病室の空気は、未だに「トンネルの中」だった。
隣のベッドでは、すずが浅い呼吸を繰り返している。
出口を見つけ始めた俺とは対照的に、あいつの体温計は連日38℃後半を指し、しつこい咳の音が今日もBGMのように響いていた。
「…。」
手元のホワイトボードを使う機会は、目に見えて減った。
喉の痛みも、胸を突くような咳も、少しずつだが確実に引いている。
本来なら喜ぶべき「快方」という名の現実に、俺は密かに絶望していた。
いつ白布に「退院」を宣告され、この泥沼から追い出されるか分からない。
ついに37℃半ばがデフォになってしまった熱を恨めしく思っていたその時、スマホが震えた。
『川西、体調どないや? 白布さんから話聞いて、ずっと気になってたんや。もし部屋出れるんなら、1回会えへんか?』
治からだった。
俺には会おうとするくせに、すずにはLINE一通送らず、会いに来る気配もない。
「…何なんだよ、お前。」
俺は、すずが「大学の友だちがお見舞いに来る」と言っていた時間を狙って治を呼び出し、点滴スタンドを杖代わりにしてラウンジへ向かった。
ラウンジに並べられた椅子とテーブル。
そこには、俺の知っている「宮治」とは似ても似つかない、どこか力なく肩を落とした男が座っていた。
「川西…。思ったより元気そうで、安心したわ。」
治の声は、驚くほど情けなく響いた。
あの「おにぎり宮」の店主として、いつも堂々と光の中に立っていた男が、今は何か深い溝の向こう側で立ち往生している。
俺は直感した。
こいつとすずの間に、取り返しのつかない亀裂が入ったのだと。
「…あのな、川西。白布さんから聞いたんや。お前、すずと同じ部屋(へや)なんやってな。」
治は縋るような目で俺を見た。
そんな治を見て、苛立ちが止まらなかった。
普段の治なら、たとえ拒絶されても強引に突撃して、あいつを笑わせるはずだ。
なのに、今のこいつは、自分が持っている権利の大きさにすら気づかずに足踏みしている。
「…治。お前、なんで今まで来なかった。」
俺の口から出たのは、自分でも驚くほど冷めた声だった。
治は俺から顔を背けながら、弱々しく呟いた。
「あいつ、何でか俺のこと避けようとすんねん。……川西、あいつに何があったんか、教えてくれへんか。」
教えてくれ?
ふざけんな。
お前が優しくすればするほど、あいつが自分の限界を突きつけられて絶望してたなんて、誰が教えるかよ。
...すずの心の奥深く、俺が絶対に到達できない場所にいるくせに。
お前は、俺がほしいもの全部持ってるくせに。
...なんで、今あいつが一番お前を求めてる時に、そんな弱腰なんだよ。
俺は、自分の中に渦巻く醜い嫉妬心に気づいていながら、あいつの「惨状」だけを言葉の弾丸にして叩きつけた。
「…お前、あいつが最近38℃後半の熱でずっとベッドから動けずにいること、知ってんのか?」
実際は起き上がって一緒にゲームをする時間もある。
だが、そんな事実は教えない。
「ずっと肩を震わせて、浅い呼吸しながら喉の痛みに耐えて、吐くように咳き込んでる。…それを想像できながら、なんですずをずっと放置してたんだ? いや、健康なお前には、想像すらできないだろうな。」
治は言葉を失い、ただ青ざめていた。
俺は、その無力感に追い打ちをかけるように続けた。
「安心しろよ。あいつが発作起こして背中さすってるのは、俺や白布だ。すずは毎日、俺とゲームしたりバカ話したりして、身体がしんどくても、楽しく過ごしてるよ。死ぬような病気じゃねーから、心配すんな。」
俺は点滴スタンドを引きずり、治に背を向けた。
去り際、振り返ることもせず、一番残酷な事実を吐き捨ててやった。
「お前は健康すぎて、病人のあいつには眩しすぎんだよ。」
背後で治がどんな顔をしていたか、俺は知らない。
あんな弱腰の男になんか、これっぽっちも興味はない。
腐れ縁だかななんだか知らないが、今あいつの隣にいるのは俺だ。
治がいない間に、俺がその座を奪い取ってやる。
たとえ今、あいつの心の最深部に治が居座っていたとしても、その上から俺の名前を書き換えてやる。
俺は自分のベッドに戻りながら、柄にもなく、退院した後のデートプランを練り始めていた。
海か、それともあいつが好きそうなジャンクな店か。
(…これなら、退院して外の世界に戻るのも、悪くねーな。)
白布から退院を告げられる日が来ても、もう怖くない。
そして、平熱の俺が、病室を出たあいつを1番に迎えに行ってやる。
奪還の計画は、もう始まっていた。