入院から2週間が過ぎようとしていた。
またいつものルーティーンが行われる。
「37.5℃...すずは?」
平静を装ってそう訊いたが、俺はベッドの中で小さく拳を握っていた。
(よっしゃ、0.1℃上がった。退院はまだ先だな。)
自分でも呆れる。
バレー部時代、コンディション管理に誰より厳しかった自分が見たら、卒倒するような思考回路だ。
隣のベッドでは、すずがホワイトボードを掲げている。
『38.9℃。また私の負け。じゃあ今日のルールは「負けた奴が勝った奴を看病する」ね!』
「なんだそれ、むちゃくちゃじゃねーか。」
俺が思わず苦笑すると、すずは「…ふふ」と、喉の奥で鳴るような、掠れた咳混じりの声で笑った。
彼女は俺側のカーテンを勢いよく閉め、「絶対開けんでね。」と言い残して、パタパタと病室を出て行った。
あいつ...その熱で何しにいくつもりだよ。
1時間以上経った頃だろうか。
カーテンが乱暴に開かれた。
「太一……っ、22歳の……誕生日、おめでとう……っゴホッ...ゲホッ...」
ひどく掠れた声。
肩で息をするすずの片手には、ちぎれんばかりに重そうなコンビニ袋2つ。
「…おう、ありがとう。...てか喉。咳。酷い。喋るな。…なんだこの量。お前、今朝白布に安静にしろって言われたばっかりだろ。」
袋の中身は、2リットルのアクエリアスに、大量のゼリーとプリン。
...病人への差し入れフルセットだ。
『院内のコンビニ遠いし、点滴引きずっとると片手しか使えんから、買ってはベッドに置きに戻って、を繰り返しとった!』
あ、だからカーテン閉めたのか。
ホワイトボードを誇らしげに見せる「バカ」を見て、俺は呆れるのを通り越して、胸の奥が熱くなるのを感じた。
「…ゼリーはすき焼き味がよかったわ。」
「……た、太一っ、...ゲホッ...それ、絶対……まずい……。」
掠れた声で一生懸命に突っ込んでくる彼女が、今はたまらなく愛おしい。
だが、昼過ぎ。
その静かな余韻は「台風」によって粉砕された。
「太一!あんた大学生しすぎて入院とか、バカじゃないの!?」
ノックもなしに飛び込んできたのは、俺の姉貴。
「誕生日に孤独に熱出してる可哀想な弟のために午後休とって電車乗って来てやったんだから感謝しなさいよね!ほら、これ食べて早く治しな!」
姉貴はそう言うなり、買ってきたケーキの箱をガサガサと広げ始める。
そして姉貴の目がすずに移った瞬間、パッと輝いた。
「え!この子が白布くんが言ってた、すずちゃん!?可愛い!太一、あんた入院して正解だったわね!」
「…おい、勝手なこと言うな。」
「いいじゃない。ねえすずちゃん、太一みたいな可愛げのない弟、毎日大変でしょ? あんたはもっと自分を大事にしなきゃダメだよ。こんなに可愛いんだから。」
すずは顔を真っ赤にして照れていた。
(そっか…こいつ、可愛いとは程遠い格好とか振る舞いしてきたから、言われ慣れてないんだろうな。...可愛いで喜ぶなんて、所詮はフツーの女の子なんだな。)
そんな発見が嬉しくて、同時に「誕生日の残りの時間は、すずと二人きりが良かった。」なんて、独占欲を孕んだ贅沢な欲望が頭をよぎる。
まぁ、いつも2人なんだけどさ。
姉貴はすずの前にもケーキを置いている。
あー...すず、明らかに申し訳なさそうな顔してんな。
「…おい姉貴。ありがてぇけど、こいつは今、ケーキ食えるような体調じゃねーよ。」
「えっ、そうなの? 甘いもん食べれば元気出るでしょ?」
「出ねーよ。39℃で焼肉食おうとするお前とは違ぇの。」
俺がすずのフォローをすると、姉貴は
「あー、ごめんごめん!あんたのそういう理屈っぽいとこ、相変わらずねぇ。」と笑いながら、自分の口にフォークを運んだ。
「…さ、ケーキ食べられないなら、みんなで桃鉄やろうよ!」
姉貴のカバンから何故か俺のSwitchが出て来た。
こいついつの間に...。
「初対面の病人に友情崩壊双六ゲーム選ぶなよ…。」
「いいから!はい、すずちゃんもコントローラー持って!」
結局、押し切られる形でゲームが始まった。
最近、どこか影のあったすずが、姉貴の強引なペースに巻き込まれて楽しそうに笑っている。
その光景を見て、俺も少しだけ毒気が抜かれていた。だが。
「……っ」
姉貴が「太一、ほら!独占禁止法カード使ってやったよ!」と、無邪気に俺を煽った、その瞬間。
笑っていたはずのすずの瞳が、一気に潤み、どこか遠い場所を見るような、悲痛な色を帯びたんだ。
(お前…楽しそうに笑うくせに、なんでそんな悲しそうな顔すんだよ。)
夕方、台風が去った後の静かな病室。
すずがホワイトボードで、俺に問いかけてきた。
『太一、私は上に兄弟いないからわからんけど、お姉ちゃんってどんな感じなん?』
「…どんな感じ、ね。」
俺は、まだ部屋に残っている姉貴の香水の匂いと、空になったケーキの箱を眺めながら答えた。
「一言で言うなら…『絶対に裏切らない、一番近くて一番うざい味方』って感じだな。こっちの都合なんて無視して踏み込んでくるし、迷惑でしかない時もあるけど……。でも、自分がどん底の時、何も聞かずに隣でバカ笑いしてくれるのは、結局あんな奴なんだよな。」
すずの肩が、微かに震えた。
まただ。その潤んだ瞳が、俺を通り越して、別の「誰か」を必死に探している。
姉貴の、根拠のない、けれど圧倒的な全肯定。
悪意のない、「食えば治る」という生命力の押し売り。
理屈じゃない強引な優しさ。
そして、そんな姉貴を疎ましく思いながらも、心の底で完全に信頼しきっている俺。
…ああ、そうか。 お前、今の俺と姉貴の中に、「治」を見てたんだな。
「お帰り」っておにぎりを差し出していたアイツと、その隣で笑っていたはずの、自分自身を。
微熱を武器に、この場所に留まっているつもりの俺の横で。
お前は、俺らと一緒に笑いながら、やっぱり治をチラつかせてる。
俺がどれだけ新しい記憶を刻もうとしても、お前の心の地層には、アイツという『光』が深くまで根を張っているんだ。
姉貴の残り香に混じって、治の影が病室を支配していく。
(…だが。それでもすずが高熱出しながら病室とコンビニを何往復もして、誕生日プレゼントを用意した相手は、俺だ。)
アイツの影に焼かれ、自分の立ち位置が分からなくなりそうになる。
それでも、俺の手のひらはまだ、しぶとく熱を帯びていた。
治に似た姉貴の眩しさが、お前を過去に引き戻して泣かせるなら。
せめて俺は、その涙が乾くまで、この不謹慎な熱で隣に居座ってやる。
そんな、惨めなほど往生際の悪い意地だけが、俺の中にまだ、消えずに残っていた。
俺の22歳の誕生日は、最高に甘くて、笑えるほど残酷だ。
そして、この『負け確の試合』をどうしても投げ出せない自分に、心底嫌気がさすような幕開けとなった。