「……ねぇ、太一。」
「台風」が去った後の穏やかな病室。
俺の耳が、今にも空気に溶けて消えそうな、ひどく掠れた声を捉える。
「……ちょっと、久々に……外、出ん? ……っ、夕焼けが、ものすごく、綺麗。直接……見たい、の。」
俺は、すずの潤んだ瞳を正面から受け止めて、思わず溜息を飲み込んだ。
(いや、さっきやっと姉貴が去ったっていうのに、こいつはまだ動くつもりか?……こいつの平熱、いつから38℃に設定変更されたんだよ。)
呆れを通り越して、もはや恐怖に近い。
だが、拒否なんて選択肢は最初から俺のポートフォリオには入っていなかった。
廊下に点滴スタンドの無機質な金属音を響かせながら、2人で病院の庭園へと出た。
沈みゆく太陽が、すべてを燃やし尽くすような鮮やかなオレンジ色に世界を塗り替えている。
ベンチに並んで座ると、すずが不意に話し出した。
喉の腫れを庇うように、掠れた音を一つひとつ絞り出すような喋り方だ。
「あのさ……。私が、前……『治はもう、二度と戻らない』って……言った理由……話しても、いいかな?」
俺は何も言わず、ただその横顔を見つめた。
…そこから紡がれたのは、俺が知る由もなかった、泥にまみれた「損失」の記録だった。
「あの日……確か、太一と、白布先生も……いたよね、おにぎり宮、に。……あの日、フラフラやった私を……治が、心配して、泊めてくれようとしたのに……私は、無理矢理……立ち去った」
あぁ、覚えてるよ。
あのマスクから覗いた、治を射抜くような鋭い二重の目。
今の小さくなったすずからは想像もつかねぇような、「勇者」の姿。
「……っ、ゲホッ……。そのあと……結局、熱があって……。追いかけてきた、治に……『明日は、大学……絶対行くな』って、釘刺されたのに……。次の日も、その次の日も……大学には、行き続けた……んだ。……だって、教授から……『研究は、みんなで……やるものだ。休む前提なんて、最初から……ない』って……決まり文句、ずっと……口酸っぱく……言われ、続けたから……っ」
…立派なパワハラじゃねぇか。
そんなの「キコエナイフリ」でもしとけよ。
でも「キコエナイフリ」が出来ず、悲鳴あげている自分の体にムチ打って大学に行き続けるなんて…こいつを縛るものの正体は、一体なんなんだ?
「……そしたら、その、次の日……治が……急に、研究室に……っ、……乗り込んできた、の……」
すずの喉がヒュッと鳴り、短い咳が漏れる。
それでも彼女は、俺の隣で膝の上で拳を握りしめたまま、言葉を止めなかった。
「『すず、帰るで。……自分の、細胞の声すら聞こえへんような大馬鹿野郎が、何が研究や。笑わせんな』って……。いつもの、あいつじゃ……考えられない、ような……威圧感で……。ピペット持っとった、私の腕を……ガッチリ、掴まれて……」
あー…マジか。
空気も読まずに乗り込むなんて、治も大概だな。
リードブロックが現実世界じゃ1ミリもできないんだな。
「……その途端、私……『必死に、研究室で……作り上げてきた、プライドを……木っ端微塵に、された』……気分に、なって……。怒りで……黙って、その場から……逃げ出したんだ」
…悪目立ちさせられたことへの怒りじゃ、ねぇんだな。
こいつは「1人でも頑張れる自分」への自己陶酔による支配を、根っこから受け続けている。
俺は黙って、すずの独白を聴き続けた。
「……治が、また、追いかけてきて……腕、掴んできた……瞬間。……私の、プライドを……自分のエゴで、踏み躙り続ける、治に……これまで、感じたことのない、怒りを……覚えて……。……治の手を、思い切り……振り払ったんだ……っ。『触んな、やっ……!』って……叫び、ながら……」
途端、すずの酷く掠れた声に、嗚咽なのか咳なのか分からない音が加わる。
「……酷いこと……いっぱい、言った。『空気読めや、クソバカ、脳筋』……『なんも、知らんくせに……今すぐ、出てけ、や』って……。……ゲホッ、ゴホッ……! ……そんで、治を置いて……1人で、研究室に……戻って……。……結局、治の助けが、ないと……何もできない、自分を……誰にも……自分自身にも、見られたく、なくて……。治の、強引な優しさを……拒絶、したんだ……」
すずの喉が、ますます苦しげに締まっていくのを感じた。
だが俺は、敢えて反応しなかった。
「……でも、やっぱり……『謝ろう』って、思って……次の日の、夜……おにぎり宮に、寄ったんや、けど……。……一度出た、咳が……止まらなく、なって……。喉も、締まって……息が、できなく、なって……。……店、入るまでもなく……倒れちゃった……みたいやね。……目が、覚めたら……1人で、隔離、病棟に、おった……」
俺自身も宅飲み中に初めて経験した、あの呼吸ができなくなる恐怖が蘇る。
そうか、白布が「おにぎり宮の前で倒れた」って言っていたな。
……謝罪のチャンスも、病気に奪われたんだな。
「……治は、1人で……すぐに、来てくれた、の。……でも、もう……何も、感情が、残ってなくて……。……とにかく……『治に、これ以上……優しさ、さえも、拒絶しちゃう、私を……背負わせたくない』……って、想いで、いっぱいで……。私……治に、ずっと、背を向けて……」
彼女の喉が再びヒュッと鳴り、短い咳が漏れた。
「『治、もう、ほっとけや お前はおにぎりだけ握っとけ』……って。白布先生が、くれた……ホワイトボードに、書いて……見せつけたんだ……。……治を、私から、遠ざけるために……。わざと……治を、アイデンティティごと、泥塗れにして……。……自ら、全部……ぶち壊したんだ……っ」
すずはいよいよ発作寸前のレベルで、咳と嗚咽を、俺の横で苦しげに漏らし続けている。
だが俺はそんな彼女に、手を差し伸べることはなかった。