「...俺の勝ちだな。」
無機質なアラーム音を止めて、俺は手元の数値をホワイトボードに叩きつけた。
『37.6℃』
あの絶望的な大発作から数日、俺の熱は徐々に、でも確実に「出口」を探し始めている。
対して、
『負けた。38.7℃』
隣のこいつはここ数日、38℃後半の過酷な熱を刻んでいた。
「……最近俺の勝ちばっかで、逆につまんねーわ。約束通り、すずの昔の写真か動画でも見せろ。」
「……もー、わかったよ。はい。」
掠れた声で投げやりな返事が返ってくる。
すずから手渡されたスマホの画面を覗き込んだ瞬間、俺は思わず眉を寄せた。
「お前、マジかよ…。高校生のお前、ギャル中のギャルじゃん。白鳥沢なら秒で生活指導室行きだぞ、これ。」
画面の中には、今よりずっと派手な髪色で、短いスカートを翻して笑う少女がいた。
今の、青白い顔をして病室のシーツに沈んでいる姿からは想像もつかないエネルギーの塊。
「だってー、みんなやっとったもん。制服も可愛いし、最高やったし。」
「で、この動画…。お前、試合中の声と動き、うるさすぎ。テニスラケット持った猛獣かよ。膝から血が出たまま走り回るとか、効率悪すぎだろ。」
「うるさいなー、鉄仮面…。」
そう言い返してくる彼女も、すぐに「コン、コン」と乾いた咳を漏らした。
少しずつ、声を使った会話ができるようになってきた。
しかし会話のたびに咳が刺激になり、喉の回復を遅らせる。
熱の呪縛は解けることを知らず、俺たちの体調は一進一退を繰り返していた。
そんな俺たちのやり取りを、回診に来た白布が「お前ら、いい加減検温をチップの手段にすんな。」と言わんばかりの冷徹な目で見下ろしている。
だが、その視線すらも今の俺たちには心地いいスパイスだった。
お互いに、相手の心配なんかする余裕のない病人。
今のこの病室には、「気を遣う」なんていう上等で面倒な概念は存在しない。
余裕がある時はサイドテーブルにボードゲームを広げる。
一方がキツい時はただ無言でYouTubeの動画やら音楽やらを流し続ける。
2人してダメな日はひたすら泥のようにベッドに身を預ける。
不規則に響くお互いの咳の音。
かつては苦痛の象徴だったその音が、今では俺たちがここで生きていることを証明する、最高のBGMにすらなっていた。
『つまんねー』
俺はもう一度、ホワイトボードに嘘をついた。
本当は、「つまらない」なんてこれっぽっちも思っていない。
むしろ、この最悪なコンディションの中で、お前の過去を暴き、憎まれ口を叩き合い、同じ空気の中で熱を分け合っているこの時間が、たまらなく愛おしい。
だからこそ、自分の変化が怖かった。
38℃後半で留まるすずを横目に、俺の体温は少しずつ、確実に下がり始めている。
「健康」という名の、この部屋からの追放通知。
「まだ治らないでほしい」
そんな俺らしくなくて、アスリートとしても人間としても失格な、非合理的な願いが胸の奥で膨らみ続けている。
『うるさい。次は、私に有利なようにゲームの内容書き換えてやるから』
すずはそう毒づきながらも、ふとした瞬間に視線を窓の外へ泳がせた。
最近、こういう「上の空」な時間が増えたことに、俺は気づいている。
その視線の先に誰がいるのか。
その心が誰の「おにぎり」を欲しているのか。
そんなこと、答え合わせをするまでもない。
自分の恋心を認めた瞬間、同時に味わうことになったのは、完膚なきまでの敗北感だった。
治のような「光」にはなれない。
俺はただ、隣のベッドで一緒に熱に浮かされることしかできない、無力な「同類」だ。
すずが上の空になればなるほど、俺の恋心はパンパンに膨らみ、比例するように敗北の重みがのしかかる。
「……いいから、さっさと寝ろよ、猛獣。」
俺は、自分の敗北感を皮肉のオブラートに包んで、彼女に背を向けた。
せめてこの熱が下がりきるまでは。
この「心地いい咳の音」が止むまでは。
俺はこの泥沼の中で、お前と一緒に足掻き続けてやる。