(...ん?)
突如俺の視界に現れた、「白」。
鼻をかすめた、病院の臭い。
突き刺されるような、喉の痛み。
…あぁ、そうか。
俺は、生き延びたんだ。
あの絶望的な大発作から、生還した。
そう認識した瞬間。
尋常じゃない身体の重さより先に、感じた。
俺の顔の、すぐ左側で。
あの日、一緒に庭園まで並んで歩いた、俺より20㎝以上小さい背が。
さらに小さくなって、震えているのを。
「...っ、あ!...太一!!」
聞き慣れた、掠れた声。
それでも、懐かしくて愛おしくて、たまらない。
生還して真っ先に、俺の耳が捉えた音。
その事実がただ幸せで、自然と口角が緩む。
「...た、いち...っ、たい、ち...う゛ぁっ...」
すでに真っ赤だった目から、さらに溢れた涙。
ここで何度も聴いてきた、咳が混じった嗚咽。
それを隠そうともせず、俺の目を真っ直ぐ見つめている、勇者様。
その姿の奥で捉えた、窓の外の明るさ。
若干黒くなった、その目の下。
それが、俺を幸せなくらい呆れされた。
「おい、泣くな、よ。喉が、...潰れる、だろ。...それに、すず、お前、...徹夜、した、のか?...バカじゃ、ねぇの...俺が、死ぬわけ...ねぇ、だろ...。」
肺が固い。
喉も固い。
声帯が、思った通りに動いてくれない。
それでも、今、伝えたい。
この無機質な白い箱の中、独り脳内で紡いできた言葉たち。
白布が、そして俺が、執念で守り抜いたから。
太腿の上で強張っている、小さな手。
俺は自分の手を、それに重ねた。
数日前、俺の肌で感じた高熱。
その手から、少しだけ消えている。
「バカは太一だよ!...ゴホッ...ずっと、私を...ゴホゴホ...支えてくれた、戦友が、...ゲホッ...苦しんで、いるのに、寝れるわけ、ないっ...はぁっ...ゲホッ...私は、ただ...太一に、生きてて欲しくて...それを、祈って、いただけ...」
太腿に突っ伏し、泣きじゃくるすず。
俺は思わずふっと笑った。
鉛と化した俺の腕。
それを動かし、震え続ける小さな頭の上に、優しく置いた。
「…それが、治が…っ、お前に、対し、て、…思って、いる…気持ち、だ。」
セメントと化した声帯にムチ打って、出した声。
言葉は途切れ途切れ。
でも、はっきりと言い切った。
途端、すずが固まる。
「お前はさ、…貸し借りを、っ、考えすぎ。...お前が、俺に…生きて、欲しいって、…思ったのは、…俺への…義理か…?違ぇ、だろ。…それと、一緒だ。.」
すずが涙を止めた。
上体を起こし、俺の顔をまじまじと見つめる。
俺は、一度深く息を吸った。
そして、すずの頭から手を離し、微笑みを消す。
「なぁ、すず。お前、っ…『自分は治に会う資格なんかない』って、…っ、言った、よな?」
すずがこくん、と頷く。
「それはさ、…一見、自分への、懺悔。そんで、治への、…っ、最後の、気遣い、にも見える。…でも、それは、…ただの、『過去の罪から逃げる口実』…っ、だ。」
喋り終わった途端、俺は激しく咽せ込んだ。
すずの顔が悲し気に歪む。
だが、それにも構わず、続けた。
今しかない。
直感がそう言っているから。
「お前に…少し、でも、『治に会いたい』って、気持ちが、あるなら…ダサくても、っ…自立、してなくても、いいから…自分の、気持ちを…っ、ぶつけろ。…それが、唯一、過去の、罪、と、誠実に…っ、向き合う、術、なんじゃ、ねぇか?」
すずがはっとした顔になる。
再びその瞳に涙が滲む。
俺の脳は、アドレナリンに支配されていく。
固まった声帯も、咳も、痛みも。
意識の外側へ、放り出されていく。
そのタイミングで、俺はこいつが一番聞きたくないであろう言葉を放った。
「...いい加減、悲劇のヒロイン気取るの、やめろよ。お前は最低だし、バカだ。それは何をしたって、変わんねぇ。」
苦しい。
咳とか喉の痛みとか怠さとかは、関係なく。
言葉を紡げば紡ぐほど強くなる。
こいつが、もうそろそろ俺の元から離れていくんだという実感。
伝えるって決めたのに、押しつぶされそうになる。
でも、伝える以外の選択肢はもう、俺の中にはない。
「でも...あんな過去の、クソみてぇな女に、振り回され続けるほど、お前は弱くねぇだろ?...じゃなきゃ、あんな下手クソで、泥臭くて、真っ直ぐな生き方、続けられるわけ、ねぇんだよ。」
すずの目から再び涙が消えた。
あと、ひと押しだ。
...行け、お前の、望む場所に。
「その、唯一無二の、強さ。...今度こそ、正しく、使ってこい...!」
...言えた。
俺が持ってるもの全部、こいつに渡せた。
自覚した途端、緊張が途切れたように再び咽せ込んだ。
あぁ、やっぱりキチィわ。
それでも、見なきゃなんねぇから。
俺はおそるおそる、すずの表情を確かめた。
すると、数秒の沈黙の後。
「...うん!...ありがとう、太一っ!」
...涙で潤み、真っ赤になった瞳。
うっすら浮かんだクマと、未だほんのり赤い頬。
こいつの、真っ直ぐさの象徴。
迷いがなく、一点の曇りもない、本物の笑顔。
...俺に見せてくれたのは、今まで見てきたどんな表情よりも綺麗で、美しい笑顔だった。
久々に誰かの存在感を感じる、隣のベッド。
真剣な表情で、時折手を止めながらスマホを操作しているすず。
俺はやっと、心の底から爽快な気分を味わえた。
「後悔」の2文字なんて、まるで初めからなかったかのように。
「ったく、2人して立て続けに大発作起こしやがって。」
白布が間髪入れずに病室に入ってきた。
その表情の冷たさは、相変わらずだ。
「特に太一。少し前、バイタルが荒れた時は単なる一過性のストレスだと思って泳がせていた。それでも数値が安定していた時のデータに基づけば、そろそろ退院の話を切り出す予定だったが...チャラだ。」
思わず不敵な笑みが浮かぶ。
「お前ら2人とも、しばらく退院はないと思え。散々俺の言うことを無視して好き勝手遊んできた罰だ。」
「はーい。すみませーん。」
すずはスマホに夢中。
俺は目の前の幸運に浸るのに夢中。
おかげで俺たちは、白布の期待する反応とは全く違う反応をしてしまったようだ。
白布は点滴の交換を終えると、心底嫌そうな顔をして去っていった。
退院の延長。
普通は絶望するところだろう。
でもこれは...きっと神様からのご褒美だ。
あいつに精一杯のプレゼントを渡した俺への、これ以上無いご褒美。
この延長された期間。
俺とすずだけで作り上げてきた、この誰にも踏み込めない聖域。
ひたすら、満喫してやる。
数日ぶりに戻ってきた日常に、俺の胸は高鳴るばかりだった。