なんか楽しそうだネ〜。病室の空気、前より全然重くないもんネ!」

「…別に。暇つぶしですよ。」

 

俺は即座に否定した。

でも、否定すればするほど、自分の中の「計算」が狂い始めているのを自覚せずにはいられなかった。

すずがボードに書く「次は負けない」という文字。

俺の名前を呼ぶ、掠れた声。

時折見せる、鎧が剥がれ落ちたような幼い寝顔。

それらが、一進一退の熱と共に、俺の胸の奥深くまで浸食してくる。

 

(……あー、これ。もうただの暇つぶしじゃねーわ。)

 

相手の動きを予測し、最適解を導き出すのが俺のスタイルだ。

なのに、こいつが咳き込むたびに、俺の「最適解」は全部ゴミ箱行きになる。

背中をさする手の動きも、半分やったゼリーの味も、俺の計算には一文字も入ってなかった。

俺は、この熱に浮かされた泥沼の中で、溺れていく自分をどこか楽しんでいる。

 

まだ、決定的な一打は放たれていない。

俺は、この「心地よい泥沼」に片足を突っ込んだまま、隣で激しく咳き込む勇者の背中を、無意識に、でも優しくさすり続けていた。

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