「すず!おい、すず!」
背後から激しい足音。
白布が、数人の看護師とストレッチャーを引き連れて現れた。
夜の静寂を切り裂く、車輪の軋(きし)む高い音。
俺は弾き出されるように、すずの細くて冷え切った体を手放した。
代わりに白布たちの手で、すずはストレッチャーに乗せられた。
俺の出番は終わった。
今、ここで俺にできることはない。
電話を終えた時に投げ出し、芝生の上で虚しく発光しているスマホが、その象徴のように思えた。
「SpO2低下、BVM開始! 挿管準備、バックボード入れろ!急げ!」
白布たちの専門用語の応酬。
土色の顔で痙攣(けいれん)を繰り返す、すずの身体。
ヒュー、ヒューと喉を鳴らすその音は、まるで彼女の命が少しずつ、目に見えない穴から漏れ出しているようだった。
そんな喧騒の中、俺の耳はこいつの声にならない声を捉えた。
「...た...いちっ...」
...っ!...俺はバカだ。
何が「出番は終わった」だよ。
今こいつがこうして縋れるのは、この場に居てずっと『戦友』をやってきた俺以外、誰がいる。
意識が朦朧としながらも俺に焦点を合わせようとしている二重の目。
俺はその無惨に垂れ下がった小さな手を握る代わりに、白布の背後から力強くそれに眼光を与え、力一杯叫んだ。
声が掠れたが、そんなのどうでもいい。
「すずっ!負けるな!負けたら許さねぇぞ!」
...大丈夫だ、死ぬ病気じゃねぇ。
何度も何度も、頭に叩き込んできたデータ。
それでも、ヒュー、ヒューと鳴る喉の音が、そんなデータを「ただの文字」に置き換えていく。
そして無慈悲にも、白布の怒号が俺の頭の中の気休めの正論を破壊した。
「...ICUへ運ぶ。急げ!」
白布と数名の看護師たちは、ストレッチャーを運び出し、庭園を去ろうとしていた。
(ICU...集中治療室⁉︎)
頑張って呼び起こしていたデータという名の文字。
それが音を立てて崩れていく。
「...っ!すず!」
俺はいつの間にか、自分の点滴スタンドを掴み、ストレッチャーを追って走り出した。
「すずっ...!すず!」
ガラガラと響く、無機質で耳障りな音の中に、さっきまで俺の腕の中にいた名前を上書きしていく。
喉から血が出そうだ。
それでも、この声を止めることなんて出来なかった。
「太一! 走るな、病室に戻れ!」
白布の怒鳴り声が飛んできた。
だが、俺の耳はそれを捉えない。
知るかよ。
規律も、俺の体調も、白布の怒号も、今の俺には一銭の価値もない。
ただ俺は...!
まだあいつに、伝えるべきことがあるんだ!
そしてまた、不謹慎な2人だけの時間を、過ごすんだ...!
誰にも、何にも邪魔されて、たまるかよ...!
だが、ICUの重い自動扉が、無慈悲に口を開いたその時だった。
途切れ途切れに戦慄(わなな)くすずの唇から漏れた、今にも消えそうな言葉を、俺は聞き逃せなかった。
「……お……さむ……っ……ごめん……なさ……い……」
心臓を、太い楔(くさび)で打ち抜かれたような衝撃が走った。
(……は?)
命の灯火が消えかけ、自分の死を覚悟したような極限状態で。
こいつが、最後に呼び続けたのは。
白布でも、俺でもない。
「治……っ……」
遠ざかっていく車輪の音。
閉ざされた扉の向こうは、俺の知らない「本物の地獄」と、あいつが本当に求めている「光」の世界。
この重い扉が、俺と彼女を繋いでいた最後の糸を、音を立てて断ち切った。
いや、「糸」なんか、最初からなかった。
俺が握っていたのは、彼女がその弱さを晒し、愛しい腐れ縁へ辿り着くまでの『空白の待ち時間』を埋めるための、代役だ。
代わりなんか、いくらでもいる。
そして、今。
俺のこの唯一の役割さえも、今、この瞬間にゴミ箱に捨てられたんだ。
あいつの人生のロスタイムに、たまたま隣に座っていただけの観客。
それが俺の、正しいポジショニングだった。
独り残された廊下。
俺の腕には、まだ、すずの熱と、激しい咳の振動が、残酷なほど鮮明に残っていた。
「はは...バカみてぇ。」
俺に出来たのは、ただ非合理すぎる泥沼に足を突っ込み抜け出せなくなってしまっていた自分を嘲笑うことだけだった。
俺の点滴スタンドが立てる間抜けな金属音だけが、この廊下を支配していた。