白布にここへ連れてこられた時は、「最悪だ」と思った。
だが、あの「めんどくさくて、バカ正直な女」と計算外の時間を過ごすうちに、この病室の市場価値は跳ね上がった。
そして今。
あいつが隣のベッドにいないだけで、この空間の価値はゼロ……いや、マイナスだ。
(あぁ、クソッ……頭が、回らねぇ……)
高熱が脳を侵食する。
視界が歪み、思考のピントが合わない。
それでも、答えを探さずにはいられなかった。
なぜ俺は、あんな不器用なだけの女を、これほどまでに必要としているんだ?
同じ病気の連帯感?
孤独を埋めるための遊び相手?
あるいは、「勇者の鎧」の下にある脆さを、俺だけが覗いたという安っぽい特別感か。
白鳥沢という「強さ」が全ての場所で、リードブロッカーとして敵をシャットアウトし続けてきた。
常に効率。常に冷静。
…俺とこいつの共通点。
「強がり」
惹かれた理由は、単なる同族嫌悪からくる同情に過ぎないのか。
だが、こいつの「強がり」は、もはや稚拙な嘘でしかない。
その鎧の重みで自ら崩壊し、治という光さえ手放した。
結局こいつは、ただ『強い自分』に酔っているだけなんじゃないのか?
悲劇のヒロインを気取って、プライドを守りたいだけなんじゃないのか?
冷酷な分析が脳裏をかすめる。
だが、俺の心臓はそれを、一秒も待たずにノイズとして切り捨てた。
違う。
あいつがそんな安っぽいタマなわけがない。
もしあいつが本物の「悲劇のヒロイン」なら。
もっと派手に「頑張っている自分」を宣伝し、憐れみという名のチップを回収して回るはずだ。
あの「恵美」という女なら、間違いなくそうしただろう。
でも、こいつは。
身体に刻まれた「本物の」ハンデを抱えながら。
アピールどころか、憐れまれることを死ぬほど嫌って。
努力を「誰にも見られないもの」にする道を選んだ。
泥を啜ってでも、重すぎる鎧を着続けた。
治という光を守るため。
……本当に、治のためだけか?
それだけじゃ、こいつの生き様の理由を語るには、あまりにも変数が足りない。
(あぁクソ……わかんねえよ。近くで、見てきたはずなのに……)
思考が熱に負けそうになる。
おにぎり宮で見た「勇者様」の危なっかしさ。
白布の白衣に縋り付いて泣いていた姿。
高熱で死にかけていながら「逃げるな」とオセロを要求する無茶苦茶さ。
誰も見ていないのに、律儀にバイトの日誌を書き直してから退勤する要領の悪さ。
バラバラで、整理がつかないこいつの言動。
だが、その鎧の下を覗けば覗くほど、俺はすずの中にある一貫した「何か」から、目を離せなくなっていた。
(……何かって、何だよ……あぁ、だりぃ……。)
見つからない答え。
体が先に負けそうだ。
だが、その中で一つ、クリアに見えてきた事実があった。
(……多分、こいつの根本に、治は関係ねぇ。)
普通は、苦しくなったら逃げ場を探す。
「恵美」という毒を浴びて10年。
これほど地獄に突き落とされて、それでも「計算」しない奴がいるか?
…いや、こいつにはハナから「計算」なんて概念はない。
同情で自分の価値を証明するのは、こいつが最も嫌う『不誠実』。
自分が綺麗だ、守りたいと思ったものを守るために戦う。
言い訳を作らず、理想に忠実であろうとする。
自分に嘘をつく生き方は、死んでも選ばない。
(あぁ、これか。すずの中にある一貫した、「誠実さ」。)
不思議なくらい急に思考がクリアになった。
恋心を認めたきっかけは、「治ではなく、俺のためにあいつが泣いたこと」だったかもしれない。
だが、俺が本当に惚れたのは、俺の計算式には到底当てはめられない、その揺るがない生き様だ。
…でも、だとしたら。
なんでお前は、大丈夫じゃないのに「大丈夫なふり」をし続けたんだ?
それで結局、俺の前でボロボロ泣くことになったんだ?
…誠実。なんだよそれ。
反吐が出る。
「誠実」な生き方を選びながら、結局、表向きは大嘘つきになっている。
これ以上ない「不誠実」で、苦しい皮肉。
(あークソ…全っ然まとまんねぇ…喉、痛ぇ…)
腫れまくった喉が脳に酸素を供給してくれない。
クリアだった思考が、再び二転三転する。
それでも俺は、このループし続ける思考を、無理やり切り開いた。
あいつが壊れたきっかけは、10年前の毒。
それによって、「誠実さ」が「そうでなければ嫌われる」という強迫観念に変質した。
治はあくまで、それを投影する鏡に過ぎなかったんだ。
歪んだ方向で信念を守ろうとして、毒を浴びても、誰にも撒き散らさなかった。
自分の心臓の中で、ぎゅっと握りつぶして止めようとした。
結果として完成したのが、「脆さを隠し切れない不安定な鎧」。
それをごまかそうとして、結局大嘘つきになり、さらに脆くなった鎧。
そして、大事なやつをそいつ自身の幸せのために手放した始末。
…救いようがない。
効率は最悪。
やり方は下策中の下策。
だが、泥を啜りながらたった一つの「誠実さ」を死守するために走り続けること。
それを「強さ」と呼ばないなら、この世に本当の強さなんて存在しねぇ。
歪んで、矛盾して、それでも「理想」を捨てきれずに足掻く。
―美しすぎて、吐き気がする。
その往生際の悪さが、俺の計算を狂わせ続けた正体だ。
完敗だ。
俺は、あいつの表面上の嘘に騙されていただけの、二流の観客だった。
(……あぁ、もういい。理由なんて全部後付けだ。俺はただ、あいつの隣にいたかっただけだ。)
この恋は、回収の見込みがない最悪のデッドストックだ。
なのに、俺はその在庫を抱えたまま、心中する覚悟を決めてしまった。
もし、あいつがまたその「誠実さ」のせいで壊れそうになるなら。
俺は、この持てる限りの計算能力をすべて使い果たしてでも、この「一筋縄ではいかないバカ」を一番近くで救ってやりたい。
だが、あいつの一番近くには、すでに別の男が居座っている。
確定した運命。変えられないデータ。
なら、「奪いたい」なんて贅沢な願望は捨てる。
代わりに今、この瞬間だけ隣にいられる俺があげられる、最後のプレゼントはなんだ。
あいつには、あいつにしか持てない「自分を曲げない強さ」を武器に、ただ生きていてほしい。
その強さを守るために、嘘をついて、独りでぶっ壊れる姿を見るのは、二度とごめんだ。
あいつの強さを、正しく、幸せのために使わせるには……。
これしかねぇ。
「治への罪の意識を償わせ、あいつの下手クソな生き方に、終止符を打たせてやること」
治への罪の意識を償わせ、この下手クソな生き方に、終止符を打たせてやる。
でも、俺もあいつの生き方を「反吐が出る」と否定した加害者の一人だ。
そんな俺が、あいつの人生を変える大役を担おうなんて、厚かましいにも程がある。
だからこそ、謝ってスッキリして終わり、なんて自分勝手な償いにはしない。
敢えて、あいつが一番聞きたくない言葉で、そのプライドをズタズタにしてやる。
恨まれたっていい。
たとえ俺の恋心を灰にしてでも。
俺のすべてを使って、あいつを本来あるべき場所へ連れ戻してやる。
おい、いつまでICUで燻ってやがる。
お前は、純度百パーセントの勇者だろうが。
さっさとここに戻ってこい。
最後に、ほんの一瞬だけでいい。
俺を、お前の人生の主役に、させてくれ—。
願った瞬間。
俺の思考回路は、何の前触れもなく、強制的に遮断された。
「……っ!? ……ごほっ! ぁ……がっ、……はっ……!!」
(……嘘だろ。これは、俺の、声か!? 怖い、空気が……入ってこないっ……! 助けて、くれ……!)
思考を埋め尽くしていたはずの面影が、白濁した視界の中に溶けて消える。
恩返しを誓った直後。
そのチャンスすら与えられないまま、俺は暗闇の底へと引き摺り込まれた。