翌朝、カーテンを開けた白布の「あーあ、案の定だな。」という冷めた声で目が覚めた。
隣を見れば、すずは昨日より酷い顔をしている。
肩で喘ぐような浅い呼吸と、時折肺の奥を鋭く引っ掻くような「ゴホッ、コンッ」という乾いた音が、静かな病室に重く響いていた。
検温の結果は39.2℃。
「今日は流石に、バトルするまでもねーな。大人しく寝てろ。」
俺がそう言って、彼女の視界からオセロの盤を遠ざけようとした、その時だった。
震える指が、俺の病衣の袖を、縋るような力で掴んだ。
「……ま、だ……終わって、ない。」
掠れた、今にも消えそうな声。
それから彼女は、震える手つきでホワイトボードに殴り書きをした。
『まだ昨日のオセロ終わってない。あの角、私がとって始めるから。逃げるなよ、太一。』
「……バカかよ。死にかけの癖に、角狙う余裕あんのかよ。」
思わず口角が上がった。
肺炎特有の、熱が下がったと思えばまた一気に跳ね上がるあの「乱高下」。
さらに扁桃炎による高熱の追い討ち。
その最中にあって、意識も朦朧としているはずなのに。
効率とか、予後とか、そんな合理的な判断を全て踏み倒して、こいつは「勝ち」に来ている。
その真っ直ぐで、あまりに可愛げのない執念。
(……あー、ダメだ。こういうの、一番弱いんだわ。)
俺の頭脳派としての冷静さが、こいつの前では面白いほど機能しなくなっていくのがわかった。
それから数日は、奇妙な時間が流れた。
二人の体温は、白布の予言通り、上がっては下がるの繰り返しで、一向に「快方」へは向かわない。
咳が喉を刺激して扁桃炎がぶり返し、水すら飲み込むのが億劫なほど喉が焼ける。
それでも、俺たちの間には不思議な「楽しさ」が漂い始めていた。
「……太一、それ、私のゼリー。」
「名前書いてねーだろ。……ほら、半分やるよ。」
短い会話は声で交わせるようになった。
でも、長く喋るとすぐに肺が悲鳴を上げる。
そんな時は、ホワイトボードが俺たちの戦場になった。
『あんたのブロック、理屈っぽくて嫌い』
『お前のオセロの方が、よっぽど性格悪いだろ』
そんな文字の羅列が、どんなに高度な戦術を練るよりも、俺の退屈を鮮やかに彩っていった。
ある日、またしても38℃を超えた俺たちの検温結果を見て、白布が深いため息をついた。
「……お前ら、いい加減にしろよ。この状況で不謹慎な検温バトル繰り返して……。入院生活、実は楽しんでるだろ。」
白布はカルテをめくりながら、呆れたように、でもどこか安心したような、わずかにトーンの緩んだ声で続けた。
「……問題児二人の手綱を握らされてる俺の身にもなれ。……まぁ、その余力があるうちは死なねーだろうけどな。安静にしてろよ、マジで。」
あいつにそんな顔をさせるくらい、俺たちはこの閉鎖された空間で、お互いに「当てられて」いたんだろう。
その数時間後、天童さんがひょっこりと顔を出した。
「太一〜、生きてる〜?」なんて軽口を叩きながら、俺とすずがホワイトボードで無言の口論を繰り広げているのを見て、天童さんはニヤリと、全てを見透かしたような笑みを浮かべた。
「太一、なんか楽しそうだネ〜。病室の空気、前より全然重くないもんネ!」
「…別に。暇つぶしですよ。」
俺は即座に否定した。
でも、否定すればするほど、自分の中の「計算」が狂い始めているのを自覚せずにはいられなかった。
すずがボードに書く「次は負けない」という文字。
俺の名前を呼ぶ、掠れた声。
時折見せる、鎧が剥がれ落ちたような幼い寝顔。
それらが、一進一退の熱と共に、俺の胸の奥深くまで浸食してくる。
(……あー、これ。もうただの暇つぶしじゃねーわ。)
相手の動きを予測し、最適解を導き出すのが俺のスタイルだ。
なのに、こいつが咳き込むたびに、俺の「最適解」は全部ゴミ箱行きになる。
背中をさする手の動きも、半分やったゼリーの味も、俺の計算には一文字も入ってなかった。
俺は、この熱に浮かされた泥沼の中で、溺れていく自分をどこか楽しんでいる。
まだ、決定的な一打は放たれていない。
俺は、この「心地よい泥沼」に片足を突っ込んだまま、隣で激しく咳き込む勇者の背中を、無意識に、でも優しくさすり続けていた。