「恵美は…いつも、貧血気味で、喘息持ちで……ゲホッ...!...目に、見えて『病弱』な子、やった。」
すずの声は、掠れた笛の音のように心許ない。
夕焼けに染まる病院の庭園。
俺の腕の中で、彼女は十数年分の膿を吐き出すように語り始めた。
「それに対して、私は……。……相変わらず、こんな感じで。……でも、『基本的には、元気』で……。ゴホッゲホッ…っ!…ただ人より、体調崩す頻度が、多いだけ……みたいな……」
気づけば彼女の声に、先ほどまでの嗚咽は混じっていなかった。
(……覚悟、決めたんだな。)
彼女が自分の弱さをさらけ出すたびに、俺の腕の中に伝わる鼓動が速くなっていく。
「でも……。私には……分かっとったんや。恵美の、それは……『仮病』、やったって。ゴホッ...今思えば、あの子は……ミュンヒハウゼン症候群、やったんや、と思う。」
(……は? あの、周りの心配を買いたくて仮病を使い続ける病気か?)
俺は思わず、すずの背中をさする手を止めた。
(……仮病...周りにはバレなくても、偽物は本物を欺けねーって……最悪な皮肉だな。)
「恵美は……私が、休んだり……保健室に、行ったりするたびに……私に、ゴホッ...言うように、ゲホッ...なったんや……っ」
『ほんま、すずちゃんはええなぁ。私は毎日こんなにしんどいのに、頑張って学校来てる。それやのに、すずちゃんはすぐ休むよね。いつもはあんなに元気やのに、ほんまは単なる根性無しなんちゃうん?』
(……っ、胸糞悪ぃ……!)
俺の奥歯が軋んだ。
粘りつくような悪意。
それはすずが治と同じ「地元」で、最も大切にしていたはずの響きで放たれた呪いだ。
「そのうち……クラスの皆も、先生さえも……『メグは毎日しんどいのに、ちゃんと学校来て偉い』って……。ゲホゴホッ...私は……特別扱い、されたかった、わけや、ない。でも、なんか……私が、否定されとる、みたいで……。ゴホッ……辛かった……ゲホゴホッ...はぁ...ゴホッ...」
すずの声が、一度激しい咳に飲み込まれる。
俺はその細い肩を、壊さないように、けれど逃がさないように抱きしめた。
(……あぁ。無理だわ、こんなの。)
理屈じゃ解決できねぇ、この胸のざわつき。
「いつも体調が悪そうな子」の方が心配される。
その単純で残酷な市場の原理が、本物の苦しみを抱えたこいつを、一番理解されにくい場所に追いやったんだ。
「それでも……仲良く、してくれとった、女の子たちと、ゴホッ...治が、ゴホッ...いたから。……理解してくれる人が、いたから……ゲホゴホッ...乗り越えられた、のに……。……でも、全部……崩れた……っ!」
すずの声が段々と小さく、か細くなっていく。
俺は反射的に、抱きしめる力を強めた。
「小6の、2月……。肺炎で、3週間、休んだ……。でもその頃は、ちょうど……『卒業プロジェクト』の、準備期間で……。皆んな、休み時間も……放課後も……っ……頑張って、た…ゴホッ…私だって...みんなと、...ゴホッゲホゴホ...一緒に...大変さ、...ゴホッ...っ...分かち合いたか...ゴホッ...った...。」
あぁ、そうか。
こいつは小学校最後の思い出から、除外されたんだな。
戻ってきた時には、皆の間に「自分だけが知らない秘密の言葉」や「共有された苦労」が溢れていたんだろう。
「…でも…っ...みんなに、とって、は…私は…ただの、『準備には参加せず、本番だけ、おいしい思いをした、ずるいやつ』でしか、なかっ…た…!」
気がつけば、夕焼けはすっかり夜の闇に塗り替えられていた。
街灯の下、すずの顔は病的なまでに白い。
「……卒業プロジェクトが、終わった日……。放課後の教室で……聞こえたんや。……仲良くしとった、子たちが……ゴホッゲホゴホッ...恵美、と一緒に……私の、陰口を、言っとるのを……」
『ええなぁ、すずは休みたい時に休める便利な体持っとって。』
『明るうておもろい子ぉやから友だちでおったのに、こんなズルい子やとは思わんかったわ。』
(……胸糞悪ぃ。単なる陰口で済む話かよ……!)
「でも、ゴホッ、いちば、ん...ゲホッ...傷ついた...のは...恵美の...ゴホッゴホゴホッ...あの、言葉...」
『ほんま、あんな仮病魔のお荷物に付きまとわれて、治くん可哀想やわ。あんなイケメン、絶対もっと守るべき子ぉおるのに。…あんな子、結局一人じゃ何にもできひんねんで。』
(は……?)
あり得ねぇ。
恵美って女がその「病気」なら、それは残酷な運命だ。
彼女もまた、仮病を使うことでしか自分を保てない呪いに、侵されていたんだろう。
でも、だからって、他人を蹴落としていい理由にはならねぇ。
こいつに残された唯一の拠り所に、泥靴で踏み込みやがって……。
「……それ以来、治に頼るのが……怖くなった……っ。ゲホッ……これ以上、ゴホゴホッ...お荷物になったら…っ…いつか、嫌われて……私の、前から、いなくなるんやろな、って……。ゴホッゴホゴホ...だから……っ、生き方を、変えた……」
治が心配しなくて済むように、「強い女」を演じた中学時代。
治の心配の対象から外れるために、「不良」を演じた高校時代。
(……しまっ…た...!)
さっきの自分の言葉が、鋭いナイフとなって脳裏に突き刺さる。
『一人で地獄を気取るのが、お前の言う自立した強い女のやり方かよ。反吐が出るわ。』
(……何も知らねー俺が、どの口でそれを言ったんだよ……!)
こいつは地獄を気取っていたんじゃない。
小6のガキが一人で、「治」という光を失わないために、必死でその地獄を……自分を律する檻を作り上げて守り続けてきたんだ。
こいつが掲げてきたプライドは、自分を保つための唯一の『防衛本能』だったんだ。
「……でも、ゴホッ...笑える、よね……っ。結局……ただチャチな、プライドを、ゲホゴホッ...作り上げた、だけで……。ゴホゴホゴホッゴホッ...はぁ…っ…自らの手で……治を、遠ざけた……っ。ゴホッ…はぁ…ほんと、っ自分勝手で…っ…サイテー、女……。ゴホッゴホッゲホ…っ…治の、隣にいる、資格なんて……ない…ゴホッ…のに…ゴホッ…っ! 最近……治が、ゴホゴホッ...恋しくて……しょうがなくて……!!」
(……完敗だわ。)
俺は、闇に溶けていく空を見上げた。
視覚が滲むのを、必死でこらえる。
俺はどこかで、「今のこいつを一番理解しているのは、俺だ」なんて奢り昂っていた。
治は、すずにとって単なる腐れ縁なんかじゃない。
十数年前、この呪いが始まったあの日から、こいつの呼吸の一つ一つは、あいつという軸なしでは成立しなかったんだ。
「治から奪ってやる」なんて、意気込んでいたのに。
告白する前に、俺の初恋はとっくに終わっていたんだ。
(あーあ。かける言葉が、見つからねぇよ。)
「ごめん」と言いたかった。
お前は最低なんかじゃない、と言いたかった。
でも、その資格さえ、今の自分にはないような気がした。
俺も所詮は、表面だけを見て酷い言葉を放った恵美と同じなのだから。
(……それでも、こいつのしたことが最低なのには、変わりねぇ。そんな今のこいつに謝罪するのも、『大丈夫だ』なんて甘い言葉を吐くのも簡単だ。でも、そんなの与えても、こいつはこの地獄からは解放されねーんだよ。)
俺は、抱きしめる腕の力をさらに強めた。
きっと、こいつをこんなふうに抱きしめるのも、最初で最後になる。
だったらこのタイミングで、こいつを地獄から救い出してやりたい。
意を決して、言葉を紡ごうとした。
その時――。
「……っ!? ……ごほっ! ぁ……がっ、……はっ……!!」
腕の中のすずが、激しく跳ねた。
ヒュー、という甲高い、絶望的な吸気音。
「……すず!? おい、すず……っ!」
すずの顔色が、一瞬にして土色に変色する。
言葉を奪い、過去を奪い、そして今、罪と向き合うチャンスさえも奪い去ろうとする、病魔という名の暴力。
(ちくしょう……!! なんで今なんだよ……っ!)
俺は、震える手でスマホを掴んだ。
ここで叫んでも、すずの呼吸は戻らない。
内線ではなく、白布への直通。
「……白布! 今、庭園...。ゴホッ...すずが大発作……っ、意識が飛ぶ、今すぐ……!」
報告を終えると同時にスマホを投げ出し、俺は意識を失いかけた彼女を抱きかかえ、その背中をひたすらさすり続けた。 それしか、できなかった。
庭園に残されたのは、誰にも届かなかった二人の絶望だけ。
俺の最初で最後の、本能的な「略奪」は、病魔という不可抗力により、強制終了させられた。