入院生活も10日を過ぎ、俺たちの「体温計バトル」は相変わらず日常の一部と化している。
だが、最近のそれは、もはや勝負にすらならない。
「俺、37.4℃。…すずは?」
「…38.8℃。また、私の負け…。」
手元の数値を見つめ、俺は密かな焦燥感に駆られていた。
ついに37℃前半を記録してしまった。
「出口」の扉はすぐそこにある。
なのに、俺の隣で横たわる勇者は、いまだに深い霧の立ち込めるトンネルの中から抜け出せずにいる。
「あーあ、また俺の圧勝かよ。…んじゃ今日は、『勝った奴が負けた奴を看病する』っていう特別ルールな。」
「何それ…。看病は白布先生の仕事でしょ…。」
弱々しく笑う彼女に、「あいつは仕事、俺は遊び。質が違うんだよ。」と毒づく。
あまりに勝負にならないから、負けた方が有利になるルールを押し付けた。
そうでもしないと、彼女をこの場所に繋ぎ止めておけない気がしたから。
深夜2時。
その不謹慎な平穏を、一人の「賢者」が音もなく切り裂きに来た。
「…太一。起きてるな。」
カーテンを僅かに開けて入ってきた白布は、点滴を交換する手つきこそ事務的だが、その横顔には、医者としての仮面では隠しきれない「重み」が滲んでいた。
「太一、お前が入院してくる前の…すずの『空白の一週間』の話を、聞いてほしい。」
白布の声は、夜の闇に溶けるほど低く、そして重かった。
「おにぎり宮の前で倒れたあいつが救急搬送されたのは、お前が入院する一週間前だ。即座に隔離病棟に入れられた。…入院初日、治が来たよ。本来なら面会禁止だが、あいつがあまりにしつこいから、俺の独断で15分だけ時間をやった。」
白布は、眠るすずの熱い吐息を確認するように、一度言葉を切った。
「だがな、こいつは治を『いないもの』として扱ったんだ。15分間、一度も顔を合わせず、ずっと背中を向けたまま。治は、自分の店の前だったのに異変に気づけず、救急車を見送ってしまったことを死ぬほど悔やんでいた。だが、すずはそんなことであいつを責めるような奴じゃない。…二人の間に流れる空気は、もっと致命的に壊れていた。」
「…壊れてた、って?」 俺の問いに、白布は答えず、白衣のポケットの中で拳を硬く握った。
「治は、完全に折れて出て行ったよ。それ以来、一度も来ていない。…そして、そこからのすずは酷かった。熱は39℃台から一向に下がらず、一日に一回は激しい発作を起こしては、俺の白衣にしがみついて叫ぶんだ。『白布先生、怖い、痛い、助けて』って。…俺にしがみついて泣きじゃくるあいつを見て、俺は悟ったんだよ。俺はあいつの身体は治せても、心は治してやれない。精神的な要因が、肉体の回復を根本から阻んでいるんだと。」
すずの寝息が、少しだけ荒くなる。
白布はその様子を痛ましそうに見つめた後、俺を真っ向から射抜いた。
「そんな時に、お前がバカみたいに担ぎ込まれてきた。お前のような『頭のいいバカ』なら、あいつを救えるかもしれないと期待して……上に頭を下げて、ここを唯一の二人部屋に書き換えてお前をねじ込んだ。…予感は的中したよ。お前のおかげで、あいつは目に光を取り戻した。…だから太一、お前には感謝している。」
初めて明かされる、白布の独断。
だが、その感謝の直後、白布の瞳から体温が消えた。
「…だが太一。こいつに深入りするな。」
白布が俺の目をまっすぐに見据えた。
その瞳には、かつて同じコートで戦った仲間としての、残酷なまでの「忠告」が宿っている。
「お前の熱はもう下がる。お前はもうすぐ『治側』に回るんだ。…『こいつと同じ病気』というステータスを失ったお前が、10年以上もの間こいつに寄り添い続けた治に、勝てると思うのか?」
心臓の奥が、冷たい氷を飲み込んだように冷え切る。
白布は、俺が一番目を逸らしたかった「数字」を、淡々と突きつけてきた。
「…すでに『年月』で負けているお前は、あくまで病室限定のパートナーに過ぎないんだよ。お前はこいつの『今』を救えても『一生』は背負えない。これが現実だ。」
沈黙が、重く淀む。
白布の声は、氷の刃となって俺の喉元をなぞった。
白布が背を向け、音もなく病室を出て行こうとしたその時。
俺の喉から、どす黒い感情を帯びた言葉が零れ落ちた。
「…勝てるかなんて、俺が決めることだわ。」
白布の足が止まる。
俺は、37.4℃の熱を帯びたまま、暗闇の中で静かに笑った。
「一生? んなもん、今の俺に考える余裕なんかねーよ。ただ今、目の前のこいつを誰にも渡したくない。…それだけだ。負け試合? 上等だよ。それをひっくり返すのが、一番燃えるんだろうが。」
白布は振り返らなかった。
ただ、微かに肩を揺らし、吐き捨てるように呟いた。
「…勝手にしろ。バカに何を言っても無駄だったな。」
白布はそれだけ言い残し、音もなく病室を出て行った。
扉が閉まる音が、この「共犯関係」の幕引きのように響いた。
一人残された暗闇で、俺は隣のベッドで苦しげに眠るすずの指先に、そっと視線を投げる。
一人残された暗闇の中、俺は自分の手のひらを見つめた。
『37.4℃』
このしぶとい微熱、そして未だ少し残る喉の痛み、わずかな咳。
今は愛おしくて、誇らしくて、たまらない。
(…年月で負けてる? 病室限定のパートナー?)
白布、お前の言いたいことは分かったよ。
お前は医者としてじゃなく、一人の友人として、俺が傷つく前に突き放そうとしたんだろ。
だが、あいつが隔離病棟で、お前の白衣にしがみついて「助けて」と泣いていた時。
治に背を向けて、孤独に震えていた時。
その絶望の続きを、今、この『共犯関係』で上書きしてるのは俺なんだ。
(…火に油、注いでくれたな、マジで。)
治の眩しさが、あいつを絶望させる光なら。
俺は、この微熱のまま、あいつと一緒に泥沼の底まで沈んでやる。
10年分以上の記憶だろうが、腐れ縁の絆だろうが、そんな化石みたいなデータ、俺が全部塗り替えてやるよ。
「…退院なんて、まだしてやるもんか。」
俺は、隣で眠るすずの熱い指先に、そっと自分の手を重ねた。
俺の心臓は、今までで一番熱く、そして確かに脈打っていた。
治。
お前が知らない、あいつの「痛み」も「笑い声」も。
全部、俺が奪って、誰にも返さねーよ。