「すず、何℃?俺37.7。」
「ゴホッ...38.4℃...あぁ、もう...ゲホッ...また負け、た...」
これは、俺とすずだけの暗号。
高熱が勝負の材料になる。
この不謹慎な聖域に、俺たちはまた戻って来た。
「どんまい。...約束通り、俺が先手、貰うからな。」
容赦ない俺の勝利宣言。
次の勝負に向け、トランプをきる。
サイドテーブルやパイプ椅子をかき集め、トランプを広げる。
目的は神経衰弱。
...病人がここまでしてやることかよ。
俺らやっぱ、狂ってるわ。
目の前のカードを取り合っていると、病室の入り口から懐かしい声がした。
「...すず。川西。久しぶりやな。」
そこには、昼間の眩い光を浴びた男。
俺が以前ラウンジで見たのとは別人のような、宮治。
堂々とした立ち振る舞いで、病室の入り口を塞いでいる。
「おう、久しぶりだな、治。」
中に招こうとした時。
治の目が見開かれた。
「…お前ら、起き上がって何さらしてんねん。トランプ?…おとなしく寝とる思てたら…。」
俺らに呆れたような、でもどこか必死そうな声。
すずが悪戯っぽく笑って言った。
「おう、寝とる、だけじゃ、...ゴホッ、つまらん、もん。...太一も、私も、病人...条件、同じやから...おもろい!」
治が「意味分からん」と言いたげな表情を作る。
そして「太一」という単語に、何か言いたげな反応を見せた。
「...てかそこ、邪魔や笑...どけ笑」
続けて容赦ない憎まれ口。
治が「『どけ』はないやろ、自分。」と突っ込む。
流暢なやり取り。
完成された幼馴染の空気を感じて、胸の奥がチリつく。
治はレジ袋から、重厚なスープジャーを1つ取り出した。
「すず、お前ガリガリすぎや。どーせまた何も食うてへんかったんやろ? お前、昔から熱出すと俺が『何でもええから食え』言うても、水すら受け付けへんようになるもんな。」
治は呆れた、でもどこか慈悲深い眼差しですずを見つめた。
「昨日、お前が食えそうなもん考えとったらな、気づいたら夜明けててん。そのまま店開ける前の厨房で魂込めて作ったったわ。……お前、結局こういうんが好きやろ?」
蓋を開ける。
途端、優しく、でも力強い出汁の香りが病室の消毒液の匂いをかき消した。
すずの瞳が、砂漠で水を見つけた旅人のように輝く。
「うん...美味そう。...ほんと、いつもありがとう。」
あぁ、治って本当にすずが大事なんだな。
ずっとすずの隣にいて、おにぎりを握ることに人生を賭けているやつだからこそできる、最大限の優しさ。
その隣に、前よりほんの少し力の抜けた、勇者様。
優しさを素直に受け取れるようになっている。
治のことを心から信頼しきっているのが伝わる。
(...あぁ、入り込む余地、ねぇわ)
治は俺にもジャーを差し出す。
「鮭、適当にこの出汁で崩して食い。」
こいつ...いいやつすぎる。
だからこそ、俺の喉にはその好意が苦い。
「...治悪い、すげー美味そうだけど、白布に『病院の管理下のもの以外食うな』って釘刺されてんだ。」
俺の言葉に、すずが目に見えて肩を落とす。
治は一瞬悲しげな顔をしだが、すぐに無邪気な笑顔を作った。
「しゃあない。退院祝いでまた作ったるわ。」
その後、治の提案で始まった大富豪。
「ゴホッ...アホやなぁ、何やこの手札...。」
真っ先に上がったすずが、治の手札を見て笑っている。
「太一、こいつ潰しちゃえ...ゴホゴホッ」
俺はすずに不敵な笑みを送り、カードを置く。
治は咳込んだすずの背中を甲斐甲斐しく撫でながら
「……パス。……もう、パスや。」といじけた顔で繰り返した。
結果、俺の独壇場で治に圧勝。
「あーあ。...ゴホッ...お前は、学ばんなぁ、ほんと。」
「うっさいわ。大富豪、すずが強すぎるだけやろ。お前は、その回る頭あんねやったら、さっさと退院する道考えーや。」
治はすずの頭を軽く小突く。
...大富豪に勝っても残る、妙な敗北感。
良い手札なんかなくても、こいつには温かい飯がある。
すずの隣に、いられるんだ。
大富豪の勝敗に盛り上がっていると、近くで「賑やかだな」と言う白布の声が聞こえた。
「…あ、白布。いつからそこにいたんだよ」
白布は俺の問いには答えず、事務的に告げた。
「太一、回復は順調だ。1週間後、問題なければ退院してもらう。だが喜ぶな。フツーならとっくに退院している病気だからな。」
...後半の語気が異様に強い。
治が「おぉ…怖…」とボソッとつぶやいて、すずの背後に隠れた。
「...おう。サンキュー、白布。やっとシャバに出られるわ。」
口では喜んで見せたけど。
心の中に疼くのは、喪失感。
ついに出されてしまった。
この聖域からの追放通知。
店に戻るために、治が去っていく。
あいつと違って俺は。
すずと、あと1週間しか過ごせないんだ。
治とすずの、劇の台本みたいで、慈愛に満ちたやり取り。
治と入れ替わりでやってきた静寂の中、それが脳内で反芻される。
どうにもできない敗北感に浸っていると、隣ですずが「はぁ」っと弱弱しい溜息をついた。
続けて不安げな声を漏らす。
「太一、ついに、退院...するんやね。...ゴホッ...私、...ちゃんと、治る、...のかな。退院、できる、のかな...。」
...こいつ、さっきまで「退院したらまたおにぎり食べたい」とか言っていたくせに。
俺と2人きりになった途端、これかよ。
...治にこれまで見せてきた「明るくて元気なすず」こそがこいつの素であり、理想なんだろう。
でも...こうやって弱気になっている自分は、やはり簡単には見せられない。
もう、こいつの血肉と化した「癖」みたいなもんだ。
不器用で真っ直ぐな、生き様。
何も変わっちゃいない。
...これは、俺だけが知っている一面。
そんなお前だから、俺は愛してしまったんだよ。
恋愛は大敗した。
でも、こいつの本質を見た上で惚れた自分のことも、誇らしい。
俺は...こいつに「大丈夫だ」なんて安っぽい言葉はかけてやらない。
俺は...お前が見られたくなかった部分に惚れた「特別な男」だからな。
「退院?んなの、知らねーよ。...お前の身体が、どうなろうが、白布が何て、言おうが...俺が、外の世界を、ここに連れてきてやる。ただ、それだけだ。...お前が、シャバに、出て...治のおにぎり、食べる時まで、...お前みたいな、バカで最低な戦友を...見届けてやる。」
すずが「太一のバカ。...もうちょっと、優しい、言葉...ゴホッ...かけてくれても、いいじゃん。」と力の抜けた笑顔でぼやく。
この聖域は、残り1週間で終わりのつもりだったが...延長してしまった。
退院しても毎日こいつの元に現れてやる。
そんな以前の俺じゃ考えられない往生際の悪さ。
いや違う。
俺はただ、「特別な男としてすずの隣に居る権利」を行使しているだけだ。
そんなデタラメな理屈を並べながら、俺は枕に頭を沈めた。
出汁の香りは、気づけばすずの熱気に追い出されていた。